「時間だな。一時間目の授業を終了する、次に備えるように」
予鈴。
硬派な空気を保ちながら、私語なしの生真面目さを整えながら、知波単学園ならではの秩序を担いながら、教師が教室から退散していく。
週明けの一時間目が、学生一番の鬼門が、これにて終わりを迎える。ほんの少しだけ、優等生らしい間を挟んだ後に――学生らしく席から立ち上がり、若者らしく私語が飛び交い、十代らしい休日の報告がそこかしこから沸いて出てきた。
無論、空田も「立派な」知波単学園の生徒だ。だから早速とばかりに「あー疲れた」と、椅子に背を預けることにした。
動く気はさらさらないので、何となく意識を教室へ向ける。
目の前の女子三人組は、乗馬についてあれこれと語り合っている。そのうちの一人は、危うく落馬しかかったらしい。
一番前の席に集っている男四人組は、どうも自慢の歌を披露し合ったらしい。歌の上手さは知るところではないが、健全だなあと空田は思う。
それほど遠くない距離から、男女の会話が耳に入る。休日中は、一日中街を歩き回ったらしい。楽しげに会話を交わしているところから、有意義な時間を過ごせたのだろう。
羨ましいものだ、ため息をつく。これでも知波単学園の生徒であるから、最低限の生真面目さは抱えているつもりだ――けれど、「そういうこと」に興味がないわけではない。
自分は、休日は何をしたっけと、過去に思いをはせる。釣りをしたんだっけと、何気なく連想する。「釣れますか?」の一言を思い出して、「あ」と声が出た。
知波単学園の人気者と出会って、釣りの基本を教えて、流れから「ここだけの話」を聞かされて、半ば勢いで激励して、そこから魚が釣れていって、
君のような人と、空田君と、また釣りがしたい。
衝動的に、顔を勢い良くうつむかせる。表情を見られたくないが為に、手のひらで顔半分を隠す。口元が、やはりどうしても曲がる。
こればかりは仕方がない。だって、「あの」西絹代と釣り仲間になれたのだから。
意味もなく、口元を固く閉じる。このことがばれたりでもしたら、男女含め数人が、突如として釣りに目覚めてしまうだろうから。
――それほどまで、西絹代は人気者で、支持されていて、愛されている。本来なら、自分などとは比べ物にもならない存在だ。
常に、前に進み続ける西とは違って、自分は、
「空田」
勢いよく顔が上がる。何事かと振り向いてみれば、穏やかな顔をした福田と土井が、隣同士で席に着いていた。
「ああ、福田さんに土井。……そこに土井がいるってことは、また松井が格好良いところを見せたんだな」
「うん」
「彼にはいつか、お礼がしたいのでありますが。颯爽と立ち去ってしまうので」
土井は、本来は一番前の席が与えられている。よって、一番後ろの席に着いている福田とは離れ離れになってしまうのだが、福田のお隣さんである松井が、休み時間限定で席を貸し与えてくれるのだ。
土井と福田は、松井に対して何度も感謝しているのだが、当の松井は沈黙を貫きながらで廊下へ立ち去ってしまう。時々微笑を浮かばせるあたり、照れが生じているのかもしれない。
これが、「松井の流れ」と呼ばれている一連の場面である。教室内では割と有名で、「かっこいいなお前」とよく言われているのだった。
「ああいう人は、好意を示されると逆に戸惑っちゃうんじゃないかなあ。言葉だけで良いと思う」
「そうでありますかね」
「と、思うけどね」
自信なさげな顔で、確証の無い言葉で空田は場を繋げる。
鼻から、軽く息を出しつつ、
「――で、休日は何をしてたの」
「え、それはもちろん」
土井と福田が目を合わせ、恥ずかしそうにえへへと笑う。
瞬間、空田は「またかー」という顔をする、声にまで出す。
「どうしてたの」
「え、ええっと」
土井が、空田から視線を逸らす。
福田も、空田から目線を外しながらで、
「そ、その、手を繋いで、なんでもなく街中を歩いていたであります。……土井くんとなら、どこへ行っても楽しいでありますから」
空田が、たまたま耳に入った池田(戦車道履修者、趣味は折り紙)が、「あああ゛ー」と悶える。
別に進展があったわけではない、「いつも」こうなのだ。土井も福田も、はっきりと「君がいればそれで良い」みたいなことを平然と口に出来てしまう。
婚約者同士だからこそ、この言葉による破壊力は凄まじい。高校生という思春期真っ只中な連中にとって、完成された男女というものは「頂点」といっても過言ではない。
「そ、それでだなっ、聞いてくれよ空田」
「聞く聞く」
「その、昼には福田さんの手作りお弁当を食べたんだ」
手作りお弁当。その単語を至近距離から耳にして、空田が歯をくいしばる。耳を傾けていた池田が、「ぐああっ」と腰をへし折った。
「うまかった?」
「は、はあとがたのふりかけは最高でした」
福田が、うつむいて顔まで真っ赤になる。口元が~の字に歪む。
土井はといえば、実にこっ恥ずかしそうに、けれども嬉しそうに顔を明るくした。
そんな二人を見て、空田が、池田が、地の底の怪物のような唸り声を上げる。
――姿勢を整える、気を取り直す。
「……で?」
「え? その後は、劇的なこととか、事件には巻き込まれなかったよ」
「そうか」
「食べ歩きとか、本の買い物とか、映画を見て。それで終わりだよ」
「そうそう、代わり映えしなかったであります……ありますが」
が? 空田が追求する。
土井が、これっぽっちの悪意を廃した笑顔を浮かばせて、
「最高の時間を、ずっとずっと過ごせたよ」
福田が、土井が、顔を見合わせる。きっぱりと笑ってみせて、
「福田さんがいたから」
「土井くんがいてくれたから」
空田が、池田が、間も無く即死した。
