戦車道の授業が、予鈴と共に終わりを迎える。午前様の授業はこれで終わり、生真面目な履修者達も「お腹すいたー」と明るく元気良く口にする。普通ならこのまま、昼飯にありつくだけなのだが、
細見はいま、西絹代からの呼びかけで格納庫の前に立たされている。目の前には、真顔で細見を捉えたままの西が居た。
――気まずい。
こうして西から声がかかったのも、西がそんな顔をしているのも、西から目が離せないのも、細見にとっては心当たりがありすぎた。
口で呼吸する、握り拳をつくる。西が、両腕をそっと組み始める。
「細見」
「はい」
「お前の情の深さは、よく知っているつもりだ。私も、そんな細見のことが好きだ」
「ありがとうございます」
笑いはせず、感謝する。
本来なら目も口元も曲がってしまうのだが、今回ばかりは、この「欠点」を笑顔で受け入れるわけにはいかないのだ。
「だからこそ、情の返し方には色々な方法がある……それは、分かっているな?」
「はい」
「――仲間が被弾したからといって、それに引きずられてはいけない。勝って報いる事こそが、本物の情だと思う」
「その通りだと思います」
言葉通りに、心の底から頷く。
細見の理性は、冷静な個所は、分かってはいるつもりなのだ。仲間が危機に陥ったところで、無策のまま飛び出してはいけないと。情を抱えているからこそ、情けを堪えなければならない時もあると。勝利を持ち帰ることこそが、戦車道履修者にとっての報いになると。
そうやって、真っ当に理解してはいる。
だが、細見は叫んでしまう。「助けに行かなければ」と。
そして、本能も訴えかけてくる。「仲間を見捨てるのか」と。
先ほどの練習試合でも、細見は情にかられて姿を晒してしまった。そうやって細見らしく動いた結果、細見が駆るチハは良い的になってしまったのだ。
機銃で蜂の巣にされて、主砲一発で真っ逆さまに吹っ飛んではそのまま転倒、文句無しの白旗が直立した。
痛ててと白組の細見が唸る中で、細見はそれを見た。森林の中から一歩も動かず、待ちの戦法を取り続けていた赤組の玉田のチハを。
「仲間の為なら、身を挺してまで駆け付ける。それは真っ当に素晴らしい、お前の美徳といえる」
「……はい」
「だからこそ、お前には我慢を、心強さを身に着けて欲しい。新たな知波単戦車道を築き上げるには、お前の力が必要なんだ」
西の言う、新たな知波単戦車道とは、「沈黙を携えて相手を誘い、奇襲を以って相手を斬る」。
勇敢であって無謀にあらず、冷静であって臆病ではないそれは、知波単戦車道らしい血気盛んさを肯定しつつ、実直な強さというものを真っ直ぐに訴えていた。
この「新たな伝統」に対して、細見は全面支持の姿勢をとっている。練習試合における勝率もじわじわと上がってきたし、周囲からの評価もくすぐったくなってきた。勝ち負けが全てではないとはいえ、やっぱり勝ってみるとめちゃくちゃ嬉しい。
「お前が正しく動けるようになれれば、後輩たちも揃って強くなるだろう。みんな、お前を指標にしているようだからな」
「え? それは西隊長では、」
「――知っているぞ。お前はよく、後輩たちの相談役になっているそうじゃないか」
「あ……え、ええまあ一応」
一応事実ではあったから、頷くしかない。
細見は、良くも悪くも「めんどうくささ」を嫌う性格だ。だからこそ、自分に出来ることがあれば真っ先に食いつくし、何とか手助けできたこともあった。時には余計なお世話と言われることもあったが、自然と「さっきはごめん」と良く言われたものだし、細見も「気持ちは分かるよ」と同調してきた。
小学から中学、高校生になろうとも、この生き方はまるで変わってはいない。むしろ隊員という連帯感があるだけ、より一層と「情」というものが色濃くなった気がする。
曇り顔を見てみれば、放ってはおけなくて。泣いている者がいたら、やっぱり放ってはおけなくて。うつむいている隊員がいたら、絶対に放ってなどおけなくて――そうしていたら、いつの間にか後輩から親しまれるようになっていた。
その時、見覚えのある後輩――名倉と目が合った。少し気まずそうに笑いながらも、頷いてくれた。
――いつまでたっても、震えが止まらないんです。被弾が、怖くて。
――最初は誰でもそんなもの、おっかないもんね砲弾なんて。でも、次第に慣れていくから。
――そういうものでしょうか。
――うん、私も半泣きになっていた時期があったからさ。……あ、そうだ、一緒に昼食でもとらない? 暖かいものでも食べてさ。
「同じ目線で考えてくれて、感情を隠さないまま意見を交わす。これで、愛されないはずがない」
「そ、そうですかね」
「さすがは、『細見姉さん』だ」
「や、やめてください隊長っ」
否定はしない、そう呼ばれているのは事実だ。もちろんこっ恥ずかしいので、口にされるたびに「姉さんはやめろ、先輩と言え」と指摘してはいるのだが――残念ながら、現在進行形で姉さん問題は続いている。
半ば諦め、半ば許容しながら、今日も細見は「姉さんはやめろって」と否定し続ける。
――西が、後ろ手に頭を抱えながら苦笑して、
「悪い悪い。……だからこそ、私より愛されているお前の力が、どうしても必要なんだ。私だけでは、玉田だけでは、福田だけでは、どうしても伝統は覆せないからな」
西が、細見の肩に手を置く。
「お前が強くなって、これからを担う後輩たちの示しになって欲しい。……お前が、変革の引き金になるんだ」
けして目を逸らさないまま、緩やかに口元を曲げていた。
「これ以上は何も言わない。お前も、反省会を行うだけの意志力があるからな。――細見の力が開花するその日まで、私は待つよ」
最初は、伝統を覆そうとする西に対して、「大丈夫かな」と思ってはいた。
けれど今は、迷うことなく「隊長が正しい」と思っている。
