ゼロの狩人   作:テアテマ

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17:胞子

「ぐ、あぁぁ……ッ!」

 

 薄暗い礼拝堂に響き渡る、ワルドの悲痛な叫び。

 砕け散った偏在たち。本体のワルドは一瞬の隙に引いたのだろう。左腕だけが地面に落ち、残った身体にも無数の薄い切り傷を帯びていた。

 ジェヴォーダンの全身が、刺し傷から流れ出る血と、ワルドの返り血に濡れる。ワルドは刮目した。

 

「何故だ!? 何故死なない!!」

 

 理解できないものに対する、悲痛な叫び。そして次にジェヴォーダンに起きた現象を目にして、ワルドは恐れのままに息を飲んだ。

 自分が負わせたはずの、『エア・ニードル』の刺し傷。それが、みるみるうちに塞がっていく。

 それもただ塞がるのではない。ワルドの返り血を、その傷口から吸い込むようにして消えていく。言うなれば、傷口から吸血しているかのようだ。

 ワルドは恐怖のまま、もがくように後じさった。

 

「貴様は、人間じゃないのか……!?」

 

 完全に傷の消えたジェヴォーダンが振り返る。その手に、小さな何かを握って。

 

「人間さ。俺たちは血によって生まれ、人となり、また人をやめる。血によって生きる俺が人でなくて何になる」

「……な、なんだ? それは何だ、何をする気だ……」

 

 ゆっくりと歩み寄ってくるジェヴォーダンに、ワルドは幼子のようにばたついて逃げようとする。

 

「俺からも聞こう。お前は人間か? それとも……獣か?」

 

 ジェヴォーダンがその手に持っていたのは……この地へ訪れてからてんで使う機会のなかったもの。狩人を語る上で外せない小さな小さな道具。

 

「やめろ! くそぉ!」

 

 右手に持った杖を振りかぶり、ワルドは飛んで逃げようとする。が、ジェヴォーダンが摑みかかるほうが早かった。

 

「逃す訳ないだろう、貴様だけは」

 

 心底、冷たい声。その内に込められた、燃えたぎるような怒りと憎悪。ワルドは絶望の面持ちで、自分の脚を掴む手を見る。

 そしてワルドの脚に、その注射器を力強く叩きつけた。

 中に込められた血液が、ワルドの身体に流れ込む。ワルドは顔を歪め、ジェヴォーダンを蹴り飛ばした。ジェヴォーダンは地上に落下し、受け身をとってワルドを見上げる。

 

「ぐ……! おのれ、忌々しい!」

 

 ワルドは注射器を引き抜き、ぶっきらぼうにそれを投げ捨てた。

 

「まぁ、目的の1つが果たせただけ良しとしよう。どのみちここにはすぐに我が『レコン・キスタ』の大群が……ぁぐ、あっ!?」

 

 だが、捨て台詞を吐こうとしたワルドの様子が変わった。突然苦しみにもがくようにしたかと思えば、その顔はさぁっと赤くなり、かと思えばみるみるうちに青ざめた。

 

「ぐぁ、ひぃ! あがぁっ、な、何をした、貴様……っ! あ、あぁぁぁ!」

 

 そしてひとしきりもがいたのち、ワルドは狂ったように悲鳴をあげた。

 

「あ、ア"ア"ア"ァァァァァァッッッッ!!!!!」

 

 そしてまるでのたうちまわるように礼拝堂の中を飛び回ったかと思えば、壁に開いた穴から唐突に、飛び去ってしまった。

 

「……何をしたか、だって? 何もしちゃいないさ。お前の中の『人間』と『獣』、果たしてどっちが勝つものかね……」

 

 もうワルドが戻ることはない。かつてギーシュに見せた啓蒙の片鱗とは、比べ物にならないほどの事を奴にしたのだ。奴の行く末がどのようなものであったにしろ、もう2度と、相見えることも無い。

 ジェヴォーダンにはわかっていた。それだけワルドの行く末が、悲劇にまみれたものでしかないことが。

 

「……っ、ルイズ」

 

 1つの事は終わった。のであれば、残された問題がまだある。

 ジェヴォーダンは倒れ臥すルイズに駆け寄った。

 

「おいルイズ、しっかりしろ」

 

