コーヒーの香りが部屋を包み、時計の短針が七を指そうとする頃、葵は出来上がった朝食を器につぎ分けながら違和感を覚えていた。
さっきドア越しに声をかけたはずの双子の姉、茜がまだ起きてこないのだ。
茜は普段から寝坊することが多いので葵が琴葉家の朝食係を担っているが、起こしたにも関わらず返事もないまま起きてこないとは珍しい。
確かに最近ぼちぼちと人気も出始めて仕事も多いので睡眠時間を削っているが、今日はゆかりさんとの約束があったはずだ。昨日楽しそうに話していたのでよく覚えている。
「おねえちゃん? 寝坊しちゃうよー?」
出来立ての朝食をテーブルに運び、茜の部屋の戸を叩く。返事はなかった。
「開けるよー?」
一応断りを入れて部屋に入る。茜は突然入ってくるので別にそうしなくてもいいのだが、なんとなく部屋に入るのはきちんと許可を取っている。
「あっ、なんだ。起きてるなら言ってよね、お姉ちゃん。おはよう」
茜は桃色のパジャマのままベッドに座っていた。まだ少しぼうっとしているようだが、朝ならよく見る光景だ。
「―――――――」
茜はこっちを見て何やら口をぱくぱくと動かしている。
「お姉ちゃん、どうしたの? 今度はパントマイムごっこ?」
茜は時々わけのわからない遊びを始めたりする。昨日も『葵くすぐりゲーム』と称してさんざんくすぐられた。それでも実は、葵は茜の突飛な発想に振り回されるのが好きだったりするのだが。
けど、茜は葵のその言葉にひどく驚いたようだった。取り乱したように声を荒げるふりをしている。
「どうしたの・・・・?」
茜は飛び出すようにベッドから出て、自分の机から適当な紙とペンを取り出し、さらさらと何かを書きなぐり、こっちに見せてきた。
『アオイ、ウチ、なんや声が出ーへんくなってもーたみたいや』
続けて口をぱくぱくとするジェスチャー。声を出そうとしているのだろう、掠れた空気が漏れる音だけが微かに聞こえてきた。今度は葵が動転する番だった。
「えっ!? 大丈夫? 喉痛い? 風邪? 病院行く? どうする?」
次々と矢継ぎ早に質問が出てくる。葵はつかみ掛からんばかりに茜に問いを投げかけていた。
ゲームの実況やナレーター、声優業をしている二人にとって、声は第一の仕事道具であって、もっとも酷使するものだ。スケジュールを詰め過ぎたのが祟ったのだろう。
茜は葵が取り乱すことを予測していたのか、なだめるように待てのハンドサインを出しながら、紙に書き加えた。
『ゆかりさんに事情を説明しようにも出来ひんから、葵、頼んでええか? あと、病院行きたいからついてきて、センセにも説明してほしい。ウチは大丈夫やから、葵も落ち着き。ちょっと仕事しすぎたみたいや』
丸っこい、自分とそっくりの筆跡を見て、葵は少し落ち着いた。こういう時こそ自分がしっかりしないとと思いなおし、強く頷く。
「すぐに病院に行くからお姉ちゃんは着替えてて。私はゆかりさんに電話してくるから」
葵がそう言って踵を返そうとしたが、肩を強く掴まれる。まだ伝えたいことがあるらしい。
『まだ病院はあいてないで。それにゆかりさんもこんな朝早く電話されても迷惑やろうし、まずはご飯にでもしようや』
時計を見ると、まだ七時をやっと回ったところだった。朝食もすっかり忘れていた。葵は自分がまだ慌てていたことに気づかされ、改めて問題にも冷静に対処する双子の姉を尊敬するのだった。
タクシーが病院につくまでの二時間、二人は一言も言葉を交わさなかった。
声の出ない茜は勿論、葵も喋らなかった。話すような話題が無かったのだ。
