笑顔が誰にだって出来るって本当ですか   作:コリブリ

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マスタートレーナーのウワサ
最近面倒を見ている新人アイドルに期待しているらしい


第2話 壊れた時計の針

 346プロダクション本館地下の隅も隅にあるレッスンルームは大手のプロダクションが所有しているとは思えないほど小さな部屋であった。勿論バク転程度なら難なく出来る程度の余裕はあるが、それでも別館にある本格的な設備が整っているレッスンルームに比べればはるかに見劣りするだろう。

 だが幸いな事にそのレッスンルームは防音設備だけは他と比べても遜色のない機能を備えていた。それを知ってか知らずかトレーナーの怒号は十全に設備を使いこなしていた。

 

「ワンツー、ワンツー……島村、ステップが遅れているぞ!」

「は、はひぃ、ひぎぃ」

 

 返事なのか悲鳴なのか分からない声を上げる卯月に対して容赦のないリズムを刻む手拍子。フローリングワックスがムラなく塗られた床と、表面だけ見れば新品同然のシューズが摩擦によってスリップ音を響かせる。音の発信源である卯月は軽快な音楽に似合わないほど汗だくになりながらただひたすらに踊っていた。このレッスンが始まってから既に時計の針が二周しているのだ、休憩は脱水症状にならぬためのほんのわずかな水分補給と、息を整えるためだけの五分にも満たない時間のみ。

 

「腕の振りがワンテンポ遅いぞ! 膝が曲がっていない、脚に負担をかけるな! 指の先まで見せる事を意識しろ!」

「へごぉ!?」

 

 トレーナーの加速する指摘について行くことが出来なかった卯月はついに足をもつれさせ、おかしな悲鳴と共に頭から壁へ激突する。それを見たトレーナーはすぐさま卯月へと駆け寄り心配そうに声を掛けた。ひねってはいないかと足首を入念に触りつつ、赤くなったおでこをさすり、無事であることを確認し胸を撫で下ろす。

 

「わ、私がどんくさいだけですからっ」

「いや、ハードワークだったことに気づけずにすまない、クールダウンが終わったら本格的な休憩に入ってくれ。一時間後にはボイスレッスンに移るぞ……あと、私が言ってもしょうがないことではあるが、あまり根は詰めるなよ」

 

 トレーナーは、無理なら無理と言え、そう言いながらスポーツドリンクを手渡しつつ卯月の後ろへと位置どった。背中を押すストレッチから始まり、全身の筋肉を優しくほぐし終わると念を押すように無理はするなと言い残しレッスンルームから退出していく。

 

 一人取り残された卯月は胸の内を全て吐きだすかの様に深いため息をつきながら仰向けに倒れ、手の甲で両目を覆い全身の力を抜いた。

 

「島村卯月、頑張ります」

 

 第一声がこれかと、卯月は自分自身にあきれながらたった二時間、されど二時間少しのレッスンを思い起こす。日々厳しいダンスレッスンを行う様になってから三週間足らず、些細な誤差はあれど毎回二時間前後で切り上げていた。

 こんなに頑張っているのにちっとも体力がついている気がしないと心へ影を落とす卯月。今日は特に酷かったと感じているのだ。足をもつれさせ転ぶなど、実際のライブでは絶対にやってはいけない事であると断じているが故に。

 それは彼女自身怪我の怖れもあれば、ファンのみんなを心配させてしまい楽しい時間に水を差す形になってしまうから。

 先ほどのトレーナーがいい例であろう。稽古を途中で止め、資本である身体に傷がついていないか確かめさせてしまった、卯月はその事実だけで軽く絶望を覚えるほどに焦燥している。

 

 ハードワークだったな――お前にはまだ早いレッスンだったな。

 

 本格的な休憩に入ってくれ――もう体力がなくなったのか。

 

 根は詰めるなよー―自主練などして勝手に身体を壊すなよ。

 

「なんて、そんな意味じゃないんだろうけど……」

 

 卯月は自嘲するようにつぶやいた。トレーナーがそんなことを言う人物ではないことくらい分かってはいるのだ、だが日々続けているレッスンの手ごたえのなさが後ろ向きな考えを増幅させている。

 ダンスレッスンが終わった後の卯月はいつも同じことを考えていた。自分はどうしてこの場所に居るのか、どうやってたどり着いたのかすら定かではないほど、思考はまとまらないまま押し流されて、終着点へとたどり着く。

 それは卯月の駆け抜けた一年間。駆け抜けた、などと爽やかに表現するのはいささか間違いであるが、気づけばここにたどり着いていたのは確かだった。

 

 

