【ARIA】 その、いろいろなお話しは……(連作) 作:一陣の風
このお話しはオリキャラが主人公となります。
本当は、アトラと杏のお話しだったのに…お察しください(大平伏)
みな様の生暖かい眼差しと、口の端を歪めるささやかな微笑みでもって許していただければ幸いです。
それではしばらくの間のお付き合い。よろしく、お願いします。
やさしい風が、ほほをなでる。
そんな春のある日。
オレンジ・ぷらねっとの食堂で、一人のプリマと白い猫が感嘆の声を上げていた。
第二話 『 addetro alea 』
「わ~ひ。ここの食堂は、いっつも美味しそうなもの、いっぱいだね」
「ぷいにゅ~」
「灯里先輩。アリア社長。いくらでも食べてくださいね。でっかいおかわり自由です」
「ぷいにゃあ~い」
「ありがとう。アリスちゃん」
灯里は、アリスに笑顔で答えると、食堂に並べられた料理を見回した。
今日、灯里は、アリア社長と一緒に、ここオレンジ・ぷらねっとのプリマ・ウンディーネ、アリス・キャロルのお誘いを受けて、お泊りに来ていたのだ。
まずは食事でも-と、いう事で、食堂に誘われた灯里とアリア社長。
いつもながらの、その豪華な料理に目を輝かせていた。
「ぷいにゅにゅんぷにゅう」
「アリア社長。あんまり走り回ると危ないですよ。あっ」
「きゃっ」
小さな悲鳴があがる。
あまりに美味しそうな料理を前に、興奮して走り回っていたアリア社長が
二人のウンディーネとぶつかりそうになったのだ。
「あ、ご、ごめんなさい」
「ううん。大丈夫。気にしないで……って。あれ、あなた」
「あれ。灯里ちゃん?」
「ほへ?」
名前を呼ばれて、灯里が、あわてて相手の顔を見れば………
「アトラさん。杏さん」
そこには、きょとん顔でこちらを見ている、アトラと杏がいた。
アトラ・モンテヴェルディと、夢野 杏は、灯里がまだプリマに昇格する前
アリシアに薦められた、トラゲットと呼ばれる、大運河(カナル・グランデ)の渡し舟で一緒になった、シングルのウンディーネだ。
もう一人、姫屋のウンディーネと四人一組で経験した初めてのトラゲットは、まだシングルだった灯里に
シングルとしての今。
プリマへの未来。
そしてゴンドラに乗るという事の意味を、改めて深く考える機会を得た、とても貴重な経験だった。
「おひさしぶりです。アトラさん。杏さん」
「うん。おひさしぶり」
「そういえば灯里ちゃん。聞いたわよ」
「はひ?」
「プリマ昇格おめでとう」
「は、はひ。あ、ありがとうございます」
「通り名は『アクアマリン( 遥かなる蒼 )』 ですって? うん。灯里ちゃんにぴったりね」
「はひ。ありがとうございます」
灯里が照れて顔を真っ赤にしていると、突然-
「ううううう……」
不気味な声と共に、あたりの空気が重くなる。
こころなしか照明も暗くなった気が……
「ぷ、ぷいにゅぅぅ」
アリア社長が、おもわず灯里にしがみついた。
杏が顔にシャギーを入れながら、うめいたのだ。
「ううう…よかったですねぇ。灯里ちゃん。プリマおめでとうございますぅ……」
うめきながら、灯里の右手をとる。
「ううう…いいなぁ…プリマ。いいなぁ……うふ…うふふふ」
「杏さん。杏さん。はわわ……」
「ほらほら杏。落ち着いて、落ち着いて」
笑いながら、アトラが間に入る。
「うふふふ…プリマ。プリマぁ……」
「はひいいい」
しかし杏は、何度も、何度も、手袋のない灯里の右手を、自分の手袋をはめた右手でなで回していた。
****
「添乗指導、ありがとうございました」
ペアのウンディーネが頭を下げた。
「ああ……」
指導教官のウンディーネは、何の感情も含まぬ声で答えた。
「今日言われた事を、今度また私と乗る前に、ちゃんと修正しておけ。何度も同じ間違いを繰り返すな。
それから安全確認を怠るな。特に後ろには」
「はい。分かりました」
-本当かな……
指導教官は思った。
本当に分かっていれば、こんなに何度も間違いは繰り返さないハズだ。
そう。
同じ間違えは二度と……
「ゴンドラの後片付けは、ちゃんとやっておけよ」
それだけ言うと、彼女は、その場をゆっくりと離れ始める。
だが、後で確認しに来るつもりでいた。
間違いは正さなければならない。
それが、例え本人にとって辛い事であっても。
甘さや妥協は許されない。
「お疲れ様」
違うペアが、自分が指導していた子に話かけるのが聞こえてきた。
「ねえ。どうだった?」
「いつも通りよ」
「いつも通り?」
「そ。アッディエートゥロ・アーレア」
「アッディエートゥロ・アーレアかあ…やれやれって感じね」
「ええ。もうやんなっちゃう。疲れた疲れた。早く片付けて、晩御飯食べに行こ」
「あ、そういえば…今、食堂に水無 灯里が来てるわよ」
「え? あのARIA・カンパニーの水無 灯里?」
指導教官の足が少し遅くなった。
「そうそう。それそれ」
「わあ。私、ファンなんだ。早く行こ。行こ!」
「OK!」
二人は足早に、その場を去って行った。
「水無 灯里……プリマかぁ」
指導教官が、小さく独り言ちる。
生ぬるい夜風が彼女の髪を揺らしてゆく。
****
「先輩方。でっかい迷惑なので、座って話しをしませんか」
アリスがオムライスのトレイを持ったまま言う。
言葉使いはやさしいが、その顔は……間違いなく怒っていた。
灯里達が、ちょうど道をふさぐ格好になっていたのだ。
「は、はひ。ごめんね。アリスちゃん。あの…アトラさん。杏さん。よかったらご一緒しませんか?」
灯里は、アテナが待つテーブルの方に視線を向けた。
「あ、でも悪いし」
