アルビオンの隠れ港の中。
ニューカッスルから逃げゆく人々に混じって、ジェヴォーダンもイーグル号に乗り込むための人々に混じり、列に並んでいた。拿捕されたマリー・ガラント号にも、人々が乗り込むようだ。
「それにしても意外だな」
デルフリンガーが呟く。
「相棒、ほんとに先に帰る気かよ? しかも娘っこに一言もかけねえなんてさ」
「仕方なかろう。これを逃すと、俺もいつアルビオンから出られるかわからん。ルイズのことは確かに気にかかるが、子爵が付いていればひとまずは大丈夫だろう」
「なんだ、あれだけあの子爵様を疑ってたのに」
ジェヴォーダンが最後まで内通者ではないかと踏んでいたのは、他ならぬワルド子爵。しかし、ジェヴォーダンは首を振った。
「残念だが、子爵はアリバイ付き。その上あれほどの阿呆ときた。貴族というやつはどいつもこいつも、栄誉だ名声だなんだと一つ覚えで頭にくる」
貴族というものの考え方には、心底愛想が尽きている。ジェヴォーダンにしてみればもはや貴族というものに対する共通認識である。ルイズのように芯と誇りある貴族の例を全く見ることができないのだから、仕方がない。
「違いないな。しかし相棒、先に帰ってたってどうする気だい?」
「どうもこうもない。ルイズは婚姻を終わらせて帰り、まずは姫殿下への任務達成の報告、その後は……ふむ、果たしてそのまま使い魔を続けられるかどうか」
「なんでまた?」
「あの子爵が、俺をルイズの側に置くと思うか? 難癖をつけて引き剥がすだろうな。ヤーナムヘ帰る方法を探すにしろ、学園に残って使い魔を続けられる方がよっぽど都合がよかったのだがな」
「はっはっは、まぁ違いないや。もしつまみ出されるようなら、その時は相棒、傭兵でもやるかね?」
「傭兵?」
素っ頓狂な声で聞き返す。
「そう、剣一本担いであっちの戦場からこっちの戦場へ。その日暮らしだ、悪くないもんだぜ。なぁに、俺と相棒なら、並大抵のやつには遅れを取らんよ」
デルフリンガーが鍔をカチカチと鳴らす。どうやら笑っているようだ。
「見てくれは錆び剣だがな。格好は付かんぞ」
「手厳しいねえ。まぁそんな傭兵も悪くはないだろ。ところで相棒、この前、ちょっと思い出したことなんだが……」
「なんだ?」
「あぁ。相棒、『ガンダールヴ』とか呼ばれてたよな?」
「あぁ、伝説の使い魔だとかいう。だが、どうだろうな。実際に伝えられているガンダールヴの姿と俺とでは、かなり差があるように思える。本来はいかなる武具をも使いこなす、始祖ブリミルの詠唱の守り手だそうだが……」
「あぁ、それだそれ。その名前がなぁ……いやぁ、ずいぶん昔のことでな。なんかこう、頭の隅に引っかかってるんだが……」
あぁ、だのふむ、だの、デルフリンガーは何度も唸ってみせる。ジェヴォーダンも、釣られて思わずうーむと唸る。
「どうだろうな。俺に現れた力はあらゆる武具を使いこなすというより、純粋に自分自身の力の増強に感じられるものだったからな。しかし、俺にはガンダールヴよりブリミルの方が気になる。始祖だなんだと言うが、大抵そういうのは上位者の無頼だからな。それが……」
「『上位者』?」
唐突にデルフリンガーが、ジェヴォーダンの言葉を遮った。
その声色の違いに、ジェヴォーダンも思わず言葉を止める。
「なんだ?」
「上位者、上位者? ガンダールヴ、あぁ、あー……あれぇ、なんか、思い出しそうな……」
ブツブツとそんなことをつぶやき始めるデルフリンガー。ジェヴォーダンが聞き返そうと思った時、艦に乗り込む順番がジェヴォーダンにも回ってきた。タラップを登ると、さすがは難民船といったところで、人がぎゅうぎゅうに押し込まれていて甲板に座り込むこともできない。
ジェヴォーダンは次々乗り込んでくる人の波にもまれながら、必死にデルフリンガーに声をかける。
「デルフ、お前何か知ってるのか、上位者について」
「何だろう、えらい頭の隅にひっかかる。上位者、ガンダールヴ、ブリミル……えーと、あーっと」
