文香と付き合って、もう随分経つがまだ一年経っていない。そんな複雑な時期だが、付き合い始めて三ヶ月、半年、一年というのは恋人が別れる周期らしい。
三ヶ月と半年はもう知らない間に超えたし、もうすぐ一年という新たな山場がある。原因はマンネリ化らしいし、俺も特に何か変化を生じさせられているわけでもないのに、文香は毎日楽しそうに俺と暮らしてくれている。
向こうはアイドル、こっちは受験生とお互いにマンネリ化が加速しそうな時期であるのに別れる気配すらないのは、恐らく文香の感受性が豊かであるお陰なのだろう。何せ読書マニア過ぎてラノベの世界すら受け入れた子だから。
さて、一方、俺はと言うと。
『芸能人、運動音痴選手権。続いてのランナーは、鷺沢文香さんです』
『……鷺沢文香です。運動は苦手なのですが、こう見えて力には自信があるので……青組の皆さんの脚を引っ張らないように、精一杯頑張ります……!』
『へぇ、力持ちなんだ?』
『……いえ、力持ちという程ではありませんが……以前まで、叔父の本屋のお手伝いをしていましたから……。大量の本を運んで本棚にしまったりしている間に、いつの間にか力がついてしまって……』
『え、じゃあ力入れたら体操服がパッツンパッツンになってマッチョになったりするの?』
『……いえ、ビスケではないので……』
『え、ハンターハンター読んでんの?』
『あ、いえ……そ、その……キルアが、好きです……』
『読んでんだ!』
……なんか墓穴を掘ってんだけど、とにかくいつものバンダナを青い鉢巻きに変えて、ブルマの体操服姿でインタビューを受けている文香が表情豊かにテレビに映っていた。
具体的に言えば、気合の入った表情の後、素敵な笑顔で本屋の事を語ったと思えば、苦笑いでビスケを否定し、最後は恥ずかしそうに趣味を漏らした。
俺と出会ったばかりの時にテレビで見た時は、まだ表情は硬くて緊張しているのが俺でも分かったのに、今では大分慣れたようだ。いや、趣味を吐露している時点で完全に慣れたわけでは無いようだが。
そんな文香を、文香の服をアイロン掛けながら眺めていた俺は、思わず悔しげに下唇を噛み締めた。
「ッ……」
……羨ましい。うちにいる時は、俺の作った飯を食べてくれて、ゲームの相手をしてくれて、勉強を見てくれて、一緒に寝てくれる間、ずーっとニコニコしているのに。
昔は悪戯のつもりで、わざと文香が見える位置でぐらんぶる読んだりして怒られたりしていたが(梓さんの「エッチしよっか?」の時は本気で怒られた)、今ではむしろ文香がBLモノのエロ同人誌を読んでるくらいだ。今年はコミケ行けました。
「……いや、そんな事どうでも良くて」
昔は俺が洗濯してる時に文香の下着を畳んだり干したりと触れる機会があっても、今では平気な顔をしている。
とにかく、あの初々しさが今でも欲しい。や、マジで。喜怒哀楽二十面相している文香が見たい。勉強をサボったら烈火の如くキレられるが、あれは怖いので却下。
「……よし、オペレーション・かまちょ、決行だ」
やるぞ……俺!
×××
「ただいま〜」
文香が帰って来て、早速出迎えに行った。
「おかえり」
スリッパを出してあげて文香の前に揃えて置いた。中に小さいクモのおもちゃを入れて。
「……ありがとうございま……きゃわっ⁉︎」
足を入れた直後、謎の感触が足の裏に触れたのだろう。可愛らしい悲鳴が漏れた。思わず後ろに飛び退き、玄関に尻餅をついてしまうのを、慌てて俺は手を差し伸べて支えた。ヤバい、やり過ぎたか?
