転生して気が付いたらIS学園で教師やってました。 作:逆立ちバナナテキーラ添え
「私って、何なんだろうね……」
ざあざあと雨が降っていた。
やけに雨が多い冬の入りは、かれこれ七日ほど陽を見せない。GAの気象観測衛星は明日も、明後日も同じような天気だと予報を吐いていた。空を見上げれば重苦しい蓋がべったりと貼り付いて、おかげで寒さが酷いもので、それがたまに霙に変わると路面が凍って除雪班が人工島の道という道に片っ端から薬剤を散布していかなくてはならない。朝方、彼らとすれ違うと舌打ち混じりに愚痴を垂らす姿を生徒や職員たちは同情まじりに心中、労っている。
打ち付ける雨音に混ざって、幽かに、遠くからピアノの音が聴こえる昼下がり。石井はソファに寝転がり、目を閉じていた。付けっぱなしのゲーム、エアコンのごぉぉぅ、という鳴き声。テーブルの上に散らかった酒瓶と、じりじりと燃え尽きる煙草の灰。雑多が過ぎるような部屋で、石井は死んだように、寝息も立てず夢と現をさまよっていた。
断頭台の刃が石井の首を刈ろうとした刹那、彼は急激に意識を覚醒させた。頬に触れる温度を感じる。ゆっくりと、恐る恐る目蓋を開くと見知った顔が石井を見つめていた。
「大丈夫?」
「なにが……、なんだよ……」
「汗が、すごいよ」
石井は額を手で拭った。じっとりと貼り付くような、分厚い雲の中のような水滴の群れ。重い身体を起こして、キッチンで冷たい水を顔にぶつける。乾いた喉には、冷蔵庫のペットボトルの中身を流し込む。甘かった。いつぞや買ったアップルジュースが子供のように騒ぎ立てている。
ソファに座り込んだ石井の隣に彼女は座った。何も言わずに、石井を心配そうに見るだけ。両手で顔を覆う石井はその視線が少しばかり煩わしく感じた。
「何の用だ。人が寝てる時に、勝手に入ってきて……」
「部屋の前を通った時、声が聴こえたの。魘されてるみたいだったから、心配で」
必要ない、と石井は言って、「夢見が悪かっただけだ。別に、問題はない」
問題はない。そう、口に出さずに繰り返す。
汗は引いていき、代わりに嫌な寒気が襲ってくる。卓上のスコッチが胃を暖めてくれる。濡れたシャツを脱いで、背凭れにあったティーシャツに着替える。
「ねぇ、いしくん」
彼女が背の向こうから声を出す。見やると、膝を抱えて、窓の向こうを見ていた。
「私って、何なんだろうね……」
「いやに哲学的な質問だな。私には哲学は分からないよ」
「そうじゃなくてね、あのね……」
彼女は言い淀んだ。三十秒か、一分か。長く感じた。
「くーちゃんと、らーちゃんにとって、いしくんは父親だよね」
「認知した覚えは一切ないよ。勝手にあの子たちが言っているだけだ」
彼女はそう言った石井を呆れた視線で刺した。石井は素知らぬ顔で煙草を吸い出して、彼女の視線には気付いていないようだった。
「それでさ、思ったんだ。あの子たちにとって、いしくんがパパなら。じゃあ、私はってさ……」
石井は紫煙を吐き出して、目を閉じる。分かりきった答えだった。
彼女はあの二人の姉ではない。教師でも、監視役でも、雇用主でもない。彼女は保護者だ。母親だ、と石井は考えていた。自分が拾って、預けた上の子と、彼女が率先して拾った下の子。自分では相応しくないが、彼女ならば。そう石井は考えていた。
「母親、なんじゃないかな」
「ママねぇ……、私がママね」
小さく、くつくつ。彼女は笑う。壊れているように、リズミカルに軽い音を奏でる。肩は動かず、目は薄く開いていた。石井は煙草を握って消した。
「向いてないよ……」
弱々しく呟いた。
「束様。博士。そう呼ばれて、一緒にお風呂に入って、一緒にご飯を食べて、一緒に寝て。これってまるで、家族みたいだよね」
「そうだな。家族みたいだ。血の繋がらない家族のようだよ」
