「釣れますか?」
後ろから声をかけられて、意識ごと体がびくりとした。鼻歌を唄っていたせいで、空気がのどに詰まる。
平和な知波単学園艦で腰を下ろしているはずなのに、平穏な言葉を投げかけられたのに、空田はおそるおそる首を振り向かせていく――見た、目と目が合った。釣り竿や水汲みを手にした、黒髪の女性がにこりと笑う。首からぶら下げてある、必勝祈願のお守りがよく目立つ。誰だっけこの人と思いながら、質問に対して「釣れませんね」「そうでしたか」。
「隣、いいですか?」
「あ、はい」
女性が「失礼」と一声かけ、そのまま空田の隣に腰かける。少なからず、どきりとした。
釣りをする以上、釣り人と挨拶を交わすことはしょっちゅうある。「ここで釣っていいですか?」と声をかけて、「いいですよ」と返答されてから、初めて釣りに取り掛かるのだ。
幸いにも、ここは知波単学園艦だ。その為か同年代の釣り人とよく顔が合うし、時には「調子はどうだい兄さん」「ぼちぼちやね」とべしゃりながら釣り竿を揺らしたりもする。そこで友情が結ばれて、知波単学園で昼食を共にすることも時たま。
今更、男子の釣り人だの女子の釣り人だのと言うつもりはない。けれど、この人は確か――
「あなたは、知波単学園の生徒ですよね? 勘違いでしたら、申し訳ありません」
声が詰まりそうになる、釣り竿が露骨に揺れる。春先の河川敷は、空田の内心など無関心のまま、今日も無事平穏にせせらいでいた。
「あ。そう、ですね。僕は空田、二年生です」
「ああ。やはり、そうでしたか。私は西絹代、三年生です。よろしくお願いします」
音もなく、手を差し出してきた。何だろうと思ったが、間もなく「あ」と意図に気づく。
「こちらこそ、よろしくお願いします。西先輩」
手を握りしめ合って、何て礼儀正しい人なんだろうと思う。
西の喜色満面を見て、何て感情豊かな人なんだろうと思う。
――西の本名を耳にして、改めて確信する。いま、自分の隣で腰を下ろしているのは、知波単学園きっての人気者で、成績が良くて性格も善くて、学友である福田が「隊長殿」と尊敬してやまない、西絹代その人だ。自分などとは、とても比べものにならない。
そうして西は、空田からそっと手を放し、釣りの準備に取り掛かる。
空田の釣り竿は未だびくともしないので、成すがまま西のことを眺めていた。
「ええっと、こうだったかな」
あ。
空田の口から、間抜けな声が漏れる。空田の意識が、釣り糸相手に悪戦苦闘中の西へくぎ付けとなる。
糸を上手く結べないまま、西はうんうんと苦しげに唸っている。表情も、真剣に歪んでいた。数秒、或いは一分か数分が経過した頃に、ようやく「手伝おう」という決意が沸いて出てきた。
自分の万能竿を、その場に置いて、
「手伝いますよ」
「あ。いえ、いいんですよ?」
「いえいえ。どうせ釣れませんし」
にへらと、格好つけて笑おうとする。我ながら下心だらけだなあと思うが、西の目は極めてきらきらと輝いていた。
「ありがとうございます、空田さん! この恩は忘れません!」
「そんなそんな、いいんですよ。経験者が初心者を手助けするのは、当然ですから」
慣れた手つきで糸を結んでいき、西が「ほうほう」と注目している。女性に――西絹代にここまで見られてしまっては、空田の心臓なんて跳ね上がるに決まっていた。
糸の輪を作って、西が「おお!」と感嘆する。そのまま西の釣り竿へ結び付けていって、仕掛けを施していったり、釣り針に空田の手持ちの餌を突き刺していく。その際に「良いのですか?」と声をかけられたが、「構いませんよ」とだけ。その際も、西は笑顔をこぼしてくれた。
空田十七歳の手つきは、あくまでも釣り人のそれだった。内心は、健全のままに舞い上がっていた。
――さて、
「出来ました」
「おお! なるほど! しっかりと学ばせていただきました!」
「おお、冴えていますね。流石、隊長」
色気が生じたわけではない。単に、調子づいてぽろっと漏れただけだ。
西の顔が、「え」と真っ白になる。空田も「あ」と頭の中が空白になったが、すぐさま、
「西先輩のご活躍は、僕の学友……福田さんから、よく聞いています」
戦車道履修者の、よく知っている者の名前を耳にして、西の顔がすぐさま明るくなった。
「福田の学友でしたか!」
「ええ。――いつでも隊長らしい姿勢を崩さず、力強い声で皆を常々励ましているとか」
西が「えへへ」と苦笑する、頬まで赤くなる。福田の言う通り、ほんとうに感情豊かなんだなあと実感しつつ、
「西先輩の評価は、様々な場所で耳にしています。後輩の面倒をよく見てくれたり、奉仕活動に励んだり、成績も最優秀。知波単戦車道にしたって、これからも強くしようと力を入れているそうじゃないですか。みんな、あなたのことを称賛していますよ」
「そうだったのかぁ……いやあ、照れるな」