西は、知波単戦車道を強くしようとしている。だからこそ、その根源たる隊員の力を何処までも信じていて、「待つ」とまで言ってくれるのだ。
細見は思う。
こんなにも、人を愛する人が居たんだ、と。そんな人と出会えて、自分は幸せ者だな、と。これは、何としてでも報いなければいけないな、と。
「隊長」
「うん?」
「ありがとうございます」
四時間目終了の予鈴が鳴る。玉田が、福田が、隊員達が、食堂めがけ一斉に突撃を決行する。
春先の風が吹いてきて、ほっと暖かくなる。先ほどまで賑やかだったはずの格納庫が、戦車だけを残してずいぶんと寂しくなった。
「――次は、情を堪えてみます。後輩に、仲間に報いる為に」
その時、西のお守りが、必勝祈願の金文字が光った気がした。
ほんの僅かな間。
「そうか」
西が、手を差し出してきた。
「私はやりますよ、隊長」
「期待しているぞ、細見」
手を握り返し、誓いを口にする。西もまた、全てを信じるように笑んでくれた。
心の底から、決意する。
こんな顔をしてくれる隊長の為に、自分も頑張らないと。
手と手を放し、西が「すまなかったな、付き合わせてしまって」と苦笑いする。細見は「ありがとうございます。付き合ってくださって」と返してみせた。
それじゃあ行こうかねと、細見が知波単学園へ歩もうとして、なんとなく西の方を見て、
西は、誰もいない運動場をじっと眺めていた。
心当たりのない西の行為に、細見が「はて」と首を傾げる。今一度運動場を確認するが、やはりもぬけの殻だ。
確かに、昼休みになってまで運動場へ遊びに来る連中は居る。本気で鬼ごっこをしてみたり、鉄棒で荒業を披露したり、一周かけて走り回ったりと、遊び方は割と豊富だ。これは体育系の男のみならず、玉田も本気になって参戦したりする。
得意な遊びは鬼ごっこで、周囲曰く「足が速いから超恐ろしい」とのこと。だろうなと、細見はすぐに納得したものだ。
しかし、「今は」昼飯の時間だ。体育会系だからこそ、飯は絶対に妥協したりしない。ここが賑わうようになるのは、あと数分後になってからだ。
となると、西はいま、何を見ているのだろう。
何となく、幽霊かなあと思った。なにを馬鹿なと考えながら、細見は「隊長。食べなくてもいいんですか?」と一言だけ声をかけてみた。
――西が、「あ」と首を向けてきて、
「あ、ああ、そうだな。……良かったら、一緒に食べないか?」
「はい、喜んで」
そのまま、格納庫に背を向ける。運動場を後にしていく。昼は何を食べます、今日は奮発しようかなあと雑談を交わしあって、知波単学園の玄関に足を踏み入れて、
知波単学園の外には、誰もいなくなった。
↓
食堂の人気食品といえば、だいたいは銀しゃり、味噌汁、魚全般、たくあん、一皿の漬物で間違いない。揚げ物も非常に好まれているが、値段の都合上、妥協する生徒もこれまた多いのだった。
空田の昼飯は、昨日も今日も「五天王」と呼ばれる鉄板食品で固められている。銀しゃりを見るや否や、早速とばかりに腹が鳴った。
「いたーだきーますっ!」
空田が、福田が、土井が、食材に向けての感謝を述べる。箸を片手に、まずは銀しゃりを口に運んでいっては一口。
「うまい」
「うまいでありますなぁ」
よく噛んで、よく味わって、よく飲み込む。こうするたびに、昼飯を食うために自分は産まれ出たのではないか、とすら思う。
上機嫌を引きずったまま、空田は前を見る。席を挟んだ先には、隣同士で腰かける福田と土井が居る。
「生きてて良かったね、福田さん」
「そうでありますなぁ。知波単学園の昼ご飯は、最高であります」
「うん。美味しい上に、今が幸せだなんて、僕は贅沢だよ」
「確かに、食事をしている時は幸せであります」
「それもあるけど……僕は、福田さんがいるから」
福田が、はっとした表情で土井に目を向ける。自分で振っておいて、土井はでれでれと顔を真っ赤にしていた。
「……だ、だめでありますよっ。みんなの前で、そういう、本当の事を言ってしまっては」
「ごめんごめん」
「――でも、嬉しいであります」
銀しゃりを箸でひと掴みし、何の躊躇もなく土井の口へ運んでいく。土井も躊躇いなく「ありがとう、福田さん」と喜色満面になって、その口を開けた。
いわゆる、「はい、あーん」だった。
まず、空田は声なき唸り声を上げた。次に池田が「ぐううう」と歯を食いしばり、上級生たちが右手と左手を重ね、それを額に当てたきり沈黙している。福田と土井は、いたって普通の青春を満喫していた。
「ありがとう福田さん。じゃあ、僕も」
まさか――
空田が、鋭利めいた予想を胸に抱く。おそらくは池田も、上級生も、今しがた入室してきた名倉も、「もうだめだ」と思っているだろう。
「はい、福田さん」
「ありがとう、土井君」
福田が、大きく口を開ける。一方土井は、極めて優しい表情を浮かばせて、柔らかい手つきで、たくあんを挟んだ箸を福田の口へ近づけた。
――福田は、日常の一環だとばかりにたくあんを噛んだ。頬を丸めて、目と口を糸にして、「おいしいであります」と感謝して、「よかった」と土井が笑って、空田が自分の胸をふん捕まえて、池田が「うまいなあ」と切なそうに味噌汁を飲んでいて、名倉が激しくせき込んで、上級生達は心肺停止していた。
「……いいなあ」
「え、何が?」
冗談でも何でもなく、土井は素でこんなことを言った。福田と一緒にいることが当たり前だからこそ、ちょっとやそっとの恋愛表現は「義務」と考えているのだ。
すべては、福田を幸せにするために。
「いや。福田さんと仲が良くて、何よりだ」
「そうか。ありがとう、空田」
そして、空田も素で祝う。池田も名倉も上級生も、うんうんと頷いてくれた。
福田と土井は、親同士が決めた昔からの許婚だ。家柄という事情も含まれているのかもしれないが、恐らくは「仲が良いから」という理由もあるのだろう。更には、「互いしか見ていない」という強力な動機もあったに違いない。
