狸とグルメ 作:満漢全席
「それで昼飯はなにを作るんだサツキ。今日はハナビも居ねぇし、ツマミか?」
「まぁ待て砂狸、昼飯の前に作っときたい物があるんだ」
酒盛り気分でイケイケになっている砂狸を手で制す。
今から作るのはツマミではなく、ハナビ専用辛味調教、もとい調味料セットである。
「ハナビが最近、辛味に興味を持ち出しただろ?」
「ああ、そーいや蕎麦の時にもヒィヒィ言って泣いてたな……」
「だからよ、ハナビでも気軽に使える辛くない調味料のセットを作ろうと思うんだよ」
辛味とは痛みだ。つまり訓練すれば慣れる代物である。
ハナビくらいの年齢から徐々に辛味に慣れさせていけば、サツキと同い年になる頃には辛味の快楽を忘れられなくなった中毒者が出来上がっているはずだ。
「面白そうだが……そんなもん出来るのか?」
「へっ、そこがサツキさんの腕の見せ所ってやつさ」
朝のうちに商店街で買って来たブツを取り出す。
麻袋に詰められたそれを手に取った砂狸が、訝しげに呟いた。
「こりゃ……唐辛子だな」
「おう、唐辛子だ、乾燥させてある」
詰められていたのは大量の唐辛子だった。
真っ赤なそれは視覚からして辛味を感じさせる。
「……どう見ても辛そうだぜ、大丈夫なのかよサツキ」
「ま、騙されたと思ってかじってみろよ、砂狸」
「これをか?」
「これをだ、そのままな」
砂狸は言われるままに、ひょいっとそれを口の中に放り込んだ。
「ん? これは……」
「どうだ?」
「辛くねぇ! なんだこれ!」
唐辛子と一括りに言っても色々な品種がある。それこそ辛い物から苦い物まで。
極論を言えばピーマンやパプリカだって唐辛子の一種だ。実は交配も出来る。
「唐辛子も色々でな、パプリカなんかに味が近い品種だと辛くなくなるんだよ」
「へぇ、知らなかったぜ」
感心したように唸りながら、砂狸はもぐもぐと唐辛子を咀嚼している。
いくら控えめとは言ってもスルメみたいに噛みしめればそれなりに辛味が出てくるはずなのだが、平気そうな顔をしている辺りが恐ろしい。
「そういうわけで、コイツを使って各種調味料を作っていく」
「おう、なにから作るんだサツキ!」
「まずはシンプルに一味唐辛子からだな」
唐辛子を切り開いて種を取り出してから、実を粉々に砕いて粉末にする。一味唐辛子の完成である。
「……これで終わりじゃねぇよな、サツキ」
「当たり前だろ砂狸、こんなのは序の口さ」
「で、次はなにを作るんだ?」
「七味唐辛子だ」
「いや、なんとなく予想はついてたよ……ついてたんだけどよ……」
一味唐辛子は辛味だけ、一つの味しかないから一味と呼ばれる。ならば七味唐辛子の七味とはなんなのか。
したり顔でサツキが解説をする。
「七味唐辛子は、複数の香辛料を一味唐辛子に加えることによって完成する」
「そりゃ知ってるが、問題はなにを入れるのかってことだろ?」
「地方によっても色々とあるんだけどな」
陳皮、山椒、芥子、麻、胡麻、この辺りがオーソドックスな材料だ。場所によっては黒い七味唐辛子なんて珍しいものもある。
他にも紫蘇や海苔を加える場合もあるのだが、今回はこれだけで行きたいと思う。
「砕く、混ぜる、完成だ」
「なぁサツキ、料理なのかこれ……」
「調味料を用意するのも料理だ、覚えておけ砂狸」
そして次が今日のメインとも言える調味料。
「ずばり、ラー油を作る」
「ラー油? あの赤くて辛いアレか?」
「そうだ」
ラー油というと餃子のお供みたいなイメージがあるが、実際のところあれは香味油の一種だ。ニンニク油やネギ油の仲間なのである。
つまりなにが言いたいのかと言えば、料理に使えるのだ。普通の油の代わりに使えば、料理が一気に香り高くなる。
「ハナビの舌に合わせて辛い料理は今まで控えてきたが……コイツが完成すればそれも終わる……」
「料理の幅が広がるってことか……いいぜサツキ、早速やろう!」
砂狸は早速乗り気になっている。コイツの場合は辛い物好きというより一種のキワモノ食いなのだが、その件については今回は置いておこう。
そういうわけで今日のメイン、辛くないラー油を作っていきたいと思う。
「まずは菜種油だ、こいつを中華鍋一杯に注ぎ込む」
「よっと……こんなもんかサツキ?」
「ああ、そうしたら火にかける前に、各種薬味と香辛料を放り込む」
ネギ、生姜、ニンニク、花山椒、八角、桂皮、陳皮。これらを菜種油の中に沈める。
「そして火にかける。弱火でジックリと煮出すイメージだ」
「なぁサツキ」
「なんだ砂狸」