アトラが、そのアテナの姿を見て遠慮がちに言う。
「先輩方。でっかい問題なしです。どうぞご一緒に」
「アリスちゃん……」
「そうしてください。私もアトラさんや杏さんと、お話したいですし」
「そう…じゃあ連慮なく。ありがとう」
「うふ、うふ、うふ……いいなあ。手袋なし。うふ、うふ、うふ……」
杏はまだ、うめいていた。
「アテナさん、お疲れ様です」
「ううう。お疲れ様ですぅ」
アテナにむかって、アトラと杏が挨拶する。
「あ~アトラちゃん、杏ちゃん。お疲れ様。一緒にご飯どう?」
「アテナ先輩、それは今、私達がお誘いしました」
「ええ、そうなの。じゃあ、ご一緒しましょ」
アテナがてきぱきと椅子を用意しはじめる。
さすがは気配りのアテナさん。
-っと灯里が思う間もなく、アテナは、その自分で用意した椅子にけつまづいて、顔面からすっ転んだ。
「ぷいにゅう!」
「大丈夫ですか。アテナさんっ」
灯里とアリア社長が、あわてて駆け寄る。
「大丈夫~いつもの事ですぅ」
アテナが普通に起き上がりながら答えた。
「はい。でっかい、いつもの事です」
「……いつもの事ですね」
「うう……いつもの事です」
「みんな……ちょっとは心配しようよ」
アテナに対するオレンジ・ぷらねっと独特の雰囲気(?)には、さすがの灯里もついていけない。
アテナはこれでも、灯里の先輩ウンディーネの、アリシア・フローレンスや、水先案内業界の老舗、姫屋の、晃・E・フェラリ-と共に「水の三大妖精」と言われる、トップ・プリマの一員だったのだ。
アリシアが寿退社し「三大妖精」は自然解消されたが、彼女のトップ・プリマとしての地位は、なんら変わる事なく保持されていた。
特に彼女の舟歌(ゴンドリエーレ)は、その通り名「セイレーン」に恥じることなき、絶大で圧倒的な歌唱力を誇っていた。
が、彼女は同時に「ドジッ子」としての名声も博していた。
話によると、アテナはほぼ毎日、この食堂において、お皿を割るか、スプーンやフォークの入った箱をひっくり返すか、ガムシロップをボトル一本丸ごと、紅茶の中にいれてしまうとか。
なにかしらの騒ぎを起こしているらしい。
先日も過去最高の、お皿47枚を割りを達成。人事部長のアレサ・カニンガムに呼び出され、全額弁償と、その月の休日、全没収を言い渡された事もあったとか。
つまりオレンジ・ぷらねっとの社員は皆、アテナのドジっ子ぷりには、慣れているのだ。
「あの、ちょっといいですか」
灯里や、アリア社長も大満足の食事後。
お茶を飲みながら灯里達が話をしていると、同じ食堂にいたシングルや、ペアが声をかけてきた。
「あの。もしかしてARIA・カンパニーの水無 灯里さんですか?」
「はひ。私、ARIA・カンパニーの水無 灯里ですが……」
「わあっ。やっぱり!スゴイ!! あの…私、灯里さんのファンなんです。握手してください!」
「はひ? え、あの。はひ」
「うわあ。握手してもらっちゃった。嬉しい!」
「あっ、私も!」
「私も!」
「私も、お願いします!」
「私だって!」
「はひいい?」
たちまち、灯里の前に人だかりができる。
「灯里先輩、でっかい大人気です」
アリスが、それを横目で見ながら、なぜか自慢気に、ぼそりとつぶやいた。
「流石は、あのグランマが創設したARIA・カンパニーの、プリマさんです」
「そうそう。それにあの伝説の三大妖精の一人。アリシア・フローレンスさんの一番弟子さんだし」
「ううう……
それにプリマ昇進と共に、お店の経営まで一緒にこなしてしまう、バイタリティーだし」
「ええ。灯里ちゃんが大人気なのは、当然かもね」
最後にアテナが、ゆっくりとお茶を飲みながら言った。 と、思ったら、口に手をあてて悶絶し始める。
またガムシロップをビン丸ごと一本。カップの中に入れてしまったのだ。
「何を騒いでいるっ」
鋭い声が、食堂に響き渡った。
全員の動きが止まる。
皆の視線が、一人の人物にそそがれた。
「騒ぐのなら他でやりなさい。 ただし、のどを痛めてもよいのであればな」
「蒼羽(あおば)ちゃん……」
アテナがつぶやくように言った。
そこには、背の高い、見るからに先鋭的なプリマが立っていた。
「す、すいません。騒ぐつもりはなかったんです。ごめんなさい」
灯里が立ち上がって、頭をさげる。
「うん? その制服は……アンタ、ウチの社員じゃないね」
「はい。ARIA・カンパニーの水無 灯里といいます」
蒼羽の形の良い右の眉毛が、急角度で跳ね上がった。
「へえ。あんたが噂の…でもなんでここに?
外部の人間が許可なく社内に入るのは、明確な規則違反よ」
「あ。そ、それは……」
「私が、灯里先輩に泊まってくれるように、でっかい頼んだんです」
アリスが、あわてて言った。
「し、仕事の事で相談があるので、社外の人の意見も聞きたいと思って……」
「アリス・キャロル。いや、オレンジ・プリンセスか……プリマなら他社の人間に聞く前に、自分の所の人間にまず聞いてみるべきじゃないのか?」
「う…それは……確かに」
「あ、あの蒼羽ちゃん。灯里ちゃんに聞いてみればって言ったのは、私なの」
「アテナ先輩?」
-ありがとうございます。
アリスは心の中で、アテナに頭を下げた。
アテナはわざと、そう言う事で、アリスをかばってくれたのだ。
「ふーん」
蒼羽は、アリスとアテナの顔を見比べてから、おもむろに言った。
「ちゃんと許可は取ったの?」
「あ、うん。ちゃんと寮長と部長には、私から話をして許可はもらってるから……」
『嘘がへたね』
アリスは、蒼羽の唇がそう動くのを、はっきりと見た。
でっかいバレてる!?