うんうんと唸るばかりのデルフリンガー。人垣の中で足を踏まれ、ジェヴォーダンは小さく舌打ちをする。舷縁にのりだして、抜き身のデルフリンガーを手に持った。
「気のせいじゃないのか? お前の記憶はあまり当てにならん。だいたい頭の隅というが、お前の頭はどこにあるんだ?」
「んー、たぶん柄」
それを聞いてジェヴォーダンはフンと鼻で笑う。そして、何気なく呟いた。
「なんだ、柄に上位者の精霊でも宿ってるとでも言うつもりか」
ジェヴォーダンにしてみれば軽い冗談のつもりだった。頭の中に何かがひっかかるなどと言われて、自分に思い当たるものとすれば精霊くらいしかいない。そんな程度の軽い言い回しのつもりだった。
そんなジェヴォーダンの手の中で、デルフリンガーがひときわ大きくガチリと鳴いた。
そんな頃、始祖ブリミルの像が神々しく鎮座する礼拝堂で、ウェールズ皇太子は新郎と新婦の登場を待っていた。周りに他の人間はいない。皆、戦の準備に駆られているのだ。
ウェールズは皇太子の礼装に身を包んでいた。王家の象徴たる明るい紫のマント、帽子にはアルビオン王家を象徴する7本の羽がついている。
扉が開き、ルイズとワルドが現れた。ルイズは、ワルドに促されてただ歩くのみ。呆然とした様子だった。
ルイズは戸惑っていた。今朝突然ワルドに起こされ、何もわからずここまで連れてこられた。
とまどいはした。が、ルイズは死に戦へ赴くアルビオンの人々の様に当てられ、半ば自暴自棄な気持ちになっていた。それに、昨晩から姿の見えないジェヴォーダンの事も気にかかっていた。
ワルドから、あいつが先にトリステイン行きの船に乗り込んだと聞いた。たった一声もかけず、あいつは行ってしまった。その突き放すような事実がルイズをひどく落ち込ませた。
ワルドは「今から結婚式をするんだ」と言って、アルビオン王家から借り受けた新婦の冠をルイズの頭に乗せた。冠には魔法の力で永遠に枯れぬ花があしらわれ、清楚で美しいつくりだった。
そしてワルドはルイズの黒いマントを外し、やはりアルビオン王家から借り受けた純白のマントを羽織らせた。新婦のみが身につける、乙女のマントだ。
だが、そこまでされてもルイズは心ここに在らずに呆然としているのみ。その沈黙を、ワルドは肯定の意と受け取った。
始祖ブリミルの像の前、ウェールズに向けて、魔法衛士隊の制服に身を包んだワルドが一礼する。
「では、式を始める」
王子の声がルイズの耳に届く。が、その声はどこか遠くのもののように朧げだった。
「新郎、子爵ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド。汝は始祖ブリミルの名において、このものを敬い、愛し、そして妻とすることを誓いますか」
ワルドは重々しく頷き、杖を握った左手を胸の前に置いた。
「誓います」
ウェールズはにっこりと頷き、続いてルイズを見やる。
「新婦、ラ・ヴァリエール公爵三女、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール……」
ウェールズが誓いのための
相手は、憧れていた子爵、ワルド。2人の父が交わした婚約。幼い心の中、ぼんやりと想像していた未来。
ワルドのことは嫌いではない。恐らくは、好きなのだろう。
ならば、何故こんなにも……恐ろしいのだろう。
どうしてこんなにも、恐怖に震えているのだろう。
滅びゆく王国を目にしたから? 望んで死に向かう王子を目にしたから?
違う。悲しい思い出が生むのは悲しみだ。気持ちを落ち込ませこそしても、それが恐怖にすり替わることなど、ない。
ワルドのことが怖いのだろうか。それも違う気がする。頼もしく、そして憧れていたワルドが隣にいて、恐怖を感じるはずがない。
違う。
私は今、何か別の理由で怖いのだ。それはこの結婚式や、これまでの状況とはなんの関係もない。今、この瞬間が怖いのだ。
何故怖いのか。何が怖いのか。ルイズはその虚空を、捉えた。
ジェヴォーダンの事を思い出す。あいつが出てきた、あの夢。あの最後、降りてきた赤い月。あの時に感じた、頭の中で蠢いていたものはなんだったか?