お家だろうが親だろうが、ひたむきな愛には敵いっこないのだ。これは、全世界共通の鉄則だった。
「んー、あまいなー、味噌汁あまいなー」
「そうかい? 変わらないと思うけどね」
「あ、でも、味噌汁って甘味があるような。わかるであります」
素で付き合っているんだなあと、空田は笑ってしまう。
――出来ることは少ないが、可能な限りの後押しはするつもりだった。どうか福田には、土井には、幸せになって欲しい。
「あーうまい、うまいなほんと」
「そうだなあ、うまいな」
味噌汁を片手に、次はたくあんを齧る。小さい頃は苦手だったが、今となってはこの味が好きだ。
美味いもんだと、ついつい口元が曲がる。
「空田」
「うん?」
ちらりと、目線を土井に向ける。相変わらずの、土井の柔らかい表情。
「最近、よく笑うようになったな」
「え、そう?」
土井が、「ああ」と小さく頷き、
「前までは、何というのかな……上の空って感じの顔、してたからさ」
「そう、かな」
「私も正直、そう思っていたであります。少しこう、不安だったのであります」
「そっかあ。何かこう、ごめんね」
福田と土井が、「いやいや」と首を横に振るい、
「仕方がないよ。あんなことがあれば、どうにでもなれって思っちゃうだろうし」
「昔の話さ。今は、釣りを楽しんでる」
「それは分かっているのでありますが……やはりどうしても、不安が拭いきれなかったのであります。こう、いつの間にか消えてしまいそうで」
「そうか。……ありがとう、見守ってくれて」
今度は謝らず、感謝してみせた。
福田は微笑んで、土井は「そうか」と呟いて、
「ほんと。最近の君は、良い顔をするようになったよね。何かいいことでもあったのかい?」
「んー……まあ、あったといえばあったかな」
「それは良かったであります。僭越ながら、これを」
福田が、なけなしのたくあんを箸で摘み、空田の口めがけ運んでくれた。
空田は素直に「ありがとう」と礼をして、そのままたくあんを一口。
「うん、うまい」
福田と土井が、目を合わせながらで笑い合う。空田は、両肩で安堵した。
「土井」
「うん?」
「羨ましいよ。福田さんと出会えた、お前の事が」
土井が、あっさりと「だろ?」と笑う。
「福田さんは、よく人を見てくれるんだ」
「知ってる知ってる」
「この前、剣道でぼろ負けした時なんかは、福田さんは精一杯励ましてくれた。とても嬉しかった」
「あ、あれはその……当然のことを、しただけであります」
「僕にとっては、何よりも救いになったんだ」
福田が、えへへと笑う。土井も、幸せそうに顔を崩した。
救いという言葉を聞いて、空田は何となく、西絹代のことを思い起こす――身の上話を口にする際に、空田は確かに「何もしなくてもいい」と言った。
けれど西は、まるで自分のことであるかのように、真剣な顔つきになってくれた。戦車隊隊長として、空田の可能性を何が何でも見い出そうとしてくれた。
それが、とてつもなく嬉しかった。ここ最近になって、一番のいいことだった。
「――あ」
その時、目が合った。食堂に入ってきた、西絹代と。
空田だけではなく、数人の視線が西へ向けられる。西先輩お疲れ様です、細見姉さんもお疲れ様です、一緒に食べましょう、あんたはこの前食べたでしょ、小さく敬礼する福田。
細見と呼ばれた女性が、「姉さんはやめろ」と仕方がなく笑う。西は「ええどうしようかな」と両腕を組み始めた。
二組の仲良し班が、起立しては腕まくりする。何物も両断するちょきが出るか、万物を砕くぐーが出るか、全能を抱擁するぱーが出るか。一世一代の大勝負が、幕を開けようとしている。
西が「よし、両方とも頑張れ」と小さく激励する中――また、空田と目が合った。
何だか恥ずかしくなって、空田は控えめに礼をする。西も、明らかに微笑みながらで頭を下げてくれた。
「――空田君」
不意に声をかけられ、意識ごと体がびくりとした。
土井から、だった。
「西隊長と、面識が?」
「え……ああいや、上級生だから挨拶を、ね」
「そうでありましたか」
心の中で、大嘘をついてごめんなさいと謝罪する。そんな空田を見て、福田は嬉しそうに微笑みかけてくれていた。
二番班の女性が、「ったあっ!」とちょきを天に掲げる。一番班の代表が、「迂闊だった」と、己がぱーを凝視していた。最初からつんつんされていては、抱擁も何もあったものではない。
ひと段落がついて、食堂の空気が元通りになる。同じ教室の学友達が、読んだ本について語り合う。面識の無い生徒達が、恋話に花を咲かせている。切り替わりが早いもので、二番班の女性達が戦車道について議論し始める。西と細見が加わった一番班は、今日も賑やかに戦車道について、勉強に関して、休日は何をしているのかを話し合っている。
質問に対して、西は、「休みの日は、単車をよく走らせているよ」と答えていた。
↓
放課後に入って、運動場で銃声が鳴った。
ほぼ同時に、四人の短距離走選手が獣のように飛ぶ。男子も女子も無言のまま、ただただ一生懸命に終着地点へと駆け抜けていく。空田は遠目で眺めながら、稲沢は一年なのに速いな、花坂がんばれ、樫村は調子が悪そうだ、梅田先輩は今日も飛ばしてるな――頭の中で、部員気取りで応援している。
そうしているうちに、期待の一年生である稲沢が一着に輝いた。だからといって勝利に酔いしれることもなく、あくまで冷静な足取りで、世話係である菊池の元へと歩んでいった。
たぶん、記録の確認をするつもりなのだろう。自分も、走り終えた後はそうしたものだ。
夕暮れの運動場を前に、軽く鼻息をつく。
前までは、あの場所で青春を振り絞っていた。それはとても楽しかったし、一生続くものかと思っていた。
