凶狼に救いを授けるのは間違っているだろうか 作:ナイジェッル
大草原の一族の誇りは、ベートの誇りだった。神に頼らず、他者を頼らず、己が力でのみ生きていくその有り様が好ましく思えてならなかった。きっとこの誇りは未来永劫、続くだろうと。この牙は己が死ぬまでに研ぎ澄まされていくだろうと。幼いベートは、疑ってすらいなかった。
しかし、そんな甘い現実は、すぐに崩れ去った。
あれは―――赤い、満月の夜。人狼が最高のポテンシャルを発揮できる、絶好の条件下で起きた。
「ふ、ムムムムムム!!」
「気張れレーネ! 今夜こそお前は変化できる!」
その夜、ベートはレーネの特訓に付き合っていた。
種族、
レーネはとにかくひ弱だった。本来持つはずの特性すら満足に引き出せずにいた。ベートは俺が護るって言ってんだから別に強くなろうとしなくてもいいじゃねぇかと諭そうとしたが、護られてばかりは嫌だとレーネの強い意思があった。
その意気にベートも折れ、というか惚れ直した。その容姿端麗な肢体に、美しい金髪。それこそ貴族豪族の娘と言われても納得するだろうし疑われもしないだろう少女が、今こうして自分の生まれながらの脆弱な肉体に鞭を打って鍛えようとしている。その根性をベートは好いた。だからこそ、彼女の期待に一切の妥協無く応えようとしている。
「もっと力を入れろ馬鹿! 血という血を全身に駆け巡らせるんだよ!」
「ぬぐぐぐぐぐ!!」
「おお!?」
「え!? なにか変わった!?」
「いや全然」
「ええええええええ!?」
期待させといて落とす。変化があると思って一瞬だけ喜んだレーネはちょっと涙目で面白いリアクションを取った。これはこれで面白いとベートは大笑いである。
「からかわないでよ!」
いたって真面目なレーネは顔を真っ赤にし、頬を膨らませる。
「しかし一体なにが原因なのかサッパリ分からんのが問題だなァこいつは」
「私としてはどうやって皆がそんなに簡単に変身できるのか知りたい」
「どうもなにも、こう、力を入れてだな」
「ベートの説明はアバウトすぎて分からないよ……」
「仕方ねぇだろ、今までそこまで深く考えたことなかったんだからよ」
そう、獣人化はベートたちの種族が生まれながらに持ち得る力である。例えるならば手足と同じだ。整った条件下でその機能を使おうと脳が
「まぁ、そう焦るこたねェだろうが。地道にいきゃあ、いつかモノになる」
「え…ベートが気遣ってる。今日なにか縁起でもないこと起きそう」
「どういう意味だそりゃあ……」
「自分のこれまでの言動を思い返してみて」
この少女は自分をなんだと思っているのか。仲間に対してそりゃ横暴な時もあったが、こんな自分でも気遣いの一つや二つ……いや、してなかったかもしれない。
ベートは己の粗暴を思い返して、我ながら不器用だと愕然とした。将来長になるものとして、多少は改めなければならないとすら。
「……ふん。ともかくだ」
「あ、誤魔化した」
「突っ込むな。スルーしてくれこういう時は」
このベート・ローガに物怖じせずに突っかかる同世代は恐らくレーネだけだろう。こんな乱暴な男に恐怖しないのだから、それは幼馴染ゆえに慣れているのか、怖いもの知らずなだけか。いや恐らく、この少女は純粋に仲間に対して「怖い」と思ったことはないのだろう。そういう、優しい娘なのはベートも重々承知している。
「あそこにある草がなにか分かるか?」
せっかくだ。彼女の獣人化の手助けになれなかったから、せめてもう少しだけ、力になることをしよう。
「え? どれのこと? この草原の草はぜんぶ同じに見えるけど……」
「ちげぇよ。よく見ろ、この草の葉っぱは形が違うだろ? 他の葉は丸みを帯びてて艶がある。だが、これにはねぇ。これだけは違う品種だ」
「へー……なにか特別なの? この草」
「薬草だ。この治癒の霊薬の元になる葉を傷に当てると、多少なりとも痛みは引く。これ単体ではそれほどの効力は得られねぇが、数と他の材料を合わせばポーションだって作れらぁ……ま、流石にそこらの高級なモンには劣るがな」
それでも回復薬には変わりはない。特に現地調達して作れるものほど、戦場では重宝する。大金を出さなければ手に入らない高級品の代物よりか、すぐに手に入れることのできる代物の方がずっと役に立つ。
「ベートって見かけによらず物知りだね」
「うっせェ。これも生きていく上では必要な知識だ」