「君が父親で、私が母親。あの子たちは娘。まぁ、両親に問題はあるかもしれないけれど、家族に見えてしまうよね……」
「何か、あったのか?」
彼女は顔を膝の間に沈めて、再び黙する。外では雲がさらに厚くなって、暗くなる。雷光が瞬いた。
今さらな話だったんだ。彼女は力なく言った。
「今朝、起きた時、くーちゃんがね。寝惚けて私に、ママって、言ったんだ。ママってね……。それでさ、私驚いちゃって、泣いちゃったんだ。そうしたらくーちゃんとらーちゃんが慌てて……。嬉しかったんだ。とてつもなく、根拠もないけれど、そう呼ばれたら涙が溢れてきて。でも、それと同じぐらい足が震えたんだ……。怖かったんだと思う。あの子たちのことが怖いんじゃない。もっと、別の……、分からない何かが怖くてしょうがないんだ。その場では誤魔化せたんだけど、やっぱり、どうしようもなくて、さ……」
温い風が石井をなぞって、部屋は夕闇と同じ明度になった。束は絞り出すように続けた。
「私は、あの子たちの何を怖がってしまったんだろう。なるべく、それっぽく頑張って来たんだけどなぁ……。私じゃあ、やっぱり母親っていうのは力不足だったのかな?ねぇ、いしくん……」
母親ってどうやって、やるの?
満面の笑みを濡らしながら、彼女は訊いた。膝は震えて、目元を腫らして、声は歪に揺れて。
親のやり方。子供に飯を作って、子供の世話をして、子供に知識と教養を授けて、子供の身を守って、子供の為に金を稼いで、子供を愛する。彼女にはそれくらいしか思い付かなかった。飯はたまに作ろうとしても子供がキッチンを譲らず、手を付けられない。世話、という面では互いに上手くやれている。知識と教養は完璧であると自負しているし、安全は抜かりない。金も一生遊んで暮らせる程度は有している。
だからこそ。いや、当然、彼女には最後だけは分からなかった。子供を愛する、とはどうすれば良いのだろうか?
欲しい物を全部買い与えれば良いのか。我が儘を聞けば良いのか。厳しく叱りつければ良いのか。愛していると言えば良いのか。
そもそも、愛とはなんだ。子供へと向ける愛とはどのようなものなんだろう。彼女は困惑した。それは彼女の知らないモノ、未知のウイルスのようであった。
愛があれば何をしても良い訳ではない。愛があって、自分の子供だからと言って子供を何の理由もなしに殴り付けてはいけない。それはただの虐待で、その暴力に愛が付随されていることはない。同じように子供を縛り付けてはならないし、信じずに見切りを付けて頭ごなしに説教することが善き行いであるとは到底言えない。
暖かい部屋で、テーブルを囲んで笑い合いながら今日あったことを話して、夕飯を囲む。彼女が幼い頃、通り掛かった近所の家庭のダイニングを見た時の光景。それはありふれた凡才たちのつまらない日常の一幕には過ぎなかった。それでも、その光景が忘却の彼方へと追いやられることはなかった。不思議と世界を回る内に見た絶景と同じように輝いて、消えてくれなかった。
やりたいことをのびのびとやって欲しい。人に迷惑を掛けても、大事な物を守ることの出来る、心の強い子になって欲しい。誰かを心の底から労れる優しさも身に付けて欲しい。父親のようなろくでなしには引っ掛からないような、見る目を養うべきだ。そんな世界中を飛び回るろくでなしの代わりに、寂しい思いをさせないように精一杯優しく接しよう。でも、そんな父親は世界中でただ一人だけの自分の味方で、誰よりも不器用で優しい人だということを知って欲しい。
彼女はそんな想いを胸に二人の少女と接してきた。生まれは関係ない。少女たちはれっきとした人間で、彼女は全霊で関係性が定かではない少女たちの保護者役を務めた。