 そのまま抱き寄せるが、目を覚まさない。ジェヴォーダンは冷静に、ルイズの手首に指をあてた。

 そこからとくん、とくんと脈の音が聞こえたので、ジェヴォーダンはほっと胸を撫で下ろす。

 ルイズは胸のあたりで、手を硬く握っている。その下の胸ポケットのボタンが外れ、中からアンリエッタの手紙が顔を覗かせている。どうやらルイズは……意識を失ってでも、この手紙だけは守るつもりでいたようだ。

 

「大したものだよ、全く……」

 

 ひとまずは、ルイズが生きていてくれた。それだけでも、ジェヴォーダンにとっては安心できた。

 だがそんな安堵を、デルフリンガーの声が引き裂いた。

 

『狩人よ、まずいことになった』

 

 青白く光るデルフリンガーがカチカチと鳴る。緊迫したような声だった。

 

「なんだ」

『気づかないか。彼女の血だ』

「何? 出血しているのか、くそッ。だがあいにくいま止血できるようなものは……」

 

 その先の言葉は、出てこなかった。ジェヴォーダンは電撃のような衝撃をうけ、息を飲んだ。

 ルイズは確かに血を流していた。弾き飛ばされた時に切ってしまったのだろう、額に入った小さな切り傷から赤い線が伸びている。

 その、血。流れ落ちる瑞々しい赤色。ジェヴォーダンは、心拍数が凄まじい勢いで上がっていくのを感じた。

 バカな。バカな。バカな。

 そんなはずはない。何故こんなことが起こりうるんだ? 一体どうして、そんなことになるんだ?

 ハァーッ、ハァーッと、息が荒くなる。目が熱く、血走るのを感じる。

 その血の匂いには、嗅ぎ覚えがあった。

 思わずその一滴を指に取る。赤い、赤い血だ。

 

『……よ……人よ………』

 

 誘惑を、抑えられない。

 その滾るような穢れた血の匂いが、開いたジェヴォーダンの口にまで入ってきて……

 

『狩人よ!!』

 

 デルフリンガーの叫び声にジェヴォーダンがピタリと止まる。指先の血が、いつの間にやら降ろされたマスクの下の口、そのほんの目の前にあって……

 

「っ!?」

 

 ジェヴォーダンは思わずそれを振り払った。全身にびっしょりと汗をかいているのがわかる。いや、今は自分のことはどうでもいい。重要なのは目の前のルイズのことだ。

 

「……っ! おい、デルフ! いや、『導き』か!? どっちでもいい、答えろ! これはどういう事だ!」

『すまない狩人よ、それは私にもわからない」

「ふざけるな!!」

『ふざけてなどいない! 残念だが真実だ。私は断片的なものでしかない。この剣が1つの悪夢に通じているのは確かだが、そこではこんな事は語られていなかったのだ』

「……!? おい、待て! 貴様の話が全く見えてこないぞ。"剣が悪夢に通じている"だと? お前、一体……」

 

 もはやパニックにすら近かった。あまりに多くのことが同時に発生している。

 ルイズの血。そこに嗅ぎつけた、穢れの匂い。それは彼女がカインハーストの血族であり、女王ヤーナムの直系であることを、暗に物語っているのだ。

 何故この地にヤーナムの血が? どうして王族ではない、ラ・ヴァリエール家の三女であるルイズに?

 そもそもいま普通に話しているこのデルフリンガーの様子も普通ではない。唐突に月光色の煌めきを見せたと思えば、明らかにこれまでの様子と違う語り口調に、魔法を吸い込む特異な力。あげく、自分が悪夢に通じているなどと。

 

『狩人よ、聞いてくれ。私にもあまり時間がない。それまでに、君に話さなければならない事が山のようにある。君は、この剣の悪夢に飛び込むのだ。今はそうする他にない』

「なんだと? ルイズをここに置いておけないぞ」

『それは実に残念なことだ。外のわめきが聞こえるだろう? 皇太子のいない王軍はすでに敗退したようだ。すぐに敵はここまでやってくる』

「……俺にルイズを見捨て、一人で剣の中に逃げ込めと言うか」

 

 ジェヴォーダンは、ルイズをそっと椅子の上に寝かせた。そして、そのルイズを守るように立ち、剣と銃を構える。

 

『何をする気だ?』

「ルイズを守る」

『……そうか。それならば仕方がない。貴公は"ガンダールヴ"で、この貴族の娘は貴公の主人なのだからな。多くを語れぬは残念だが、貴公が答えに殉ずるのであればそれもいい』

「馬鹿な事を言うな」

『何?』

「敵を全て蹴散らす。貴様の話を聞くのはその後だ」

『……王の話によれば、敵は五万の軍勢だそうだな?』

「たった五万の雑兵どもだ。これまで俺が相手してきたどんな物と比べても、易かろう」

 

