ラグビーとアメフトの違いがわからなかったらしい
「そこでターン!」
「っ……ッ!!」
卯月はトレーナーの指示により、前から後ろへ軸足の位置をずらさぬよう身体を半回転させた。スピーカーから流れるメトロノーム音が同時に鳴りやみ、顎を肩口へ近づけ両腕で胸を抱きつつも指先はピンと伸ばしポーズを決める。
「淀みはないようだな」
「ええ、リズムもばっちり、身体の軸がブレていないのもポイントです」
卯月のレッスンを横で見ていた美城はトレーナーに報告を促した。
美城はアイドルを統括する役職であるがゆえに、ダンスが上手いか下手か、その二択ならば評価できようが、それはダンス未経験者からしても見るに値しているかの評価に過ぎない。346プロのアイドルとして恥ずかしくないパフォーマンスを披露できているかを評価するのはトレーナーだ。
結果は上々、トレーナーからの報告を聞いた美城も、卯月の決めポーズを見て悪くない出来だと感じていた。
「よし、島村、もう崩していいぞ」
「――ぷはっ!」
残心していた卯月はトレーナーから良しの声を受け、膝に手を当てて中腰となり乱れた呼吸を整える。
「島村、まだ続けられそうか?」
「えっと、はい。ギリギリですけど一曲くらいならいけるかと思います」
卯月からすればぎりぎり精一杯オーバー直前であるが、トレーナーは管理する者としてフィジカルの状態はしっかりと把握しており、本当に倒れてしまうラインを見定め最効率でレッスンを行うのが仕事である。オーバーワーク直前のハードワークをどれだけ維持できるかで効率は一回りも二回りも変わってくるのだが。
「と、このように、最近は私の方が驚かされっぱなしですよ」
トレーナーは美城から二時間で倒れるようにレッスンを行うよう指示されていたが、全力疾走をさせるでもなければ卯月の体力では倒れるに至らないほどになっている。今の卯月の様子を見れば一目瞭然で、床に倒れ伏すことはなく、大きく呼吸を整えるだけだ。
「ふむ」
美城は手に持ったクリップボードに挟まれているトレーナーからの報告書と、目の前の卯月を比べる。
「こちらには二時間を何とか踊り続けられる体力、と記載があるのだが」
「三週間ほど前でもここまでではなかったのですが……彼女がよい影響を与えているのかと」
「彼女というと、日野茜か……」
美城は卯月とトレーナーの両方から、卯月にとっての日野茜について報告を受けていた。
卯月曰く、怖くないから大丈夫とのことだが、美城からすれば想定外であり、たまたま関係が上手くいっているようであるから交友関係にまで口出しはすまいと、見守るにとどめているに過ぎない。
一歩間違えば出会った瞬間、卯月が潰れていたであろうことは想像に難くないゆえに。
それだけ慎重にことを運ばなければいけないほど、卯月にとって346のアイドルは毒物であり、あるいは薬でもあるのだ。
元々卯月が持っていた自然な笑顔とは違う、太陽の笑顔を持つ日野茜は、劇物のたぐいであったと美城は考える。
出会えば比べてしまうだろう、アイドルとして歩んだ道を、その笑顔を。
美城は、今の卯月が心の内に誰かを住まわせるほど心理的なキャパシティがあるわけもなく、それをおもんばかれるほど茜が器用だとは想像できなかった――茜が偶然とはいえ、捻くれ卯月相手にパーフェクトコミュニケーションをかましていたとは、知るよしもない。
(まあ話を聞く限りでは、思う部分は残っているようだが)
それは卯月にとって根源的な部分の話であり、今なお改善できそうにない心の傷。
裏切り、奪われた想い、先輩として導いてくれていたはずの者から受けた所業は彼女の奥底に残り続けている。だから今はまだ仕方がないことなのだ、例え裏がなく仲良くしようとしているであろう茜にすら嫉妬の念や劣等感を抱いてしまったとしても。
「レッスンだからこそハードな指示をしてきましたが、実際のライブであれば三時間は固いでしょう。それにダンスは本当に目を見張るものがありますよ、バランス感覚もいいですし、軸がブレないほど体幹ががっちりしてきて、どうやって鍛えたのか聞いたのですが」
美城は思考の海に沈みかけていたがトレーナーの声によって引き上げられる、ぱらりと報告書をめくった彼女は片目を吊り上げ、いぶかしむよう卯月を見た。