思う。この人、愛されやすいんだろうなあと。
西の釣り竿を手渡し、西から「ありがとうございます」と頭を下げられる。ほんとう、手伝って良かった。
さて。
地面に置いておいた釣り竿を拾い上げ、その場に腰かける。糸が引っ張られた形跡は、残念ながら無し。
「――西先輩も、釣りが好きだったとは。何だかこう、嬉しいです」
「いえいえ。実は、今日が初めてでして」
ほう。力なく、声が出た。
「ちょっと、気分転換の為に」
「なるほど。いやいや分かりますよ、釣りは落ち着きますからね」
「おお。やはりそんな感じですか」
「ええ」
そうして、いよいよもって西の口元が釣り上がる。好奇心そのものの表情を抱いたままで、両手で釣り竿を握りしめて、実に軽やかな動きで腕を振るう。とても初めてとは思えない流れに、「戦車道って凄いなあ」と何となく思った。
西の釣り針が、抵抗もなく空を舞う。後はそのまま流れ星のように水面へ落ちていき、水の音とともにあたりが静かとなった。
「お見事な釣り竿さばきです」
「いえいえ。たまたまですよ」
「そうですか? ――ああ、あと」
見下ろす形で、西が「うん?」と首をかしげる。初対面特有のぎこちなさも大分薄らいできたせいか、空田はきっぱりと笑えた。
「敬語は、抜きにしても良いですよ。先輩後輩ですし」
「そ、そう……そうか? 分かった」
承諾とともに、西が空田の隣へ腰かける。あまり距離が離れていないものだから、高校二年の空田はついつい意識してしまうのだった。
↓
釣りを始めて数分が経過するが、未だにうんともすんとも言わない。空田からしてみれば慣れっこだったが、初心者の西はどうだろう。
空田が、うーんと唸ってみせる。
西が、「釣れないなあ」と楽しそうに言う。
気付かれないように、そっと、ちらりと首を向けてみる――釣り竿を両手に、大きめの石へ腰かけながら、西は浸るように微笑んでいた。
安心した。
西は、釣り人としての素質があるらしい。こうして「間」を楽しめる分、釣れた瞬間も大喜びしてくれるだろう。初めて魚を釣れた時、西はどうやって歓喜を表現してくれるものか。
「……いいな」
「え」
空田の視線に、気づいたわけではないようだった。
西は感慨深そうな顔をして、川をじっくり見つめている。
「いや、何。釣りをしたばかりだが……落ち着くよ、とても」
「そうですか? それは、良かった」
西が「ああ」と小さく返事をして、
「戦車道とはまた違う、善さがある」
「へえ……」
知波単戦車道といえば、学園内では結構有名だったりする。戦車の数は多いし、士気もめちゃくちゃ高いし、一に「突撃」二に「突撃」とくれば、女子はおろか男子すらも「濃いよね、うちの戦車道」と覚えざるを得なかっ「た」。
少なくとも、一年の頃は「良くも悪くも、うちの戦車道って勇猛果敢だよね」と評されてきた。そのことについては、自分含め誰も否定したりはしなかったものだ。
――去年までは、西絹代が隊長を務める前は、そういう風に話が通じていた。
「あの」
「うん?」
「戦車道って、どんな感じなんですか?」
「そう、だな……」
西が、微動だにしないまま、
「凄く、気が引き締まるよ」
「ほうほう」
「役目を果たすたびに、生きているって実感が沸く。良い感じに熱っぽくもなれる」
「良いじゃないですか」
「俗っぽい言い方になるが、競い合う為の戦いは……良いものだ」
嬉しさをにじませながら、西がぽつぽつと語る。本当に好きでなければ、こんな風に声は出せないだろう。
「なるほど。戦車道のことは、あまり詳しくはなかったのですが……」
「ああ」
福田曰く、戦車道とは女性のための清く正しい武芸であります。
だから、西の言葉を耳にしていって、何となく、何気なく、当然のように、こう言った。
「戦車道って、とても素晴らしい武芸なんですね」
釣り場はとても静かなものだったから、空田は決して聞き逃しはしなかった。
西が、重く鼻息をついたのだ。それも、顔を憂鬱げに陰らせて――れっきとした、異常事態だった。
「武芸、武芸か……」
「? あ、あの、どうかしましたか?」
勇気だの躊躇だのを考える前に、本能から言葉が漏れた。
空田の呼びかけに対して、目を丸くした西と視線が合う。
「! あっ、すまない。別にその、君が悪いとか、そういうわけではないから」
西が空田へ視線をよこして、申し訳なさそうに頭を下げる。空田も半ば反射的に「いえいえ気にしてませんから」と弁解した。
――何ともいえない空気を引きずったままで、釣りが再開される。
当の空田は、「何かまずいこと言ったかな」と思考する。少ない知識で、戦車道についてあれこれと考察し始める。
戦車道とは、女子の為の武芸であるはずだ。福田からも、そう聞いたことはある。
今さっき、自分は「素晴らしい武芸」と言った。それ以上でもそれ以下でもない、余計な一言など一切口にしなかったはずだ。