あいつは今日、私に何も声をかけずに行ってしまった。
舷縁にいた幾人かの人々は、ジェヴォーダンと共に唖然としていた。ジェヴォーダンの手の中、握られた剣が、突然青白く光り輝きだしたのだ。
「デルフ、お前……!?」
驚きの声を上げるジェヴォーダンの手の中、まばゆく光るデルフリンガーが、ガチリと鍔を鳴らした。
『思い出した!』
今やデルフリンガーに浮いていた錆は跡形もなく消え、まさに今研ぎ澄ましたがごとき美しい刀身が露わになる。その刃はほのかに青白く、ちらちらと光が走るのが見て取れる。そしてこれまでとはまるで雰囲気の違うはっきりとした口調で、デルフリンガーは語りだした。
『思い出したぞ! 六千年も前のことですっかり頭から抜け落ちていたが、私はお前に握られていたぞ、ガンダールヴ! いや、今代はこう呼ぶべきだな、月の香りの狩人よ!』
ジェヴォーダンは驚きのあまりデルフリンガーを取り落としそうになった。この剣は、つい先ほどまで間抜けな声で喋るだけだったこの剣は今、なんといった?
「貴様、俺を……!?」
『まぁ待て狩人よ。私が表に出られるのはほんの僅かな時のみ、その間に伝えねばならぬことは山ほどあるが……どうやら時間は無いようだ。貴公、瞳を開くぞ、見えるか』
「何、っ!?」
頭の理解が追いつかないままに、ジェヴォーダンは左眼に違和感を覚える。そしてその歪んだ視界が像を結び、そこに映した景色がなんなのか理解した時……ジェヴォーダンは、舷縁から跳ねた。
『私の精霊が貴公を導く。行け、月の香りの狩人よ! 主を護るのだ!』
「新婦?」
ウェールズの問いにルイズは答えない。ただ答えず、俯いているのみだ。
「緊張しているのかい? 仕方がない。初めての時は、ことごなんであれ緊張するものだからね」
にっこりと笑いながら、ウェールズは言う。
「まぁ、これは儀礼に過ぎぬが、儀礼にはそれをするだけの意味がある。では繰り返そう。汝は始祖ブリミルの名において、このものを敬い、そして夫と……」
だが、そんなウェールズの言葉の途中、ルイズは顔を上げた。そして遮るように、首を振った。
「新婦?」
「ルイズ?」
2人が怪訝そうな顔でルイズを覗き込む。ルイズは、悲しそうな表情で再び首を振った。
「どうした、ルイズ。気分でも悪いのかい?」
「違うの、ごめんなさい……」
「日が悪いなら、改めて……」
「そうじゃない、そうじゃないの。ごめんなさい、ワルド。私、あなたとは結婚できない」
その言葉に、ウェールズは首を傾げた。
「新婦は、この結婚を望まぬのか?」
「そのとおりでございます。お二方には、大変失礼をいたすことになりますが、わたくしはこの結婚を望みません」
ワルドの顔に、さっと朱がさす。ウェールズは困ったように首を傾げ、そして残念そうにワルドに告げた。
「子爵、誠に気の毒だが、花嫁が望まぬ式をこれ以上続けるわけにはいかぬ」
しかしワルドはそんなウェールズに見向きもせず、ルイズの手をとる。
「……緊張してるんだ。そうだろルイズ。ほら、手だってこんなに震えている」
「違うのワルド、これは……」
ルイズの身体は、恐怖にふるふると震えていた。先程からひと呼吸置くたびに、何かあってはならない恐怖を身体が吸い込んでいるように感じられて、仕方がない。
本当は今すぐにでもこの場から逃げ出したいのだ。その一心で、ルイズはワルドの問いかけを拒んだ。
だがワルドは、今度はルイズの肩を掴んだ。その目が釣り上がり、いつもの優しげな表情が消えた。
「世界だルイズ。僕は世界を手に入れる! そのために君が必要なんだ!」
豹変したワルドにさらに恐怖を覚えながら、ルイズは首を振った。
「……わたし、世界なんかいらないもの」
だがワルドは引かない。両手を広げると、ルイズに詰め寄った。
「僕には君が必要なんだ! 君の能力が! 君の力が! ルイズ、いつか言ったことを忘れたか! 君は始祖ブリミルに劣らぬ、優秀なメイジに成長するだろう! きみは自分で気づいていないだけだ、その才能に!」
「ワルド、あなた……!」
ルイズの声が震える。これは、ルイズの知っているワルドではない。優しかったワルドがこんな顔をして、叫ぶように詰め寄るなど。我を忘れたような剣幕で怒鳴り散らすなど。