新たな四人の部員が、位置に着く。医学的に完治したはずの右足を、意味もなく眺める。
前は、もう走れそうにないと思っていた。それほどまで、不意の激痛は恐ろしかった。
――けれど、
今は、今更ながら、走ってみようかなとは考えている。完治して数か月は経ったし、釣りで心の余裕も生じたし、福田と土井がいつも傍にいてくれたし、何より、
「空田君」
後ろから声をかけられて、空田はそっと振り向く。
学生鞄を片手に、これから帰宅しようとしている西絹代が居た。
「西先輩、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様」
銃声が鳴る。四人が、短距離に挑む。
そうして、西が隣に立つ。空田と同じものを、見始める。
「未練は、あるか?」
「……わかりません」
「そうか。それなら、良かった」
最初は互角に走り込んでいたが、途中から実力差が生じ始める。一着に躍り出るは、二年で一番の俊足を誇る杉下。
「これは根拠のない推測だが。いいかな?」
「ええ。西先輩に、間違いなんてありません」
「そうか? そうか」
ほんの少しの間。
「君も、あと少しの時間さえ経てば……あそこで、走っていられると思う」
「そうですか?」
「ああ。私の方も、時間をかけたお陰で、良いことが訪れてな」
思わず、空田の口元が釣り上がる。
「だから君も、君にも、良いことが訪れて然るべきだ」
「怖がり、ですよ。僕は」
「――ここにいるのに?」
気付かされるように、西の横顔を目にする。生真面目に、けれども微笑みながら、短距離走に挑む部員を見守っていた。
「君は、根っからのランナーなんだな」
「くすぶっているだけですよ」
「なるほど、湿気てはいないようだ。十分に可能性はある」
「買いかぶり過ぎですよ」
「そうか? 私は、世辞を言ったつもりはないんだが」
その言葉に、空田はすぐに信用する。
西という人間は、笑うべき時にはすぐ笑う。西という隊長は、改善すべき点があれば恐れずに手直ししようとする。西という先輩は、何がなんでも嘘をついたりはしない。
――西絹代という女性は、心の底から、人を支えようとする。
「西先輩」
「ん?」
西が、こちらを見た。
だから、空田はひと呼吸して、
「いつも、ありがとうございます」
下げたい頭を、下げた。
西は「いや」と声を出して、
「仲間だろう?」
空田の頭が、鈍く上がっていく。
「そうだ。そういえば、そうでしたね」
「ああ」
「西先輩のご厚意には、とても感謝しています。……ですが、こればかりは、自分だけが抱えている問題です」
上手く、頷けたと思う。
「こうして話を聞いてくれただけでも、僕としては十分すぎます。――前も言いましたけれど、西先輩は、何もしなくてもいいですからね」
「出来たらな」
そうして、杉下が文句なしの一位を勝ち取る。やはりはしゃぎ回ることなく、「記録はどうだった?」と菊池へ駆け寄る。
「西先輩、そんなことを言って」
「君のお陰で、私は『待つ』ということを知れた。時間には時間を、という戦い方を学べたんだ」
菊池が、大声で「新記録達成! やるじゃん杉下!」と叫ぶ。冷静だったはずの杉下が、今度こそ「っしゃあ!」と歓喜した。
「焦っていた私に対して、君は、的確な助言をもたらしてくれたんだ。とても感謝している」
「いえ、思い付きを口にしただけです」
「大切な一言というものは、大抵はそんな風に出る」
その他の部員も、「やるなあ」と杉下を称賛する。その場の勢いで、「明日は奢ってやるよ!」と杉下が叫ぶ。
「空田君。私に道を示してくれて、本当にありがとう」
陸上部員全員が、ここぞとばかりに杉下へ集ってくる。杉下が「やめろよー」と毒づく。
「――こちらこそ、本当にありがとうございます」
「いやいや、私は何もしていないよ」
「いえ。西先輩の感謝が、前進が、本当に本当に嬉しくて」
そして、杉下が「よーしお前ら! 奢ってやるからな!」と大口を叩く。運動場から、大歓声が響き渡った。
――空田は、胸が締め付けられながらで、決して痛んでなどいない右足を意識しながらで、
「……あ、そ、そうだっ。今週の釣り、どうしますか?」
半ば恥ずかしがって、半ば誤魔化しで、「本題」を食いこませる。西の方も、「そうだそうだ」と同調して、
「私はどこでもいいんだが……おすすめの釣り堀などは、あるか?」
「そうですね。大分慣れてきたようですし、一番山付近の川はどうですか? 大きいのが沢山釣れるんですよ」
そこで、西先輩の両目が丸くなる。
「一番山川……一番山川……あそこか!」
「お、知っているんですか?」
「ああ。――この前に話しただろう? 単車を走らせていたら、川で釣り人を見かけたって」
最初は「そうだったかな」と考えて、数秒もかからないうちに「そういえば」と思い出す。顔にも出ていたのだろう、西が返すように笑い、
「そうそう。一番山川に居た、釣り人の姿を見て……いいなって思ったんだ」
「へえー。その釣り人って誰なんでしょう、学生さんかな」
「うーん、帽子をかぶっていたから顔は見えなかったんだが」
帽子と聞いて、思わず手で頭を覆う。
釣りに出掛ける際は、必ずといっても良いくらい、緑色の釣り人帽子を被るようにしている。
――空田のしぐさを見て、西が「待てよ」と首を傾げる。空田も、「いや待てよ」と口に出た。
「君がいつも被っている帽子……どこかで見たことがあったような……」
「……あのう」
「うん」
「それ、春先でした?」
西の無言、空田の沈黙。
陸上部の顧問が、「めでたいのは結構だが、はやく再開しろー」とやんわり注意する。へいへいと散っていく陸上部員、時計を握り直す菊池、位置につく四人の短距離走選手、含み笑いがこぼれる西と空田。
「――そうかそうか。出会うべくして出会ったんだな、私たちは」
「かもしれませんね」