 デルフリンガーはますます震えを強くした。

 

『……貴公、よい狩人だな。狩りに優れ、無慈悲で、血に酔っている。よかろう、それでこそガンダールヴというものだ』

 

 そうして、ジェヴォーダンはデルフリンガーを構えて礼拝堂の入り口を睨んだ。

 聞かなければならない事が山のようにある。それまでは、どの道死ねないのだ。

 いずれ現れる敵を待ち構る。

 しかし、そのとき……。

 ぼこっと、ルイズが横たわったとなりの地面が盛り上がった。

 

「っ、敵か。下から来たな」

 

 ジェヴォーダンは剣を構えて地面を睨む。ぼこっと床石が割れ、茶色の影が姿を現した。

 

「……!? き、貴様は!」

 

 その茶色の生き物に、ジェヴォーダンは見覚えがあった。あのギーシュの実に素晴らしい使い魔、ヴェルダンテだ。

 ウェルダンテは椅子に横たわったルイズを見つけると、嬉しそうにその身体をまさぐった。

 

「き、貴様何故こんなところにいる!? ギーシュはどうした!」

「おっ、その声は! 僕ならここにいるぞ!」

 

 呼ばれて飛び出てとばかりに、土まみれのギーシュが穴からひょっこり顔を出した。

 

「きみたち、ここにいたのかね!」

「ギーシュ! お前、何故ここにいるのだ!」

「いやなに、『土くれ』のフーケとの一戦に勝利した僕たちは、寝る間も惜しんできみたちのあとを追いかけたのだ。なにせこの任務には、姫殿下の名誉がかかっているからね」

「ここは雲の上だぞ、どうやって来たというのだ」

 

 すると、ギーシュのとなりに見覚えのある赤髪が顔を出す。

 

「タバサのシルフィードよ」

「キュルケ!」

「アルビオンに着いたはいいが、なにせ勝手のわからぬ異国だからね。でも、このヴェルダンテがいきなり穴を掘り始めた。後をくっついていったら、ここに出た」

 

 巨大モグラは、ルイズの指に光る『水のルビー』に鼻を押し付けフガフガ言っている。ギーシュはなるほどと頷いた。

 

「なるほど、水のルビーの匂いを追いかけて、ここまで穴を掘ったのか。僕の可愛いヴェルダンテは、なにせとびっきりの宝石が大好きだからね。ラ・ロシェールまで穴を掘ってやってきたんだよ、彼はあっ!?」

 

 突然、ジェヴォーダンがギーシュの肩を掴む。何事かとギーシュが震えおののいていると、ジェヴォーダンは感激したように言った。

 

「石を見つけてくるだけでなく、俺たちの窮地をすら救ってくれるとは……素晴らしい……本当に素晴らしい使い魔じゃないか、ギーシュ……!」

「……! わかってくれるか! わかってくれるのか! きびはいいやづだなぁぁ!」

 

 感涙するギーシュを煩そうに睨みながら、キュルケは頬に着いた土をハンカチで拭う。

 

「聞いてダーリン? あたし、もうちょっとであのフーケを捕まえるところだったんだけど、逃げられちゃった。あの女、メイジのくせに終いにゃ走って逃げたわ。ところでダーリン、ここで何をしてるの?」

 

 ジェヴォーダンは静かに首を振った。

 

「すまないが説明は後だ。敵がすぐそこまで来ている、逃げるぞ」

「逃げるって、任務は? ワルド子爵は?」

「手紙は手に入れた。ワルド子爵は裏切り者で……もう始末した。あとは帰るだけだ」

「なぁんだ。よくわかんないけど、もう終わっちゃったのね」

 

 ジェヴォーダンはルイズを抱きかかえ、それをギーシュに預けた。そしてふと、キュルケに振り返る。

 

「1つ、頼まれてくれるか」

 

 キュルケはこの瞬間をしばらくの間忘れることはないだろう。一瞬何を言われているのかわからなかったが、それが浸透してくると同時にばぁっと笑顔が花開いていく。

 ダーリンが。自分に。頼みごと。自分を頼って。頼みごと。

 

「きゃぁぁぁ! もちろんよダーリン! なんでも言ってちょうだい、私もうダーリンのためならなんだってしちゃうわ、燃え上がっちゃうわっ、オホホホホ!!」

「ルイズに『すぐ戻る』とだけ伝えてくれ」

 