 卯月はアイドルとして今までの活動に不満や後悔が無かったかと聞かれれば、無かったなどとは口が裂けようが言えるはずもなかった。

 

 

 彼女がちょうど一年前にスカウトされた元所属の774プロダクションは零細も零細、アイドルブームに乗っかろうと起業した芸能プロダクションである。アイドルに夢を見ていた当時の卯月は何も知らぬ無垢な少女で、自らを見出してくれた彼のプロダクションに感謝すらしていた。

 所属アイドルは数人でコネもなく、たった一人の営業が一月に二度ほど仕事を取ってくれば十分な成果と称えられる、そんな小さな小さな事務所。舞い込んでくる仕事はひたすら足で取ってくる遠方のステージで、十分も時間を貰えれば万々歳。それでも最初のうちは楽しいと感じられていた卯月。

 たった五分のステージに半日の移動を要することもあったし、観客が片手で数えられる程度しか入館出来ない箱での舞台もあった、だがそこには笑顔があったのだ。可愛いと言ってくれるファンや、たまたま見に来たであろう家族連れの小さな子供の笑顔が見れるだけで頑張れていた。

 いつも大変そうにしている営業に、ステージで失敗した時には一緒に謝りに行ってくれる社長、励まし合いながらトップアイドルになろうと誓い合った他のアイドル――思い描いたアイドルとは少し違うとは思いつつも、アイドルとしての成長を感じられる日々があった。

 大きな舞台の前座としてすら物足りないと偉そうな人にバッサリ斬られ、決してきらびやかなだけの世界ではないと時には痛みを知り、必ず巡業を見に来てくれる熱心なファンに励まされ温かみを感じ、それでも、それでもと、いつか大きな舞台で、大勢のファンの前で、自慢の笑顔で笑う事が出来ると信じて邁進した道だった。

 

 しかし半年と少し経った頃、兆候は訪れる。数人しかいなかった所属アイドルのうち一人が事務所に来なくなったのだ。最年長のまとめ役だった先輩が抜けた事実は、少なくない衝撃を受けた卯月含め所属アイドル達が社長と営業に理由を問い詰めるのには十分だ。

 社長と営業の返答は一身上の都合としか帰ってこず、納得出来るはずもなかったが都合があるのだろうと感情を押し込めた卯月と同様に他のアイドルもそれ以上つのっても教えてくれることはないと察してその場は収まった。

 

 問題は後日。その日、卯月はアイドルの研究をしようと事務所備え付けのブラウン管テレビを何気なく付けるとそこには事務所を抜けたはずの先輩が映っていた。テロップに表示されたのは中堅プロダクションと先輩の名前、楽しそうに笑い、踊り、若手の芸人たちに弄られてくすぐったそうにしている輝く先輩がそこにいる。

 ああそうか、と別世界を眺める卯月はそっとテレビを消す。たった一人で先に進んだ先輩に対して恨み言は無い。彼女は望んでいた世界に飛び込めたのだと、祝福すらしていた。なら次は私だと奮起して見せる気力が無ければこの世界は生きていけない、そう考えられるほどにはアイドルという世界に理解を深めていたからこそだろう。だがそう思える卯月の精神は同業界を見渡してもそうはいないほどの強靭さを持っていた事に気づけなかった。

 卯月がたまたま見つけられるくらいにはテレビ出演があるのだから、774プロの他アイドルが見つけるのに苦労があろうはずもない。一人が見つけ騒ぎ出し、どういう事だと社長へと詰め寄るのは当然と言えよう。今まで一緒に頑張って来たはずの人物が一人で出世しているのを見れば裏切られたと考えるのは容易い事だ。しかし彼女はヘッドハンティングを受け、火の車であったプロダクションの家計を移籍金で繋ぎ止めてくれたと説明されれば黙るしかなかった。結局のところ笑顔で送り出してあげるのが一番丸く収まるのだ。そんな表面上の笑顔を覚えてしまった彼女達は、だんだんと広がる薄氷上の亀裂に気が付きながらも、止める事は出来ない。次の一人が事務所を辞めるまでにそう時間はかからなかった。

 卯月は以前よりも大分広く感じる事務所を想いつつ、その日行う予定の舞台へと足を向ける。定期的に場所を確保できる小さな箱であるが、持ち回りでステージに立てるため774プロにとってはありがたい場所である。

 

(あれ……?)

