天照院奈落。
天導衆直属下の暗殺部隊であり、歴史も業も深いこの集団は殺しに長けた者達が大勢在籍している。
文字通り、奈落の底へ突き落とされた彼女は自室の布団の上で一睡も出来ずにいた。
「人としては扱って貰えているらしい、けども」
無論、捕虜としても殺し屋として終身雇用される事も望まない彼女は、この状況から打開する術だけを考えていた。
「…逃げなきゃ」
遂に決心を固めた彼女は布団から立ち上がり、急いで身支度をし始めた。
そして自室の戸に手を掛ける。
(誰も居ない…)
廊下で誰かに出会した際の言い訳を考えながら、彼女は一歩ずつ足を踏みしめていた。船室が並ぶ通路は不気味な程静かで、これなら脱出も容易ではと高を括っていたが
「もし、この角を曲がった先で見廻りに会ったら…一体どうやって切り抜け…」
「貴様、そこで何をしている」
音を立てる程の身震いをした彼女はその足を止めた。
(…この声は)
振り向いた先には案の定、現首領の朧が立ちはだかっていた。
「無駄だ。此処は蟻が這い出る隙も無いぞ」
(よりによって…容易には逃げられそうに無いな。というか逃げられるのか)
天照院奈落の頭首を前にして、彼女は両手を上げていかにも降参の姿勢を見せた。
「降参です。頭首様に従いますよ」
「部屋へ戻れ」
「…はい」
潔い返事をしつつ朧が此方に背を向けるのを見計らうと、彼女はその場から勢い良く走り出した。
呆れた様に目を瞑る朧は懐から何かを取り出し、彼女に向けて放った。
彼女は反射的に身を屈めると、飛んできたそれは瞬く間に頭上を越えてつき当たりの壁に数本突き刺さった。
「…針?」
すると眼前の壁を曲がった一瞬の隙に、再び放たれた一本の針が首の付け根の皮膚を貫き、途端に彼女は床に大きく身体を打ち付けた。
万事休す、である。
「全くもって諦めの悪い鼠だ」
的確に経穴を突かれて身体に力が全く入らない彼女は、まるで麻酔銃で撃たれた動物の如く、肩に抱えられるがままになっていた。
「無駄だと言ったであろう。此処を何処だと思っている」
「…差し当たり、奈落の底でしょうか」
「外を見ろ」
朧は窓の方へと歩み寄った瞬間、肌を刺す氷の様な風に吹かれた。
「…いつの間に空の上まで」
海を進んでいると思い込んでいた彼女は、乗っていた船が空高く雲を割って進んでいる事に驚きを隠せなかった。
「元より脱走は御法度だ、処断は逃れられんぞ」
「…そうですか。何と呆気ない」
此処に来た時点で無事では済まされないと思っていた彼女は、驚きよりも行き場の無い無念さに押し潰されていた。
「二度目は無い」
「え?」
意表を突いた朧の一言に、彼女は思わず重い頭を僅かに上げた。
「じゃあ今回は見逃してくれるんですね、えっと…」
「朧だ」
「そう、朧さん」
「それはそうと、粋な名をお持ちですね」
「どういう意味だ」
「綺麗なものを連想させるじゃないですか。喩えるなら、月とか」
「…異な事を言う」
部屋の前まで来て戸を開けると、朧は畳の上に彼女を下ろして言った。
「次は無いぞ」
「はい。おやすみなさい」
朧は立ち去る足を止めると、その場で一言小さく呟いた。
「…時に、名は何という」
「私の名ですか?」
彼女は少し間を置くと、訝しげな表情を見せる朧に向けて応えた。
「この際ですから、何と呼んで頂いても構いませんよ」
「…そうか」
暗い廊下を進む最中、朧は再び窓の近くで足を止め、空を見上げた。
「…朧月か」
薄雲に隠れて陰りを帯びた光を放つその月は、辛うじて気配を伺える程のものだった。
それはまるで天高くから、地に広がる無数の街明かりを羨んでいる様で
酷く孤独に見えた。