「最初から、君に釣りの楽しさを教えられていたわけだ」
「釣りを始めたのは、西先輩ですよ」
「それでもだ。……何だか嬉しいな、こういうの」
「僕もです」
銃声が鳴り響く、四人の短距離走選手が激しく走り込む。耳にはっきりと、地鳴りめいた駆け足が聞こえてくる。
この先、走れるようになるのか、知波単戦車道は強くなれるのか、それは分からないが――今は、西と笑い合うことにした。
「それじゃあ、そろそろ帰りましょうか」
「そうだな。じゃあ、ここでお別れだな」
「分かりました。では」
西に背を向け、一歩踏みしめたところで、
「――空田君」
「はい?」
「……最後の一つだけ、聞かせて欲しい」
「はい」
振り向く。西と、目が合う。
「陸上は、好きか?」
空田は、
「はい、好きです」
迷いなく、そうやって答えることが出来た。
――夕暮れに照らされながら、西は、夜明けのような笑顔を見せてくれた。
―――
「――それで、細見が……ああ、戦車長の一人だな。うちの主力で、高い能力があるんだが」
「が?」
「とても情が深くてな。仲間の危機となると、つい駆け付けてしまうんだ。お陰で、生還率が悪かった」
「過去形なんですね」
釣り竿を握り締めながら、よくぞ気づいてくれたとばかりに西が笑い、
「最近になってな。細見が、堪えることを覚えてくれたんだ。仲間が散ろうとも、ずっとずっと待ち続けて……私は、撃たれてしまったよ」
「の、割りには……嬉しそうですね、西先輩」
「ああ。正しく、負けたからな」
実に実に嬉しそうに、西は負けの報告をしてくれた。
空田も、思わず「すごいですね」と言ってしまう。西も、「だろう」と口にして、
「玉田もそうだが、細見も見事に成長してくれるとは。他の隊員も、それに習おうとしている」
「ほうほう」
「戦車の中で、『堪えろ』と連呼するのだそうだ」
「声に出すのは効果的ですもんね」
一番川は、今日も音を立てて流れ行く。多少流れが激しい場所なのだが、それ故に、元気いっぱい大きさ盛りだくさんな魚がよく釣れるのだった。
――一番川で合流して、釣竿をぶら下げて数十分。戦果はといえば、綺麗さっぱりだった。
「知波単戦車隊は、変わってきた」
「そう思います」
「ここ最近は、武芸そのものを何度も目にしている」
「素晴らしいです」
そうだろうと、西は頷いてみせて、
「ほんとう、待つだけで良かった。実にいい助言をしてくれたな」
「ええー、まだそれ言うんですかあ?」
照れくさくなって、帽子を被り直す。西はといえば、当たり前だろうとばかりに笑っていた。
「本当、義理堅いですね。西先輩は」
「恩は、忘れてはいけないからな」
世辞でもなんでもなく、大真面目に言っているつもりなのだろう。こうした難しい心がけを、西は難なく自然体でこなしてしまう。
これは、食堂でじゃんけん大会が始まるわけだ。
苦笑い込みで、鼻息が漏れた。
「西先輩」
「ん?」
「これからも応援します。西先輩の、知波単戦車道を」
「……ありがとう、空田君」
明るい表情が向き合い、何事も無く視線が川へ移る。
仲間として、友達として思う。知波単戦車道が上手くいっているようで、本当に良かった。西が嬉しそうで、自分も嬉しくなる。
良くも悪くも、知波単学園とは真面目な校風だ。だから、伝統に付き従うのも当然の流れといえる。自分だって、陸上部の伝統に流されるがまま応援歌を自作したものだ。
けれど西は、確かに伝統を疑問視した。胸に抱えるという逃げに走らず、「これは武芸ではない」と口にまでしたのだ。
すごい人だと思う。大いなる伝統を前に、反論してみせたのだから。凄まじい先輩だと思う。怖い先輩がたを前に、退かなかったのだから。
――そんな人は、必ず報われなければいけない。
今の知波単戦車道は、間違いなく強い。学友達も「今日、戦車道があったんだって? 静かだった」と語っていたことがあった。奇襲戦法は、間違いなく磨かれていっている。
西の横顔を見る。未だ釣れないながらも、嬉しそうな顔をして川を眺めている。
西は、散々苦労を重ねていった。だからこそ、これからは輝くべきなのだ。
諦めない者には栄光を。必然の流れだった。
両目をつむり、鼻息をついて、よかったよかったと実感して、帽子を整えて、
「空田君」
声をかけられた。視線を一番川へ向けたままで、「はい」と答えた。
「君の方は、君の調子は、どうかな?」
「調子、といいますと」
「――ここに来る途中、足などは痛めなかったか?」
知波単戦車道を歩むだけでいいのに、これからの栄光を見続けていればいいのに。西は、そんなことを聞いてくれた。
「大丈夫です、完治はしていますから」
「そうか」
間なんて、ほんの僅かでしかなく、
「……怖い、よな」
「……はい」
正直に答えるしかない。
意識を、右足へ傾ける。右足は今日も正常だ、痛くも痒くもない。当時とは違って、自由自在に動かすことが出来る。
必要もないというのに、太ももを揉んでみる。不意の激痛など生じない、確かに血が通っている。何ともなかったからこそ、恐怖におののく自分のことが情けなく思う。
――ため息。
自分は確かに、医者から「完治した」と言われた。自分は間違いなく、機関車に乗って、徒歩で釣り堀にまで来た。他でもない西絹代から、「君には可能性がある」と見出された。
そこまで分かっているくせに、そこまで言われているのに、右足は未だに動かない。
情けないなあと思う。脳裏で鮮明に激痛が、縄がちぎれたような音が、再現されていく。振り払うことができない。
ため息が、
「空田君」
「あ、はい」
西が、小さく咳をつく。なんだろうと、瞬きが出た。
「――こ、こんな格言を、知っているかな?」
「……え?」
流されるがまま、西へ首を向ける。西も、空田のことを注目していた。
西にしては、珍しくたどたどしい喋り方。
格言?