 

 短い時間のステージでも目いっぱいファンに楽しんでもらえるようにと、全力の笑顔で舞台へと躍り出るが歓声がいつもよりも小さいと感じた卯月。事実、歌っている間の合いの手も心なし少なかった。自分の持ち時間が終わり、舞台袖から観客席を見ればいつも一番前で励ましてくれていたファンの人がいなかったのだ。予定が合わない日もあるかと動機が激しくなる胸を押さえつけても、浮かんだ一抹の不安は拭えない。結局そのファンはそれ以降現れる事は無かった。

 

「卯月さ、最近笑わなくなったよね……」

「えっ……そう、でしょうか」

 

 いつの間にか二人だけになった所属アイドルの片割れが卯月へ視線を向ける事無くぽそりと呟く。卯月はそんなはずはないと、いつだって最高の笑顔で舞台に立てていると信じているからこそ、自分の笑顔を疑わなかった。

 だが指摘されてしまえばそれは現実となり、違和感となる。鏡の前で笑顔の練習をしてから舞台に立つようになって、観客は目に見えて減るようになる。動員数は一見の客が一定いるため、ある程度は保たれるのだが、同じ顔を視る事は無く、その事実に気づいた卯月の背中に重い何かがずしりと伸し掛かった。

 

「潮時なのかなって」

「そんなっ……!」

「卯月も気づいてるでしょ? あの人が……先輩が抜けてったあの日からさ、あたしたちはもうダメなんだって。一つヒビが入っちゃえば脆いもんだったんだよ」

 

 結局あの人の一人勝ちかぁ、と何もない中空を見ながらうそぶく同僚に、卯月は何も言えない。

 

「卯月は天然だからねー、あの人に利用されてるって気づかなかった?」

「えっ?」

「先輩はいつだって自分の引き立て役をやらせる立ち位置を卯月に取らせてたんだよ。うちらの中で一番出世しそうなのは卯月だろうってみんな思ってただろうし、そんな卯月を侍らせることで付加価値として自分のアピール力を高めてたって事だね、結果は見事に成功」

 

 卯月は言葉を発する事が出来なかった。みんなで仲良くトップアイドルを目指そうと言っていたあの人が、みんながそんな事を考えていたなんて、気づきすらしなかった。背中に伸し掛かる重りに足枷の鉄球が加わる、息をすることすら難しくなり、そんな苦しさからか卯月の笑顔はより一層減る事となる。

 事務所が無くなる少し前、卯月以外のアイドルがいなくなり、事務所には沈黙だけが残った。社長と営業と卯月は、重苦しい空間の中で対面し、誰が口火を切ればいいのか分からないまま時間だけが過ぎて行く。そんな空気の中、最初に口を開いたのは社長だった。

 

「島村さん、これがラストチャンスになるかもしれません」

 

 そう言って差し出したのは一枚のポスター、アイドルを対象としたドラマのヒロインオーディションの告知。

 

「このヒロインは笑顔を売りにしている、悲しくても、辛くても笑っていられるのが特徴と設定されていて、島村さんにはぴったりだと思います」

「……やりますっ!」

 

 笑顔だけなら誰にも負けたくないと最後の殻を破られぬように、自分自身を守るために、抱いた思いを捨て去らぬように、オーディションへ挑んだ卯月。ラストチャンスを託してくれた社長と営業を裏切らないためにもと、何度も何度も鏡の前で笑顔の練習を繰り返して。

 その日が卯月にとっての分水嶺だったのだろう。滝の底へ突き落されるか、緩やかに海へと広がるか、どちらにせよここまで来てしまった卯月はもはやまともな行先など残っていない事に気づきはしない。

 

 当日、参加者の名前と番号が書かれた紙を受付で渡され待機室に通される、そこにはあの先輩がいた。ずきりと耳にすら聞こえそうな痛みを胸に抱えた卯月。

 アイドルを対象にしたオーディションなのだからここにいたとしても別段おかしくはない、卯月が肩を震わせながら何とか目を合わせると、微笑む彼女。卯月はその優しそうな笑顔を防衛本能からか好意的に捉えた。人間だれしもが物事を悪い方向へは考えたくないものである。ただでさえ弱っていた卯月の心はこれ以上の負荷を許容しない。張っていた肩を下げ喋りかけようとした瞬間スタッフに呼ばれ伸ばした手は所在なく下げられた。同時に一番から十番が別室へと移動を始める。

 

 先輩アイドルと卯月は二番と三番で隣同士だったためオーディション用に整えられた部屋で横の席へと座る。卯月は肩がぎりぎり触れ合わない程度の距離で、どうしても意識してしまう右隣から何とか三人の面接担当へと視線を絞った。受付で渡された紙には監督と助監督、メイン俳優と書かれていたか、真ん中にはセーターを羽織ったいかにも自信ありげな表情でふんぞり返る壮年の男性は監督だろう。助監督らしき人物が手を叩き注目させると、ドラマの概要説明から始まり求めるヒロイン象を語り、一人三分のアピールタイムを設けると宣言し、オーディションは始まった。