「――まあ、こんな感じだったかな」
「そうか。羨ましいよ」
死ぬ時はあっさり死ぬし、そのぶん復活だって早い。福田と土井にとっては「まるでいつものこと」なので、教室全体が受け入れ切ってしまっているのだ。
池田も、「隣の教室にいこ」と呟けるくらいには元気を取り戻せている。
「――で、空田は?」
「僕かい? 僕は、」
相変わらず、と言いかけて、
「釣り、かな」
大嘘をこいた。
西絹代と釣りをした。これが正しい。
「そうか。釣りは、楽しいかい?」
まあね、と頷いて、
「釣れないことが多いけど、こう、趣があって良いよ」
「それは、何よりであります」
ほっとしたような、安堵するような、そんな微笑を福田は浮かばせる。
そんな福田を見て、空田はにこりと返した。
「やっぱり僕は、なかなか黙ってはいられない性格持ちだと思う。部屋の中に籠っていると、こう……ね?」
「そうか」
土井が、物静かに頷く。福田も、「よかったであります」と言ってくれた。
――そうして土井が、友人の土井が、空田の右足を覗き見した。空田は気にしない、ただ頬杖をつくだけだ。
「……まだ、怖いかい?」
質問の意味は、すぐに察した。
空田は、右足の上に手を乗せた。音もなく。
「そうだね、まだ走りたくない。――いや、一生このままかも」
あえて笑ってみせる。
「その、僕には想像がつかないけれど、」
土井の目つきが、物静かになる。
「肉離れって、相当痛いらしいね。調べてみたけれど」
「ああ。急にくるから、なおのこと恐ろしくて」
「……分かるであります。戦車道でも、不意打ちを受ければ、声まで出てしまうでありますから」
「うん。僕も剣道やってるけど、同じような目に遭ったら……どうなるかな。やっぱり怖がっちゃうんだろうな」
空田も、福田も、土井の言葉を否定したりはしなかった。
――釣りを始める数ヶ月前までは、空田はいっぱしの陸上部員だった。主に短距離走を好んでいたのだが、周囲からは、福田や土井からは、よくよく期待されていたのだ。
元から体を動かすことは好きだったし、走っている間は「僕生きてる」とすら思えていた。
そうして放課後の短距離走に明け暮れている中、何の前触れもなく、平凡な一日の中で、突如として「何かがちぎれる音」が、体の内側から鳴り響いた。
その後のことは、よく覚えている。
なすすべも無く倒れ込んで、少し遅れて痛みが、激痛が体全体に走り回って、右足を抑えて、声になっていないうめき声が漏れて、だいじょうぶかまずいぞはやくしょちをほどこせと周囲がざわめいて、垣間見える夕暮れが真っ赤に染まっていて、
気づけば、保健室で横になっていた。その時は悠長にも、「泣かなかったな」と思考していた。
その後は、絶対安静の日々を送ることになった。教師からは「絶対に走るなよ、頼むから」と指摘されたが、恐怖にかられていた空田は難なく「はい」と従った。
そうして日々を過ごしていって、部活も休んで、体育も見学するに留まって、気づけば右足は完治していた。なんども何度も検査したから、間違いはない。
けれども、空田は未だに走れずにいる。不意の激痛が恐ろしすぎて、気持ちが竦んでしまうのだ。そのたびに陸上部を、走る事すらも辞めようとするのだが、やはりどうしても、いやしかしと、熱意を捨てきれずにいた。
中途半端な気持ちは、やがては何事に対する意欲すらも奪っていく。
ため息ばかりこぼして、やる気のない面ばかりして、周囲からは「大丈夫か」と心配されて「完治したよ」と苦笑い。平日も休日も、何もせずに暮らしていく日々が続いた。
そんな中で、真後ろの席に着いていた福田が、土井が声をかけてきたのだ。曰く「放ってはおけなかった」。
空田は、とくべつ強い人間ではない。人並みに愚痴るし、普通に根に持つし、当たり前のように悲観にくれたりする男だ。だから、福田と土井から「話し相手になるであります」と言われた時は、それに伴って真剣な顔を向けられては、空田は甘えるように鬱屈さを吐き出す他なかった。
土井ははっきりと言った。それはまずい傾向だ。
福田もはっきりと言った。空田君は遊ぶべきであります、なるべく足に負担がかからないような遊びを。
土井の言葉に同意して、福田の一言に対して少しばかり思考して、「あ」と閃いて、今に至る。
こうして席に腰かけられているのも、すべては福田と土井のお陰だ。
だから、
「福田さん、土井」
二人が、ほぼ同時期にまたばきする。
「――本当にありがとう。こんな僕の面倒を、見てくれて」
「いえ、そんな。道を曲げることなく、こうして知波単男子らしく生きる空田君は、立派であります」
「そうそう」
福田も土井も、正直な面持ちで頷いてくれた。
――ほんとう、この二人には心から感謝している。一度昼飯を奢ったことがあるのだが、その時は「ありがとう」と受け入れてくれたものだ。
「空田」
「うん?」
「その……もし、もしもだ。また走りたくなったら、いつでも声をかけて欲しい。出来る限りのことはする」
「私も協力するであります。――けれど、無理して前に進むこともありません。幸せな気持ちでいられるのなら、私はそれを全面支持するであります」
福田も土井も、空田から目を逸らさない。
「突撃する空田君も、心穏やかに暮らす空田君も、私にとっては一生の友人であります。……だから、あまり暗くならないで欲しいであります」
見たことはない、見たことはないが、福田は戦車道履修者の顔つきをしていた。
だから察せるのだ。福田も土井も、本気で「なんとかしたい」と考えている。
だから、
「ありがとう」
こう、言えた。