「これひょっとして、凄まじく時間がかかるアレじゃないか?」
「その通りだ」
やることは簡単なのだが、この油で煮出す工程にえらく時間がかかるのだ。
「……暇だな、サツキ」
「ああ、暇だな砂狸」
「……放ってくのはダメなのか」
「油を火にかけた状態で目を離してはいけない、料理の鉄則だ」
じゅわじゅわと音を立てて、ゆっくりと沈めた素材に火が通っていく。それに伴って、厨房中に豊かな香りが漂い始めた。
「なぁサツキ……なんかツマミとかねぇか?」
わかっている、皆まで言うな。
今の工程は要するに香りの立つものを油で揚げている状態なわけだから、凄まじく良い香りがする。簡単に言えば腹が減る。
砂狸の体は本体ではなくあくまで分体であるため、腹が減るというよりは単に食欲が刺激されている状態なのだろうが、その気持ちは良くわかる。
「まぁ、待て砂狸。今はただ、待て」
「くそう、生殺しだぜコイツぁ……!」
ちゃんと作り終わったら美味い料理を食わせてやる。だから耐えるのだ。
待っている間に月刊木ノ葉の料理でも読もうかと思ったが、表紙を見てやめた。よりにもよって辛い物特集である。余計に腹が減りそうだ。
二人でジッと中華鍋を見つめる。ただただ無心に、口の中で溢れる涎を飲み込みながら見つめる。
「……サツキ、素材が狐色になってきたぜ」
「ならそろそろ次の工程に移るか」
火力を最大に、一気に油の温度を上げる。
「そして限界まで加熱した油を、唐辛子の入ったボウルにドーン!」
ジュワっと唐辛子が大量の油に浸かる音と共に、厨房中にコクのある香りが一気に広がる。
すんすんと鼻を鳴らした砂狸が呟く。
「サツキぃ……こりゃなんだ? 嗅いだことのない香りだ……」
「これはな……唐辛子の香りだよ、砂狸」
「唐辛子の?」
「ああ、唐辛子にも香りってもんがあるのさ」
この唐辛子から抽出されたコクのある香りが、料理に深みを持たせるのだ。
ラー油というのは四川料理において、それだけ重要な調味料なのである。ちなみにこの世界における四川料理やら中華料理がどうやって発展したのかは深く考えてはいけない。
「後は粗熱を取ってから、こし布でこす。そうしたらラー油は完成だ」
「へぇ、時間はかかるが意外と簡単なんだな」
そうだ、簡単なのだ。
だが製法が簡単であるだけに、ラー油を筆頭にした香味油の世界は奥が深い。
「どうだ、味見してみねぇか、砂狸」
「ラー油をか?」
「普通のラー油なら辛すぎて無理だが、こいつなら味見できる」
上の澄んでいるところを小皿にとって、砂狸に渡す。
まるで出汁の味を確かめるかのような軽い動作で、砂狸はそれをぐいっと傾けた。
「……ほぅ、こりゃすげぇ……辛さは控えめに、素材の香りとコクが凝縮されてやがる」
「こいつを使えば辛さを控えめにしつつ、素材の味を最大限に引き出せるのさ」
「俺様ならコイツだけで酒が飲めるな!」
「絶対にやるなよ、お前のツマミじゃねぇんだからな?」
「わかってるよ、わかってる」
砂狸の言葉を信用してはいけない。完成したらハナビ専用と書いたツボにでも入れて、厳重に保管しておこう。
「さて、今日の昼飯はラー油の旨みをダイレクトに楽しめる料理にしようと思う」
「当ててやるぜサツキ……ずばり麻婆豆腐だな?」
「……よくわかったな」
「商店街で買ってた豆腐と挽肉、そこにラー油と来たら麻婆豆腐しかねぇだろう」
「そりゃそうだ……だがこれまでは読めたかな!?」
サツキがそう言って取り出したのは一升瓶。中に収められているのは、紅玉と表現するのが相応しい美しい液体だった。
「さ、サツキ……こいつぁ……」
「さっきのがハナビ用の辛くないラー油、そしてこっちが俺達用の激辛ラー油……あらかじめ作って置いたのさ!」
「激辛……!」
辛くない唐辛子を使えば、辛くないラー油が出来る。
ならば辛い唐辛子を使うとどうなるのか。簡単だ、激辛ラー油が出来るのだ。
「熱した中華鍋に、こいつを投入する」
それだけでツンと辛い香りが瞳と鼻腔を刺激する。同時に様々な香味の香りがわっと湧き出る。
「ここに刻んだニンニクと生姜!」
さらに香りが爆発する。鍋全体を使って油に新鮮なニンニクと生姜の香りを移していく。
「香りが立ったら、ここに豚挽肉を入れる!」
ただでさえコクのある油の中に、さらに豚の旨みがプラスされる。
水分が出やすいので、ここは強火で一気に炒める。
「炒め終わったらここで三種の
すなわち、豆板醤、甜麵醬、豆鼓醬である。