心当たりを拾えない。もしかしたら、西は「武芸」という表現が嫌いなのかも。
聞いてみよう、何をだ。とりあえず空気を打開しなければ――勇気をひとかけら飲み込み、そっと静かに西へ視線を向けていく。
西の浮かない顔が、はっきりと見えた。目と目が合う角度だったから、尚更だった。
空田の目ん玉が、川めがけ逃げ出そうとする。
ぐっと耐える。西は、釣りは今日が初めてだと言った。だからこそ、「先輩」として良い思い出を持ち帰って欲しかった。
空田の首が、真正面めがけ撤退しようとする。
ぐっと堪える。西は、こんなにも不安そうな顔をしている。だからこそ、「男」として何とかしてあげたかった。
ありったけの勇気をがぶ飲みして、そっと深呼吸して、
「あの」
「あ! な、何かな?」
「その……僕は、何かまずいことでも言いましたか? もしそうなら、謝罪します」
「あ、ああ、いや、そんなことは本当にない、ないから」
ここで会話を切り離すわけにはいかない。一度口さえ開けてしまえば、後付けの勇気が降って湧いてきた。
根っこからの疑問を言え。自分と西とは釣り人同士の関係だ、少しぐらい踏み込んだところで何の問題がある。同類だからこそ、何とかしてあげたいはずだろう。
言え。「ここでも」お前は臆病者に成り下がるのか。
言う。
「西先輩」
「あ、はいっ」
「何か、ありましたか? 戦車道がらみで」
無言。肯定も否定もしない。
「気分転換の為、と言っていましたよね? ……何か、問題でも抱えているんですか?」
さらに踏み込む。勇気をおかわりする。
「もし、よかったら……話だけでも、聞かせてください」
福田が尊敬する人に対して、
「その、会ったばかりで、信用ならないかもしれませんが」
「い、いやっ。君は私に、釣りの手順を教えてくれたじゃないか。疑うなんてそんな」
「そうですか? ……そうですか」
西絹代に対して、
「戦車道のことをよく知らない僕が、戦車道に関する相談に乗るなんて、おこがましいかもしれませんが」
西絹代という、釣り仲間に対して、
「その、見過ごすなんてことは、出来ません。あなたとはもう、釣り仲間なんですから」
「空田君」
正直な気持ちを、口にする。
「だからこそ、その、初めての釣りで、気分をすかっとして欲しいんです」
最後になって、雑な物言いになってしまった。
けれど、後悔などはしていない。本心から思い、本音を口に出来たのだ。上辺が多少着崩れたところで、何が悪い。
だから西は、空田に対して目を向けてくれている。最初は呆然としたような、やがては苦笑してくれて、こくりと小さく頷いてくれた。
西のお守りが、かすかに揺れる。
↓
「知波単戦車道履修者は、福田は、みんなは、とても素晴らしい素質を秘めているんだ」
川が、無感情に流れていく。
「真っ当に立ち回れれば、強豪黒森峰とも対等に戦えるだろう。私たちの精強さは、去年で証明できたしな」
「去年?」
「まあ、『色々』あってな。そこは、深く聞かないで欲しい」
何処か遠くから、車の走る音が反響した。
「みんな優秀で、練度も高くて、団結力もある。これだけ揃えば、本来は、戦車道に恥じない戦い方が出来るんだが」
本来は。その言葉が、空田の内に引っ掛かる。
「伝統がな、それを邪魔するんだ」
「伝統?」
「そう、伝統」
西のため息。
釣り竿を握りしめたまま、空田は西の言葉を断じて聞き逃さない。
「聞いたことはないか? 知波単戦車道は、まずは突撃ありきだって」
「あ、あー……まあ、一応は」
「だろうな」
西がそっと立ち上がり、のべ竿の糸を引っ張っていく。
「いつまで経っても、知波単戦車道が無意味に負けてしまうのは……まずは突撃して、潔く散るという、伝統のせいだ」
伝統のせいだ。
断言するように、信じるように、西は言う。
「まあ、突撃は楽しいし、分かりやすいし、気分だって良くなる。私も前までは、『よし、皆に着いていくぞ』と、戦車を走らせていたこともあった」
無かったことにしたいのだろう。西が、大きくため息をつく。
――餌を差し直して、軽やかに腕を投げ振るう。水の弾ける音が、他人事のように聞こえた。
「そうして、伝統ありきで試合をしていたんだが――段々と戦車道に『馴染んできた』頃に……ふと、思ったんだ」
「思った?」
西がひと息つく、西から目を離せない。
「弾の一発も撃てないまま、無作為に突っ込んでは敗北する――それって、武芸として正しいのだろうかと」
川の流れる音が、いつも以上に聞こえてくる。西の、極めて真剣な声が、頭の中へ沁み込んでいく。
「そう思ったのは、私だけじゃないだろう。同じ疑問を抱く履修者だって、いたはずだ」
西の表情が、真剣に歪んでいる。
「けれど、そう簡単には異論を挟めないだろうな。何せ、『伝統』が相手だ」
「……伝統って、怖いですもんね」