――木造校舎ならではの渋い匂いが、感覚に染み渡る。白い窓かけを通じて、黄色い日光が教室の床を照らしている。割と暖かい空気の中で、生徒達があれやこれやと雑談を交わしあっている。そろそろ授業が始まるからか、廊下から生徒が戻ってくる。菊池の姿は未だに見えない。
そんな中で空田は、福田は、土井は、安堵するように微笑み合う。
「福田さん」
「はい」
「僕も、福田さんの戦車道を応援するよ」
福田が、「ありがとうございます」と頭を下げて、
「知波単戦車道は、確実に強くなっていっているであります。あの西隊長が、皆をしっかり指導してくれているでありますから」
土井が、嬉しそうに「なるほど」と返して、
「だね。西先輩が隊長になってからは、よくよく評価も上がってきたみたいだし……嬉しいな」
「ええ」
「そうして、福田さんが輝けることが、とても幸せだ」
福田がえへへと破顔して、空田はぐああと苦悶する。あまりにも真っ直ぐに繋がり合っているからか、心によく響くのだ。
「そういえば、戦車道の授業は四時間目だっけ? ……今日も頑張ってね、福田さん」
「はい! 土井君も、剣道に励んで欲しいであります」
いいなあと思いながら、嬉しいなあと考えながら、空田は何となく西の事を意識する。
絶対に、知波単戦車道は変われるはずだ。そう願ってやまない。
↓
戦車道の授業が終了して、履修者達がてんやわんやと撤収作業に励んでいる。昼休みが目前だからか、雰囲気はだいぶ明るい。
その一方で、玉田の顔色はやや暗い。玉田の目の前には、両腕を組む西が強く直立していた。
「玉田」
「はい」
「お前は、隊一番の恐れ知らずだ。弾が降ろうとも、追い詰められようとも、前向きな姿勢を崩さない。そこは高く評価している」
「光栄です、西隊長」
西が、腕の中の人差し指を、一度だけ上下させた。
「後は、ほんの少しだけ、立ち止まる勇気を覚えてくれたら……お前は、真の副隊長になれるだろう」
「……はい」
言い訳も出来ないまま、玉田は深々と頷くしかない。穴だらけの九七式中戦車を横目に見て、「やってしまったなあ」とつくづく思う。
分かってはいるのだ。盛り上がりに任せたまま、突撃することなど勇敢でも何でもないと。潔く散る事を善しとするなんて、真の武芸とは呼べないことも。
それでも、突撃魂という「伝統」は、自分の性格とはあまりにもぴったりだった。元から体を動かすことは大好きだったし、しょっちゅう外出しては「あなたはもう少し跡継ぎらしい振る舞いうんたらかんたら」と説教されてきた。
つまりは、そういう性格だ。なので、いけいけどんどんな伝統は大歓迎「だった」。
「玉田」
「はい」
「潔く散った時、お前はどんな気持ちを抱く」
西の前で嘘はつけない。なぜならば、知波単学園の隊長だから。
だから、
「……正直、爽快な気持ちになれます」
「そうか」
それでも西は、怒りも恨みもしない。その一言で、玉田を受け入れる。
――西の言いたいことは分かるし、肯定してはいるのだ。試合で負けてしまうのは良い、散る為に負けるのが良くないと、西は常々そう主張している。
気まずくなる、心臓が痛くなる。長年継がれてきた伝統を覆しても良いのかと、何もしないという「真の勇気」を体現出来るものかと、玉田は歯を食いしばる。
その時、西は「ふう」と息をついた。
聞き逃さなかった。
「玉田」
「はい」
ほんの少しだけ間を置いて、春先の風が穏やかに吹いて、西は言った。
「大学選抜と戦ったあの日を、思い出して欲しい。……十分に戦えた時、どうだった?」
思い出す。目上の相手に対して、真っ当に奮戦できたあの場面を。伝統を覆せた、あの瞬間を。
――その質問に対して、玉田は申し訳なさそうに、けれども口元を曲げてしまいながら、
「……最高でした」
「だろう?」
ここで初めて、西がにこりと笑った。玉田の肩を、ほんの優しく叩いた。
「お前には、何物にも恐れないという、私には無い才能がある。それを研ぎ澄ますことが出来れば、いずれは全国大会……いや、世界にも通用するはずだ」
「……ありがとうございます、西隊長!」
「お前なりの玉田流を、ぜひ私に見せてくれ。――その時が来るまで、私はいつまでも待とう」
そんなことを、言ってくれるんだ。
西絹代という女性は、いつまでも知波単戦車道履修者を見捨てたりはしない。何度も失敗したところで、恨んだり嫌ったりもしない。至らない個所を指摘しながらも、決まって利点を口にしてくれるのだ。
この人はほんとう、他人の事が好きなのだろう。だから隊長として、皆から好かれているのだ。
――応えたかった。西を喜ばせられるのなら、伝統なんて二の次だ。
「隊長」
「うん?」
「――次に試合をする時は、この玉田、もう少しだけ頭を冷やしてみます」
あえて、西の前で口にした。気休め程度にしかならないかもしれないが、少しでも伝統への退路を塞いでおきたかった。
大真面目な顔で、言えたと思う。
だから西は、にこりと微笑んでくれた。
「期待しているぞ、玉田」
「はい」
↓
銃声が、外から鳴り響いた。
放課後に浮かれる生徒たちは、特にすらも関心を抱かない。耳にしたはずの空田も、「ああ」と言うだけで驚きもしない。
見下ろす形で、二階の廊下から学校の運動場を眺める。先ほどの銃声を合図に、四人の陸上部員が激しく速さを競い合っていた。今走っているのは杉下に竹中、楠田先輩に花坂か。
小さく、ため息をつく。短距離走に挑む
前は、あそこにいたんだっけ。
走れなくなって、数ヶ月が経つ。だから、目を逸らそうとする。
未練を抱え、ずいぶんと経つ。だから、目を逸らせない。
右足を見て、軽く上下に動かしてみて、痛みなど感じないことを確認して、自作の応援歌がぽろっと鼻から漏れて、短距離走に挑む部員を見ては「羨ましいな」と思っていて、