葵は今までの生活を想起し、後悔した。自分はいつも茜の話を聞いてばかりで、自分から話しかけるということがほとんどなかったからだ。消極的で、受けに回りがちなのは前々から治そうとは思っていたが、今日ほど後悔したことはなかった。
「――――着いたよ。お姉ちゃん」
九時ぴったりに病院が見えてくる。車に乗っての移動の時はすぐに寝てしまう茜だが、今日はうつむき気味なだけで起きているようだった。
案の定一番乗りだったようで、すぐに診察を受けることができた。
葵は黒縁眼鏡の若い先生に事情を説明した。先生は茜の喉をしばらく診察した後、困ったような表情をして、言った。
「これは、もっと大きな病院で診てもらったほうがいいかもしれません」
二人の間に緊張が走る。
「どう・・・なんですか」
茜は聞こうにも聞けないので、代わりに葵が勇気を振り絞って尋ねた。
「まだ詳しい検査をしていないので何とも言えませんが、ここまで重度の嗄声が急に起こったのならば、何らかの大きな問題があると考えるのが妥当です。もう一度お伺いしますが、今までに声が出なくなった、もしくは最近喉に違和感を感じていた、ということはありませんか?」
茜は首を横に振った。心当たりがないようだ。
「そうですか。それなら近くの総合病院で精密検査を行ってください。一応診断書を書いておきますね」
二人は診断書を貰い、病院を出て総合病院へと向かった。空気は余計に重たくなっていた。
総合病院までは少し遠くて時間がかかってしまったせいか、総合病院はもう混んでいた。茜は呼ばれるまで整理券をじっと見つめたままだった。
そして30分くらいして、茜の名前が呼ばれる。葵は先生に同じように説明した。
「ふむ・・・・それでは検査を行いましょう。こちらへどうぞ」
茜だけが連れていかれ、葵は一人また、待合室へ戻った。
行き交う人を眺めながら、姉の無事を祈る。疲れて眠くなるかと思っていたが、目ははっきりと冴えたままだった。
どれくらい時間が経っただろうか、茜が戻ってくる。表情を見る限り、まだ何も聞かされていないようだ。
葵も一緒にまた診察室へと戻り、椅子に座った。
「検査結果の方から申し上げますと―――――」
緊張が走る。やけに先生の声が響いて聞こえた。
「声帯に腫瘍があるようです。早期に手術をしたほうがいいかと思われます」
写真を見せられる。確かに喉の奥にぽつりと赤い豆のようなものがあった。
「それは・・・」
「いえ、手術自体はそう大変というわけではありませんし、費用も保険が適用されるのでそう掛かるものではありません。術後数日入院して、あとは一週間ほど声を出そうとしないようにしていただければ、無事に元通り声は出せるようになります。仕事に関しても、続けてもらって大丈夫ですよ」
高鳴っていた動悸が、糸が切れたように緩まってゆく。茜も同感らしかった。やれやれとばかりに肩をすくめている。
「良かったね、お姉ちゃん」
『せやな。一瞬もうダメか思たで』
「じゃ、私はとりあえず事務所の方に連絡してくるね。お姉ちゃんは手術について話を聞いてて」
嬉しそうに頷く茜を残して、葵は診察室を出た。すぐに報告したかったけど、マナー違反なので一応病院の外に出た。
「・・・・・・・ということになりました」
「はい。わかったわ。大目に見ても一か月あれば復帰できるってことね。茜ちゃんにもお大事にって言っといて」
「はい。ありがとうございます。それでは」
葵が報告を終えて病院に戻るのと、茜が診察室から出てくるのは同時だった。
『腫れ物、切るらしいんやって』
「まぁ、腫瘍を取る手術なんだから普通なんじゃないの? 麻酔かけるから痛くないんでしょ?」