共感する。校風にしろ、授業にしろ、部活動にしろ、伝統というものは必ずついて回ってくるのだ。
経験者として、深く頷いた。
「この伝統のせいで、勝つことも、正しく負けることも出来ない。これでは武芸を、戦車道を歩んでるとはいえない」
その時、西が「ふん」と鼻息をついた。
「私が隊長になる前……二年の頃だな。ある練習試合で、好きにこてんぱんにされたことがあった」
西が、どこか他人事のように苦笑し始める。いよいよもって、西への注目が色濃くなる。
「つもりに積もってたんだろうなあ。私はもう我慢できなくなって、先輩がたに『こんな戦い方は、善くありません』と進言した」
「すごい」
当然のことをしただけさ。西は、くつくつと苦笑する。
「進言した時は……あれだ。『突撃は、知波単戦車道の魂であり、伝統だ。それをやめろというのか』って反論された。私も負けじと、睨み返したんだが……先輩がたの迫力に負けて、その場では一礼した」
「先輩というのは、怖いですもんね」
「だな」
西が、再び腰を下ろす。
「そのまま、高校戦車道全国大会が始まった。先輩がたは、変わらずに『突撃しろ』って号令をかけたんだ」
空田が、「むう」と唸る。
「でも、私は言った。『待ってください!』って。当然ながら反論の嵐が返ってきたんだが――大会の、それも黒森峰との試合中だったからなあ。ついつい興奮したまま、最後まで抗議できたよ」
「へええ……熱いことしましたね、西先輩」
「そうか? ――で、突撃を決行した先輩がたは、次々と撃破されていったよ。もちろん、反撃も出来ずに」
抵抗も出来ないまま、大会の中で敗退するなんて。
――考えただけでも、胸が痛くなる。ちらりと、自分の右足へ目を配った。
「……西先輩は、どうでしたか?」
「ああ。私は、『普通に』立ち回っていた」
「普通に?」
「そう。普通に攻撃したり、普通に身を隠したり、時には接近したり。いやあ、我ながらいい感じに戦えたと思う」
興味津々の色を隠さないまま、「それでそれで?」と促す。
西は「いいぞ」とばかりに微笑み、
「一両は撃破した、したが……途中で隊長機がやられてしまってな。それで試合は終了、私は生き残った」
強豪黒森峰と対峙して、西は生き残ったのか。しかも、黒森峰製の戦車を一つ食って。
強い、と思った。
嬉しい、と思った。
――だから、
「……凄い」
「え?」
本音が、ぽろっと漏れてしまった。
けれど、訂正などはしない。実力者を、西を称賛して何が悪い。
「西先輩は、やっぱりすごい人です。その頃から、こう……貫禄があったんですね」
「いや。これが知波単戦車道の、地の実力さ」
穏やかな顔を浮かばせながら、西隊長は、己が実力すらも知波単戦車道へ還元した。
たぶん、素で言っているのだろう。知波単戦車道の力を、どこまでも信じているのだろう。
「だから、な」
西の表情が、極めて真面目に整っていく。
「だからこそ――納得できなかった」
西の声が、極めて真面目に変化していく。
「凄く悔しかった」
西の言葉が、極めて真剣に耳へ届いていく。
「こんなの、武芸じゃないと思った」
西の言葉に、極めて本気で共感していく。
「対戦相手に、何も出来なかった。戦い方さえ改められれば、上手くいけただろうから、なおさら」
空田の目が、西から逃げそうになる。極めて大真面目な事情を耳にして、心臓が痛くなる。
だからこそ、釣り竿を強く握りしめた。奥歯まで噛んだ。西とは、もう他人ではないから。
「その日以来、私は先輩に食いついた。これでもかってくらいに、ああだこうだと引き下がらずに――ついに、先輩は折れた。納得してくれた」
長い髪を、ひと撫でして、
「『お前が隊長になって、すべてを変えてみせて欲しい』……そう、言われたよ」
思う。音の無くなった世界の中で、空田は間違いなく思う。
西は、知波単戦車道を変えられる人だ。潔く散ることを頑なに拒み、勝利という当たり前の希望を掴めるような女性だ。
「――隊長になったのは良いんだが、やっぱり、なかなかどうして伝統は覆せない。分かってはいるつもりだったが、難しいものだな。何かを変えるって」
西が、穏やかに苦笑する。空田は、そんな西へ目を逸らせない。
「一応、色々と言ってみてはいるんだが……伝統の力は凄いな。うちの履修者達は、『つい』突撃してしまう」
西の声から、力が抜けていっているような気がした。
相当苦労しているのだろう、西の苦笑いがずいぶんと重たく見える。真面目だからこそ、期待しているからこそ、上手くいかない事もあるからこそ、こんな顔が出来るに違いない。
「何度も『その時じゃない、我慢するんだ。上手く戦えれば、最高の気分になれるぞ』と訴えてはいるんだが……相手の姿が見えたり、勘だったり、」
西の糸は、微動だにしない。