「空田君」
思っていたものだから、かけられた声にびくりと反応してしまった。鼻歌を唄っていたせいで、声にならない咳が出た。
手早く首を向けてみると、西絹代が「やあ」と手で挨拶を交わしていた。
――気づかれないように、小さく呼吸する。
「こんにちは、西先輩」
「こんにちは。……今日もいい突撃をしているな、陸上部のみんなは」
戦車道らしい発言を耳にして、「さすが隊長」と思ってしまう。
「ええ。いい走りっぷりですよね」
「だな。――空田君は、陸上部に入ったりはしないのか?」
西の、半ば核心めいた発言に言葉が止まる。
なんとかして、言い訳めいた思考をかき集めながら、
「あ、えと、僕は別に」
「そうか? 何やら熱心に、陸上部を眺めていたようだが」
人のことをよく見ているんだなと、改めて思う。
こんな眼をしているのだ。人気者にもなるし、隊長として崇められるに決まっていた。
――それにしても。
「熱心……そう見えましたか?」
「ああ。なにやら陸上部に憧れているような……そんな感じだった」
そうか、結局はそうなんだ。
鼻息をつく、少しだけ笑ってみせる。
「まあ、体を動かすことは好きですから。だから、かな」
「ほう、いいことじゃないか。私もそうだ」
西が嬉しそうに、共感めいた笑みを浮かばせる。
空田の内から、照れが生じた。
「それで」
「あ、はい」
「――入部は、しないのか?」
西の、必勝祈願のお守りが、少しだけ揺れた。
西先輩。もう、しているんですよ。
心の中で、はっきりと呟く。
「え、あー、その、今入部しても遅いかなと。二年ですし」
「そうか? 進級してから、戦車道を歩む者もいる。もちろん、活躍もしているぞ」
「そ、そうですか」
あははと、力なく笑う。
「まあ、僕はその、今のままで良いんで」
へらへらとした面構えをしていると思う。よくないことだと、自覚もしている。
けれど西だけには、こんな事情に巻き込みたくはなかった。西は生真面目だから、何が何でも協力しようとするだろう。西は情に深いからこそ、まるで自分のことのように考え込んでくれるだろう。
けれど西絹代は、知波単戦車道という大いなるものを背負った隊長だ。それに伴う責任は重いだろうし、ましてや伝統を覆そうと四苦八苦しているのだ。
だから、このことは胸にしまっておく。西は、西の行く道だけを見据えていて欲しい。
――西の負担になど、なりたくはないのに、
「……ほんとうか?」
「え」
「本当に、そう思っているのか?」
なのに。
西は、誤魔化しや嘘などを貫く目つきをして、知波単戦車隊隊長の顔つきになって、空田だけを見続けているのだ。
――この人は、隊長だ。
心が気圧されながらも、握りこぶしを作って無理やり堪える。弱みが口にまで出てくる直前、歯を噛み締めて耐える。
再び、笑えた。そう思う。
「本当ですよ」
「……そうか」
わかった、とは言わなかった。
――改めて思う。
西が、陸上部とは無縁で本当に良かった。だから、陸上部で起こった「事件」などは知らないのだろうし、知る必要もない。仮に耳にしていたところで、まさか当事者が目の前に、とは思いもしないだろう。
その時、西が「あ」と表情を歪ませる。
「あ、ああ、すまない。変なことを言ってしまって」
「いえ、そんな。西先輩は、何も悪いことなんて言っていません」
本当にその通りだった。西は、正しい事しか言葉にしていない。
――空田もましなことが言えたのだろう。西が「そうか」と安堵した。
「気にしないでください、西先輩」
「ああ」
その時、男二人組が空田と西を横切っていく。「帰りどこかに寄るか?」「そうだなあ――あ、西先輩、お疲れ様です!」「ああ、お疲れ様」
――もう、そんな時間か。
「じゃあ、僕はそろそろ」
「あ、ちょっと待った」
なんだろうと、首を横に傾ける。
西は、からりと笑顔になって、
「次の釣り堀は、どうだ? 決まったか?」
ああ――。
なんだか嬉しくなってしまって、ついついその場で計画を練り始めてしまう。西は「何処でもいいぞ」と言って、空田は「初心者おすすめの釣り堀は……」と言葉にしていって、気付けば夕暮れ模様が色濃く染まっていた。
外から、またしても銃声が反響する。同時に、四人の短距離走者が容赦なく地面を蹴っていく。
―――
それからというもの、週末が訪れれば、西と釣りをすることが多くなった。
魚を釣ったり、逃がしたり、釣れなかったりを繰り返しながら、西の知波単戦車道事情を、空田の日常についてよくよく語り合った。空田に関してはといえば、教室での出来事を話してみたり、福田や土井の「付き合い」を題材にしてみれば、西が「おお……」と盛り上がり、時には空田も「羨ましい」と嘆くことがあった。
良くも悪くも、空田は日常のみを話題にする。何の悩みなど抱えていないかのように、無事平穏に暮らせているかのように。
その一方で、西の話す知波単戦車道事情は実に色濃かった。成功談、失敗談はもちろんのこと、練習試合についての感想を述べたり、事細かに隊員の利点、弱点を指摘したりする。表情がよく変わるものだから、あくまで前向きに語ってくれるものだから、空田も「それでそれで」と耳を傾けるのだ。
伝統は未だに覆せてはいないものの、徐々に変化はしていっているらしい。この前は、玉田という血気盛んな隊員が冷静に動いてくれたとか――空田は「良い傾向ですね」と感想を述べて、西は「君の言う通り、待てばよかったんだな」と。
このことについて話す西は、とても嬉しそうに笑っていた。