これではまるで、獣ではないか。
恐怖で身のすくむルイズ。そんなルイズへのワルドの剣幕を見かね、ウェールズが間に入ってとりなそうとした。
「子爵……きみはフラれたのだ。いさぎよく……」
「黙っておれ!」
が、ワルドはその手を跳ね除ける。ウェールズはワルドの言葉に驚き、立ち尽くした。ワルドはルイズの手を握り、なおも凶暴な表情を浮かべルイズへ詰め寄る。
「ルイズ! 君の才能が僕には必要なんだ!」
「わたしは、そんな、才能のあるメイジじゃないわ」
「だから何度も言っている! 自分で気づいていないだけなんだよルイズ!」
ルイズはワルドの手を振りほどこうとしたが、その力は強く、握りつぶされるような痛みに顔を歪める。ルイズは涙を浮かべ、はっきりと言い切った。
「そんな結婚、死んでも嫌よ! あなた、わたしをちっとも愛してないじゃない。わかったわ、あなたが愛しているのは、あなたがわたしにあるという、在りもしない魔法の才能だけ。ひどいわ。そんな理由で結婚しようだなんて、こんな侮辱はないわ!」
ルイズはジタバタと暴れ、手を振りほどこうとする。ウェールズが見かねてワルドの肩に手を置き、引き離そうとする。しかし、今度はワルドに突き飛ばされた。
突き飛ばされたウェールズも、これには顔を赤くする。立ち上がると、杖を引き抜いた。
「うぬ、なんたる無礼! なんたる侮辱! 子爵、今すぐにラ・ヴァリエール嬢から手を離したまえ! さもなくば、我が魔法の刃が君を切り裂くぞ!」
それを聞いてか聞かずか、ようやくワルドはルイズから手を離した。そして、まるでそれまでのやりとりなどなかったかのように、いつもの優しい笑顔を被って、ルイズに微笑みかけた。
「こうまで僕が言ってもダメかい? ルイズ。僕のルイズ」
ルイズは怒りに震える声で言い放った。
「嫌よ。誰があなたと結婚なんかするもんですか」
ワルドの表情が、消えた。そして物思いにふけるように、天を仰ぐ。
「この旅で、君の気持ちを掴むためにずいぶん努力したんだが……」
両手を広げ、まるで挑発するように、やれやれとばかりにワルドは首を振った。
「こうなってはしかたない。ならば目的の1つは諦めよう」
「目的?」
ルイズが聞き返す。ワルドは口元を歪め、禍々しい笑みを浮かべた。
「そうだ。この旅における僕の目的は3つあった。その2つが達成できただけでも、よしとしなければな」
「達成? 2つ? ……どういうこと?」
要領を得ないワルドの言葉。心の中で、考えたくもない想像が膨れ上がるのを感じる。ワルドは右手を掲げ、人差し指をたてた。
「まず1つは君だ、ルイズ。きみを手に入れることだ。しかしこれは果たせないようだ」
「当たり前じゃないの!」
次にワルドは中指を立てた。
「2つ目の目的は、ルイズ、きみのポケットに入っているアンリエッタの手紙だ」
ルイズはハッとした。
「ワルド、あなた……」
「そして3つ目……」
アンリエッタの手紙。その言葉に、すべてを察したウェールズが杖を構えて呪文を詠唱する。
しかし、ワルドは二つ名である閃光のごとく素早く杖を引き抜き、呪文を完成させた。風のように身を翻し……ウェールズの胸を青白く光る杖の先が貫いた。
「き、貴様……『レコン・キスタ』……!」
ウェールズの口からどっと鮮血が溢れる。ルイズは悲鳴を上げる。ウェールズの胸を光る杖でえぐりながら、ワルドは呟いた。
「3つ目……貴様の命だ、ウェールズ」
ワルドが杖を引き抜き、ウェールズの身体はどっと地に倒れ伏した。
「貴族派! あなた、アルビオンの貴族派だったのね! ワルド!」
ルイズはわななきながら怒鳴った。ワルドは冷たい、感情のない声で言った。
「そうとも。いかにも僕は、アルビオンの貴族派『レコン・キスタ』の一員だ」
「どうして! トリステインの貴族であるあなたがどうして!?」
「我々はハルケギニアの将来を憂い、国境を越えて繋がった貴族の連盟さ。我々に国境はない」
ワルドは再び、杖を掲げた。
「ハルケギニアは我々の手で1つになり、始祖ブリミルの降臨せし『聖地』を取り戻すのだ」