「仲間が危機に陥ったりすると、確実にそこへ突っ込んでいく。情が深いのは良いんだがな……」
「知波単学園は、そういう人が多いですからね」
「だな。――けれど」
西が、釣り竿を握り直しながら、
「君の学友……福田は、よく私の言葉を聞いて、よく冷静に動いてくれるんだ。福田が居てくれるお陰で、私は色々と助かっているよ」
「おお。さすがは福田さん」
「ああ。福田は高い素質がある上に、異論を唱える勇敢さもある。次期隊長候補だな、彼女は」
学友が褒められて、ついつい口元が曲がる。西もそれを察してか、穏やかに笑ってくれた。
「まあ――高い素質を秘めているのは、福田だけじゃない。さっきも言った通り、みんながそうであるはずなんだ」
先ほどとは違う、柔らかい鼻息。
「長く、説得してみるものだな。試合に負けてしまった後は、皆して私に謝罪したり、反省会を行ったりする。そうして自覚しているはずなのに、ついつい先走ってしまうのは……やっぱり、『伝統』のせいなんだろうな」
長年続いて、支持もされてきた伝統に対して、西は正直に疑問を抱いた。
空田は、そんな西のことを「正しい」と思っている。西は知波単戦車道を愛しているからこそ、どこまでも誠実に戦いたいのだ。
伝統に縛られて、無意味に敗北するなんて、とても受け入れられるはずがない。
「伝統とは強烈だな、良くも悪くも」
西の口から、覇気のないため息が漏れる。
それでも、
「……変えられるのかな、私程度が。私の力で、知波単戦車道をいち武芸として立て直せるのかなあ」
それでも西は、
「諦めるつもりはないけれど」
それでも西は、笑みを崩さない。だからこそ、空田の内心に痛覚が走る。
「――すまない、話が長くなった」
空田は、力なく「いえ」としか言えない。
「考えすぎたり、部屋に籠もりっきりになると、ついつい気分が薄暗くなってしまう。……だから今日は、釣りをしてみたんだ」
西の志を耳にして、瞬時に理解する、納得する。
長く続いた伝統を変えるだなんて、決して簡単な事ではない。一寸の光が見えたかと思えば、上手くいかずに失敗したことだってあったはずなのだ。
西はすごく真面目な人だ。だから、こうして失敗を掘り起こす事も出来る。それでも諦めずに、前へ歩むことだってできる。
「この話は秘密にしておいて欲しい。隊長である私が弱音を吐いてしまっては、隊員に合わせる顔がない」
西はすごく真面目な人だ。だから、こんな風に一人で抱え込める。
空田は、何が何でも黙って頷いた。
「長いながい愚痴を聞いてくれて、本当にありがとう。……すっきりした」
西が、安堵のため息をつく、表情をつくる。
「君には何か、お礼がしたい」
空田は、「いえ」と首を横に振った。西は、「そうか」と笑ってくれた。
――深呼吸する。
空田は、何としてでも口を挟みたかった。西絹代という人を、何かしてあげたかった。
唾を強く飲み込む、微動だにしない糸を目にする。もう一度、西の横顔を視界に入れる。
「西先輩」
「うん?」
証明したかった。
知波単戦車道は、去年までは確かに突撃一辺倒だった。男である空田ですら、そうやって認知していた。
しかし今年は、西絹代率いる知波単戦車道は、段々と評価が変わり始めている。それは福田の口から、学友達の噂話から、時には廊下から、「変わったよね、うちの戦車道」と聞こえてくることがあるのだ。それほどまで、知波単戦車道の規模は大きい。
当初は、他人事のように頷いていた。けれど西を前にして、西の話を耳にして、西の意志力を目の当たりにして、空田は確信した。
これは、変わらざるを得ないと。変わるべきだと。
――だから、
「周りは、ちゃんとあなたの行いを評価していますよ」
「え?」
「釣りを始める前に、言いましたよね。『戦車道を強くしようとしているあなたのことを、みんなが称賛している』と」
西が、「う、うん」と躊躇いがちに頷く。
「これは世辞ではありません。僕が耳にした、本当のことです――たとえば、福田さんなんですが」
伝統を覆そうとする西を、どうしても励ましたい。
だから、荒っぽく息を吐く。勢いづける為に。
「福田さんとは学友の間柄ですから、よく教室で話をします。小説のこととか、映画についてとか、福田さんの友人……婚約者との進展とか」
そこで、西が「お」と目を丸くする。
「そうか、君も福田から『そういう話』を聞いているか。いやあ幸せそうに語ってくれて……羨ましいよ」
「まったくです」
友人――土井というのだが、福田とは昔からの許婚だ。親同士での取り決めもあったそうだが、両者とも極めてぞっこんの仲である。
知波単学園内では、一際輝く男女としても有名だ。だからこんな風に話をしたところで、何を今更だったりする。おかげで周囲からは「やめてーしぬー」と祝福までされているのだった。
――西の顔からは、どことなく恥じらいの色がある。恋愛に興味はあるらしい。