戦車道について語り過ぎたと判断すれば、西は決まって「すまない。長く話し過ぎた」と言う。けれども空田は、あくまで前進し続ける西に対して、「いえ、もっと話してください」と促すのだ。
釣り仲間が、西が熱っぽく語ってくれるのなら、時には弱さを口にしてくれるものなら、空田は喜んで話し相手になる。釣りとは、そういうものだ。
「――戦車道を歩んでいると、やっぱり、縁というものが出来るんだ」
「ふむふむ」
知波単学園とはだいぶ近い河川敷で、空田と西は釣り竿を垂らしている。今のところ戦果はなし。
「とある、大洗学園艦の生徒達とも仲良くなれてな……流行りの文化や、部活の勧誘、戦車道に関する助言などを口にしてくれる」
「部活?」
西が、手のひらを作って、
「バレー部をしているらしい。毎回勧誘されるんだが、学校が違うからなあ」
手首を捻って、空気を軽く叩いた。
――空田から、鼻息が漏れる。部活という響きが、心にちくりと刺さった。
「……どうした?」
「あ、いえ。何でもないですよ」
そうか。西の視線が、物言わぬ川へ向けられる。
空田の方も、何でもなかったかのように、帽子を整える。
「時には、他校の隊長と電話で交流することがある。特に、聖グロリアーナ女学院の卒業生であるダージリン殿は、よくよく話に付き合ってくれるな」
「聖ぐろりあーな……確か、お嬢様学校ですよね。それでいて、戦車道の強豪校とか」
多少怪しい発音で、学校名を口にしてみせた。
聖ぐろりあーな――聖グロについては、空田もよくよく知っている。第一印象はといえば気品、第二印象も気品、第三印象だって気品であると回答出来るくらいには、聖グロは正真正銘のお嬢様学校といえる。
その一方で、知波単学園もお嬢様、お坊ちゃんが集う学園艦であるといえるのだが、雰囲気そのものはだいぶ大らかだ。似ているようで似ていない。
そんな聖グロに対して、ここ最近は、一に気品、二に気品、三に戦車道という、新たな印象を抱き始めた。
何度か西が語ってくれたのだが、聖グロはとにかく「囲い込み」が抜群に上手いらしい。気付けば、未だに勝てたためしは無いのだとか。
そんな聖グロに対し、西は「憧れであり、いつかは越えなければいけない壁」と口にしたことがある。
「そう、聖グロは間違いなく強い。我々も頑張ってはいるんだが……まだまだってところだな」
「ううむ」
「この前は、三両は撃破出来たんだがなぁ」
「お、凄いじゃないですか」
戦車といえば、頑丈で強くて近寄れないという印象がある。しかも、相手は強豪聖グロだ。
それを三両も食ったとなると、すごい、としか言いようがなかった。
――西は、くすりと笑って、
「そう言ってくれて、ありがとう」
「いえ、そんな」
「いやいや。――ダージリン殿は、そんな我々のことを、『もったいない』と思ってくれているのだろう。よく、戦術指南を施してくれるんだ」
へえ。空田は、力なく返事をする。
「よく、教えてくれますね。戦術とは、秘伝のたれみたいなものでしょう?」
「ああ。それ故に、ダージリン殿には深く感謝している」
安堵するように、西が鼻息を漏らす。釣り竿は、未だに動いてはいない。
「色々な戦術を知っておけば、知波単戦車道はますます強みを増していくだろう。その為なら、私はいくらでも頭を下げる」
「西先輩」
「……というのは大袈裟、かな? まあとにかく、教えられた戦術は迅速に実行し、即座に報告することにしているんだ」
「さすが」
「そうするたびに、ダージリン殿は喜んでくれてな……こっちまで嬉しくなる。感謝を欠かしたことは無い」
へえ。空田は、喜びを孕みながら返事をする。
「なるほど」
「え?」
「分かりました。だ……ダージリンさんが、あなたに戦術を伝授するわけが」
「それは、どういう?」
なんとか発音できた。
西が、心底不思議そうに首をかしげる。共に、お守りがぶらりと揺れた。
「あなたは、本当に前向きなんですね。だから、みんなから愛される」
「隊長たるもの、そうした心構えは基本中の基本だ」
「かもしれません。ですがあなたは、自分のみならず、他人の為に本気で喜べるじゃないですか」
「そうかな」
「そうですよ」
西が「ふむ」と、今知ったように唸った。
「そんな風に感情を出せるなんて、結構難しいことだと思います」
「……そういうものかな」
「ええ、そういうものですよ」
そういうものか。西の口元が、目が、緩やかに曲がった。
「ダージリンさんは、そんな西先輩のことが好きなんでしょうね。言ったことをすぐに実行してくれる、報告もこなしてくれる、喜んで感謝までする……僕だったら、調子に乗って何でも教えてしまいますよ」
「そうか?」
西が、含み笑いをこぼす。空田は、正直な気持ちで頷いて、
「西先輩は、本当に真っ直ぐなんですね。隊長なのも、頷けます」
「いやいや、まだまだこれからさ。いつかはダージリン殿のような、優れた指揮官になりたい」
「応援します」
西が、「ありがとう」と言ってくれた。
――やはり、西は戦車道を歩むべき人だ。これからも戦車道の繋がりを失わず、ダージリンと交流を深めていって、いつかは聖グロを驚かせてしまうような名隊長になって欲しい。
自分は、そんな西を応援することができれば、それで十分だった。
空田の釣り竿は、ぴくりとも動かない。それでも川は流れていって、三輪自動車がいずこへ消え去っていく。雲も、学園艦も、時間も、例外なく前へ進む。
西の仕掛けた浮きが、唐突に動き出した。
暗くなるまで、空田と西は河川敷に腰かけたままだった。
―――
二週間ぶりに、西と釣り竿を握り締める。なんだか久々だなと西が言って、そうですねと空田が同意して、
慣れた手つきで、釣り糸を投げ入れた。