だが蒼羽は、先ほどと変わらぬ口調で話を続ける。
「そう。ならかまわないけどね。
ほらほら、ペアも、シングルも、浮かれてないで、さっさと自室にもどって、自習でもしなさい。
いずれあなた達が、この子のようなプリマにならなければ、いけないのよ」
そして蒼羽は、そこにアトラと杏の姿を認めると-
「二人とも、明日は早朝から練習だ。早く休めよ」
そう言うだけ言うと、蒼羽は後をも見ずに、その場を離れていった。
若いペアの何人かが、その背中に舌を出す。
「アッディエ-トゥロ・アーレア」
「アッディエ-トゥロ・アーレア」
笑いながら、ささやきあっている。
『アッディエ-トゥロ・アーレア?』
****
「はひい。びっくりしました」
カポーンッ
湯煙が上がる。
ここは大浴場。
オレンジ・ぷらねっとは完全寮制で、二人にひとつの部屋が与えられている。
それぞれの部屋にも、シャワー程度の簡単な入浴設備はあるのだが、大部分の社員は、一日の疲れを癒すため。この大浴場を使っていた。
もっとも。
今、この大浴場を使っているのは、灯里。アリス。アテナ。杏。アトラ。そして、アリア社長の六人だけだったが。
「まるで、姫屋の晃さんみたいだったですねぇ」
「ぷいにゅう……ふ」
灯里とアリア社長が『どっかに行ってしまいそうな』勢いで言う。
あの後、妙にしらけた雰囲気になって、シングルやペア達は、自室にひきあげていった。
それじゃあ-と帰りかけるアトラと杏に、アテナがお風呂に誘ったのだ。
「オレンジ・ぷらねっとにも、ああゆう人がいたんだぁ……」
「ぷいぷいにゅうぅぅぅぅ」
ぷかぷかと、アリア社長が流されていく。
「あの人は、違う」
そんなアリア社長を見送りながら、アトラが小さくつぶやいた。
「ほへ?」
「あの人は、姫屋の晃さんのように、思いやりはないわ。ただ叱るだけで……」
「ええ? でも、そんな風には見えなかったですよ」
「確かに言ってる事は正しいの。完璧なくらい。
でもね。あの人は、私達の今まで学んできた事、すべてを全否定するような言い方をするのよ」
「全否定……あっ。」
灯里は思い出した。
トラゲットの時、弱気になったアトラが、ついこぼした言葉。
-私達の教官は、いつでも全否定してくる。
「アトラさん。それってもしかして……」
「そう」
アトラは、うつむいている杏を横目で見ながら言った。
「あの人が、私と杏の指導教官よ」
オレンジ・ぷらねっとでは、何人かのシングルやペアに、ひとりの指導教官がつく。
現役のプリマの時もあれば、ウンディーネを引退して、会社の職員として参加する事もある。
そうやって、マンツーマンで、後輩を育てていくのだ。
それは、より、きめ細やかな指導を受ける事ができるというメリットの反面、
その教官と後輩の「ソリ」が合わなければ、時には修復不可能な程の、深い溝をつくるという、デメリットも抱えていた。
「実際。教官と合わずに辞めていく子も多いのよ」
アトラがつぶやくように、言葉を繋げる。
「はひ……」
「その逆に、教官が変わったとたん、伸び始める子もいるわね」
「そうなんですか……」
超少数精鋭主義のARIA・カンパニーでは想像できない事だ。
でも……と、灯里は思う。
もし、アリシアさんが、晃さんやアテナさんだったら……
もちろん、二人ともアリシアと並んで「水の三大妖精」と言われる人達だ。
その技術にせよ、人格にせよ、アリシアに劣るところは、何一つない。
でも……
晃さんにしごかれる私。
アテナさんのドジっ子に振り回される私。
……………
……………
……………はひ!
やっぱり、私はアリシアさんと出会えて、すごく幸運だったのだ-と、思う。
アリシアさんの優しさがあったからこそ、今の自分がいる。
それは、私とアリシアさんが、あんなにも深くつながりあう事ができた奇跡なのだから……
「あっ。そういえば『アッディエートゥロ・アーレア』ってなんですか?」
「え?」
「あ、あの。ペアの子達が言ってたんです。蒼羽さんの事。『アッディエートゥロ・アーレア』って」
「ああ。それはね。蒼羽さんのあだ名」
「あだ名? 通り名じゃなくって?」
「そう。蒼羽さんの通り名は別にあるの。
で、あの通り、蒼羽さんの指導は、いろいろ厳しくて、特に舟の運行…安全確認にはうるさくて……」
「うん。常に安全を。特に後方には、充分注意しろ-って、いつも言うの」
「そう。で、ついたあだ名が『アッディエートゥロ・アーレア・後方危険』ってね」
「ほへえ」
「二言目には、後方確認をってね。 一日に何度も言われるのよ」
「アッディエートゥロ・アーレアか……ほんとうに厳しいんですね」
「ほんとうに………」
アトラが小さな、本当に小さな声でささやく。
「ほんとうに。あの人が指導教官でなかったら、私や杏は、もうとうにプリマになっていたかもしれないのに……」
「アトラちゃん……それは」
「あっ。ごめん。杏。前にみんなに叱ってもらったのに。ごめんね」
あわてて言いつのる。
アテナやアリスがいる前で、言うべき言葉ではなかった。
だが、そんな時こそ、人の本音は出てしまうのだ。
「アトラちゃん、杏ちゃん。お風呂上がったら、少し部屋に来ない?」
「アテナさん?」
「二人に聞いてほしい話があるの」
-同時刻
当の『アッディエートゥロ・アーレア』こと、蒼羽・R・モチヅキは、
オレンジ・ぷらねっと人事部長のアレサ・カニンガムの執務室に呼ばれていた。
「食堂で何かあったの?」
アレサ・カニンガムは、ある意味、オレンジ・ぷらねっと最大の功労者だ。
オレンジ・ぷらねっと創設時に吸収合併された、それまで中堅だった水先案内店から移籍とゆう形で、最初からプリマとして入社した彼女は、初期のオレンジ・ぷらねっとを支える、重要な人材だった。
やがて若い頃の無理がたたって、プリマを引退した後、請われて人事部長になったアレサは、かずかずの社内改革を実行。
彼女の本当の真価は、この時から発揮されたといってもいい。
有望たる新人の早期確保。完全寮生活の確立。新しい観光案内の開発、等々。
