かつての私には『第一航空艦隊の旗艦』という人々の期待と希望が詰まっていた。
しかし、今の私には何が詰まっているのだろう。
かつてのように艦載機を飛ばせる訳でも無く、航行するだけで無駄に資材を消費する。
もう1度陽の光を浴びた瞬間には『今度こそ必ず人々の期待に応えよう』と強く願った。
しかし私の願いは遂げられそうにない。
こんな私を見た──さんは何を思うのだろう?
彼女だけじゃない、かつて私を信じて海に沈むその時まで頑張ってくれた後輩達は何を感じるのだろう。
傍らに置いてあった弓を手に取ると、ゆっくりと息を吸いながら構える。
中仕掛けに指を駆けると、息を止めて大きく引き絞る。
目を閉じて遥か遠くに存在する的をイメージした。
指を離せば部屋の中には弦の乾いた音と、涙が床に零れる音だけが響いた。
「まずは呼吸を整えろ、居ない居ないと騒がれても俺にはどうしようもない」
俺はそう言って泣きじゃくる夕立の頭に手を乗せる。少女は俺の指示に従おうと必死で呼吸を整えようとしているが、嗚咽混じりでなかなか落ち着く様子が無い。
「晩御飯の時に居なかったから……、時雨の分を部屋に持って帰ったの……。 でも、気づいたら寝ちゃってたっぽくて……」
「夕食の時には時雨は食堂に居なかったのか」
先日の事を思い返してみるが、確か叢雲と一緒に基地の外周を走りに行ったはずだ。その後叢雲と出会い、「時雨はもう少し走る」という言葉は聞いている。迷子になったとは考えづらいし、交通量を考えれば事故という可能性も低いと思う。
「起きたらこの時間で、ご飯もそのままっぽくて……」
「分かった。 もう時間も遅いし、俺が探してくるから夕立は部屋に戻ってろ」
少し落ち着いてきた夕立の頭を撫でてやると「私も探す」と言い出したが、何か事件の可能性がある以上はこんな時間に少女を出歩かせる訳にはいかないだろう。それでも納得しない夕立に食堂や入渠施設のような基地内の施設だけ見てもらうように頼んだ。
「それじゃあ行ってくる。 無線機は持っていくから、もし時雨が帰ってきたら机の上の機械から連絡をくれ」
部屋を飛び出して艤装を保管している倉庫へと向かったが、せめて懐中電灯くらいは用意するべきだったと後悔してしまう。日中の晴天が嘘だったのかと思える程空には雲が漂っており、完全に月が隠されて辺りは深い闇に包まれていた。
(艤装は持ち出していないようだな……)
暗い建物の中で艤装に顔を近づけながら『時雨』とかかれた金属板を見つけた。ここに艤装がある以上は海には出ていないと安堵する。仮に無断で海に出ているようであれば、俺に探す手段は無くなってしまう所だった。
次に俺は桟橋へと走った、そこで桟橋に腰かけている人影を見つけてゆっくりと近づいていく。
「……時雨か?」
人影まで後数メートルという所で人影に声をかけてみる。人影は海を眺めたまま「違うよ」と返事を返してきた。雲の隙間から僅かに月明かりが漏れてきた事で、橙色の制服に身を包んだ少女の姿が確認できた。
「こんな夜中に何をしている?」
「……ただの散歩。 なんでか分かんないけど、夜になるとこうして海を見たくなるんだよねぇ」
「時雨を見なかったか?」
恐らくは艦娘なのだろうが、理由も無く夜中に出歩いている以上指導しておくべきだとは思ったが、今は時雨を探すことを優先した方が良いだろう。
「見てないなぁ、こんな夜中に出歩くなんてこの基地じゃ私くらいじゃないかな」
「そうか、俺はもう少し他の場所を探してくるが、お前もさっさと部屋に戻れよ」
俺はそう言って少女に背を向けるが、急に地面を照らされて再び少女に振り向く。
「これ、持っていきなよ。 探照灯って言いたい所だけど、普通の懐中電灯だよ」
少女は俺に灯りがついたままの懐中電灯を投げ渡してくる。それを受け取ると礼を告げて今度は正門を目指して走る。基地内の施設は夕立が探しているだろうし、俺は基地の周辺を探してみようと思った。
(流石に静かだな……)
俺が来た時から人気が無く静かではあったのだが、闇の中自分の足音だけが聞こえてくるというのは不気味に感じる。視界は懐中電灯で照らされた部分しか確認できず、野生動物でも出てきたらどうしようかと心配になってきた。
(なんだか昔やった訓練を思い出すな……)
俺が訓練兵だった頃に、隊長から天候の悪い夜間で山から下山してこいって訳の分からない訓練を押し付けられた事を思い出す。正直生きた心地がしなかった、雨で無条件で体力は奪われていくし、寒さや疲労に負けて身体を休めてしまうとそのまま動けなくなるとさんざん脅された。