「で、まあ。あとは、勉強について語り合ったり、何でもない話をしたりします――一番よく聞くのは、知波単戦車道についてなんですけれどね」
「本当か」
「ええ。そのたびに、西隊長への称賛をよく耳にしました。そして決まって、『あの人なら、知波単戦車道を変えてくれるでしょう』と」
西の表情から、口から、言葉が消える。
――思い出せ。教室で確かに聞いた、西率いる知波単戦車道の噂を。
「福田さんだけではありません。『知波単戦車道は、前よりも鋭さを増している』とか『うちの戦車道、何かこうおっかなくなったよね』とか『西先輩が隊長になってからだっけ。うちが評価されていったのは』とか……うちの教室では、そう評価されています」
「……そう、なのか?」
思わず、西と目が合った。もう逃げない、迷わない。
「はい。良くも悪くも、知波単戦車道といえば『勇猛果敢』でしたからね……だからこそ、これらの評価がとても印象的だったんです。福田さん繋がりで、戦車道に関しては少しばかり興味もありましたから」
「……そうか」
力強く、頷いてみせる。
「福田さんも、土井も、僕も、うちの学友たちも、あなたのことを支持しています。西先輩なら、知波単戦車道を変えられるはずです」
良くも悪くも、うちの戦車道って勇猛果敢だよね。
去年までは、そうやって話が通ってきた――西絹代が隊長を務めるようになった今は、そんな話はもう通用しない。
「西先輩。確かに、伝統を変えることは難しいです……何せ、伝統ですからね」
西の、必勝祈願のお守りが目に入る。勇気が注がれていく。
「でも、諦めるつもりはないんですよね」
「ああ」
「履修者達と、最高の武芸を体現したいんですよね」
「もちろんだ」
「だからこそ、出来うる限りのことを行っているんですよね」
「うん」
「……やっぱり、西先輩は、知波単戦車道を変えられる人だ」
西は、無表情を保ったままで反論したりはしない。
自分は、言うべきことを言えている。そう思うことにして、口を開き続ける。
「西先輩。相手は、長く続いた伝統です。これを覆すには、やはりどうしても時間が必要だと思います」
間。
「だからこそ、履修者の皆も、時間とともに少しずつ変わり始めていっているんですよね? 反省会を行う自覚が、芽生えているほどに」
西が、頷いた。
西絹代という人は、いつまでも仲間を見守って、どこまでも隊員へ声を投げかけて、かぎりなく知波単戦車道履修者を信じている。
十分すぎた。自分と違って、やれることなんてぜんぶ成せていた。
だから、
「待ちましょう」
西の顔が、目が、口が、「え」と漏らす。
「西先輩は、やるべきことを『全て』やっています。これ以上、気負う必要なんてありません」
「空田君」
「知波単学園のみんなも、僕も、あなたを信じています。……その日が訪れるまで、釣りでもして待ちましょう」
何の前触れも、なかったと思う。
西の釣り竿が、前向きに曲がり始めた。
まずは空田が、本能的に「引いてます!」と叫ぶ。次に西が「あ、ああわかった!」と立ち上がり、戦車道履修者らしい勢いで竿を引っ張っていく。
手伝うべきか、どうするか――踏みとどまる。西には、「釣れた」という実感を抱いて欲しかった。「勝てた」という事実を、味わって欲しかった。
「ここだ」
西の、極めて冷静な声。「必勝祈願」の金文字が、日に照らされて強く光る。
――何かを感じ取ったのか。西が、獰猛な笑みを遠慮なく浮かばせて、
そして、
「釣れ……たッ!」
完全に釣り竿を引っ張り上げ、爆音めいた水音と共に魚が宙を舞う。今日は、実にいい天気だった。
後はそのまま、銀色の魚をひっかけたままの釣り糸が、前後に大きく揺れる。
「あ……結構大きいな」
空田も西もぼうっとする中で、いち早く理性へ漕ぎ付けたのは西だった。
釣り竿を後方へ振るい、その反動で釣り糸が西の方へ引き寄せられていく。
そのまま糸を手づかみし、そうっと魚を凝視する。しばらくはその間が続いたのだが、やがては空田に目を合わせた。
――西の意図を察して、空田が「あ、ああ、その魚は、」と口走る。西が、極めて大真面目な顔で「うんうん」と頷く。
「
少なくとも、両手で抱えられる程度には。
まず、西はぽかんとしたままだった。三秒後には「おお」と顔が明るくなっていって、八秒後には「やった……やった!」と、ボラを大切そうに抱えた。
河川敷で躍り回る西を見て、空田は強くつよく安堵する。力の抜けた鼻息を漏らして、口元も曲げて、「よし」と言って、
「西先輩」
「あ、ああ、すまない。大声を出してしまって」
「いえ、いいんですいいんです。……どうですか? 今のお気持ちは」
「ああ――いいな、とても」
西が、釣り針から鯔を開放する。後はそのまま水汲みの中へ、鯔をそっと放った。
「大きいな、これは。写真も撮っておこう」