「昔は、昔はそんな風じゃなかったわ。何があなたを変えたの? ワルド……」
「月日と、数奇な運命の巡り合わせだ。それが君の知る僕を変えたが、今ここで語る気にはならぬ。話せば長くなるからな」
ルイズは思い出したように杖を握り、それをワルドに向けて振り下ろそうとした。しかしそれはワルドに難なく弾き飛ばされ、地面へと転がる。
「助けて……」
ルイズは青ざめて後ずさる。立とうとしたが、腰が抜けて動けない。ワルドは首を振った。
「だから! だから共に、世界を手に入れようと言ったじゃないか!」
風の魔法が放たれる。『ウインド・ブレイク』。ルイズは紙切れのように吹き飛ばされた。
「いやだ……助けて……」
「言うことを聞かぬ小鳥は、首を捻るしかないだろう? なぁ、ルイズ」
ここにいるはずのない者へ、縋るように助けを求める。
「助けて……お願い……」
まるで呪文のように、ルイズは繰り返す。ただ恐怖のままに。
楽しそうに、ワルドは呪文を詠唱した。雷の魔法、『ライトニング・クラウド』だ。
「残念だよ……この手で、きみの命を奪わなければならないとは……」
全てを焦がす強力な雷の魔法だ。まともに食らえばひとたまりもない。
全身が痛い。ショックで心が千切れそうになる。ルイズは子供のように怯えて、涙を流す。
「助けて! 私の……!」
ルイズは叫んだ。
ワルドの詠唱が完了する。そして、ワルドはその杖をルイズへ振り下ろそうと大きく掲げ……
突如、扉の開く音と共に、一陣の風が舞い込んだ。
驚愕したワルドは詠唱を中断して扉の方に構えた。大きく開かれた扉からは外気が入り込み、灯っていた燭台の火が吹き消える。
やにわに影を落とした礼拝堂の中、ワルドは冷や汗を流してあたりを見回す。そこにいるはずのないものの、姿を探して。
だが、それらしき姿を見つけるよりも先に、ワルドの耳に、聞きなれぬ軽いメロディが入ってきた。
「っ!!」
慌てて振り返るが、そこに探していた姿はない。ウェールズの亡骸と、かすかに額に入った切り傷から血を流すルイズが気を失っているだけである。
否。そのルイズの傍、見慣れぬ小さな小箱から、そのメロディは流れていた。
そしてその小さなオルゴールの傍には、見覚えのある青い小瓶。ワルドの背中に冷たいものが流れる。
いや、それは汗の感触でないように思えた。それだけでない。なにやらその冷たい感触が、自らの内側にまで食い込んでいるように感じられる。
次第にそれが鋭い痛みを結び、ワルドは自分の体が刺し貫かれていることにようやく気がついた。消えゆく感覚が、背後にいるものの息づかいを確かに伝えていた。
「貴様……!」
だが、ワルドの苦虫を潰したような声は別の場所、礼拝堂の柱の陰から響いた。
気配を消したジェヴォーダンが背後から致命の一撃を食らわせたワルドは、力なく倒れ、やがて煙のように消えてしまった。気配が薄れていたジェヴォーダンも、秘薬の効果が切れて姿をあらわす。
「……迂闊だった。俺らしくもない見落としだ。貴公が裏切り者だったとはな」
「気付いているかと思っていたが。だがまぁ、結果として正解だったようだ。何故ここがわかった? 下賤な狩人め」
「下賤?」
ジェヴォーダンがゆらりと揺れる。目深に被ったトリコーンのせいで顔が見えない。
「言うに事欠いて、下賤だと?」
「下賤と言わずしてなんという? おおかた主人の危機が眼に映ったのだろうが、その挙句とはいえ不意打ちなどと。だがまぁ、きみが言っていたことだ。それが君たち狩人のやり方なんだろう?」
ジェヴォーダンは答えず、デルフリンガーを腰だめに構えた。ワルドも杖を構えて、臨戦態勢を取る。
「ルイズはこれでも、貴公を信じていた。幼い頃の憧れの貴公をな」
「信じる信じないはそちらの勝手だ。騙して悪いが、こちらも任務なんでな。貴様にもここで……」
ワルドは飛び上がり、そして呪文を発した。風の呪文『ウインド・ブレイク』。
「死んでもらう!」
強力な一陣の突風。しかしジェヴォーダンは一歩も動かず……それを、剣で受け止めた。
否。剣が魔法を吸い込んだ。先程ルイズを軽く弾き飛ばした一撃は、今度は逆にデルフリンガーの中に、軽く飲み込まれてしまった。