 だがその頼みの内容を聞いて、今度は笑顔が消えた。

 

「行く気なの?」

「貴族派を相手するわけではない。やらなければならない事ができた。剣を置いていく、それをルイズに預けてくれるだけでいい」

「そう。こういう時聞きすぎるのはヤボだからやめとくわ、ダーリンにやる事があるっていうならそれが一番大事だもの」

 

 キュルケは切なそうに笑った。ジェヴォーダンは、少しだけキュルケに申し訳なくなった。彼女を甘く見ていたのかもしれない。

 数多くの出会いを持つ。それは、数多くの別れを経験する事でもあるのだ。大抵はその別れから目を背け、感覚を麻痺させてしまう。そうでなければ、あとは自分が強くなるしかない。

 キュルケは強くあったのだ。なら、彼女の出会いと別れ全ては、軽いものではなかったはずだ。

 

「……すまないな」

「いいの。さぁ、もう行くわよ」

「いや、少し待ってくれ」

 

 そしてジェヴォーダンは、斃れたウェールズに近づく。ウェールズは、すでに事切れていた。

 

「……勇敢な王子よ。貴公のことは決して忘れない。俺は、自らの狩りを全うするとしよう。我が血に賭けて」

 

 ジェヴォーダンはウェールズの瞼を下ろし、そして丁寧に彼の亡骸を寝かせ、その手を組ませた。

 その時、かれが指にはめた大粒のルビーに気がついた。

 アルビオン王家に伝わるという風のルビー。それを外し、未だ眠るルイズの胸ポケットに、手紙と共に収めた。

 

「……デルフ、行くぞ」

『あぁ』

 

 そして、デルフリンガーを持つジェヴォーダンの手から、不気味な光が放たれた。

 境目から発せられるようなその黒い光に、ギーシュとキュルケは思わず目を背けた。

 光が止み、カランと音がして2人は顔を上げる。そこには一本の長剣が転がるだけで、ジェヴォーダンの姿はどこにもなかった。

 

「か、彼はどこへ行ったのだね?」

「……さぁ。何となくだけど、私達じゃ想像もつかないことだと思うわ」

 

 キュルケは剣を手に取る。確かインテリジェンスソードだったはずのその剣は、今やいかなる気配も感じさせないただの直剣にしか見えなかった。

 

「……行きましょう」

 

 キュルケの一言と共に2人が穴に潜ったとたん、礼拝堂に王軍を打ち破った貴族派の兵士やメイジが飛び込んできた。

 

 

 

 

「どうやらそろそろ終わりみたいだな」

 

 貴族派の兵士の1人が、煙に包まれるニューカッスルの城を見てそうこぼした。

 アルビオンで無駄に長引いていた戦火もこれで収まるだろう。『レコン・キスタ』が新たな時代を築き上げる。その礎がここから始まる。

 

「だが、俺ら一般の兵士なんかにまでおこぼれがあるもんかね」

「さぁてねぇ。貴族と平民の差なんか、今さらどんなに広がったって変わりやしねぇや。俺たちは戦さ場で飯が食えりゃ……っと、なんだ?」

 

 ふと、兵士の1人が聞きなれない音に反応した。どうやら、崩れた城壁の方から聞こえたようだ。

 

「生き残りかもしれんな。行くぞ、ついてこい」

 

 男が呼びかけ、数人の傭兵がそれについていく。

 崩れた城郭の角を曲がると、その声の主はすぐに見つかった。

 

「アァ……ア"ア"ァァァ……」

「おいてめぇ、動くんじゃねぇ」

 

 傭兵がボウガンを向けながら、うずくまる男に近づく。負傷しているのか、あたりには血だまりができていた。

 傭兵は気づいた。男はマントを羽織っている。貴族の象徴たるマントは、たしかに質の高いもので、アルビオンの痩せ衰えたメイジどものものには見えない。

 加えて、その男の身なりに傭兵は見覚えがあった。

 

「まさか、子爵どのでないですか? ワルド子爵?」

「母、よ……ウグゥゥ……」

 

 見ればそのメイジはたしかに、レコン・キスタの中枢の1人、ワルド子爵であった。が、見るも無残にボロボロになったその姿は、普段の彼の様子とはあまりにもかけ離れていた。

 見れば、左腕がない。上腕から失われたそれは間違いなく太刀傷だ。

 彼は残された右手で、小さなロケットペンダントを握りしめて、唸り声をあげて苦しんでいた。

 