『せやけど、知らん人に体切られたくないなぁって。葵、センセの代わりにやってくれへんか? 葵がやってくれるならウチはちょっと痛くても我慢するんやけどなぁ・・・』
「そ、それはさすがに諦めようよお姉ちゃん・・・」
茜は不服げにしているが、少し楽しそうだ。葵は茜に笑顔が戻ってきたことを何よりも喜ぶのだった。
家に戻ると、家の前でゆかりさんが待っていた。
「あ、ゆかりさん、こんにちは。来てくれたんですか?」
「もちろんです。茜さんが大変と聞きましたから」
「あたしも来たよー」
「茜さんの一大事ですからね。あ、今日は妹のきりたんもつれてきました」
「初めまして。ずん姉さまの妹、東北きりたんです」
ゆかりさんのほかにも、弦巻マキ、東北ずん子、東北きりたんの三人も来てくれていたようだ。一気に人が増えて賑やかになったせいか、茜は嬉しさのあまり少し涙ぐんでいる。
「と、とりあえず一旦上がって、話は中でしよう?」
「ええ、それがよさそうですね」
葵は四人を家に上げ、ざっと現状を説明した。みんなも手術すれば大丈夫だという話を聞いてほっとしたようだ。
「ふぅ、もう一緒にお仕事できないのかと心配しましたよ」
『心配かけてごめんな』
「ゆかちゃんってば、本当に慌ててたもんねー。少し妬いちゃったかなー」
「マっ、マキさん! 今そんなこといわなくていいじゃないですか!?」
マキがゆかりにじゃれつく。こうしたいつもの光景が、非日常を体験した後では何よりもありがたい、と葵は心の底から実感した。
「そうだ、古来から東北に伝わる伝統和菓子であるずんだ餅は万病に効くので、茜ちゃん、お一ついかがですか? あ、みなさんもどうぞ」
いつのまにか懐から弁当箱のようなものを取り出しテーブルの上に置いていた。あんなに大きな箱が懐に入っているなんて着物ってすごいなぁ。
ふたを開けると、中にはぎっしりとずんだ餅が入っていた。試しに葵も一つ貰う。うん、普通においしい。
「うん、なかなかいけますね」
「それはもうずん姉さまの作ったずんだ餅ですから。私ももう一つ」
「きりはご飯食べられなくなるからまた後でね?」
「ずんだ餅もご飯みたいなものじゃないですかー。ぶーぶー」
「きりたんちゃんは成長期だからねー。バランスよく食べないと大きくなれないよー」
「はぁーい」
みんなの暖かな雰囲気に茜も和んだらしく、さっきよりも表情が穏やかだ。ただ、あまり話せないのが少しストレスなようだが。
それからも6人は、夜になるまで遊んだ。
四日後。
「行ってらっしゃい、お姉ちゃん。また明日ね」
手術前の、最後の挨拶だ。茜はこくりと頷いて見せた。
先生に何度も繰り返し説明された通り、手術自体は数時間で終わるし、失敗することもまず無いとのことだ。その点は安心していた。
ただ、葵はこれから遠方の仕事が入っているので、手術室の前で待つことはできない。会うのは三日後になるのだ。
そのことを茜に告げた時は、『どうせ麻酔と痛み止めでしばらく意識なんてマトモやないんやからええんやで。お姉ちゃんの分まで頑張ってや』と言っていたが、後で少し悲しそうにしていたのを葵は知っている。
葵はそれをずっと気にしながら、新幹線に乗るべく駅に向かった。
『まだ結構痛いけど、無事終了しました』
葵は仕事前にそんなメールを貰った。茜が珍しく標準語を使う時は大体反省している時だ。迷惑をかけたと思っているのだろう、葵は『おめでとう。よかったねお姉ちゃん。お大事に』とメールを送ろうとして、『早く会いたいな』と付け加えた。
『けが人を照れさせたら痛くてあかんよ』
とすぐに返ってきて、葵は仕事を頑張れる気になった。姉に会える時が待ち遠しい。
葵は隣に姉がいない久しぶりの場で、いつも以上に奮闘するのだった。