馬鹿はどいつもこいつも力ばかり求める。無論、それに関しては否定はしない。ベート・ローガもその部類だからだ。しかし、それゆえに視野を狭めては、可能性をも狭めてしまう。だからこそ自覚が必要だ。自分にとって何が必要で、何が不要なのか。それを見極めるための見識の在り処を。
「いいかレーネ。知っているのと、知らないのとでは、大きな違いが出てきやがる。こういった薬草の知識を知っていれば、わざわざ街まで出向いて安いポーションなんぞ買わなくて済む。金も当然浮く。それは別の資源に使うことができる。例えば自分の武器とかにだ」
無知は馬鹿を見る。効率的な方法を知っていれば、それは自分の利益として還元される。
「情報屋の真偽の見分け方もそうだ。一部の詐欺野郎は俺達が野蛮な蛮族と思い込んで、あれやこれやと嘘八百を並べ連ねる。まるであたかも「正しい知識から得た正しい情報」と錯覚させる技術をもってな。だが、その根拠となる知識を予め俺達も持っていれば、それが虚言だとすぐに分かる。騙されたらどれだけの被害を被るか分かったもんじゃねぇ。逆にその情報が正しけりゃあ大損だ。その情報を信じておけば良かったっていうくだらねぇ後悔が出る」
時に情報とは自分達の命をも左右する重大な命綱となる。それを軽んじているようでは、他所から蛮族呼ばわりされても仕方が無い。だがベートたち大草原の一族は神々の恩恵をその身に宿さない純正の生き物だ。その分、冒険者という者達と違ってアドバンテージが無いに等しい。それを埋める為にも、得られるものは全て得なければならない。
「この世は弱肉強食だ。利用できるもんは、何でも利用する。使えるものは何でも使う。それが例え環境だろうが知識だろうが、な」
「うん……」
「今回は、俺はお前の力になれなかった。獣人化の課題は、また今度だ。だが、ただ何にも得られずに終わる一日よりも、こうした知識を得て終わる一日の方が価値はある。そうは思わねェか?」
ベートはレーネの頭をくしゃくしゃ揉んでニヤッと笑った。
それに彼女はこくりと頷いた。
「ありがとう、ベート」
それが、最後の手助けだった。
それが、最後の少女の笑顔だった。
それが―――唯一、ベートが彼女にできた、贈り物だったのかもしれない。
その夜、二人は分かれ、各々の陣地に戻り、眠りについた。
また明日、続きをしようと約束を取り付けて。
また明日、新しい知識を教えてくれとせがまれて。
それが永遠に来ないと知らずに、当たり前のように、いつものように。
次にベートが目が覚めたのは、まさしく地獄だった。
山のような巨体を持つ魔物が突如として自分達の村を襲った。目的があって現れたのではない。アレは「ここを通るから通っている」だけにしか見えなかった。自分達を敵とすら見ずに、まるでアリを潰すように、その圧倒的な力をもって、全てを踏み潰していった。
皆が退避する暇などなかった。時間を稼ぐこともままならなかった。
歴戦の戦士達が、己が尊敬して止まなかった一族の大人達が、まるで紙切れのように飛ばされ、潰され、擦り削られていくサマを見た。
ああ、これが、地獄なのだと。
力なきものが辿り着く終わりなのだと、嫌でも悟ることができた。
それでもベートは、せめて一太刀でも浴びせてみせると。弱者以前の腰抜けのままでは終わりたくないと、そんな下らない意地をもって怪物に挑んだ。当然、相手にもされず吹き飛ばされ、壁に激突してジャムのように砕け散る……そんな運命を辿るかに思えたが、運よく飛ばされた方角が洞窟に繋がる入り口だったのだ。
「ぐ……あァ……」
転げに転げ、洞窟の奥底まで落下するように落ちたベート。
戻らなければ。戻らなければ! 戻らなければッ!!!
必死に意識の手綱を握り締めた。これを手放せば、一生後悔すると分かっていた。
それでも、すでにベートは死に体だった。とても動ける体でもなければ、意識を保てるほどの余裕などありはしなかった。
洞窟の入り口の向こうから聞こえる絶叫。女子供の悲鳴。そして数秒後には大きな地響きと共に掻き消える騒音。今あの向こうで何が起きているかなど、火を見るより明らかだった。
「レー……ネ………!」
愛する者の名前を口にしたのを最後に、ベートの意識はそこで途切れた。
途切れて、しまった―――…………。
……………
…………
………
……
…
この後、ベートは意識を取り戻した。何秒、何分、何時間、何日?