「先週、アンツィオと試合を行ってな」
「言ってましたね。それで、結果は」
「いやあ、負けてしまった。ここ最近のアンツィオは精強だと聞いたが、本当らしい」
空田が、「ふむ」と唸り声を上げる。ちらりと西の横顔を覗ってみれば、西は、悪くないように苦笑いしていた。
「負けは負けだが、得られたものも、あったよ」
西の言葉を聞き入れ、極めて真剣な顔で空田は頷いて、
「次に期待しましょう。西先輩」
「ああ」
先週末、西はアンツィオ女子高等学校と練習試合を行った。その時は、空田は久々に一人で釣りをしていたものだ。
ちなみに、結果は坊主だった。
「……変わったな、アンツィオも」
「どんな風に?」
「前までのアンツィオは、戦力に恵まれてはいなかったんだ。隊員の質は間違いなく高いんだが」
「なるほど。前までということは、つまり」
西が、肯定するように頷く。
「多大な資金援助を受けたらしくてな。お陰で、アンツィオの総火力が増し増しになった」
「それは、おっかないですね」
だな。西の視線が、川へ向けられたまま、
「戦車の質だけじゃない。ペパロニ殿率いる戦車隊は、良い意味で勢いがある。地力も侮れない」
「勢い、ですか」
「ああ。ここぞとばかりに勇敢に攻めてくる、これが恐ろしい」
「突撃――とは違うみたいですね」
西と空田の釣り糸は、未だに反応を示さない。最近になって購入した折りたたみ椅子に腰かけながら、今日も釣りを堪能している。
今回になって選ばれた場所は、三番山の河原だ。見渡す限りの砂利、山道へ誘う深い森林、音をかき消す静かな川と、典型的な山の釣り場の中に居た。
――西が、川の音混じりに鼻息をつく。
「ああ。アンツィオは、とにかく全速力で動き回るんだ。そうして我々を煽って、誘い込んで、気付けばP40……重戦車の射程範囲内だ」
「相手もやりますね……」
まったくだ。西が、釣り竿を力なく揺らしながら、
「特に、我々とはすこぶる相性が悪い。相手の狙い通りに、つい、深追いしてしまうからな」
「――突撃、ですか」
「ああ。……福田はもちろん、玉田も堪えてくれたんだが、他の隊員達がな」
西の横顔に、若干の陰りが生じる。
「本来なら、勝てる試合だったと思う。極端な戦力差ではなかったからな」
「……伝統の、せいですね」
「ああ。本当、長く長く続いた伝統なんだなあって、改めて思うよ」
西が、首をこきりと鳴らす。
ここ最近になって、西は「気楽な」動作を見せるようになった。鼻歌交じりで釣り糸を垂らすこともあるし、時折あくびだって漏らす。そんな風な西を目にするたびに、空田は若干の安堵を覚えるのだ。
「今も、訴えているつもりなんだがな……難しいな、伝統って」
「そうですね」
「――それでも玉田は、『突撃隊長』は、私の為に変わってくれた」
西と、目が合った。柔らかい微笑を、空田に向けていた。
「いつか、みんな変わってくれるだろう。その日まで、私は待つよ」
「西先輩」
西が、にこりと頷いてくれた。空田の心が、僅かながらに躍り始めた。
――西の視線が、川へ戻っていく。続くように、空田の目線も川へ向けた。
相変わらず釣れやしないが、いち高校生としては最高の一日を過ごせていると思う。西先輩と二人きりで釣りをして、西隊長から吉報を聞かされて、西絹代が笑いかけてくれたのだから。
川の流れる音が、先ほどよりも大きく聞こえてくる。たくさんの鳥が、曇り空を横切っていく。ほんの少しだけ暖かい風が、森林を鳴らした。
「……そういえば」
「うん?」
「その、どうして、突撃が伝統になっているんでしょう? 何かあったのかな」
感情の余裕が出来たからか、間が生じてしまったからか。本当に何気なく、空田はそんなことを聞いてみた。
悪い質問ではなかったようで、西が「それはな」と呟いて、
「昔も昔、むかしむかし、知波単戦車道は、慎重的な攻め方をとっていたらしい」
「ふむ……」
「――と、言うと聞こえは良いが、実際のところは慎重を通り越して消極的、だったそうだ。誰かが動かないと、何も出来なかったとか」
「ぜんぜん違いますね」
だろう。西が、力なく呟いて、
「大会でもそんな調子だったから、一回戦目で負けっぱなし。普通の弱小戦車隊だったんだ」
「なるほど」
「――そうして、また大会が始まった。誰もが『一回戦目くらいは勝ちたい』と思っていたそうなんだが、やはり消極的な気質は拭えないままだった」
当時に蔓延していたらしい、消極的な気質に対して、空田は「わかる」と共感していた。
陸上部とは違い、戦車道とは団体で行われるものだ。誰か一人でも転倒してしまえば、連鎖的にこけてしまうことも十分にあり得る。
自分の行動のせいで、たくさんの味方が倒れてしまったら。自分の判断のせいで、数人の仲間から睨まれてしまったら――空田の顔が、少し歪む。
「……だった、んだがな」
「が?」
「敵に囲まれた際、当時の隊長が叫んだそうだ。『責任は私がとる。みんな突っ込め、奴らを驚かせろ、視界に入れば入るだけ弾は当たるぞ』と」
西が、くすりと苦笑して、
「隊長といえば三年だからな、一回戦目で敗退なんて嫌だったんだろうな。隊長は、うまく簡単な指示をこなしてみせた」
「そ、それで」
「勝てた」
おお。空田の口から、感嘆が漏れる。
「しかも、二回戦目も勝てたそうだ」
「すげえ」
「まあ、全車両突撃だからな。相手からすれば、肝を冷やす暇もないだろう」
西の目が、水面に移る。懐かしむように、笑いながら。
「意外な話だが、この大会で初めて、全車両突撃戦法が実現したらしい」
「なるほど。いや、普通は危ないでしょうし……ね?」
「本当にな。……三回戦目は、対策をとられて負けてしまったようだが」