格言というと、名言みたいなものだっけ。
――西の表情が、強いものに切り替わる。
「苦しんで強くなることが、いかに崇高なことであるかを知れ」
「え、え……」
格言を口にされ、少しばかり悩む。馬鹿ではなかった空田は、「自分の為に言っている」という事実を察した。
「これはアメリカの詩人、ロックフェラーという人物の言葉なんだ。……君は、この言葉通りの人だと思う」
「そ、そんな、僕は、」
そんな大層な人間じゃない、他人に願望を映すような男だ。
「――勇気とは、恐怖心を抱いていないことではなく、恐怖心を抱いていても行動する度胸があることだ」
けれど西は、そんな自分に対して、言葉を以てして突撃する。
格言という力を食らって、西の本心本音を浴びて、空田の言い訳は力尽きた。
「これはアメリカの小説家、アレクサンダー・ロックハートという人物が遺した言葉だ。……今の君の姿は、真っ当に正しい」
「西先輩、」
その言葉しか、口にすることが出来ない。
「君は、正しい理由で恐怖を抱いた。同じ目に遭ったら、私だってそうなるはずだ」
「そんな」
西は、首を横に振るう。
「けれど君は、腐らずに今日ここまで生きてきた。――私はいい、もう十分だ。だから今度は、私が君のことを何とかしたい」
「……僕は、西先輩のように、なれるんでしょうか?」
「なれる。君には、強い一途さがある」
「一途って、」
「いつも、運動場にいるじゃないか」
「陸上が好きだって、言ってくれただろう?」
釣り糸は、未だに動きもしない。
「そんな君が報われないなんて、私はおかしいと思う。仲間として、とても悔しく思う」
右足に、手をしがみつかせる。
「出来る限り、私は君に力を貸したい。……だから、」
釣り竿を置いて、西が首飾りに手をかける。
いつも身に着けている、必勝祈願のお守りだ。
「気休めにしかならないが……これを、受け取って欲しい」
――空田は、緊急的に感情を取り戻す。
「そ、それっ。いけません! 西先輩の大切なものでしょう!?」
「大切といえば大切だが、別に、代々伝わる家宝というわけでもないから」
「それでも駄目ですよ、西先輩の一部ですし」
「空田君」
西という人は、一度やると決めたらとことんやる、やってしまう。
どうして、そんなことを知っているのかといえば、
「仲間だろう?」
仲間だから。
そっと、必勝祈願のお守りが、西の祈りが、空田のものになった。
言葉にならない、息が漏れる、目頭が熱くなる、お守りをぎゅっと握りしめる、西が柔らかく微笑む。
「空田君」
西が、大きく息を吸って、
「強制はできない。だが、君はもっと輝いて欲しい。……仲間だから、何とかしたい」
「西先輩」
改めて、改めて思う。
この人は、知波単戦車隊の隊長だ。
「もし、また『再発』したら。私は責任をとって……戦車道を、やめる」
――!!