「何……!?」
『残念だったな、若造。その程度の魔法であれば、このガンダールヴの左腕、デルフリンガーが吸い込んでくれよう』
声色の違うデルフリンガーはそう高らかに宣言し、続いてジェヴォーダンに語りかけた。
『狩人よ。ガンダールヴの強さは、心の震えで決まる。怒り、悲しみ、愛、喜び。なんでもいい、ただ心を震わせるがいい。お前の心の震えが、狩りを成す』
「……わかっている」
そしてデルフリンガーを構え、ジェヴォーダンはワルドに向き直る。歩み寄りながら、小さく口を開いた。
「貴様にはわかるまい」
ワルドは、青ざめる思いでその冷たい声を聞いた。ジェヴォーダンの声は、これまで聞いたことの無いような、仄暗い気配をまとっていた。
「取り残される、裏切られるものの孤独や恐怖など。それを見ている事しかできなかった、痛みや怒りなど」
思い出す、人食い豚の腹の中から取り出した、血濡れのリボンのこと。あの時自分のした行いへの後悔。そして、行き場のない沸き立つ怒り。
「貴様にはわかるまい」
顔を上げたジェヴォーダンの眼が、薄明かりの中で光る。
その目を見たワルドは、ぶわっと全身に鳥肌が立つのを感じた。
その目は彼がハルケギニアに訪れて始めて見せる、興奮した、血走った目だった。
「っ……何を訳の分からぬことを……だが、その剣は厄介だ。こちらも本気で行かせてもらおう。何故、風の魔法が最強と呼ばれるのか。その所以を教えてやる……!」
精一杯の威勢とともに、ワルドは杖を構える。
「ユビキタス・デル・ウィンデ……」
呪文が完成すると、唐突にワルドの身体が分身する。
1つ、2つ、3つ、4つ……本体と合わせ、5人のワルドがジェヴォーダンを取り囲んだ。
「ただの分身と思うな。風のユビキタス、『偏在』……風は偏在する。風の吹くところ、何処となくさ迷い現れ、その距離は意志の力に比例する」
ワルドの分身は懐から白い仮面を取り出し、顔につけた。
「やはり、フーケの隣にいたのも、桟橋で襲ってきたのも、貴様だったのだな」
「いかにも。そして偏在は1つ1つが意思と力を持っている。言ったろう? 風は『偏在』する」
そしてワルドたちはゆらりゆらりと揺れ動きながら、ジェヴォーダンへと迫る。
5体のワルドがジェヴォーダンに躍り掛かる。さらにワルドは呪文を唱え、杖を青白く光らせた。
「杖自体が魔法の渦の中心だ、その剣で吸い込むことはできぬ!」
そしてワルドたちは、一斉にジェヴォーダンに飛びかかった。だが、ワルドはそれを待つジェヴォーダンの動きを、全く読むことができなかった。
ジェヴォーダンは、一歩も動かなかったのだ。
5体のワルドの『エア・ニードル』が、次々にジェヴォーダンの身体に殺到し、射し貫き、穿った。
鮮血が吹き荒れ、もつれるワルドたちに降りかかる。ワルドは唖然とした。少しも避けようとすらしないなどと。
まさか、5体の自分に襲われて放心でもしていたか。だがそんなことはどうでもいい。殺すことができたのだから。
「はは、はははは! 訳ないな、ガンダールヴなどと! ははははははは!」
勝ち誇る、ワルドの笑い声が、オルゴールの音色と混ざって薄暗い礼拝堂にこだまする。ジェヴォーダンが顔を上げた。
「はははは、は……ぁ……?」
「初めて獣に殺された時、怒りに燃えたよ」
まるで、何事もないかのようなジェヴォーダンの声。5体全てのワルドの表情が、恐怖に歪んだ。
「武器を受け取ったあと、『仕返し』してやった。繰り返し何度も、何度も、殺してやった」
その顔が、マスク越しにぐにゃりと歪む。冷たいオルゴールの音が、鼓膜を冷やす。
「今そんな気分だよ」
それが笑っているのだと気付いた時、全てのワルドは、ジェヴォーダンの手でバラバラに切り裂かれていた。
導き
かつて月光の聖剣と共に、狩人ルドウイークが見出したカレル
リゲイン量を高める効果がある
ルドウイークが見出したその光が、彼が望んだ導きだったかはわからない
だが彼は確かにそれを見出し、またその導きも彼を見出したのだ
必然であろう。それを覗き込む時、向こうもまたこちらを覗いているのだから