三種の醬を組み合わせることによって、麻婆豆腐の味にさらなる深みを与えることが出来る。
「今回は激辛に仕上げるため、豆板醤を多めに使う」
じゃかじゃかと鍋を掻き混ぜれば、だいぶ麻婆らしい見た目になってきた。
「砂狸、スープの準備は出来てるか!?」
「ああ、もってけサツキぃ!」
グラグラと煮える鍋の中に、鶏ガラベースのスープを投入。本当ならスープから拘りたかったが、今回は時間の関係で顆粒出汁を使った。
そして火力を最大に。超高温でスープを蒸発させることによって旨みを凝縮するとともに、アクなどの雑味を中華鍋の縁に焦げつかせて取り除く。
「よし、次は豆腐だ砂狸!」
「あいよっ!」
豆腐は賽の目に切り、湯通しをしておく。こうするとツルリとなめらかな食感になる。
水気をよく切った後、グツグツと煮えたぎる中華鍋に豆腐を投入。麻婆のスープと一気に絡めていく。
「最後は片栗粉ぉ!」
「よっしゃあ!」
水溶き片栗粉を回しかけ、スープにとろみをつける。本場では使わないらしいが、今回はお米との相性を考えて使うことにした。
刻んだネギを添え仕上げにラー油を回しかければ、特製激辛麻婆豆腐の完成である。
「さぁ……実食だ」
「ああ、待ちかねたぜサツキぃ!」
それでは実食に移りたいと思う。
今日は二人でちゃぶ台を囲む。中央には麻婆が煮えたぎる中華鍋が豪快に置かれていて、各自が自由にそこから取り分ける形式だ。
ご飯が山のように盛られた茶碗とレンゲを装備し、いざ食事の時間である。
「それじゃ、いただきます!」
「いただくぜ!」
麻婆をこれでもかとレンゲで掬い、一気に口の中に放る。瞬間、ラー油の風味が口内を突き抜けた。
「くぅっ!」
舌を襲う暴力的なまでの辛味に思わず声が漏れる。ピリピリと舌を焼くような痛みが心地いい。
豆腐はツルリと口内でほどけ、残った挽肉は噛めば噛むほど旨みが迸る。シャキシャキとしたネギは香りもさることながら、食感が素晴らしいアクセントだ。
そして辛味が過ぎ去った後に残るのは、三種の醬が織りなした深いコクの余韻。思わず砂狸と顔を見合わせた。
「サツキ……こいつぁ……」
「ああ、傑作だ」
今度は白米と一緒に頂く。とろみをつけた麻婆は白米によく絡むのだ。これは間違いなく美味い。
白米の上に麻婆を乗せて掻き込む。ラー油の香り高い辛味が白米をもっと寄越せと舌の上で暴れる。その欲求に従い、さらに白米を掻き込む。延々と続けていたくなる美食のスパイラル。
額から汗が噴き出してくる。唐辛子に含まれるカプサイシンの作用だ。
「さ、サツキ! アレは、アレはないのか!?」
「皆まで言うな……用意してある」
中毒者のように叫ぶ砂狸に、見せつけるようにしてその瓶を差し出す。
麻婆の基本の味は二つ。一つは
そしてもう一つ、重要な味がある。それが
「
花椒とは仄かな柑橘系の風味と舌が痺れるような味を持つ香辛料の一種。
あまり馴染みのない香辛料であるが、味の種類としては山椒が近いだろうか。本場ではこの花椒を山のように麻婆へと入れる。
「これだ、これが欲しかったんだサツキぃ!」
砂狸はバッサバッサと積もるほどの花椒を己の麻婆へと振りかけると、それを口に含みつつヒィヒィと快感の悲鳴を上げる。
サツキもそれに倣って花椒を振りかけ、麻婆を口に含む。舌を焼くような辛さに加え、痺れるような刺激。これこそ麻辣の神髄。
あまりの刺激に思わずヒィヒィと舌を出して喘ぎたくなるのだが、それよりもレンゲが止まらない。止まってくれない。憑りつかれたかのように、二人で一心不乱に麻婆を掻き込む。
カラン、と音を立て、空になった中華鍋に二つのレンゲが同時に放り込まれた。そしてこれまた同時に、キンキンに冷えた氷水をゴクゴクと飲み干す。
「くぅっ!」
「かぁっ!」
バタリと後ろに倒れ込む。砂狸はコロコロと転がっていく。
辛味とは戦いだ。その戦いによってサツキも砂狸も、精魂ともに尽き果てていた。
短くとも、とてつもなく激しい戦いがそこにはあったのだ。
「……なぁサツキ」
「どうした、砂狸」
「ハナビもいずれ、この領域に来るんだよな?」
「ああ、来させる……俺達が連れて来るんだ」
サツキの視線の先にあったのは、ハナビ専用香辛料セット。
これを使ってハナビの舌を一から調教する。そしていずれはサツキ達の領域にまで届かせる。
二人で顔を見合わせて、ニッと口の端を吊り上げる。ハナビの将来は明るい。
今日も満足の一品であった。
花椒を入れないと麻婆らしくないんじゃないかな、と最近感じる所存。
書いてる本人は絶妙な具合に調教済です。