しかし、恐れを持ってしまった。持つべきではない感情だった。その出自以前に、自分を慕い、信頼してくれている子供に恐怖するなどという行為は彼女が許容出来るものではない。しかも、その感情の出所は不明。らしくもない、自己嫌悪に陥る。
石井は俯く彼女の頬にそっと手を添わせた。
「それが、守るべき命の、家族の重みだ。
「母親なんかじゃないよ、私は。子供を愛することが出来ないやつが母親を名乗るなんて、おかしいじゃないか……。私は、あの子たちとの関係性を考えたことなんて、実は一度も無いんだ……。ただあの子たちに、あの子たちがせめて笑ってくれてればって……」
「愛してないのか」
「分からないよ。愛されたことがない、と思う。親に愛された実感なんてない。そんな私が子供への愛を……、子供を愛するとか……」
「私には君は十分、あの子たちに愛を注いでいるように見える」
「うそだよ」
「慣れていないだけだよ。その重さが大きすぎてびっくりしただけさ。やり方なんて、ないだろうし、君はあの子たちの側にいるべきだ。これから、君は母親になっていくんだよ。ゆっくり、時間を掛けて、君たちは家族になる。今はまだごたつているが、情勢が落ち着いたら三人で出掛ければいい。家族旅行というやつだ。温泉にでも行って来たらどうだ」
「愛せているの……?私はちゃんとあの子たちを」
石井は笑んだ。暗闇の中で、雨音の中でピアノが弾ける帳の内で。
「そっか……。私はちゃんと愛せているんだね。そうなんだ……」
「君は向いていると思うよ。母親に」
「当てずっぽうでしょう?」
「いや、本心だよ。怖くて、今も手が震えているのに君はそんなに綺麗に笑っている。誰よりもあの子たちが愛しい証だろう」
そんな顔をした女を何度も見たことがある。戦地で、酷い環境の中で腕の中の幼子に笑いかける母親たちは抱える不安や恐怖を悟らせないようにしていた。最期の瞬間も、ずっと微笑んでいた。石井はそんな記憶を回顧して、彼女に言った。
「顔を洗って、あの子たちの所に行くといい。話してきたらどうだ?」
彼女はそうだね、と言って勢い良く立ち上がった。目を手の甲で拭って、ドアへと向けて歩く。その途中で振り向いて、
「ありがとね、お父さん」
「やめろ。認知してないと言っているだろう」
「家族なら、君も含めて四人家族だからね。いい加減、逃げんなばーか」
あかんべをして、彼女は出ていった。石井はそれを見送って、立ち尽くしていた。
そして、膝を着いた。身体を曲げ、苦悶を浮かべた顔をさらに歪ませ、声を圧し殺している。今にも叫び散らしそうな激痛を耐えて、のたうち回りそうな身体を抑えていた。
痛、痛、痛、痛、痛、痛、痛、血、痛、痛、鉄、痛、血、日溜まり、コーヒーの薫り。
せりあがってくる物を感じて、手で口元を抑えて石井は走った。むせかえるような、その味には馴染みがある。
洗面台いっぱいに石井は吐血した。口内は赭く染まっていた。唇から糸を引く糸も赭。肩で息をしながら、ずるずると座り込みそうになるのを踏み留まって鏡に映る自分、自分を見る像を睨んだ。
自分がぶれて、自分が現れる。ブレザーを着崩した少年が石井を見る。石井は少年を睨み付けて、鏡を殴り付けた。
「消えろよ……。俺にはもう関係ないだろう、幻覚になってまで悔やんでいるのか……?」
手から血が滴り落ちて、水溜まりが出来た。
朧気な視界で、石井は少年が笑うのを見た。あてつけか、くそ野郎。今度こそ、ドアに壁に背を預けながら崩れ落ちた。
「侘葉音……、束……侘葉……音……」
石井は彼女の名を呼ばなかったのではない。呼べなかった。
混濁した記憶の中で、石井は守るべき彼女の名を思い出すことが出来なかった。
昔話をしてあげる。
世界が破滅に向かっていた頃の話。
これはその少しだけ前の、終わりのはじまりの話──。