史上初の全車両突撃戦法は、当時の戦車道界隈を大きく賑わせたのだろう。
決して小さくはなく、おっかない武器を携えた戦車たちが、何の迷いもなく敵陣へ切り込んでくるのである。相手からすればめちゃくちゃ怖いだろうし、観客からすれば大迫力間違いなしの光景だ。伝統を覆すことに異議はなくとも、やはり全車両突撃は、問答無用で格好良い。
しかし突撃とは、極めて攻撃的な戦法だ。だからこそ、守りに入られれば途端に弱くなってしまう。相手校もそこは分かっていて、たぶん「来るまで待て」と指示したのだろう。
「……しょうがないですよね」
「ああ、そう思う」
けれど。西が、そう言い加え、
「当時の知波単戦車隊は、悔いることなく負けを認めたそうだ。精一杯動けて、相手に一泡吹かせられて、ちゃんと戦って散れたから」
「――なるほど」
「そうして、突撃戦法は戦術の一つとして組み込まれた。あくまで一つであって、待ちの戦法もあったんだが」
「が?」
「……いつの間にか、突撃こそ正しく、潔く散ることが肯定されていった」
西が、大きく鼻息をつく。空田が、黙って帽子を整える。
「分からないではないんだ。何せ、消極的な空気から解放されたんだからな……その反動だろう。それに、突撃戦法を行えば『やるだけのことはやった』という余韻にも浸れる」
釣り竿を握る西の指が、閉じたり開いたりする。
「最初は、隊長の指示を以てして、突撃が行われた」
西の、足のつま先が、砂利道を叩いた。
「時が経って。独断で突撃することも善しと、それも自主性だと、認められるようになった」
西が、「はあ」とため息をついて、
「気づけば、語り継がれるべき伝統と化していた。……成り立ちといえば、こんな感じだな」
空田は思う。これは確かに、難しい問題だなと。
突撃は、真っ直ぐに突っ走ることは、とても気持ちが良いだろう。陸上部だったからこそ、否定などは出来ない。
武芸とは言えないかもしれないが、突撃とは小細工抜きの攻めであるといえる。この時点で「自分は勇敢だ」と思えるようになるし、逃げも隠れもしないからこそ「もう負けてもいい!」と、満ち足りた気持ちになれるはずなのだ。こんな前向きな流れは、伝統として長らく支持されるに決まっていた。
けれど、西はあくまでも言う。「こんなの武芸じゃない」と。
全くだと、空田だって思う。
「……なるほど。そういうことでしたか」
「ああ。当初は、単なる戦術の一つに過ぎなかったんだがなあ」
「きっかけそのものは、素晴らしいんですけどね」
西が「本当にな」と頷いて、
「伝統といえば、聖グロも少々厄介を抱えていてな」
「ほう」
「ダージリン殿が言っていたよ。聖グロの伝統の一つに、『先輩がたが使っていた戦車を、引き続き購入する』というものがあると」
「ほうほう」
「当初は、ごく立派な『継承の儀式』として成り立っていたそうだ。使っていた戦車も立派なものだったし、反対意見は皆無、だった」
「だった」
西が、両肩でため息をつく。
「それが長く続いて、今となっては優劣だの派閥だのと、まこと七面倒くさいことになっていったそうだ。……こういう伝統は、どこもついて回ってくるのかもな」
まあ、今はだいぶ緩和したそうだが。西が、くすりと言い加える。
空田は、何となく「なるほど」と共感して、頷いて、
「やっぱり、どこもかしこも複雑なんですね」
「だな。組織どころか、家柄ですら伝統はつきものだ。……それは悪意とかじゃなく、あくまで善意によるものなんだろうけれど」
「多分、そうなんでしょうね。うちも、輝く時だーとかどうとかで唄わされましたもん」
「歌?」
空田は、特に何も配慮することなく、
「ええ。うちの陸上部は、一年に新しい応援歌を作らせ、」
るんですよ。しかも唄わせられます――空田の理性が、何となしの言葉をせき止める。
あ。空田から、間抜けな声が漏れた。
む。西から、全てを察した声が聞こえた。
西に、聖グロに共感して、ぽろっと『経験談』がこぼれ落ちてしまった。
――沈黙。
「空田君」
「あ、はい」
「……やっぱり、陸上部員、だったのか?」
嘘をつこうとして、それができなかった。
だって、自分の話し相手は。
「……そうなんだな」
嘘をついたところで、それは無駄に終わるだろう。
だって、自分の話し相手は、西絹代なのだから。
「――はい。一応、入部してます」
「そうか。……その顔、何かあったんだろう?」
「ええ、まあ」
「わかった。――よければ、私に事情を話してはくれないか」
予想通りの流れに、思わず両目をつむってしまう。
西という女性は、情が深くて、他人の為に感情を露わにできて、正しさとは何たるかをよく知っている人だ。
まぶた越しから、西の強い視線が明確に感じ取れる。今は黙しているが、聞くまでは断固として退かないだろう。
そういう人だ。西絹代は。
だから隊長になれたのだ。西絹代は。
「……西先輩」
「ああ」
「西先輩は、戦車道のことだけを意識してください。僕の事は気にしないで、」
「嫌だ」
駄目だ。ではなくて、
「君……泣きそうな顔を、しているじゃないか」
――心の中で、「そうでしたか」と頷く。
未練を抱えている男の顔なんて、しけているに決まっている。
「空田君、遠慮することは無い。話せる範囲でいい」
「でも」
「いいんだ。君には恩返しがしたい」
「え?」
西が、釣り竿を左手に持ち替える。右手が、空田の背中に軽く当たった。
「いつも、私の話を聞いてくれているじゃないか」
「いえ、それは……釣り仲間として、当然のことをしているだけです」
「そうか」
西が、川の流れる音とともに、
「私も、君のやり方に倣わせてもらうよ。――何でも話してくれ、釣り仲間だろう?」