「……ラグビー?」
「案外楽しいんです、と言っても茜ちゃんとキャッチボールとか、隣り合ってラグビーのステップとかだけで、ぶつかり合うようなことはしてないです。まあ、その延長線上でシャトルランとかなんか運動部っぽいことはするんですが」
茜がアイドルになる前、趣味のラグビー観戦が高じて、所属高校でラグビー部のマネージャーをしていたとプロフィールに書いてあったことを思い出す美城。
「やりすぎて腹筋が割れるなんてことにならないよう気をつけなさい、筋肉アイドルなど目指されても困る」
「あは、は……私、元々筋肉はつきにくい身体なんですけど、それでも肩の筋肉とか、少し……あと、太ももが……」
卯月と茜の出会いから三週間、美城が話を聞く限り、二人の関係が上手く続いていることに一応は胸をなでおろしている。
ある意味では爆弾を抱えてしまったようにもみえるが、以前よりもレッスンに力が入っているとトレーナーから報告があり、それも日野茜と卯月自身を比べた結果、彼女が上を見ることが出来たのだとすれば、一概に悪いことばかりではないのだ。
(どうせ最初から綱渡りであることに変わりなく、ならよりよい方向へ進める可能性があるこの偶然を利用しない手はない)
美城は頭で描いていた卯月のロードマップへいくらかの修正を加える。本来であればあとひと月はレッスン漬けにする予定であったが、ちょっとした刺激も今の卯月であれば成長に繋がるはずとの考えがあった。
「それで、ダンスの話だったな。指示していた通りにはできているのか?」
「問題ありません、想像以上かと」
「……?」
美城とトレーナーの言葉を聞いた卯月は首をかしげる。自らのレッスンにおいて美城から指示がされていたことは理解できたが、別段特別なことはしていなかったからだ。
卯月がなにか違う事をやっていたのかと記憶からひねり出すならば、美城との歓迎会以来、基礎的なステップや振り付けだけでなく、346プロ所属のアイドルたちがそれぞれソロで歌っている、いわゆる持ち曲によるダンスレッスンを数曲にしぼってやっていたくらいか。
「であるならば、島村には次のステージへ移ってもらう」
「……はい!」
卯月が346プロでレッスンを始めてから二か月足らず、元から期待されていた卯月の体力面は最高のできと評するまでに達しており、偶発的なことではあったが茜との出会いは彼女をよい方向へと進ませた。
茜とのレッスン、運動といえばいいか、それに加えて日課のランニング、ハードレッスンと一日ずっと身体を動かし続けていれば慣れもするしさらに体力がつくのは当たり前だろう。流石にこれ以上は人間の限界に挑戦でもしないのであれば過剰すぎると、トレーナーから指導が入ったほどである。
美城の予定からすれば少しばかり筋肉に傾いてはいたが、体力作りやメンタルケアと言った部分において予定よりも早い段階で次のステップへと進みだす。
「むろん、今までよりも密度、難易度ともに高くなるだろうが、レッスンにおいては心配していない」
「はいっ、レッスンは大好きですから」
卯月本人の気質も状況にマッチしている。彼女にとってレッスンとは自らを高めるためだけでなく、頑張ると紡ぎだした言葉がそのまま形をなした結果でもある。
そのレッスン量たるや、346プロの他のアイドルと――武内がプロデュースするシンデレラプロジェクトの面々と――比するまでもなく、勝っていた。アイドルとしての活動があるなしに関係なく、これからもレッスンにおいては他の追随を許すことは無いのだろうと美城にいわしめるほどである。
卯月の一日を振り返れば現役女子高生にしてはストイックすぎるほどにつまっている。朝起きて登校、あるいは午後のレッスンまで走る、346のレッスンルームでは言わずもがな、夜寝る前はクールダウンのつもりであろうか公園かレッスンルームで当日のダンスレッスンのおさらい。さながらプロボクサーの減量とでもいえばいいのか。
それが本人にとって逃げの代替行為であることは美城も気づいている。もし以前所属していた774プロで同じことをすれば、成長すら見込めず無駄なことを繰り返すだけとなっていたかもしれない、しかし美城がコントロールする以上無駄になることは絶対にさせない、させるはずもない。