「ちょっ、危なっ!」
「あ、す……すみません‥‥何か、スリッパの中に何か……!」
……あれ、予想以上に怯えちゃってんな。虫苦手だったっけ? いや、正体不明なのが怖いんだよな。そういうものだ。お化けもいきなり出て来られるよりジワジワと怪奇現象が起こった方が怖いし。
とりあえず、スリッパをひっくり返してクモのおもちゃを落とした。ポテッとクモが姿を現した時は「ひっ」と声が漏れたが、それがおもちゃだと分かった時、ジトーっとした目つきが俺に向けられるのが分かった。
「‥……千秋くん?」
「あ、いや……や、安かったから……」
どんな言い訳だよ、と自分でも思ったわ。安けりゃなんでも買うのかよ俺は。
意味のない悪戯、と理解したのか、文香はポカポカと虎の背中を叩いた。
「どうしてこんな事急にするんですかー!」
「ご、ごめんごめん。魔がさした」
ガチで怒られる、かとも思ったが、普通に可愛く怒られた。気持ち良い。
クモのおもちゃをポケットにしまうと、改めてスリッパを揃えて置いた。
「飯できてるよ。今日は青椒肉絲だよ」
「……美味しくないと許しませんからね」
「大丈夫、バカ美味いから。あ、先シャワー浴びる?」
「……いえ、ご飯が冷めてしまいますから。手を洗って来ますね」
文香が手洗いうがいをしている間に、青椒肉絲と白米と味噌汁を机の上に並べた。
牛乳を注いでると文香が出てきて席についたので、俺も向かいの席に座った。
「……ほ、本格的ですね」
「やるからには本気だから」
「‥……その調子で勉強も頑張って欲しいのですが」
「最近は頑張ってるから言わないでくれると嬉しいです……」
くっ……意地の悪い奴め……。まぁ良いさ、本番はここからだ。今後の信頼に関わるため、食事に何かを加えるとかそういうのは無しにしたけど。
「そういや、今日見たよ。芸能人運動音痴選手権」
「あうう……見てしまいましたか……黙ってたのに」
「リレー超遅かったな。一位だったのに3人に抜かれてたでしょ」
「こ、転ばなければ抜かれてたのは一人だったはずなんです……!」
「しかも器用な転び方してたよね。バトン落として拾おうとしたら踏んづけて後ろにひっくり返ってたでしょ」
「せ、説明していただかなくて結構です!」
恥ずかしそうに赤く染まった頬を隠すように、お味噌汁を飲んで顔を背ける文香はとても可愛かった。久々に見たな、この表情。
「あ、勿論だけど録画してパソコンに保存して編集してあのシーンだけスマホに入れておいたから。いつでも見れるよ」
「そこまでしたんですか⁉︎」
「特に転んだシーン、カメラマンの位置が良くてブルマがパンツに見えてとてもエロかったよ」
「け、消してください!」
「メモリーだから」
「トラウマです!」
顔を真っ赤にして机の上に置いてある俺のスマホに手を伸ばしてきたが、それを躱す。
「大丈夫だよ。誰かに見せたりしないから。……てか、全年齢版パンチラ文香とか誰にも見せたくないし」
「そのワードの最後に私の名前を付けるのやめて下さい! ……というか、全年齢版パンチラってなんですか⁉︎」
「パンツが見えていないのにパンチラにしか見えない光景」
「で、ですから説明していただかなくて結構です!」
ああ……恥ずかしさのあまりめちゃくちゃな事言ってる文香可愛い……。
ニマニマと緩みそうになる表情筋を必死で抑えつつ、とりあえず諦めるように落ち着けてあげることにした。
「そもそも、もう全国放送されちゃってるから」
「うう……そ、そうでした……」
渋々、諦めたように座り直す文香。いい加減、食事が進まなくなるし、これ以上、この話題でいじるのはやめておくか。
いじけたように食事を進める文香が、今にもぐすんとしゃくり上げそうな表情でボソリと呟いた。
「もう……なんだか今日の千秋くんは意地悪です……」
「泣くなよ。デザート用意してあるよ、ミルクプリン」
「し、仕方ないから許してあげます……!」
チョロい‥‥少し前にダイエットで苦労したばかりなのに……。
食事を終えて、俺が洗い物をしている間に文香にはデザートを出しておいた。
夏にやる洗い物は割と心地良いんだよな。水が冷たくても地獄じゃない。逆に冬は地獄だ。お湯を出せば良いって? ガス代が勿体無い。
さっさと洗い物を終えてリビングに戻ると、文香はミルクプリンに手をつけずにソファーの上で待っていた。
「食べないの? 明日にする?」
「……いえ、千秋くんと一緒に食べようと思って、待っていました」
「……」
くっ……やっぱり良い子だ……! とても20歳を超えているとは思えない程の純粋さ……! BLのエロ同人は持っているけど……!