 卯月は自分が何をアピールすべきか、笑顔をどう表現すべきか、ただそれだけを考えていたため一番の子が何を喋っていたかすら頭には入らず終わっていた。二番手は先輩、流石に自分の事だけを構っている余裕はなくなり、椅子から立ち上がる先輩をじっとみつめる卯月。

 

「じゃあ早速アピールしてもらおうか!」

「はいっ!」

 

 凛としつつもどこか甘えられている様な感覚を覚える人を魅了する声。卯月は774プロで活動していた頃には聞いた事すらなかったその声色に驚いた。長いまつ毛に透き通った肌、伸びる腕はキッチリと揃えられていて、きっと一足先に入ったきらびやかな世界で身につけたのだろうとより一層高みへ上った彼女との差を感じる。

 

 一瞬の静寂のあと、アピールが始まった。

 

「笑顔は、自分と他人の壁を壊すためにあると考えています」

(――っ!?)

 

 卯月は心臓を鷲掴みにされた痛みを感じた。比喩などではなく、動機が激しくなり油の様な汗が額から噴き出ていた。先輩が語るそれは――

 

「ファンの前に出るときは全力の笑顔を、ファンと触れ合う時は優しい笑顔を、ファンと一緒に笑いあえる舞台を、ファンと一緒に作り上げる……それこそが、私の描くアイドル像と、笑顔です」

 

 それはいつしか卯月が先輩に語った笑顔だった。卯月は笑顔だけが取り柄なのだからと、せめて最高の笑顔が出来るようにと、一生懸命に考えた笑顔だった。

 

「いいねっ、笑顔のバリエーションの中に綺麗な笑顔ってのも追加しておいてよ」

「ありがとうございます!」

 

 先輩のアピールタイムは既に終わり、いやに上機嫌な監督の声は耳障りな音を奏でていたにも関わらず、卯月は自分の名前が呼ばれている事に気づけないほどに狼狽していた。

 

「ちょっと……緊張するって言っても限度があるでしょうよ、そんな真顔になられたらこっちも恐縮しちゃうじゃない」

「ま、がお?」

 

 卯月は笑顔をしているつもりだった。日課にすらなってしまった笑顔の練習通りに表情筋を動かしているはずだった。今、卯月は笑えていない。

 

「んー……ま、今流行りのクールキャラってやつ?」

「アイドルならもうちょっと表情作れた方がいいと思いますが」

「笑顔なんて誰にだってできることすらできないなんてね」

 

 助監督と俳優が口を出す。沈黙してしまった卯月への手助けとも、見かねて呆れているともとれる言葉も、ひそひそと聞こえる周りの雑音も、卯月には届かない。

 結局言葉を発する事すらなく卯月を運命を決める三分間は幕を閉じた。その場にいた誰もが憐みの視線を彼女へと向け、次の瞬間には存在すらなかったかの様に振る舞う。演じられぬアイドルに価値はない、寄り添い耳元でそう囁くのは誰か。卯月は自分の身体が自分のものではない感覚を抱いて、動く事すら適わなかった。

 

 時計の針が半周する時間で全員のアピールが終わり即座に結果が発表された。第二面接へと進む者はその場に残るよう指示されたが、当然卯月の名前が呼ばれることはない。

 その日から数日の出来事は卯月の記憶からすっぽりと抜け落ちていた、いや、公園で時間を潰す以外の事をしていなかったのだから元から記憶すらないのだ。卯月の胸の内にただ鮮明に残っているのは、オーディション会場から抜け出るときに見えた心底馬鹿にする蔑みの笑顔に、774プロが倒産するときに言われた「すまなかった」の言葉だけ。

 

 

 卯月は気づけば城の中、地下牢に捕らわれている。346プロに所属できるだけでも他のアイドルよりは恵まれているのだと名もなきアイドルは言うだろう。それに気づけないほど愚かではない卯月はより一層頑張ろうとする。それが空回り、何も為せない感覚が虚無感だと言うのなら卯月はからっぽだった。もし何かが入っているのだとすれば、レッスンすらこなせないようなアイドルに価値がないとの思い込み。それだけが今の卯月を突き動かしていた。

 

「島村卯月、頑張ってます……」

 

 卯月の言葉は誰にも届かない。

 

 この城には魔法をかけてくれる魔女がいたとしても、助けてくれる王子様がいるはずもない。

 

 

 ここはシンデレラだけの世界なのだから。

 

 

 




島村卯月のウワサ
笑顔の練習は毎日欠かさないらしい

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