匂いは本能と直結する。
嗅覚は視床を通らないとか、そういう小難しい話ではなく。
シキ・イチノセいわく
「私たちは匂いに逆らえない」
ということらしい。
はてさて、それがどれほどか、オレは試す立場にいるようだ。
「うーん、おっかしいなー」
「そう言われても、なぁ」
珍しく、失踪する前に俺に連絡を入れてきた志希に、お願いを聞くことを条件に出して数週間。
失踪することなくライブを終え、数日。
オレは志希の研究所に呼ばれていた。
一軒家のガレージを改造しただけの粗末な施設だが、中身はなかなかすばらしい。
なんといっても、設備の一つであるヒトが、最高クラスでそろえてあるのだから当然である。
「むー、じゃあこっちを嗅いでみて」
「いや、もう3種類目だから、いったん休みだろ」
オレの役目は助手という名の実験体だ。
志希の作った香水をいくつか嗅がされて、その様子をモニタリングされる。
オレも人並み以上に優秀だとは自負しているが、志希の研究を補佐できるほどではない。
というわけで、志希の香水にどんな効用があるのかについては全く知らないのだが。
彼女の様子を見るに、実験はうまくいっていないようだ。
「んで、どうしたんだ? 苦戦しているようだが」
「それを言ったら実験にならないからねー。ふー、志希ちゃんお疲れー」
「……まーたクマ作ってからに。トレーナーに怒られるのはお前な……聞いてねぇな」
まったく聞く耳持たずにごろっとオレの膝に頭をのせる志希。
仕方なく話を切り上げて、志希の頭を乱暴に撫でる。
楽しそうに笑い声をあげる志希を黙って撫で続ける。
うとうとと眠り始めた志希を見て、ゆったりと髪をすくように手を動かす。
「まったく。何してるのやら」
静かに寝息を立てる志希と、生活感ばっちりの研究室。
ほとんどここで暮らしているらしいとは聞いているが、思った以上らしい。
ここまでくると、事務所に研究室作ってもらったほうがよさそうだが、あの事務所にこれ以上わけのわからんものが増えるのは嫌だな。
都内に一軒家を持っていながら、ほとんど使ってないというのも贅沢な話だが。
「んぅ、ふぁー」
「お早いことで」
少し物思いをするうちに、志希が目を覚ました。
志希の寝つきも寝覚めも普通くらいだが、にしても起きるまでが早い。
「実験も途中だしねー。さ、続きしよっか」
「へいへい」
そう言われては助手からは何も言えない。
差し出された試験管を手で仰いで匂いを嗅ぐ。
ぴくりと、自分の眉が動いたのが分かった。
どこかで嗅いだ覚えのある匂い。だけど、何の匂いかを説明できない。
例えるなら、都会の雑踏、焼けたアスファルト、高い空と太陽……そこに居るのは?
「お、当たりっぽい?」
「ん、そうらしい」
この匂いは、志希と初めて会った時の匂いだ。
暑い夏の日に、アイドルのスカウトという難事をこなしている時だった。
すべての記憶が鮮明に思い出される。
たしか、こんな現象には名前があった気がする。
「んーっと、ぷ……プロースト?」
「プルースト・エフェクト。特定の匂いを嗅いだ時に、特定の記憶が思い出される現象のことだよ」
香りが専門の志希としてはやはり気になる分野なのだろうか。
いつもよりも真面目な声と顔で、説明する志希。
話し終わると、メモ用紙を引っ張り出して一心に何かを書き始める。
専門の知識はあまりないにせよ、志希と付き合いの長くなった俺は、それが化学式の一種であることが分かる。
本当に匂いのせいで思い出したんだなー、と感慨深く思うと同時に、疑問もある。
「えらく、執着して作ったんだな。お前さんの興味が不満なわけじゃないが、何の意味があるんだ?」
「いやいやー、研究成果がいつだって誰かの役に立つわけじゃないー♪ で、も。私にだけ、意味があるー♪」
上機嫌でメモを取りながら、答える志希。
気分屋な彼女でも、ここまで機嫌がいいのは珍しい。
理由については、全くわからないのが、少し癪だが。
「どんな意味があるんだ?」
考えてもわかるものではないだろうと諦めて、素直に志希に聞く。
「キミは、恋の匂いって嗅いだことがあるかにゃ?」
「恋の匂い? いや、無いと思うが」
「にゃははー。私はね、私にとってはね。これこそが恋の匂いなんだ」
「……そうか」
彼女がオレに特別な感情を抱いているのは知らない話ではない。
だからこそ、わからない。
オレの匂いじゃなくて、オレと出会った時の匂い。
少しばかりの焦燥を、かき消すように
「……いつか、私が居なくなっても。キミのいない世界に行っても。この匂いだけは、忘れたくないの」
そう言って、彼女は優しく微笑んだ。
PROUST EFFECTほんとすきです。