腰かけた鞄から、高そうな写真機が遠慮なく登場する。金があるなあと、空田は少しばかり圧倒されるのだった。
――さて。
帽子を、改めて整える。
「西先輩」
「うん?」
釣り人の先輩として、西を先導しよう。それが、自分のやるべきことだ。
軽く、咳をついて、
「……ね? 西さんはやるべきことをやっていたからこそ、こうして待っているだけで結果を得られたでしょう?」
あ。
西が、それだけを口にして、写真機を手に持ったままで硬直する。
空田の釣り竿は、相変わらず動かないままだ。配達回転翼航空機は何処かへ飛んでいってしまったし、川は無関心そうにこれからも流れゆく。春先の風が穏やかに吹いて、西の髪が羽のように舞う。
「……そうだな」
ようやく、西は笑えた。
「君の、言う通りだ」
そして、西は笑ってくれた。
↓
「お、もうこんな時間か」
もう、そんな時間だった。
空はすっかり赤く染まっていて、暗くなるにつれて段々と肌寒くなってきた。心なしか釣れる魚も少なくなってきたが、これに関しては気のせいだろう。
「――今日は、色々と聞いてくれて、本当にありがとう」
「いえいえ。西先輩のお役に立てたのであれば、幸いです」
「そうか。……君の話も、とても面白かった」
「そうですか? それなら、よかった」
知波単戦車道について語り合った後は、意図的に取り留めのない話を口にしていった。真剣味が続いては、やはりどうしても西の為にはならない。
ここ最近の映画について、読み終えた本の感想、釣って撮影した、二年も三年も男女の関係が盛んなんだなあ、白米に何をかけるかの激論、釣って撮影した、空田君は何か部活動とかは? ……いえ。
そうやって雑談を交わしあって、時には魚が釣れて、そのたびに西が大喜びして、一言でいえばめちゃくちゃ楽しかった。一人で釣るのも味があるが、これはこれで良いものだと空田は心底思う。
釣り用具を片付け、魚を川へ逃がしながら、
「釣りの手順などは、だいぶ掴めましたか?」
「お陰様で。教えてくれて、本当にありがとう」
「いえ。西先輩はとても聡明ですから、いつかは僕なんて抜かされてしまうでしょう」
「どうかな。君も、日々成長しているはずだ」
成長。その言葉を聞いて、一瞬ながら感情が陰る。
西の笑顔を見て、いやいやと首を振るい、
「だといいですけどね」
「君は、人にものを教えられるひとだ。だから、優秀な釣り人であるのは間違いない」
「西隊長が言うと、説得力がありますね」
言ったな。西が、けらけらと苦笑する。だってそうじゃないですかと、空田も笑ってみせる。
――ほんとう、西は「西隊長」その人だと思う。隊員の為に日夜努力していて、真の武芸を追いかけて、これは違うと思ったら伝統にだって飛び掛かる。西は、本当の意味で勇猛果敢な性格をしているのだろう。だから皆から愛されるのだ。
とてもでないが、恐怖に屈した自分とは比べ物にならない。右足をさすりながら、心底そう思う。
「――西先輩」
「うん?」
「今日は、お付き合いしてくださって、本当にありがとうございました。凄く、楽しかったです」
「ああ、私も楽しかった。ほんとう、釣りはいいものだな」
まったくもって。空田が、小さく頷く。
「辛かったりしたら、その、無理をしないでください」
本心から口にする。察してくれたのか、西も「ああ」と返事してくれた。
「西先輩は、やるべきことは全てやっています。あとは時間が解決してくれるはずです」
「しっかり覚えておく。――釣り人が言うと、説得力が段違いだな」
「言い返さないでください」
西が笑う、空田が苦笑する。
「じゃあ、僕は機関車で帰ります。西先輩は?」
「ああ。私は単車で帰るよ」
単車。その響きだけで、男としての本能が瞬く間に沸き立って、
「か、格好良いですね!」
「そうかあ? そうかあ」
愛車として乗り回しているのだろう。西が、これでもかというくらい目と口を線にした。
「いやあ、単車はいい、いいものだぞ。これに乗っていたお陰で、釣りと出会えたものだし」
「そうなんですか?」
「ああ。元はといえば、単車を乗り回す事で自由時間を満喫していたんだよ。私は」
「ふむふむ」
「で、いつも通りに単車を走らせていたら……川でな、釣り人を見かけたんだ」
「へえー」
西が感慨深そうに、ゆるく口元を曲げる。
「何だろうな。戦車道や単車とはまた違う、無音の雰囲気に私は惹かれたのかもしれない。……まあ、後は、勢い任せで用具を揃えてきた」
「その流れで、ここに」
「そうそう」
西が、誇らしく釣り竿を掲げてみせた。とても嬉しそうな顔をして、良い意味で隊長らしくなく笑いながら。
小さく、鼻息をつく。
そんな人と、西絹代と交流出来て、本当に良かった。これまで以上に気分転換を成せたと思う、今晩はよく眠れるだろう。
心の中で礼をする。ありがとうございました、これからも幸せに、
