【凍結】麻賀禮(まがれ) 作:あらやだ
不定期更新
一捻り
1994年。啓蟄。晴れ。
世間一般では年度替わりの季節であり、月を通して卒業式と送別会が行われる旅立ちの時期。月末には新生活の始まりとで大忙しになるのはお決まりのものだった。
けれど街から遠く離れたこの場には何の影響もない。閑散とした廃れた寺院には繁忙という言葉は存在しない。世間一般から逸れた此処は異土と化していた。
丑三つ時。
怪異と出会う時間のひとつ。人も動物も草木も眠りにつき闇に蠢くものの時間がいま。
妖しい筈が月光に照らされた森厳な法堂の中で、彼は瞑想を行っていた。
修行のためなどではない。
曾て台密の僧だった頃の名残でもない。
この男───魔術師は信心深くもなければ感傷なぞ持ち合わせていない。
人を待っているだけであって、瞑想には何の意味合いも求めていなかった。
始まりの因から生まれた方向性、人間のルーツ。
混沌衝動、起源。
人間としての道徳を捨て去り、常識という範疇から壊れてしまった。己を支配している闇を見つめる。
愈々、待ち人は来た。
☆
「お待たせしました、お父さん」
法堂の扉が開く。月の逆光を浴びた修道女がそんな言葉を口にしながら歩み寄った。
「幾度となく云わせるな。私はおまえの父親ではないと」
そこはかとなく諦観の表情をして、窘めるように言う荒耶さん。
「わたしにとってはもうお父さんなんです」
余談になるが随分と前に一人称を「僕」から「わたし」に変えて女の子らしく矯正した。体つきもふっくらと女性になりつつあり、言葉遣いがちぐはぐな感じがしたからだ。
「……勝手にするがいい」
「はい。好きに呼ばせていただきます。荒耶パパ、とかはどうでしょう」
おまえは正気か、と怪訝な顔でこちらを見上げる渋面。
「そうですか? なかなかどうして好ましい呼び方だと思ったのですが……」
一際大きく嘆息して、荒耶さんは立ち上がった。
わたしの横を通りすぎてそのまま寺院を発ち、夜の闇に消えようとしている。このスルー能力は荒耶さんが煩わしいと感じたときの行動なので少し後ろをついていく。やれやれ進展なし。あれから四年も経ったのに未だに距離が縮まない。起源が静止だからかな、なんて考えていると目当ての場所に到着していた。
とあるバス停。明かりの切れかけた街灯の下に人の姿が見える。最終便なんてとっくに過ぎていておおよそこんな時間にお客さんが待っているはずもない。そう。この人と会うことが目的だった。
「待たせたか」
「いえ、まったく。───そちらが例の子ですか」
温和そうな表情を浮かべる男性。細い体つきと黒縁の眼鏡が無害な雰囲気を醸し出している。
どうしてこの人に会いにきたのか理由を訪ねていないが、十中八九、わたしについてのことだろう。彼のことを識っているとはいえ些か緊張している。
「ああ。おまえは断ると思っていたのだが」
「協会から逃げ続けるのも面倒でしたので、依頼の繰り上げは寧ろ願ったりといったところです」
「案ずるな。隠れ蓑は用意してある。その代わり」
「分かっています。貴方の目的に協力しますとも」
「幸甚。だが、先ずはこの娘の教育を任せたい」
「はあ。確かに私は言語学の教員免許を持っていますが、一般教養に関しては素人同然です。歴史関連なら寧ろ貴方の分野だと思いますが」
「私には為すことがある。準備には夥しい時間と手間がいる。見積もって二年。その間の世話をおまえに一任したい」
「当事者の彼女は何と。先ほどからおいてけぼりになっていますが」
男性は申し訳ないという面持ちでこちらを窺った。
……………………………………………………。
「えっと。浅〝神〟藤乃と申します。私の家庭教師になってくださる、ということでよろしいのでしょうか?」
浅神───これはお祖父さんお祖母さんの家名をいただいたものだ。絆の証。そしてこれは原作との境界線だ。浅上藤乃ではなく浅神藤乃として生きていくことの誓いでもある。
「……家庭教師。まあ概ねその認識で相違ないよ。荒耶が留守の間は私が君に勉強を教えることになる」
「でもわたし、学校に通ってないです」
「問題無い。高等部からの中途入学になるが場所は押さえてある。そして、その男も教員としてそこへ往く。差し障りは無い」
「……因みに、その学校の名前は?」
「私立礼園女学院」
「────────────────────」
運命づけられている。
浅上藤乃が礼園女学院に行くことは定められたことなのかもしれない。そうでないならば東京になんか来ることもなかったわけで、この男性と出会うこともなかったわけだ。
いよいよ物語の始まりは近いだろう。
───これは新伝奇と称された。
───これはポエムだだ漏れテキストと思われた。
───これは「らっきょ」と愛された。
───『空の境界』はもうすぐ生まれる。
「では、君の答えを聞かせてもらえるかな」
答えは既に決まっている。
「先生、よろしくお願いします」
お辞儀をしてほほえんで見せる。
こうなったら是が非でも抗っていこうじゃないですか。わたしを渦巻く死亡フラグの数々を捩じ伏せて、いや、ねじ曲げてやる!
男性はぽかんとした顔をしたがすぐに柔らかく微笑する。
「こちらこそよろしくお願いしますね、浅神君」
ああ、と思い出したように言葉を付け足す。
「私の名前は玄霧皐月。玄霧先生でもいいですよ」
魔法使いに近い魔術師は冗談交じりにそう言った。
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