「だ、駄目です、それだけは駄目です。絶対にいけませんっ!」
「で、でもっ! 言い出しっぺとしては」
「良いんです、本当に良いんです。西先輩は真面目すぎます、そこが良いんですがっ」
「そ、そうか? あ、ありがとうっ」
「あ、はいっ」
感情がしったかめっちゃになってしまって、ろくな言葉が思いつかない。うんうんと空田が唸り、うむむと西が声を漏らす。
ひとまず、深呼吸する。
自然の真っ只中だからか、肺まで澄み渡っていく気がした。脳味噌が、良い感じに冷却されていく。
息を吐く。
「……西先輩」
「うん」
「一つだけ、聞かせてください」
「うん」
右足を、ばしっと叩く。
「……医学的には、もう完治はしました」
「うん」
西が調べてくれたであろう、格言を思い起こす。
「恐怖を知ることは、恥ではないんですよね」
「うん」
そこまでしてくれる西のことが、空田は好きだから。そんな西には、幸せになって欲しいから。
だから、
「……また、走れると思いますか。僕は」
「ああ。私は、そう信じている」
そこまで言われたら、気も引き締まるじゃないか。
そこまで願いをこめられたら、感情に熱が入るじゃないか。
西絹代から応援されたのなら、やるしかないじゃないか。
何の前触れもなかったと思う。
空田の釣り糸が、びくりと震えた。空田の口から「あ」の声、続いて西が「お!」の絶叫。大急ぎで、力強く糸を巻きまくって、西から「頑張れ!」と応援されて、何だかもう口元が曲がってしまって、「今だ」が脳裏に光って、
「釣れ……たッ!」
何物かの影が、宙に舞った。
ぶらぶらと何かが――魚が、釣り針に食いついて離さない。目撃者である西は、「これは一体?」と目を輝かせながら質問する。
釣り針から魚を放し、「でかいなおい」と両手で抱えながら、
「これは、
腸香が、腕の中で元気いっぱいに動き回る。水滴まで飛んできて、目に入って、情けない声を出してしまった。
ああもうと、首を振るう。西から、「大丈夫か?」と声をかけられる。「はい」と返事をして、目と目があって、腸香が未だに大暴れする中で、
「やっぱりすごいな、君は」
「え、そんな」
西が、素直に笑って、
「君は、やれば出来る人だ。釣りも、陸上部も。本当にそう思う」
「西先輩」
西が、無言で抵抗しまくる腸香を見て、
「空田君、大物おめでとう。これもきっと、何かの縁だろう」
「かも、しれませんね」
「……これは、根拠のない物言いになるが。この場所もきっと、君の門出を祝うつもりでいるのだろう」
「そう思います」
そして、西が優しく微笑む。空田の目を、真っ直ぐに見据えながらで、
「これは、私のわがままになるが……君の本当の姿を、傷を克服した姿を、私は見届けたい。卒業する前に、是非とも」
「西、先輩」
「――君は、私の仲間だ。だから、だから……幸せになって欲しい! 私は絶対に応援する!」
世界から、音が消えた気がする。
川が静まりかえって、腸香が大人しくなって、回転翼機が空中停止して、風が世界中から消滅して。耳から心まで、西の声が空田の中に届いた。
――改めて、思う
「西先輩」
「……うん」
安堵したような、西の苦笑い。
改めて、改めて、
「僕、ちょっと……やりたいこと、やってきます」
「そうか」
改めて、改めて、改めて思う。
「――よかった」
僕は、西絹代のことが好きだ。それは間違いない、誰にも否定はさせない。
けれど、自分と西とでは――とてもでないけれど、まるで釣り合わない。西という人は、あまりにも輝きすぎている。
友達はまだいい、後輩からよく好かれる奴もいる。趣味仲間も、許される範疇だろう。知波単学園では特にそうだ。
けれど、人間関係に愛が絡んでしまえば、世界はまるで一変してしまう。自分はまだいいとして、人気者の西の方は――良くも悪くも、凡人である自分と見比べられてしまうだろう。
そうして根も葉もない噂話が飛び交い、時には「なぜ?」と質問責めにあうかも。色々言われて、戦車道に支障をきたしてしまうかもしれない。
――西のお荷物になるのは、顔に泥を塗るなんてことは、絶対に嫌だった。
だからこそ、「諦め」を受け入れられる。好きだからこそ、甘いも苦いも知る高校二年生だからこそ、そう思う。
初恋は実らないというが、全く持ってその通りだった。
それでも、西と出会えて、ほんとうによかった。
―――
放課後を告げる予鈴が鳴って、生真面目な空気が途端に瓦解する。それは土井も、福田も、池田も変わらない。
つっかれたねーと土井が背筋を伸ばし、そうでありますねーと福田が机の上で寝そべる。それを見て、土井は「なんて可愛いんだ」と思考した。
「今日はどうしようか?」
「うーん……読む本が無くなってしまったので、本屋へ立ち寄ろうかなと」
「いいね。付き合うよ」
「ありがとうであります、土井君」
「福田さんと一緒にいられる時間が増えて、嬉しいよ」
福田が、きゃあきゃあと首を横に振るう。とても嬉しそうな顔までして。
本心を口に出来て、本当に良かった。
少し離れたところで、池田がやけに咳込んでいる。
「僕も何か買ってみようかな、推理小説とか……あ、空田はどうする?」
福田の前の席、空田めがけ視線を投げかける。
――空田はといえば、生真面目に机へ座り込んだままだ。
はてと、福田とともに首をかしげる。空田もごくごく「一般」の生徒であって、放課後ともなれば浮かれ半分になるはずなのだ。
今の空田はといえば、背中を丸めてまで、生真面目に考え事をしている。何か悩みでも抱えているのだろうかと、判断に困ったところで、
「なあ」
席に座ったまま、首だけを土井に、福田に振り向かせた。
土井は真顔で、「何」と応える。
「その……ちょっと、私用に付き合ってくれないかな?」
福田と顔を見合わせる。空田の、極めて真面目な無表情を目の当たりにして、ほぼ同時に頷いてみせた。
――ふたたび、空田に視線を移す。
「わかった、いいよ」
「ありがとう」
学生鞄を片手に、空田がゆっくりと立ち上がる。
ただ事ではない予感を察してか、福田のため息が耳に入る。福田の婚約者として、福田の手を握り締める。
福田は、土井の手をしっかりと握り返してくれた。
↓
廊下を歩んで、「出る」と噂される女子手洗いを横切って、「凄く長引いたよね、今日の戦車道」という雑談を耳にして、福田の目を見て、その通りだと頷かれた。