「アイドルのこと、私のこと……美城さんはきっと私なんかよりよく知っています。時々何を考えているのかわからないこともありますけど、言われたことくらいできるように、私、頑張ります」
最近の卯月に対して大分距離が近いように感じる美城だが、後ろを見続けているよりもよほどいいことだと受け入れていた。
美城はふと、そんな状況と、半年前にプロジェクトクローネを立ち上げてからシンデレラの舞踏会までの彼女自身の振る舞いを比べ、なるほど、城の上からでは見えぬ景色だと、今西の言っていた言葉の意味を再確認した。
「では明日、このレッスンルームではなく私の執務室へ来なさい」
「…………」
卯月はばつが悪そうに、トレーナーの方をちらりと見る。
「別に怖い事はなにもないはず……ああ、専務の部屋は最上階ホールの一つ下の階だ」
「ありがとうございます、早めに向かいますね」
そう一言残し卯月は休憩のため退室、残された美城はどことなく居心地が悪そうである。
「専務……島村に伝えてなかったんですか?」
「元々アイドルが私の執務室に訪れるなどない。今回は特例だ」
専属のプロデューサーが自身の居場所を伝えていないのは割とまずかったりするのだが、一人のアイドルを直接担当する経験が初めてゆえ伝え忘れていた美城であった。
「しかし、島村は大丈夫でしょうか。日野とのコミュニケーションを取れているのが奇跡なくらいですよ」
トレーナーにも今後の予定は伝えられている、だから美城が何をしようとしているのかは察しがついていた。
「ダメで元々は許されない、しかし進まねばならぬのも事実。日野茜のような偶然がそう重なるはずもない、であれば動かすのは私だ」
トレーナーは乗り気ではなかった。それこそ一年がかりでもいいからレッスンで自信をつけさせたほうがいい結果に繋がるのではないかと考えてしまうほどに、これから美城が行おうとしていることは失敗すれば大きく卯月を後退させてしまうであろうことを知っていたから。
「島村も難儀な子ですからね」
売れっ子アイドルに対して嫉妬や劣等感を感じるというのに、そんな存在を目指している矛盾が卯月を苛みはしないか、ひやひやさせられるトレーナーであった。
「丁度いいウワサも流れているようだし、想定される中でも最悪のカバーは考えている」
美城のそんな言葉を聞いたトレーナーは怪訝な表情をしていたが、美城はわざわざ教える必要もないと言わんばかりに地下牢から城へと戻ったのだった。
次の日、卯月と美城は二人だけでレッスンルームにいた。地下牢ではなく、別棟のレッスンルームだ。
「島村は私の横で真顔のまま立っていればいい、言葉を交わす必要もない」
「…………」
「私とは交わせ」
「なら、あの、帰ってもいいですか」
「ダメに決まっているだろう」
学校が終わりすぐさま美城の執務室に向かった卯月であったが、そこで伝えられたのはプロジェクトクローネのレッスン見学という苦々しい表情を隠せない予定であった。前日に言い放った言われたことくらいできるようにとの言葉を撤回できないかと思い始めている。
卯月からして意図は分かる。交流を持たないにしても他のアイドルが346プロにおいてどのようなレッスンを行っているのか知ることは今後の自分にとって目指すべき場所の確認もできるし、慣れさせるつもりなのだろうと。しかし、しかしだ、普段卯月が着ているジャージとは違う、灰色と黒のジャージを手渡され着るよう追加で指示があったのだ。それが何を意味しているのか、薄々感じ取っていた卯月は今、猛烈に帰りたい衝動に駆られていた。
「君は今、私の秘書であるということを自覚する必要がある」
「いえ、それもどうなのかと思ってますけど、ならスーツでいいじゃないですか、何でジャージ着させられてるんですか」
卯月はあわせて伝えられていた秘書のように振る舞うことという謎の指示については、自身を連れてくるため他のアイドルへの方便であるだろうと考えていた。実はクローネの面々において既に秘書として認知されていることをまだ知らない。
「おはようございま――」
「おはようございま……す?」
まずレッスンルームに入ってきたのは橘ありすと鷺沢文香。いつもの吊り目で二人を見た美城と真顔のまま前を向き続けている卯月に気づき挨拶が中途半端なものになってしまっていた。誰もいないと思っていた部屋に妖怪を見つけてしまったが如くである。