どれだけの時間を気を失っていたのか分からない。分からないが、傷の痛みがある程度引いていたのを見るに、おおよそ長く意識を飛ばしていたことが分かる。
まだ巧く働かない頭を叩き起こし、すぐに体に喝を入れた。見るに耐えない情けない己が脚を見ていると切り落としたくなるほどの怒りを抱いて、洞窟の入り口まで歩を進めた。
「みんな……みん………な……」
振り絞って出た言葉も風に攫われ消え行く刹那。
全てが終わった残骸だけが、そこにあった。
踏みつけられ、磨り潰され、抉られ、バラされ。
つい先日まで話しかけていた知己も、見知った顔も、全員絶望の表情のまま死に絶えていた。
死臭も絶えず、鼻が常人よりも倍も良いとされる獣人の嗅覚はこの時ばかりは毒となった。
「―――レ―…ネ」
これで何度目か分からない少女の名前を口にするベート。その声色は、生存に縋るものではなかった。全て諦めた男の声色だった。
それもそうだろう。だって、レーネ
彼女は、下半身を潰された状態で見つかった。
言葉など発せられるわけもなく。体が動くわけもなく。あれだけ美しかった髪も土と共に薄汚れ、あれだけ整っていた綺麗な体は、ドロと血の交じり合った化粧が覆いかぶさっている。
彼女だけではない。見渡せば、見渡すほど、その現実が浮き彫りとなる。
親父も、おふくろも、妹も、仲間も。
その最期の瞬間すら、見届けることもできずに、
獣人としての力を最大限に発揮できたはずの満月の夜に、
ただ、ただ―――弱肉強食の掟に従い、圧倒的な力の前に、怪物を前に、全てが脆く無残に砕け散っていた。
絶叫する少年のベート・ローガ。
一生分の涙をここで出し尽くし、枯らし、眼球を抉り取らんばかりの、号泣。
血の海と化した草原の一角で、一匹の狼は精神崩壊の一歩手前まで追い詰められた。
またそれを眺めていた男が、一人、そこにいた。
「ちッ。これだから昔の夢ってのは好きになれねぇ」
その男も、ベート・ローガ。
過ぎた過去を俯瞰した目で見下ろしていた、この夢の主。
そう、これは既に終わった記録にすぎない。それを繰り返し夢の中で追体験しているにすぎない。それが夢であり、この世界だ。
「泣き喚きやがって、クソが。泣いたところでなんになる? そんなことをしたところでレーネは帰って来ねぇだろうがよ」
かつての自分に苛立ちの視線を向けるベート。元より、他者よりも自分に厳しいこの男にとって、子供だろうがなんだろうが自分の無様が許せなかった。
「………レーネよ。俺はそろそろ戻るぜ」
物言わぬ死体となった少女にベートは踵を返した。
全ては忘れてしまいたいほどの眩しい記憶。そして、憎むべき記録。
惚れた女を護れず、力にもなれず。
次の日が命日になるかもしれないという思考すら欠落していた愚かな少年の懺悔。
だが、これもまたベートの贖罪でもある。
忘れたくても、忘れてはならない。
これが『現実』で、また起こり得る『悪夢』なのだと。
生温い理想の果ての結末がこれなのだと、何度も、何度も、刻みつけなければならないのだから。
………
……
…
「………最悪の、目覚めだな」
夢から覚めたベートはすこぶる機嫌が悪かった。当然だ、あんな夢を繰り返し見てて機嫌が良くなるわけがない。どれだけ図太い精神を持っていたとしても、多少なりともひっかかりはする。
ドタドタドタ!