(あの時はまじで遭難するかと思ったな)
そんな苦い記憶を思い返していると、頬に水滴が落ちてきたのを感じる。嫌な事を思い出したせいか、本当に雨まで降りだしてしまった。1度傘を取りに帰ろうかと思ったが、気づけば基地の半分近くまで歩いていたらしくどうやっても濡れてしまう以上は最後まで歩き切った方が良いだろう。
初めは小雨だったので気にならなかったが、徐々に雨脚が強くなってきたので古びたバス停で少し休憩を挟むことにする。時雨は一体何処に行ってしまったのだろうか、雨にトラウマがあるせいか、雨の音はどうしても考えをネガティブな方向へと誘導してしまう。
(交通事故は無い、そうであれば俺に連絡が来てもおかしくない。 そうなると技術の流出を狙うために誘拐……? 彼女達の容姿を考えれば変質者の可能性も……)
そんな事を考えていると俺の来た方向から雨音に混ざって足音が聞こえてくる。こんな時間に徘徊とは、本当に不審者でも出たのだろうかと咄嗟に身構える。警察では無いが、基地周辺を守るという名目で職務質問くらいならやっても大丈夫なのだろうかと、頭の中では無駄な事を考えてしまう。
「あ、あれ……。 湊教官……?」
懐中電灯で照らした先には今まで探していた時雨の姿があった。「今まで何をしていた」と怒鳴りたくなったが、無事を確認するために少女の状態を確認すると嫌な予感がしてきた。顔は赤く、息も荒い、靴もボロボロになっており、膝や肘には擦り傷が確認できる。
「大丈夫か!?」
俺は時雨に駆け寄ると、立ち止まった事により崩れ落ちそうになった少女を支える。
「何があった……?」
「何でもないよ、少し走っていただけだから……」
コイツは今までずっと走っていたとでも言うのだろうか。とりあえずこのまま時雨を雨に晒す訳にもいかず、バス停のベンチに座らせる。先ほどよりも雨は強くなっているのか、トタン屋根が耳障りなほど騒音を立てていた。
「もう1度聞くぞ、何があった?」
「……どうしたの湊教官、なんだか怒ってるみたいだけど」
正直に言えば怒鳴りつけてやりたいと思っている、しかしそうするかどうかは先に事情を聞く必要がある。
「質問を変える、どうしてそんな無茶をした」
「僕も暁達に負けないように頑張ろうって思っただけさ……」
そんな気持ちだけで12時間以上も走り続けるなんて馬鹿な事をするはずがない。時雨の額に手を当ててみると、長時間走った疲労と雨によって身体が冷やされたせいかやや熱っぽく感じる。
「話したくないのなら話さなくても良い、頼りない教官で悪かったな」
「その言い方はずるいよ。 湊教官はとても頼りになるよ」
そう言って時雨は俺の肩に頭を乗せてきた。本当は濡れた服を脱がせて乾かした方が良いのだが、女の子にそうするように指示を出すのは流石に気まずい。俺は少しの間だけ離れるように伝えると、上着を脱いで少女にかけてやる事にした。
「次の作戦、失敗すると湊教官は居なくなってしまうのかな……?」
「ふむ、握り飯を持ってきてくれたのは時雨だったのか」
どうやら俺と爺の会話を聞かれてしまっていたらしい。余計なプレッシャーをかける訳にはいかないと、もう少し黙っているつもりだったのだがこれ以上黙っている必要も無いだろう。
「そうかもな、どうやら俺はお前達を上手く使えるか試されてるみたいだしな」
「湊教官は元居た場所に帰りたいの?」
時雨の言葉に少しだけ考えてしまう。向こうの基地には部下を置いてきている、アイツ等を一人前にしてやると約束した以上は放っておく訳にもいかないだろう。
「正直に言えば置いて来た部下が心配だな」
「そっか……」
俺と時雨の間にしばらく無言が続く。駆逐艦の中でも大人びているイメージが強かったが、こうして俺の肩に頭を置いて悲しそうな表情を浮かべているのを見ると、俺の思い込みだったらしい。
「湊教官は幸運ってなんだと思う?」
「なかなか難しい質問だな、文字通り運が良いとか幸せだって事じゃないかな」
「僕はね、『佐世保の時雨』って呼ばれて、呉の雪風と並ぶ幸運艦だってみんなに言われていたんだ」
現在ではそのようなあだ名は聞いたことも無く、恐らくは彼女の艦の記憶だろうと思った。
「どんなに厳しい戦いでも僕だけは生きて帰った、だから幸運だって……。 僕からしたら何が幸運なのかまったく理解できなかったんだ」
時雨の『僕だけは』という言葉に引っかかりを感じた。つまりは全員が無事に帰って来られた訳じゃないのだろう。