……なんか、もうあんなガキっぽい悪戯やめておこうかな。なんかバカバカしくなって来た。本当はあと一つ考えてあったんだけど……うん、やめよう。いつでも喜怒哀楽した文香が見れる事は分かったし。
デザートのミルクプリンは文香の分しか買えなかったから一つしかないのに、わざわざ待っててくれた文香の隣に座る。
「……せっかくですし、ゲームでもやりながら食べませんか?」
「良いね」
そんなわけで、プレ4のコントローラを手に取り、真ん中のボタンを押した。スイッチが入り、ゲームが起動する。
「何やる?」
「……ボンバ○マンで。対戦しましょう」
「罰ゲームはどうする?」
「……もちろん、有りです」
と、いうわけで、ディスクを入れ替えた。ゲームを起動すると、文香が隣でプリンの蓋を開け、スプーンで掬った。
「‥……千秋くん、あーん……」
「ん、良いの先?」
「……良いですよ?」
うん、もう絶対にバカな真似はしない。こんな良い彼女がいて、俺は何をしているんだ……でも、あの動画は永久保存だけど。それとこれとは話が別だから。
お言葉に甘えて一口いただいた時だ。するっ、とポケットから何かを抜かれる感触があった。
その時には遅かった。文香はポケットから俺のスマホを抜き出していた。
「ちょっ、おまっ……!」
「……動画は削除します。パスワードは……1027、ですか?」
「当たり!」
こ、この野郎……てかどこでそんな真似覚えたコラ⁉︎ ていうか、いくらなんでもそんなスるような事はないんじゃないんですか!
結局、動画は消されてしまった。あんまりだよね、いくらなんでも。まさか、デザートを食べるの待ってたのも、ミルクプリンをくれると言い出したのもそのためか? 何それ泣きそう。
「……さて、では始めましょうか。千秋くん?」
「罰ゲーム、有りだったな?」
「……はい」
「やろうか」
さて、ボンバ○マン開始だ。このゲームと桃鉄ほど、プレイヤーの性格が出るゲームはない。性格が悪い奴ほど、ねちっこいプレイをするものだ。
「〜〜〜っ!」
結果、文香は涙目で俺の頬を抓っていた。
「もうっ、もうっ、もうっ……! なんですか今の⁉︎ もうずるいです!」
「ずるくない。ルールに則ってまーす」
「う〜……! なんですか今日は⁉︎ 子供みたいな意地悪ばっかして……!」
「……」
理由を問われ、思わず俺は目を逸らした。だって究極的に言えば「かまって欲しくてちょっかい出した」って理由なんだもん。言えません。
しかし、その態度は良くなかったようだ。
「……ふぅーん、そうですか。そう言う態度を取りますか」
「な、なんだよ……?」
「……そう言う態度をとるのであれば、お姉さんにも考えがあります」
……あれ? なんか嫌な予感が……てかなんかキャラ違くない? と、背筋を冷たくしたのも束の間、文香が指を俺の脇の下に突き刺さり、指先をこまめに動かし始めた。
「わっひゃっひゃっひゃっ! ちょっ、文香……待っ……!」
「……言いますか?」
「言う言う言う言う! 言うからやめっ……ひゃっひゃっひゃっ!」
自白に拷問も人情も飴も鞭も必要ないと悟った。ようやく手を離された時には虫の息、ヒーヒーと声を漏らしている俺に、文香は微笑みながら聞いてきた。
「……それで、どうしたんですか?」
「いや、その……何。テレビだと色んな表情してたのに俺と一緒の時はいつもニコニコしてたから……ちょっと、困らせてみようかな……なんて」
「……そうですか?」
「そうだよ」
すると、文香は少しも照れた様子を見せる事なく、むしろ大人の笑みを浮かべながら答えた。
「……仮にそうだとしたら、それは千秋くんと一緒だと幸せ過ぎて、つい笑顔になってしまうのかもしれませんね……」
「ーっ……」
クリティカルヒットした、今の。前まで「ポンコツ年上妹」みたいな感覚だったのに、今では5〜6個年上のお姉さんみたいだ。
「……すみませんでした」
「……ふふ、良いんです」
思わず赤くなった顔を右手で隠して顔を背けながら謝ってしまった。いつのまにか、俺はこの人に勝てなくなってしまっていた。