その結果、オレンジ・ぷらねっとは、それまで常に一位として君臨していた、老舗の姫屋を押しのけて、わずか十年で、堂々、営業成績第一位の水先案内店へと、発展していったのだ。
彼女が行った革新的な運営は、業界、第三の波として、いまだに語り継がれていた。
「いえ。なにもありません」
蒼羽はけれど、アテナやアリスの規則違反の事など、おくびにも出さずに言った。
「そう、ならよいのでけど。最近、規則をやぶる子が多くて困ってるの」
「そうですか。でも時には、外の風を入れてみるのも、気持ちいいものです」
蒼羽はことさらに言った。
「そうね。時には必要かもね」
アレサも微笑みながら答える。
それはすべてを、お見通しな微笑みだった。
「ところで、今日あなたを呼んだのは、そんな事じゃないの」
「はい」
「単刀直入に聞くわ。あなたが指導しているウンディーネで、昇格する見込みのある子はいる?」
「います」
蒼羽は迷いもなく即答した。
「何人かのペアは、もう少しでシングルになれます。シングルも、もう少しでプリマになれるヤツはいます。
特にアトラ・モンテヴェルディと夢野 杏の二人は、最有力候補です」
「そう……」
アレサは書類をめくりながら言う。
「でもアトラはもう一年近く、昇格試験を受けていない。それに杏は、この前の昇格試験に、また落ちた」
「もう少し。もう少しなんです。
もう少しで二人とも、プリマになれます」
「余計なペアやシングルをかかえている余裕はないの」
「………」
「私から直接、昇格試験に対して、あれこれ言う事はできない。でも、覚えていて」
アレサは、それまでとは、まったく違う冷たい声で言った。
「必要以上に手間のかかる育成は、不必要です。そして、それを是とする指導教官も」
「部長っ。しかし」
「今言った言葉。よく覚えておいて。話は以上です。退席してよろしい」
なおも言いつのろうとする蒼羽を無視して、アレサは手元の書類に視線を移した。
それはもう、話す事は何もないという、アレサの無言の意思表示だった。
「……失礼します」
ゆっくりと扉の方へ歩いて行く蒼羽の背中に、不意にアレサの声がつきささった。
「あの子のこと、まだ気にしてるの?」
扉のノブを持つ、蒼羽の手が一瞬止まる。
「あの子のことは、あなたの責任じゃない。それは、みんなも分かっているわ。そう、あの子自身もね。
でも、あなたは、いつまでそれを背負っているつもりなの?」
「……………」
蒼羽は無言で、そっと扉を閉めた。
それ以上、中からアレサの声が聞こえる事はなかった。
****
「私の同期で、指導教官として誰よりも早く、プリマを育て上げた子がいるの」
アテナは、ゆっくりと話始めた。
「その子は、もちろんプリマとしても優秀で、指導教官としての技量も、とても確かなものだった。
だけど、その子が、一番早くプリマを育て上げられたのには、理由があるの」
「理由……ですか」
「うん。その指導教官と、そのプリマになった子とは、とても相性がよかったの」
「相性……」
「二人とも、そばで見ている私達が恥ずかしくなるくらい仲良しで、信頼し合っていた」
ふとアリスは、昔、アリシアが自分と灯里との絆を言葉にした時の事を思い出した。
曰く。私と灯里ちゃんとは、一心同体なのだと。
「そして彼女は、その指導教官のもとで、誰よりも早くプリマに昇格した」
「でっかい優秀だったんですね」
「うん。確かに彼女は、とても優秀なプリマだったわ。でも……」
「でも?」
「でもある日。その子が事故をおこしてしまったの」
「え。ゴンドラクルーズの最中にですか?」
「ええ。風が強い日だったわ。そして事故そのものは不可避な事だった。舵が故障したヴァポレット(水上バス)が、後ろから彼女のゴンドラに突っ込んだの」
「ヴァポレットが……」
あんな大きな船が突っ込んできたなら、ゴンドラなんかひとたまりもない。
「幸い、お客様には怪我もなく、すぐ助けられたんだけど、その子自身は、腕を痛めてしまったの」
「腕を……ひどかったんですか?」
「ええ。普通に生活するには問題ない程度だったんだけど、私達のように、正確なオールさばきをしなければならない
ウンディーネにとっては、致命的な怪我だった」
「………」
「そして、その事故には、もうひとつ問題があったの」
「もうひとつ?」
「ええ。彼女は、その時の運行予定表を提出していなかったの。飛び込みの仕事だったから。
だから、その事故の事を、会社や協会が知ったのが、ずっと後になってしまったの」
「それって……」
アリスが何かに気がついたように、灯里の顔を見た。
灯里も気がついた。
それは昔、まだ二人がプリマになる前、姫屋の藍華と勉強会を開いた時、テキストとして読んだ事故の事だった。
「結局、その子はウンディーネを引退せざるを得なかった。腕を痛めたのも原因のひとつだけど、なによりも書類を出していなかった事が、一番の問題だった」
「…………」
「会社や協会にとって、規則違反はなによりも問題視されていたから」
「…………」
「その子の指導教官だった、私の同期の子は、苦しんだわ」
「で、でも。それはその人のせいじゃ……」
「私達もそう言ったわ。でも、彼女は納得しなかった。いえ、しようとしなかった。
もし自分が、もっと厳しく彼女を指導していたら、事故を避けられたかもしれない。
もし自分が、もっと厳しく彼女に操舵を教えていれば、腕を痛める事はなかったかもしれない。
もし自分が、もっと厳しく彼女に規則を教え込んでおけば、後で問題になる事はなかったかもしれない。
もし自分が、もっと厳しく彼女をプリマに昇格させなければ、引退させる事はなかったもしれない。
もし自分が、もっと厳しく彼女を思っていたなら、彼女の夢を壊してしまう事はなかったかもしれない。
もし自分が、もっと厳しく、もっと厳しく……って。
そうやって自分を責めていたの。
指導教官だった子は、その子がオレンジ・ぷらねっとを去った日から、三日三晩、泣き通したわ。
ようやく、四日目に部屋を出てきた彼女は、それまでと違って、ほとんど笑顔を見せる事はなくなっていた。