こそこそと部屋の隅へ移動して柔軟を始める両名、困惑しているのが見て取れる。美城は普段途中から入ってきてレッスンの確認をすることはあっても、最初から待機していたことなどなかったからだろう。
卯月はそんな二人へ極力視線を向けないように、事前に美城から渡されていたクリップボード上の書類へと視線を落とす。
(この部屋の予約リスト……メンバーは橘ありすちゃんに、鷺沢文香さん……あとトライアドプリムスの三人……ううっ……)
プロジェクトクローネのちょうど半分のメンバーがこの部屋に集結する事実に卯月は意気消沈する。もしアイドルを純粋に目指せていた時代であれば絶賛売り出し中な豪華メンバーのレッスンを見れるなどご褒美でしかなかったであろうが、今となっては胃痛すら覚えてしまう。だがメンバーが多く集結するので個人として向き合うわけではなく、劣等感よりは単純な緊張のほうが大きかった。
「おはようござぁああっ!?」
「ちょっと奈緒、どうしたの……おおう」
「奈緒、加蓮、ドアの前で止まらないで……うわ」
ありすと文香が入室してから五分ほど、トライアドプリムスのメンバーである神谷奈緒、北条加蓮、渋谷凛がレッスンルームへと到着した。美城を見つけた三人はありす文香と同じように、いや、二人よりも大きなリアクションをしつつ、そちらへとこそこそ移動した。
「…………」
そのリアクションを聞いた美城は身じろぎひとつせず、組んだ腕と吊られた目でクローネの面々を捉えるだけである。
(あの、美城さん、普段どんなコミュニケーションをとっているんですか)
流石に聞くことははばかられたため思うだけにとどまったが、少なくともあまり歓迎されるような関係は築けていなさそうであることだけは理解した卯月であった。
集まった五名はこそこそと柔軟をしつつ、こそこそと話を始める。部屋の隅っこに位置している卯月と専務からはギリギリ聞こえるくらいの声量だ。
「あれ、何で専務いるの! もしかして今日ずっと!?」
「いや、専務がいることはたまにあるじゃん、珍しいけど。それよりさ」
「あの横の……唯がLINEに張ってたやつ」
「秘書さん、でしたっけ」
「随分と、お若いですね……」
(あれ、私が秘書って設定なんで知ってるんだろう)
卯月はまさか既に根回しが済んでいるのではと戦々恐々しつつもアイドルとして接しなくてよい分、少し楽かもと考え始めていた。本日の卯月は基本逃げ腰である。
「てか色合いがまんま専務だし、目元優しそうなのに真顔で威圧感あるぞ……!」
「あの歳で専務に見出されてるって事は相当できるんだろうしね、自分の後任を育ててるのかもよ」
「そうなると、私たちのプロデューサーを務めるかもしれないってこと?」
トライアドプリムスが話す内容は全くの見当違いであったが、あの美城専務の横にいることを許されている同年代っぽい少女というだけで謎が深まり、どんどんと想像が膨らんでいく。
わいわいと声量が大きくなっていることに気づかない五人であったが開かれたドアの音でそちらを見る。レッスンルームに入ってきたのはクラスがベテランであるトレーナー、そして今西部長。
「専務、おはようございます。さて、全員揃っているな……気づいているかと思うが、今日は一日専務と部長、そして、えー……まあ、視察にきているからな」
ニコニコとしている今西は卯月の横へと陣取ると、やあと気軽に挨拶をする。卯月が346プロと契約を交わした際に一応言葉を交わしてはいるが、それ以来会う事もなかったため、彼女からは優しそうな偉い人、くらいの認識である。そんなことよりもレッスンが始まってしまうと頭が真っ白になりかけていた卯月は挨拶を返せなかった。
「……部長に一方的に挨拶させて、返事なしって、もしかしてかなり偉い人なんじゃ」
「専務の身内、姉妹とか、でしょうか」
「それにしては目の吊り具合とか……」
いまだに卯月の考察が進むクローネたち、がちがちになった卯月、やれやれとでも言いたげな美城。レッスンルーム内は混沌とした状況が広がっていた。
渋谷凛のウワサ
ニュージェネレーションズとしての活動は少ないらしい