【凍結】麻賀禮(まがれ) 作:あらやだ
不定期更新
一捻り
1990年。初夏。薄曇。
日本アルプスが赤石山脈の原生林。自然豊かな山域には人手が加えられておらず野性動物たちが伸び伸びと暮らしていたのだが、登山道が開拓されてから近々登山者がやってくるというのは想像に難くなかった。だがそれも広大な自然のほんの一部にしか過ぎないわけで、未開の地はそれこそまだ八割方も残っているのだ。
樹林を抜けた山腹では高山植物の花畑が広がっており、黄と白の絨毯が圏谷まで続いている。山谷風に吹かれて花が波打つ光景はどことなく厳かだった。
───だからか、そこに人間が、それも少女が佇んでいるのはとても奇妙で少女を花の精と思い込むことは仕方のないことだった。
元の色は白だったのだろう。土埃と草花のしみとでぼろぼろになった作務衣を身に纏ったおかっぱの少女。少女は花畑の真ん中で目下の花をじっと見つめている。やがてため息を吐くと踵を返し樹林の中へと消えていった。
───その両の手には球形のようなものが握られていて、回転しているように見えた。
☆
(だよなあ……。黄金長方形のスケールなんて早々理解できるわけがないか……)
少女の名前は浅上藤乃、転生者である。
二年前。当時八歳の藤乃に転生し、この世界が『空の境界』 の世界であると気づいた。そしてもうひとつ気づいたことがあった。なんとこの体は『痛み』を感じるのだ。
浅上藤乃といえば、退魔一族「浅神」の娘であり、実父・羽舟に能力が封じられてその後遺症により無痛症になった。その能力は「歪曲」。魔術と超能力の中間とされ作中最高の性能を誇る。
───しかし、転生の影響かは定かではないが無痛症は完治していた。つまり封じられた能力も解かれているということだ。
つまりは雑じり気のない純粋な超能力である。まあ残念ながら視線で回転軸を作ることに慣れず、手足で回転の軌跡を画くことでしか発生させることはできないが。
(イメージはSBRの回転の技術だけど、どうにも自然の中の「美」というものが感じとれない……。不完全な回転だ。『黄金の回転』じゃない)
右手で持つ鉄球を前方の木に投げつける。鉄球は樹皮に食い込んでさらに高速で回転した。そろそろいいかな。弾かれるように返ってきた鉄球を回収する。
すると木になった果実がぼとぼと落ちてきて、あっという間に地面を淡紅色に変えてしまった。それらを懐から出した風呂敷に集めていく。
「はんぶんはおやつにして、のこりはジャムでいいかな」
中の実が潰れてしまわないように包んで風呂敷を肩からかけ、軽く膝屈伸や足首回し等の準備体操を行う。手をかざしながら太陽を見上げる。この時季だからだいたい九時といったところか。
「じゅうにじまでにはかえれるな」
疾走。不整地で足下がおぼつかない山中を全力で駆け抜けていく。野犬もかくやといった具合に木と木の間、崖を跳び越えて下山していた。
浅上家は現在、羽舟と麻雪が離婚し借金の肩代わりとして母親が康蔵と再婚した。そこで藤乃は母親と共に行くのではなく康蔵の両親つまり義祖父母の家に引き取られたのだ。
それは自分が麻雪の本当の娘ではないという後ろめたさや罪悪感もあったのだが、第一に今後のことを見据えての判断だった。
お祖父さんお祖母さんは山奥の拓けた土地の茅葺き屋根の合掌造りに住んでおり、電気や水道のない昔ながらの家で生活していた。不便ではあるのだが、この環境は修業には打ってつけだったためそれほど苦ではなかった。
初めは薪割りや水汲み、釜焚き等々十歳でしかも女の子の体では大変な重労働だったがこの先生きのこるため弱音を吐かずに毎日清々とやり続けた。
距離感が掴みかねていた家族間もぎこちなさが取れ、お祖父さんには魚釣りや山菜の見分け方を教わり、お祖母さんには縫い物や料理を教わった。
お祖父さんお祖母さんには山で遊んでくると伝え、こうして能力の修業を行っていた。当初は回転すらままならない鉄球だったが一月分の鍛練の甲斐もあってLESSON3までは会得できたのだが、LESSON4は非常に難しく滞っているというわけだ。
(うーん。子どもの感性だから「美」というものが分からない? いや、普通に綺麗だと感じるしなあ)
急斜面を三段跳びの要領で下っていく。着地に失敗しないよう滞空時間で状況を判断し、上体を捻って落下位置を修正する。
この修業をはじめたばかりのときに一度失敗して崖から転がり落ちた経験があるので十分に注意したうえでのことだった。
不幸中の幸い。このときに鉄球の回転がある程度形になり、体を硬質化させることで大怪我を負うことなく下山できたのだから。悲しいことに作務衣はずたずたになり棄てる羽目になったのだが。
(鉄球の回転だけじゃ手札が少ない。もっと何か技術がほしい。歪曲……回転軸……回転……螺旋……ドリル……ネジ……)
頭の中で関連する単語を連想していく。なにか応用できるアニメや漫画の能力がないだろうか。できれば近接戦向けのやつが。
──────────あった!
ラブコメディ、バトル、サイコスリラー! 武闘派女子高生の恋とバトルを描いたハイテンションマンガが!
☆
少女が去った後の花畑に巨大な黒い影が表れた。それは隣の山で獲物を狩り尽くし同胞をも喰らった食肉類。それは遭難した登山者を襲い殺しその遺体を貪った殺人獣。
ツキノワグマ。いや、ツキノワグマによく似た何か別の生き物だ。なぜならその身の丈は樹木より高く、三日月の斑紋を袈裟切りしたような赤毛が交えている。蝦夷のエゾヒグマも上回るその体躯は例えるなら「魔物」が相応しい。
熊は頻りに辺りの匂いを嗅ぐと藤乃が帰った道を睨み付け、その後を辿っていった。
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