そして、ゴンドラクルーズさえ止めてしまった」
「それって…プリマを辞めたって事ですか」
「基本的にはね。彼女は専任の指導教官になった」
「専任……の」
「そして彼女は、プリマの昇進試験には、ことさら厳しい指導教官になったの」
「アテナさん。その指導教官の人って、まさか……」
アトラが、かすれた声で聞く。
「そう」
アテナはつらそうに小さく言った。
「蒼羽ちゃんよ……」
蒼羽は夢を見ていた。
悪夢だった。
風が吹いていた。
二人の髪を小さく揺らしながら。
生温い風が吹き抜けていく。
彼女が行ってしまう。
誰よりも信頼し、誰よりも信頼してくれた彼女が行ってしまう。
プリマになるのが、夢なんです。
そう言った彼女が。
そう言っていた彼女が。
そう言って瞳を輝かせていた彼女が。
まばゆい光の中。痛いくらいの日差しの中で、彼女は大きな荷物を胸に抱き、泣いていた。
ごめんなさい-と、泣いていた。
蒼羽も泣いていた。
ごめんね-と泣いていた。
私は、あなたの力になれなかった。
私が、あなたの夢をつぶしてしまった。
私がもっと強ければ。
私がもっとしっかりしていれば。
あなたが、夢を捨てることはなかった。
あなたの夢を、捨てさせることはなかった。
さようなら
彼女が言う。
さようなら
行かないで。
声は出ない。
お願い。
行かないで。
声は出ない。
心が張り裂けそうに叫んでいるのに、声は出ない。
ごめんなさい
彼女は行ってしまった。
ごめんなさい
あざやかな光の中で、悲しげに、そっと微笑みながら彼女は行ってしまった。
ごめんなさい
その背中に手をのばす。
でも届かない。届かない。届かない。
必死にのばすその手は。
届かない
彼女が振り返る。
何事かを伝えるように、その唇が動く。
でも。
聞こえない。
彼女の声は聞こえない。
吹き抜ける風が、彼女の声をさらっていく。
ごめんなさい
でも、それは。
後悔か怒りか、それとも呪詛の言葉か。
ごめんなさい
そして彼女は、真っ白な光の中に消えていってしまった。
生温い風が駈けぬけてゆく。
ごめんなさい
ごめんなさい
ごめんなさい
蒼羽は、眠っていた。
謝りながら眠っていた。
それは、とびきりの悪夢だった。
「ほんとは、彼女は誰よりも優しいの」
アテナがつぶやく。
「ほんとは、誰よりも優しいのに、ああいう言い方をするの。
それはなによりも、二度とあの子のようなウンディーネを出さないために……
そういう生き方を選んでしまったの」
「………」
部屋の中に沈黙がおりる。
誰もがなにひとつ言わない。
響くのはただ、アリア社長と、まぁ社長の寝息だけ。
「アトラちゃん、杏ちゃん。だから私、あなたたちに蒼羽ちゃんの事を……」
アテナが言い続けようとした時。
トントン-と
誰かがドアをノックした。
「はい。どなたですか?」
アリスがあわてて駆け寄って訊ねる。
「夜分にごめんなさい。灯りがもれていたものだから」
そう言って、顔をのぞかせたのは、アレサ・カニンガムだった。
「アレサ部長!?」
「こんばんは。あなた達、夜更かしが楽しいのは分かるけど、ほどほどにね」
「はい」
「すいません、部長。もうお暇するとこでした」
「アトラに杏ね。 早く休まないと、明日は朝から練習があるのではなくって?」
「え。は、はい。その通りです」
「そんな事まで、ご存知なんですか」
「もちろん。私は全社員の顔と名前。明日の予定なんかも、ちゃんと知ってるわ。悪い事はできないわよ」
うふふ-とアレサは笑った。
「はへえ…オレンジ・ぷらねっとの全てのウンディーネさんの顔と名前。全部ですか。すごいです」
「まあ人事部長ですから……」
アレサは苦笑を浮かべた。
そこで気がついた。
「あれ、あなたはウチの社員じゃないわね。確かARIA・カンパニーの」
「はひ。失礼しました。ARIA・カンパニーの水無 灯里です。こちらは、アリア社長です」
灯里は、まあ社長を、その『もちもちぽんぽん』の上に乗せながら、大いびきで寝ているアリア社長を紹介した。
「こんばんは。灯里ちゃん。そう、あなたが風なのね」
「はひ? 風?」
「ううん。なんでもないの。 それより、こんな夜中までいったい何を?」
「えと、ちょっと昇進試験の事を……」
「そう……アトラ、杏。 指導教官の蒼羽は厳しい?」
「は、はい」
「とても、厳しいです。……でも」
「でも?」
アトラと杏は、まっすぐにアレサの顔を見た。
「私達、めげません。絶対プリマになります」
「はい。何度でも、自分をやわっこくして挑戦します」
「そう……」
アレサはアテナに視線を移す。
『 しゃべったわね 』
その目は、そう語っている。
アレサには、隠しごとはできない。
なにしろ、アテナの指導教官だったのが、アレサなのだ。
アテナはあわてて視線をそらそうとして、目を回してひっくり返ってしまった。
「わあっ。アテナさん大丈夫ですか?」
「アテナさん。しっかり」
「ホントに、でっかいドジっ子さんです」
オレンジ・ぷらねっとの社員達が、あきれながらもアテナの世話をやいている横で、灯里に近づいたアレサが、その耳元で、そっとつぶやいた。
「灯里ちゃん。あなたにちょっと頼みがあるの」
「は、はひ? なんでしょうか」
アレサは、いたずらっ子のように微笑んだ。
「あなたに風になってほしいの」
****
朝の目覚めは最低だった。
同室のペアのウンディーネは「先に行きます」と言って、出て行ってしまった。
自分が疎ましがられている自覚はあった。
けれど……
あの子も、もう少しでシングルになれる。希望の丘に行ける。
そうすれば、いずれきっとプリマに………やめよう。
蒼羽はかぶりをふった。
未来はどうなるか分からない。
それに-
プリマになって、幸せなのかどうか。
それすらももう、今の蒼羽には分からなくなっていた……
「おはようございます」
「お前、なんで……」
蒼羽がゴンドラ乗り場に来ると、アトラや杏のほかに、灯里までが待っていた。
「私も、ご一緒させていただいて、いいですか?」
「はあ?」