扉の向こうから聞こえる五月蝿い足音。
もはや嫌でもわかる。
これから何が起きて、何をするべきなのかを。
「ベート・ローガ! おはよォォォォォォォ!!」
「ふんぬ!」
扉が勢いよく開かれ、馬鹿正直に突貫してくるアマゾネス。そしてベートは彼女の胸倉を摑み、そのまま突進してきた力を利用して外に繋がる窓目掛けて放り投げた。
「あぎゃあああああああああ!?」
硝子の窓をぶち破り、二階の宿から真っ逆さまに堕ちていく女の最後を見届けたベートは何事もなかったように身体を伸ばした。この慌しい朝の目覚まし時計ももはや定番と化していた。怒る気力もなく、それこそ体力の無駄な消費でしかないとベートも理解している。
「飯でも喰いにいくか」
まずは腹ごしらえだ。あの馬鹿の面倒はその後でいい。
■
「ひどい! 最近のベート・ローガは私の顔すら見ずに放り投げてる!」
「見る必要もねェからだ馬鹿。というかまず突っ込んでくるんじゃねェ」
この会話もお決まりと化していた。
レナがふざけたことを真顔で言って、それをベートが面倒くさそうにあしらう。
冒険者達が集う集会所の名物と言えるまでになってしまった。
「ひゅー!今日もオアツイねぇ!」
「夫婦喧嘩は他所でやってくれよぉ!」
「黙れアホ共! オメェらがコイツの面倒見るかアァン!?」
「「それは断る」」
周囲の冒険者の冷やかしが少しずつ洗練されていってる気がするのは気のせいではないだろう。【
「あー、クソッ。さっさと腹満たしていくぞ、バカゾネス」
「はーい!」
この天真爛漫なレナにも振り回されている気がする。自分が手綱を握っていなければならないと分かっていても、彼女の天然具合は軽くベートの想像を超えていく。おまけにあれだけ一切合財容赦の無い大草原仕込みの対人訓練に喰らいついてくるガッツもある。
認めざるを得ない。確かにこの女はうまく行けば大成する器であると。本当にベート・ローガの指導次第では石ころにもなればダイヤモンドにもなってしまう。そんな冒険者だ。
「(そろそろ、知識面も伸ばしていく頃合いか)」
基礎はできている。根性もある。伸び代に関してはあのベル・クラネルに匹敵するものを有している。対人の技術もスポンジのようによく吸収する。後は、知識面だ。育ってきた環境からして英才教育など受けているはずもなく、恐らくそちらの方面はそこまで得意でもないはずだ。
ベートはふと思い出す。
かつて幼い頃のレーネに教えたかった知識の数々を。本当に教えたかった、生き残る為の知恵を。ベートは二度目のチャンスを与えられたのかもしれない。今度こそ、大切な存在に最後まで必要なことを、伝えたいことを伝える為の、チャンスを。
そんな感慨と共に、ベートは樹海のエリアまでレナを連れて行った。自分が持ち得る生き残る為の知識と、戦う為の知恵を携えて。
「まず最初に言っておく。今日は肉体的な訓練はしない」
「じゃあ今日はデート休憩!?」
「なんでそうなる。テメェの頭ンなかは万年ピンク色か」
本当にこのアマゾネスの少女は自分がこれから伝えることをちゃんと理解して覚えるのだろうか。一抹の不安がベートを襲う。なにせあまりにも馬鹿っぽい。
「知識だ」
「え?」
「これから生き残る為の知識を教える。周囲の環境で利用できるモンや、その特性や効力。何と何を掛け合わせれば効果が飛躍的に上がるのか。応急処置に使える素材はどれか。止血に使える自然の産物だってそこらに転がってる。それを今日、テメェの空っぽの脳内に叩き込む」
レナはぽかーんと目を点にしている。ああ、その反応は許そう。自分でもガラでもないことを言ってるのは重々理解している。本来であれば性分でもないことだ。こういったことはそれこそあのリヴェリアの方が適任だろう。
それでも、前線を任されているが故に「戦場の真っ只中では本当に何が必要か」を把握していることに関しては譲れないものがあるのだ。
「いいか、バカゾネス。あれを見ろ」
木々が生い茂る場所でベートは腰を下ろし、そこに生えている草を指差した。
「あれって?」
「アレは薬草だ」
「じゃあ、あれも?」
「違う。アレはただの雑草だ。煮ても焼いても使い道はねェ」
「でも形は同じだよ?」
嗚呼、この受け答え。かつての少女を思い出す。
レーネも同じようなことを口にした。「どれも同じに見える」と。
「一見同じに視えるがな。よく見ろ、この葉で見わけるんだ。後は―――」
この時、ベート本人は気づいていなかった。レナに対して薬草や霊薬の話をしている際に、その目には今まで見せたことのないほど暖かさを篭らせていたことに。
その瞳は、童心に返っているようだった。まるで、止まっていた時の一つが動き出したような感じがした。少なくとも、ベートの変化にレナはそう感じた。きっとこの知識を享受する行為、この知恵の修行はこれまでのものとは違う意味合いがあるのだと。ベートにとって特別なものなのだと。
レナはベートの過去に何があったかなど知る由もない。それでもレナは感づいた。女の勘というべきか、好きな異性に対する洞察力か。きっと今のベートをおちょくったり、無神経な言葉を投げかけたりするべきではないと理解した。
本当であれば、レナは言及したかったのだ。その瞳の奥にある暖かさの意味を。その変化の心境を知りたかった。だが、それは無粋であり、立ち入るべきテリトリーではない。
レナは聞いた。そして頭に叩き込んだ。
彼が今伝えている知識。
彼が今教えている知恵。
きっとこの修行は、忘れてはいけない、ベートにとって特別な時間なのだと胸に刻みながら。