「た、大変だ! 貴族派のメイジだぞ、治療できるメイジを呼んでこい!」

 

 傭兵が仲間に呼びかけながら振り向いた。だが、仲間は動かなかった。

 あんぐりと口を開けて、こちらを見ているだけだ。

 

「おい、何呆けてんだ! 早く助けを

 

 ズンっと重たい音と共に、傭兵の意識は永遠にこの世から消え失せる。

 ワルド子爵は、既にワルド子爵では『なかった』。彼の身体は、内側から狭すぎる皮を破るように膨れ上がり、肥大化していく。

 その影から血が吹き出して、唖然としてそれを見ていた兵士の顔を濡らした。2人の傭兵は、全く動く事ができなかった。

 

 巨大な黒い獣が、そんな傭兵2人を容赦なく弾き飛ばした。

 

『キア"ア"ァァァァーーーーーーーーッッッッ!!!!!』

 

 人の喉から出るものではない声が、戦場に響き渡った。

 

 

 

 

 ルイズは夢を見ていた。

 故郷のラ・ヴァリエールの領地の夢。忘れ去られた中庭の池。

 そこに浮かぶ小舟の中が、ルイズの唯一の世界。誰にも邪魔されない、秘密の場所だった。

 もうここに、ワルドは来ない。優しい子爵。憧れの貴族。幼い頃、父同士が交わした結婚の約束。

 ルイズを抱え上げ、ここから連れ出してくれたワルドはもういない。いるのは、薄汚い獣。勇敢な皇太子を殺害し、この自分にすら牙を剥いた残忍な獣……。

 ルイズは小舟の上で泣いていた。

 ふと、傍に小さなオルゴールがあるのに気がついた。

 自分の使い魔もまた、ここへは迎えに来ないだろう。いいや、彼は……

 

 その時、聞き覚えのない音がして、ルイズは顔を上げた。

 霧の向こうまでずっと続く水面から、絶え間なく鳴り響く奇妙な音。チリリリリン、チリリリリンと、規則的なリズムで鳴る、ベルのような音。

 ルイズは小舟を降りた。足が濡れることなどためらわず、誘われるように音のする方へ向かった。

 霧の向こうにあったのは、小さな背の高いテーブルと、その上に置かれた奇妙な黒い装置だった。規則的なベルの音は、その装置から出ているようだった。

 それが「黒電話」と呼ばれるものであることなど、ルイズは知るはずもない。それなのにルイズは、とても自然に、初めからそれがなんであるか知っていたかのように、受話器を取る。

 使い方を知るはずもない。なのに、身体が勝手に動く。ルイズは受話器を耳に当てた。

 

「……はい」

 

 ルイズは注意深く、声をかけた。返事はすぐにかえってきた。

 

『       』

 

 それは、声ではなかったように思える。

 名状しがたい怪奇な音が、しかしするりと頭の中に流れ込んでくるようで心地がいい。ルイズはその音から、言語を超越して意味を聞き取ることができた。

 

「えぇ、ひさしぶり」

『       』

「私は大丈夫。ジェヴォーダンが、助けてくれた」

『     』

「……本当は、すごく怖かった。あの礼拝堂で、私、私……」

『            』

「うん。きっと目覚めたら、全部忘れちゃうんだと思うけど、でも……でも思い出した」

 

 ルイズの目から、ポロリと涙がこぼれた。切ないような、苦しいような、感情が溢れて止まらない。

 

「ごめんね。ずっと、寂しかったよね。1人に、させちゃったよね」

『            』

「いいえ。私は、貴族……いいえ。私はルイズよ。逃げたりしない、ちゃんと向き合わなければならないわ」

『                        』

「……礼拝堂で、教わったわ」

 

 そしてルイズは、とうとう確信に触れた。

 礼拝堂で感じた恐怖の正体。あの時気付いた、真実の1つ。

 

「あそこにいた『姿のない』ものが教えてくれた。私の使い魔は、彼じゃない」

『        』

 

 ルイズは受話器を強く、強く握りしめて、言った。

 

「私の使い魔は、あなたなのね。サイト」

 

 

 

 




姿なきオドン

人ならぬ声の表音となるカレル文字の1つ
上位者オドンは、姿なき故に声のみの存在である

オドンの本質は、自覚なき信徒へ触媒を望むものである
どこにでも存在しうる星の煌めきは、しかして決して消える事なく
湿り気と腐肉の上で暗がりにて萌ゆるのだ

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