「何度も仲間が沈んでいくのを見届けたんだ、それの何処が幸運なんだろうね」
「幸運も考え方次第って事か……」
少女にとっての幸運は不幸と紙一重なのかもしれない、自分が沈むまでは何度も仲間の死に立ち合い、辛く悲しい思いをし続けなければならないと。
「僕が大切だと思った人はみんな僕を置いて行ってしまうんだ……」
どんな言葉を少女にかけてやれば良いのだろうか、見た目こそ俺よりも年下だが艦の記憶があるのであれば俺の何倍も年上になるし、超えてきた戦場の数などは俺とは比べ物にならないのだろう。
「……湊教官はどうしたらここに残りたいって思ってくれる?」
「さぁな、別にここが嫌で帰りたいって訳じゃ無いから難しい所だな」
時雨は俺の胸に抱き着いてくると、まるで子供が駄々をこねるかのように額をこすりつけてきた、その姿を見て俺は少女の頭を優しく撫でる事しかできなかった。俺の推測でしか無いのだが、時雨の中にある『置いて行かれる』という艦の記憶が彼女自身に大きく影響してしまったのだろう。
今はただ少女が泣き止むまで待ってやる事にした。ここで俺が軽々しい慰めの言葉をかけた所で、彼女の抱えている傷を癒すことなんてできるはずが無いと思った。
(普通の少女とは違う、艦娘と呼ばれる少女達にしか理解できない悩み。 この先も付き合っていくのであればもう少し注意して見守る必要がありそうだな……)
どれくらい時間が経っただろうか、時雨は俺にしがみついたまま泣き疲れて眠ってしまったようで、規則正しく呼吸を繰り返している。俺は空を見上げると、徐々に明るくなってきており雨も気にならない程度まで弱まっていた。
(……そろそろ帰るか)
俺は時雨を起こさないように細心の注意を払いながら少女を背負う。こんなに小さくて軽い身体なのに、欠陥兵器だと呼ばれ、過去の記憶に苦しめられている。そんな現状を俺は変えてやりたいと強く思った。
「僕、眠ってしまっていたのかな……?」
「悪い、起こしちゃったか」
少し歩いた所で、後ろから時雨の声が聞こえてきた。どうやら起こしてしまったようだが、疲れているのならそのまま寝ていても良いと伝える。
「湊教官の背中、暖かいね」
「野郎の背中なんて暑苦しいだけだろ」
時雨はペタペタと背中の感触を確かめるようにあちこちを触ってくる。くすぐったいのだが、今は好きにさせてやろう。
「時雨に良い言葉を教えて置いてやる、今は確かに辛い事ばかりかもしれないがそんな日々もいつかは終わる日がくる。 気象予報士の人だったか忘れたが、それを『やまない雨は無い』って例えたそうだ」
「良い言葉だね……。 うん、雨はいつか止むものだよね」
木の葉ついた水滴や水溜まりが朝日を反射してキラキラと輝いている。今は雨続きの少女達の世界も、いつかこんな風にキラキラと輝く日が来ることを信じて───。
「良かったっぽいぃぃぃ……」
基地に戻った俺達を出迎えてくれたのは、目を泣き腫らした夕立だった。時雨は俺の背中から「心配かけてごめんね」と謝っていたが、夕立は次やったら許さないと本気で怒っているようだった。
「あれか、入渠施設まで連れて行けば良いのか?」
「え、うん……。 そうだけど……」
「き、教官さん! それは夕立が連れて行くっぽい!」
騒ぐ夕立に、訓練は昼からにしてやるから大人しく部屋で寝ていろと注意をしておく。今の時雨が1人でメンテナンスできるとは思えないし、俺の好奇心を満たすためにも手伝いくらいさせてもらって大丈夫だろう。
「まぁ、いつかは俺も知っておかないとまずいだろうしな」
「全然まずくないっぽいぃぃ!」
「み、湊教官は僕に興味があるの……?」
騒ぐ夕立の頭を2、3度撫でてやると、これ以上騒ぐと訓練の予定を朝からにするぞと低い声で脅しておく。少女は流石にそれはまずいと思ったのか、何やら不満そうな顔をして自室へと帰って行った。
「じゃあ行くか、何か必要な物とかはあるのか?」
「タオルは持って行った方が良いかな……? 他の物は備え付けの物があると思うから……」
タオルが必要だという事は油か何かがかかってしまう恐れがあるのだろうか?もしくは結構な力仕事で汗をかいてしまうとか?工具なんかは備え付けの物があるらしいし、思ったよりも施設の中はしっかりとしているのだろうか。
後になって後悔したのだが、やはり人間にとって睡眠は大切な行為なのだと実感している。睡眠不足は正しい判断や注意力を著しく低下させ、違和感を違和感と感じとる危機感を奪い去って行くのだと───。
7/10 何故か改行されている部分があったので修正