ただ穏やかに、笑ってみせた。
↓
聞くだけで、構いませんからね。西先輩は、何もしなくても良いですからね。
出来たらそうしよう。
空田は、抱えた事情を全て口にする。陸上部に所属していた頃の思い出を、「一年生は、新しい応援歌を作らなければいけない」という面倒くさい伝統があることを、毎日のように走っていたことを、突如として肉離れを起こしたことを。
その時、西が「そうか」と頷いた。苦い、表情をして。
肉離れという激痛が恐ろしすぎて、それきり走れなくなったことを話した。やることがなくなって、無気力に過ごしていたことを白状した。そんな自分に対し、福田と土井が声をかけてくれたことを伝えた。
福田と土井は、親身になって相談に乗ってくれて、きっぱりと「遊ぶべきだ」と言ってくれて、足に負担がかからない趣味――釣りに、ふと目覚めた。
話し終え、西が「なるほど」と頷く。最初から最後まで、真剣な面持ちで耳を傾けてくれた。
「空田君。……よく、話してくれた」
「いえ。長い話になりましたが、聞いてくださって、ありがとうございました」
心の底から、頭を深々と下げる。西も「こちらこそ」と返して、
「――なるほどな。道理で、熱心な目つきで陸上部を眺めていたわけだ」
「未練がましいだけです」
「そういう気持ちも、大事だ」
西が、物静かに微笑む。
「……情けないですよね。とっくの昔に完治はしているのに、未だ恐怖にかられて」
「いや、わかる、分かるぞ。予期せぬ激痛なんて、恐ろしいに決まっている」
やはり、そういうものらしい。
西が共感してくれたお陰で、若干ながら気持ちが軽くなる。
「君が走れなくなるのも、仕方がないことだ。……こればかりは、時間が解決してくれるのを祈るしかない」
「もしかしたら、一生かもしれませんよ」
おどけるように笑う。けれども西は、首を横に振るって、
「根拠のない言い分になるが、聞いてくれ」
「はい」
「君は、いつか必ず駆け抜けられる」
「……そうですかね?」
「ああ。だって君は、ふてくされることなく釣りを選べたんだ。君からは、何とかして前へ進もうとする意志力が感じられる」
西は、根拠のない言い分だと前置きした。
――そうは思わない。
なぜならば、他でもない西がそう言ってくれるのだから。伝統を覆そうとする西が、こう言ってくれるのだから。
だから空田は、そっと息を吐いて、
「――ありがとうございます、西先輩」
「……いや」
ほっとしたように、西の口元が緩くなる。そんな西の顔を見て、ほんの少しだけ心がどきりとした。
「でも、正直まだ怖いです。ちぎれる音が、どうしようもない痛みが、今でも鮮明で」
「無理はしなくていい、焦らなくてもいい。急に走りたくなったら、走ってみると良い」
その通りですね――そうやって頷こうとして、空田の釣り糸がいきなり引っ張り込まれた。
真っ先に体ごと反応して、釣り糸を手早く巻いていく。ほんの少し遅れて、西が「空田君!」と叫ぶ。戦車道履修者の大声が、山の釣り場全体に反響した。
声を上げることなく、唸り声すらも出さず、椅子から立ち上がって、糸を巻きまくって、西が「頑張れっ」と応援して、熱っぽい目つきで川の水面を注視して、川の中から光源らしいものが見えたかと思えば、
「釣れ……たッ」
釣れた魚を見て、空田が「げ!」西が「おお!」と、二人して叫ぶ。
両手で抱えられるでかさの、鯉だった。
こんなの、声に出すしかなかった。
――釣り針から、鯉を離す。釣り竿を砂利の上に置いて、活きの良い鯉を両腕で取り押さえて、「おお、おお」と声が出て、何だか笑ってしまって、
西と、目が合った。
「空田君」
「は、はい」
そして確かに、空田は見た。
「――やはり君は、いつかは前に進める男の人だ。私はそう思う」
まるで自分のことのように、心の底から嬉しがっている西の顔を。
記念撮影をし終えて、西も順調に魚を釣り上げていって、気付けば良い子は帰る時間帯になっていた。
釣った魚を、「元気でな」と川へ放流する。水汲みの中で、所狭しと泳ぎ回っていた鯉を抱え、「ありがとうな」と川へ放す。
全てが元通りとなったところで、再び西と目が合う。何だか嬉しくなって、わけも分からず高揚して、手と手を軽く叩きあった。
いい顔が、出来ていたと思う。
西のお守りに刻まれた「必勝祈願」が、光った気がした。
↓
「じゃあ、僕は機関車で帰ります」
「わかった。――次の釣り堀が決まったら、その時は是非」
心から期待しているのだろう。西は、早くも喜色満面の笑みを浮かばせていた。
女の子の、そんな顔を見てしまえば、必ずや何とかして応えたくなる。
「必ず伝えます。西先輩は、大切な釣り仲間ですから」
「そうか。ありがとう、空田君」
「こちらこそ、今日はありがとうございました。じゃあ、僕はこれで」
駅方面へ体を振り向かせ、
「――あ、空田君」
「はい?」
ぴたりと両足が止まり、くるりと首だけを向ける。
「……君でよければ、また、私の話し相手になってくれ」
――返事なんて、当然、
「はい。喜んで」
空田の返事を最後に、西が「それじゃあ、また」と手のひらを振るってくれた。空田も、返すように手で挨拶を交わす。
三番山付近は、川と、いくつかの建物があるだけで、人気そのものはまるで少ない。駅へと歩んでいる最中、寄ったことのない駄菓子屋を通り越していく。
空も、いよいよもって薄暗くなってきた。楽しい時間とは早めに過ぎ去るものだなあと、駅へ近づいてくる機関車を目にしながら、空田は何となく思う。
単車の駆ける音が、春先の夜空の下で反響する。
すっかり聞き慣れた、空田の好きな音だった。