玄関に着いて、下駄箱から外靴を引っ張り出す。後はそのまま、空田に導かれるがまま外へ出て――まだ明るめの空が、目いっぱいに入った。
空田は無言のまま、けれども慎重な足取りで前に進んでいく。伸びきった背中を見て、土井は「緊張しているのか」と心の中で思う。油断も隙も無い雰囲気の中で、福田の手だけは離すまいと固く心に誓う。
空田は帰路に――違う、運動場に足を踏み入れる。この時点で、土井は「まさか」と思考して、福田が「空田君」と声をかけて、空田が「うん」と頷いて、運動場の隅に設けられた部室棟に一歩また一歩と近づいて、
「空田」
「ああ」
「……やるんだな」
部室棟――陸上部の部室前で、空田はようやく立ち止まった。木造で、古びていて、由緒正しい部室棟を見るたびに、何となく「強そう」と思う。
「土井、福田さん」
「うん」
「はい」
空田が振り向いて、
「今まで、本当にありがとう」
頭を、下げられた。
福田と目を合わせて、空田に視線を戻して、笑ってみせて、
「頑張れ、空田。応援してる」
「私も微力ながら、お力になるであります」
福田が、力強く敬礼する。空田も微笑んでみせて、
空田が、
今度こそ、部室の扉を叩いた。
その後のことはといえば、まず、部長が「空田か?」と信じがたく問うた。対して空田は、これまでの不在を出来るだけ謝罪した。
当然ながら、部長は「大丈夫なのか?」と質問する。土井も福田も真剣に耳を傾ける中で、空田はきっぱりと、
「はい、もう大丈夫です。――走らせてください!」
もう、考える必要なんてなかった。
福田の顔を見て、何だかもう嬉しくなってしまって、同時に笑いあう。
今日は、ふたりきりで本屋を巡ることになりそうだ。
↓
放課後の教室で、多少の雑談を交わした後に、西は学生鞄を片手に廊下へ出る。今日も疲れたなあと、力なく欠伸を漏らして、
「お疲れ様です、隊長」
細見から、柔らかく挨拶される。西も気兼ねなく「お疲れ様、細見」と返して、今日のところはお別れだ。
――その後も、挨拶は何度か続いた。同級生から「お疲れ様です、西さん!」と頭を下げられ、後輩からも「お疲れ様です! 西隊長!」と一礼された。別にそこまでしなくてもなあと思うのだが、玉田曰く「西隊長は、人柄が良いですから」とのことだ。
伝統を覆そうとしている以外、特に何もしていないはずなのに。
まあいいかと、今日「も」結論付ける。賑やかなのは、良いことだ。
さて、
下駄箱から外靴を取り出し、そのまま学校の外へ出る――空はまだ、だいぶ明るい。夏が、全国大会が、そろそろ始まろうとしている。
そうか、と思う。明日から頑張ろう、と思う。
そうして帰路につこうとして、運動場から銃声が鳴って、「ああ、陸上か」と呟きながら運動場を目にして、
見間違えだと思った。
陸上部のユニフォームを身に着けた、空田が居た。
空田は、非常にゆったりとしたペースで運動場を走っている。マネージャーであろう部員が、「無理しないでね!」と叫んでいる。それをよそに、四人の短距離走選手がしのぎを削りあっていた。
ああ――。
声が、漏れた。
彼は、走り始めたんだ。歩むべき道へ向けて、突撃し始めたんだ。
いま、自分はどんな顔をして、運動場を駆ける空田のことを見ているのだろう。笑えているのだろうか。
両肩で息をする、小さく「がんばれ」と応援する。自分は陸上部員ではないから、戦車道履修者だから、今だけは控えめに存在しようと思う。
一周ほど走り回るつもりなのだろう。徐々に、空田の顔が見えてきた。
何だか恥ずかしくなって、嬉しくなって、つい微笑んでしまって、
「空田ー! 足大丈夫ー!? 無理しないでねー!」
女性マネージャーの声が、運動場で高らかに響いた。
――仲間が、居てくれているんだな。
背を向ける。どこか寂しい気持ちを抱えながら、「よかったな」と口にする。
陸上部のことは、陸上部に任せよう。それが正しい判断だ――
「西先輩!」
声をかけられて、意識ごと体がびくりとした。
そっと振り向いてみれば、そこにはやっぱり、
「こんにちは、西先輩」
「――こんにちは、空田君」
うまく、笑えたと思う。だから空田も、自分に笑顔を見せてくれた。
「見てくれていたんですね」
「ああ。……復帰おめでとう、空田君」
「ありがとうございます。これも、西先輩のお陰です」
頭を下げられる。こちらこそと、西も腰を低くした。
「どうだ。楽しいか? 走るの」
「ええ。やっぱり僕は、走るのが好きです」
「そうか。本当に良かったな、ほんとうに」
「ええ」
そして、西の視線が僅かに逸れる。
空田が陸上部に復帰出来て、実にめでたいはずなのに。それを望んだのは、他でもない自分であるはずなのに。
なのに、どうして胸が痛いんだろう。
「――空田君」
「あ、はい」
「その……これからも、部活は続けるつもりなんだよな?」
「ええ。今はゆっくりと走って、徐々に足を慣らしていこうかなと」
「そうか。いい判断だ」
西の理性が言う。はやく、本当に聞きたいことを聞け。空田の足を、突撃を止めるな。
けどなあと、西の口元がむずむず歪む。空田は変わらず笑顔のまま。
この場で、陸上部の世界の中で、「趣味」について聞き出すのは――どうしても、躊躇われてしまう。
彼には、このまま幸せになっていて欲しかった。本当に夢中になれるものに向けて、突っ走っていて欲しかった。
――日を改めればいいだけの話なのに、なぜだか離れられない。
「……あ、その、空田君」
「あ、はい」
「……いや、何でもない。すまない、引き留めてしまって」
「いえ。――あ、そうだ」
「はい?」
空田は、やっぱり笑顔のまま、
「今週、日は空いていますか? 良かったら、また釣りにでも行きませんか?」
――、
私は、思う。
釣りを始めて、本当によかった。彼と出会えて、本当に良かった。私も彼も幸せになれて、ほんとうに善かった。
「――ああ、もちろん! 次はどこへ行こうか? おすすめのスポットを、教えて欲しい」
マネージャーが、嬉しそうな顔をしながらで空田と西を見守っている。運動場で、二度目の銃声が鳴り響く。西の背後から、「今日は団子でも食べにいかない?」の雑談が聞こえてくる。
空模様も薄暗く、帰る時間だというのに、外はほんの少し暑かった。