「ところで」
「あ、はい?」
感謝が空振りする。なけなしの体裁を整えるために、帽子のずれを直すふりをした。
頃合いの空の下で、夕暮れに照らされながらで、西は穏やかに笑って、こう言った。
「次は、どこの川で釣りをするのか、決めているのか?」
「え? そうですね……まだ、決めてはいません。そこは割と適当ですね」
「そうかそうか」
納得したように、西が二度頷く。空田は内心、「え、何」と動揺する。
――空田は、礼をしようとしたのだ。これからも幸せに生きてください、辛かったら適当に釣りをしてくださいと。
なのに、
「じゃあ決まり次第、一緒に釣りをしに行こう」
なのに西は、これからも空田と同行しようとするのだ。
空田の口が「え」だの「は」だの「え」だのと吐く。空田のびびりっぷりを目にして、西の表情が途端に曇って、
「あ……その、邪魔だったかな?」
「え!? あ、いや、とんでもないです! 西先輩と釣れるなら!」
舞い上がり過ぎて、本心本音がぽろっとこぼれ落ちてしまった。大声の前に西が小さく飛び跳ねるも、「そうか、そうか!」と破顔していって、
「それは良かった! よし、それまで釣りの勉強をしておくから」
「――あ、それは、良いんですが」
「え、何だ?」
「その……僕と一緒に釣りなんて、いいんですか? ろくな話も出来ないのに」
西が、「え」と首をかしげる。「何を言っているんだろう空田君は」な目を向けられる。
「何を言っているんだ。同じ釣り人である君と会話できて、私はとても嬉しかったんだぞ」
「そ、そうなんですか。それは光栄です」
「正直、賑やかな方が好きだからな……一人で釣りをするのもいいが、やっぱり仲間同士で趣味を共有しあうのが良い」
西が、深々とため息をつく。その目は穏やかに輝いていて、釣り竿を刀のように担いでいて、黒髪が夕暮れ模様と混じり合っていて、真っ直ぐな笑顔が空田の元へ向けられていた。
空田の頭の中が熱っぽくなる、少しばかり視線を逸らしてしまった。
「……それに」
「それに?」
「君は、私の話をしっかりと聞いてくれた。私の為に、激励まで返してくれて」
ほんの少しだけ、間を置いて、
「君のような人と、空田君と、また釣りがしたい」
――空田は思う。
この人のことを、心の底から応援したい。
だから、
「……分かりました」
「そうか。よかった」
「西先輩は隊長ですし、いち学生でもありますから、色々とこう、口に出来ないことを溜め込んでしまうでしょう。僕もそうです」
「そうか。君も大変だな」
だから言え、一度でいいから口走れ。出来るできないとかは二の次にして、西のことだけを考えろ。
言え。
「ですから、その、微力ながら、西先輩の手伝いをさせてください。ここで言いたいことを言ってしまってください」
勢いづく、もう止まらない。
「学園内では、戦車道では、清廉潔白で、人気者の西先輩であり続けてください」
「空田君」
「あなたとは同じ釣り仲間です。……その、余計なお節介をかきたくなってしまって」
「余計なお節介」という言葉に対して、西は首を横に振ってみせて、
「ありがとう」
こう、言ってくれた。
「ありがとう、空田君。君のような人と会えて、私は光栄に思う」
こう言ってくれて、手まで差し出してきて、
「未熟者ですが、これからも釣りを先導してください」
「あ、はい」
迷うことなく、西の手を控えめに握り締める。遠慮するなと、強く握り返された。
「――君も」
「え?」
「君も、何か悩みがあるなら、私に伝えて欲しい。微力ながら、力になるよ」
悩み。
その言葉を聞いて、右足がびくりと震えた気がした。
「ありがとうございます。……まあ、何かあったら、その時は」
「ああ。私だけ聞いてもらうというのは、仲間らしくないからな」
手が、音もなく離れていく。
「それじゃあ、次の釣り堀が決まったら、私に教えてくれ。何なら三年の教室へ入っても構わない」
「そ、それはどうでしょう」
知波単学園は、上下関係が比較的穏やかな校風であるとはいえる。いじめだの争いだのは皆無であるし、先輩後輩が混ざって読書会を開くこともしょっちゅう。下級生が廊下で悩んでいれば、同級生も上級生も一声かけてきて、一緒に悩んでくれる事もあった。
だからこそ、後輩の面々は先輩がたを深く尊敬している。その先輩達が集う「
「まあ、あれだ。次に釣りへ行く時は、必ず声をかけて欲しい。……頼むぞ?」
そんな風に言われてしまっては、そこまで釣りを好きになってくれたら、そんな目をされてしまっては、
「はい。必ず、お伝えします!」
「感謝する!」
互いに敬礼し合い、何だかおかしくなって含み笑いがこぼれ落ちた。
その後は、特に何事も無く帰路へついていく。やや冷たい夕暮れの風が吹いて、ちゃるめらの音があてもなく響き渡って、豆戦車が道路を横切っていく。