「あの、私もいずれ後輩を指導しなくちゃいけないんで……蒼羽さんの指導方法を、教えてほしいんです」
「断る」
蒼羽は即座に一蹴した。
「ここはオレンジ・ぷらねっとだ。ウチにはウチのやり方がある。それをわざわざ、なぜ他社のお前に教えねばならん」
「ええ~ぇ」
「まあまあ、蒼羽。そう言わずに」
「アレサ部長?」
いつの間にか、アレサが蒼羽の背後に立っていた。
「私がね。灯里さんにお願いしたの」
「お願い……なぜです」
「そうね……実はこれはアリスからの相談……とゆうか企画なのだけど、私は将来的に合同クルーズっていうのを考えてるの」
「合同……クルーズ?」
「ええ。例えば灯里さんのゴンドラ・クルーズを受けたいって、お客様が多いとき、ウチから何隻か舟と人をだすの。
そうすれば、お客様は灯里さんの観光案内を受けられるし、灯里さんは、より大勢のお客様と触れ合える。
ウチは、それだけで、お客様を増やす事ができて、なおかつ、シングルやペアの練習にもなる。一石三鳥ね」
「なんか、ウチにばかり有利な気がしますね」
「あら。ちゃんとしたギブ・アンド・テイクよ」
アレサは営業スマイルを浮かべた。
「今日は、それの試金石」
「おい。アンタはそれでいいのか?」
アレサの攻略は無理-とみた蒼羽は、矛先を灯里に向けた。
「つまりは、ウチにいい条件で、アンタはこき使われるって可能性もあるんだぜ」
「は、はひ。私はぜんぜん構いません。より多くのお客様に触れ合うことができれば、それだけで幸せです」
「ったく。とんでもない甘ちゃんだな」
ちっ-と蒼羽は舌を鳴らす。
「はいはい。ぶつぶつ言わない」
「ぶつぶつぶつ……」
「それに、どちらにせよ今日、明日って話じゃない。あくまで将来に対する投資のひとつよ」
「あなたが、ただ投資をして、回収もしない-なんて思えませんけどね」
「蒼羽。なんなら、部長命令って形にしてもいいのよ」
一転。アレサが恐い声を出す。
「どうなの。行くの? 行かないの?」
「分かりました。分かりました。行きますよ。一緒に連れて行けばいいんでしょ」
「物分りがよくて、たいへん、よろしい」
「やれやれ……おい。アンタっ」
「は、はひ」
「一緒に同行するのは許すけど、私の指導に対しては、いっさい口出しはさせないからな」
「は、はひ」
「それから、邪魔になるようなら、即刻、帰ってもらうぞ」
「は、はひ。分かりました」
「じゃあ。出発だ。アトラ、杏。行くぞ」
「『 はい 』」
二人の声がかぶった。
「行ってらっしゃい」
アレサは小さく手を振り、見送った。
「アトラ。返しが遅い。大きい」
「はい」
「杏。観光案内は、もっと簡素に、はっきりと」
「はい」
「二人とも、常に後方を確認しろ。安全に、もう充分-はない」
「『 はい 』」
蒼羽は、次々にアトラと杏に指示を出しながら、妙な違和感を感じていた。
-二人とも、いつもと違う。
いつもなら、微妙な倦怠感や疲労感。嫌悪感ともいうべきものが、この二人から感じられるのだが、今日はまるで違っていた。
そう。まるで人が変わったような……
なにか、あったのか?
不意に風が吹き、花びらを巻き上げる。
「うわあ。 気持ちのいい風ですねぇ」
蒼羽の背後から、なんとも間の抜けた声が聞こえてくる。
「まるで、花びらの妖精さんがダンスしているみたい」
「おい。アンタっ」
こめかみに血管を浮かび上がらせながら、蒼羽は叫んだ。
「なにのんきな事、言ってるんだ。今、私達は練習中なんだぞ」
「え~でも、蒼羽さん。見てください。こんなに素敵ですよぉ」
そう言って灯里が指差す方を見れば、そこにはたくさんの花びらが、まるで降るような激しさで舞い踊っていた。
蒼羽もつい、その光景に見とれてしまった。
「素敵ですねえ。えへへ」
灯里が、ほんとうに楽しそうに笑う。
その横顔を見て、蒼羽は、ハッとした。
その横顔が、あの子と一瞬、重なって見えたのだ。
呆然と灯里を見つめる蒼羽。
にっこりと微笑む灯里。
「蒼羽教官?」
杏の声が、蒼羽を引き戻す。
ばかばかしい-蒼羽は、吐き捨てるように呟いた。
このプリマとあの子は、ぜんぜん違う。
顔も髪型も声も容姿も、ぜんぜん違う。
だが -その瞬間。灯里と彼女は重なった。
なぜ
「……アンタ、プリマになって幸せか?」
蒼羽は灯里の顔を見もせずに、苛立だったように訊ねた。
「はひ?」
「だから……」
蒼羽は、そんな自分に驚きながら、声を荒げた。
「アンタは、プリマになってホントに幸せなのかと聞いてるんだ!」
アトラや杏が、驚いたようにこちらを見ていた。
-かまうものかっ。
だが、なぜ私は、こんなにも苛立っているんだ?
なぜ
なぜ
何故
「はひ。私はプリマになれて、とっても幸せです」
そんな蒼羽の苛立ちなど、簡単につき崩してしまうような、素直で穏やかな声。
「アクアには、こんなにも素敵が満ちていて。その素敵を、お客様と一緒に分かち合いながら、舟を漕いでいける。
私はプリマに…いえ、ウンディーネになれて、とっても幸せです」
灯里が舞い上がる花に囲まれながら、にっこりと微笑んだ。
私、ウンディーネになれて、よかった。
ああ……
あの子も確か、そう………
ヴォオオオオオオオオオオオ!
警笛が響き渡った。
-突然
背後から蒼羽達のゴンドラめがけて、ヴァポレットが突っ込んできた。
「危ない!」
「後ろ!!」
アトラと杏が叫ぶ。
とっさに左右に分かれる蒼羽と灯里達。
ヴァポレットはそのまま、水路の壁に衝突して止まった。
衝撃で、ゴンドラが激しくゆれる。
蒼羽は必死にゴンドラにしがみ付いた。
悲鳴が聞こえる。
これは。
これはあの時と同じ。
あの子と。
同じ。
「アトラっ。杏っ。 大丈夫か!?」
ヴァボレットの影に隠れて二人の姿が見えない。
あのARIA・カンパニーのプリマの姿も見えない。
蒼羽の顔から血の気が失せる。
叫んでいた。
「アトラ。杏。返事をしろっ」
汗がしたたり落ちる。
おびえている?
私はおびえている?
「アトラ。杏っ」
叫ぶ。
声を痛める?
…………
…………
…………
関係あるかあ!
叫ぶ。絶叫する。
「アトラ。杏。返事をしろ!」
いやだ。いやだ。いやだ。
また失うのは、いやだ。
アトラも杏も、あのウンディーネも。
もう。
いやだっ。
「アトラっ」
「杏っ」
そして-
「灯里っ!」
「は、はひい…だ、大丈夫ですぅ」
間の抜けた返事が聞こえる。
「私達も大丈夫です」
アトラと杏が、ヴァボレットの影から顔を出す。
「ああ。びっくりしました」
最後に灯里が、のんびりと顔を出した。
この、この、この……
刹那。蒼羽の胸に、殺意に似た感情が芽生える。
が、そのまま蒼羽は、ゴンドラにへたり込んでしまった。
「はわわ。蒼羽さん大丈夫ですか?」
「蒼羽先輩」
「教官っ」
あたりは、救助の人や野次馬が集まって来て、一度に騒がしくなった。
「大変だったわね」
オレンジ・ぷらねっとに帰りつくと、そう言ってアレサ部長が迎えてくれた。
「あのヴァボレットは舵の故障だったみたい。一度ならず二度までも。ウチの会社はヴァボレットにうらまれてるのかしらね」
アレサは笑顔で言った。
「笑い事じゃないですよ……」
それに対する蒼羽の答えは、ひどく気だるげだった。
「今回は、ウチのウンディーネも含めて怪我人ゼロ。事故処理も早く終わって、何事もなし。
でも、こんな幸運は一度きりです」
「そうね。会社からもゴンドラ協会からも、ヴァボレットの運行会社には抗議しておくわ。不幸な事故は一度で十分よ」
「…………」
「それにしても……」
アレサは灯里達を見回しながら言った。
「ほんとに、誰にも怪我がなくてよかったわ。灯里ちゃんはともかく、アトラと杏は、よく気がついたわね」
「はい」
「私達。蒼羽教官に鍛えられてますから」
「あ?」
「『 常に後方確認 』」
二人の声がハモる。
「『 アッディエートゥロ 』」
「『 アーレア!! 』」
くそっ。
ああ…この二人。
知ってるんだな。
蒼羽は苦笑する。
アレサ部長の差し金か…なら、あのウンディーネも……
「あの、蒼羽さん」
「あ? なんだい?」
そのウンディーネが立っていた。
「あの……私の事、心配してくれて。
私の名前も呼んでくれて……嬉しかったです」
「いや、別に、それは……」
「ありがとう」
え?
「ありがとう」
灯里が、こぼれるような笑みを浮かべる。
不意に蒼羽は、思い出す。
「ありがとう」
それは彼女の最後の言葉。
彼女と重なる灯里の姿。
そうだ。
彼女は最後にこう言ったのだ
「ありがとう」と-
『 少しの間だったけど、プリマになれて、夢をかなえる事ができて、ありがとう 』
彼女は去り行くあの時、確かにそう言ったのだ。
あなたと出会えて。
プリマに、いえ、ウンディーネになれて……
『 幸せでした 』
ああ。
思い出す。
思い出す。
彼女の言葉。
彼女の最後の言葉。
『 ありがとう。 私、幸せでした 』
灯里の微笑み。
彼女の微笑み。
重なる、二人の微笑み。
ゆっくりと、硬い氷が溶けていくように。
静かな波間に、風が、ゆるやかな波紋を広げていくように。
蒼羽の心がほどけてゆく。
最後の時。
彼女の口が紡いだのは、後悔でも、怒りでも、もちろん呪詛の言葉でもなかった。
ただ、ありがとう -と。
ただ、幸せでした -と。
彼女は、そう言っていたのだ。
なぜ、私はそれを忘れていたのだろう。
突然-
蒼羽は自分が泣いている事に気がついた。
頬を、幾筋もの涙が零れ落ちてゆく。
-なぜ?
なぜ私は泣いている?
だが、その答えが出る前に、蒼羽は崩れ落ちた。
「蒼羽教官?」
「ど、どうしたんですか?」
ひざをついて、顔を覆いながら、嗚咽する蒼羽。
あわてて駆け寄るアトラと杏。
その様子を驚いて見ている灯里に、アレサが近づいて小さく言った。
「ありがとう」
「はひ?」
「あの子の心に、新しい風を吹き込んでくれて……」
「はひい?」
「あなたはホントに、たいした子だわ。ウチに引き抜きたいほどよ」
きょとんとする灯里。
その髪を、風が揺らしながら通りすぎてゆく。
「いい風ね」
アレサもまた、風にそよぐ自分の髪を押さえながら、そう言った。
****
それからしばらくたった、ある日の午後。
蒼羽は、サンマルコ広場でカフェ・フローリアンのカフェラテを、ひとり優雅に飲んでいた……ハズだった。
それなのに。
「なんで、アンタがここにいるんだ……」
「ほへ?」
せっかくのオフの日だとゆうのに、蒼羽はアレサの『部長命令』の一言によって、
ここで彼女を待っていたのだ。
だが、そこには先客として、灯里やアリス。杏やアトラ、それとなぜか、カフェ・フローリアンの店長までもが同席し、楽しそうに談笑していた。
「私はここで、ひとりでお茶していたいんだ。それがなんでこんな……」
「そうそう。蒼羽さん。お噂、聞きましたよ」
「人の話聞けよ! …って、噂ってなんだ」
「はひ。今や、オレンジ・ぷらねっとの蒼羽さんは、水先案内人業界NO-1の指導教官だって」
ぐうぇぇ。と、蒼羽は変な声を出して、むせ返った。
「は、はあ? 誰だ、そんなこと言ってるヤツは?」
「えっ? でも、このお話、もうみんな知ってますよ?
姫屋の晃さんか、オレンジ・ぷらねっとの蒼羽さんかって」
「おいおい。姫屋の晃さんと比べられてもなぁ。
まあ、光栄な話だけど。
私はゴンドラ・クルーズはやらないしなぁ……」
「蒼羽教官。ホントにもう、ゴンドラ・クルーズは、なさらないんですか?」
横で話を聞いていたアリスが訊ねる。
「教官なら、トップ・プリマになる事だって、でっかい夢じゃないのに……」
「ありがとう、オレンジ・プリンセス」
蒼羽は心からの笑顔を見せた。
トップ・プリマ?
「私はそんなものに興味はない。どれだけのプリマを育てられるか。
どれだけ素敵なウンディーネ達に出会えるか?
今の私には、その興味しかない」
「いい台詞(セリフ)ね」
アレサがひとりの女性を伴って歩いてきた。
「部長。遅いっス」
その顔を、ろくに見もせずに、蒼羽は文句を言った。
「ごめんなさい。ちょっと打ち合わせが押しちゃって」
「へえへえ。で、こんな所に私なんかを呼び出して、何の御用ですか?」
「こないだ話をしていた合同クルーズの件。こちらの観光会社の方がのってくれてね。
そこで今度、ウチからプリマ一人と、シングル二人を出して、ARIA・カンパニーとの合同ツアーを企画したの」
「え。それじゃあ、蒼羽さんやアトラさん、杏さんと、一緒に漕げるんですか?」
灯里の顔が輝く。
ホントに甘ちゃんだなぁ……
蒼羽はタメ息をついた。
「部長。私はゴンドラ・クルーズはしませんよ。アリスに言ってください。それに……」
蒼羽は、アトラと杏の方を見た。
「あの二人はダメです」
「そ、そんな。蒼羽さん。アトラさんも杏さんも、もう立派なウンディーネです」
「そうです。先輩お二人の技量は、この前の事故の時でも、でっかい証明できたじゃないですか!?」
灯里とアリスが、口をそろえて言う。
「あ、あ。ありがとう。灯里ちゃん、アリスちゃん。でも、大丈夫よ」
「う、うん。私達なら大丈夫。もっと何度でもチャレンジしてみせるから」
アトラと杏も、負けじと言う。
-ふふふ。
つい、笑みがこぼれる。
おかしい。おかしい。
こいつは傑作だ。
あははは。
とうとう、こらえきれなくなって、蒼羽は声をあげて笑い出した。
みんなが、きょとんとした顔で、こちらを見ている。
ーああ。なんて甘いんだ!?
「みんな何を言ってる?」
蒼羽は笑いすぎて流れてきた涙を指でぬぐいながら言った。
「私が、この二人がダメだと言ったのは、アトラも杏も、もう『シングル』じゃ、なくなるからだ」
「ほへ……」
「蒼羽先輩…それって、でっかい、もしかして……」
「ああ。その通り。おい。アトラ。杏」
「『 は、はい 』」
「今度のオフの日。一日空けておけ。いいな。で、アトラっ」
「は、はい!」
「前の昇級試験から日にちは経っているが、それは言い訳にはさせんからな……杏っ」
「はい」
「次こそは受かってもらうぞ。私にこれ以上、手間をとらせるな。
んで……アリスっ。灯里ちゃん」
「は、はひ!」
「ひ……」
「すまないが二人は、こいつらに協力してやってくれ。私が目の届かないところを、よろしく頼む。
こいつらも、いろいろ聞きたいこともあるだろうしな」
「は、はひっっ」
「で、でっかい了解です」
「もちろん。何事も安全第一」
蒼羽は、ウィンクと共に言った。
「アッディエートゥロ・アーレアだ」
わあ!-と
灯里とアリスが、アトラと杏に抱きつかんばかりに迫ってゆく。
四人とも、とびきり輝いている。
アトラと杏が、まるでもう、プリマになったような騒ぎ方だ。
そんな、はしゃぐウンディーネ達を見ながら、蒼羽はふと思った。
もし、この場に彼女がいたら、どう思うだろう。
この子達の事を、どう思ってくれるだろう。
蒼羽にはしかし、確信があった。
きっと……
彼女なら、祝ってくれる。
笑顔を見せてくれる。
きっと……
「きっと。一緒に喜んでくれるんだろうな……」
「はい。もちろんです」
ー ざああああああああっ。
サンマルコ広場に、風が舞い踊る。
つられたように、広場の白い鳩達がいっせいに飛び立った。
「そんな、まさか……」
蒼羽の目が、アレサが連れてきた女性にそそがれる。
「お前……」
「はい。お久しぶりです。蒼羽さん」
彼女は泣きながら、にっこりと微笑み、蒼羽を見返した。
その日。
サンマルコ広場にいた人々は、異様な光景を見ることになる。
ひとりのウンディーネが。
それも、オレンジ・ぷらねっとのプリマ・ウンディーネが、ひとりの女性を抱きしめながら、大声で泣いているのだ。
「彼女、ウンディーネを辞めたあと、マン・ホームの旅行会社に就職してね。
ゴンドラ・クルーズのツアーコンダクターになったの。
少しでも、ゴンドラにかかわる仕事をしたいってね。
そしてこれが、彼女の初めての企画。
これから彼女は、こういう形で、ウチと関わっていくわ……お帰りなさい」
アレサが誰に言うともなく、ひとりごちた。
再び。
サンマルコ広場にいた人々は、異様な光景を見ることになる。
ひとりの女性を中心に、何人ものウンディーネが固まって歓声を上げているのだ。
真ん中の二人は抱き合いながら大泣きし、まわりのウンディーネ達は笑顔で歓声を上げている。
なかでも青い制服のウンディーネは「素適ング」だの「奇跡」だのと恥ずかしい台詞を叫んでいる。
そしてその足元では白くて太い火星猫が、斑な子猫に腹を噛まれて悶絶している。
異様な光景。
喧騒と奇声。
だがそれは、道行く人々に、なぜか暖かいものを感じさせる。
そんな不思議な光景だった。
大鐘楼の鐘が、何かを祝福するかのように、やさしげな音をたてて鳴り響いた。
穏やかな日差しがふりそそぎ、暖かな風が人々の心を揺らしていく、そんな春の日の出来事だった。
「 addietro alea(後方危険)」- La fine
後書きのような何かー
- addietro alea
本編タイトル。「後方危険」 こんな言い方をするかどうかは……お察しください(鹿馬)
- 蒼羽・R・モチヅキ
本編主人公。オリキャラ。アテナの同期という設定。
本編でアリスが語っているように、もうちょっと頑張ればトッププリマになることができた…ハズの人(汗)
ちなみにいわゆる「通り名」は未設定。お察しください(大鹿馬)
- アトラ・モンテウェルディ&夢野 杏
オレンジ・ぷらねっとのシングル。 姫屋のあゆみと一緒に、灯里ちゃんとトラゲットをした仲。
本来の主人公(汗)
ドラマCDにおいて、後にふたりともプリマに昇格した事が語られていました。
- アレサ・カニンガム
オレンジ・ぷらねっとの人事部長。「月刊・ウンディーネ vol-14」及び小説版 ARIA「四季の風の贈り物・AUTUMN -風車の贈り物(by浦畑 達彦)- に登場。
カニンガム ーと聞くとどうしても某英国海軍提督を思い浮かべてしまい、きっとこの人も強いんだろうなぁ~と愚考してしまいます。
- アテナ・グローリィ&アリス・キャロル
ふたりとも俺のヨ……なんでもない(オヒッ)
- ヴァポレット
いわゆる水上バス。今回の敵役(コラッ)
- 彼女
基本的に設定はなにもなし!(マテッ)
実は本作前の彼女と蒼羽のお話しもあるのですが…いずれUPできればいいなぁ~
本作も最後までの御照覧、ありがとうございました。
次回は番外編(!)をUPさせていただく予定です。お察しください(弩阿呆)
また御贔屓にしていただければ、これに勝る幸せはありません。よろしくお願いします。
それではいずれ、春永にー