木曜日。
食堂の一角で、福田とはいつものように昼食を分け合う。次にお礼を、感謝の言葉を、笑顔を、心地よい気恥ずかしさを。土井は、今日も胸に抱えていく。
真正面に座る空田が「羨ましいねえ」と機嫌良く口にして、池田が調子悪そうに唸っていた。
福田が「あ、池田殿が」と心配するが、空田が「大丈夫」と手で止める――池田が親指を立てていた。どうやら、空田の言う通りらしい。
ほんの少しだけの間を置いて、
「そういえば、戦車道の大会もそろそろ、だっけ?」
空田の質問に対して、福田は「はい」と頷く。
「もう、そんな時期であります」
「そうか。……どう? 自信の程は」
福田が、銀しゃりを噛み締めながら、
「ばっちりであります」
「そうか。そっか」
空田が、ちらりと土井に目を向ける。
何も言わず、土井も微笑み返してみせた。
「空田君は、どうでありますか?」
「ああ、」
空田が、味噌汁に一口つけて、
「すっかり怖くなくなったし、優勝を目指してみるよ」
福田と土井の口から、「ほう」の一声。
「これまで以上に練習もする。あ、無理はしない程度でね」
軽快に笑いながら、己が右足を軽く叩いてみせた。
――安堵する。よかった、と思う。
「いまの空田君なら、優勝できるであります」
「そうかい?」
「はい。――今の空田君は、自信に溢れていますから」
土井も、同意するように首を振るう。
――その時、土井は真っ先に気付いた。昼食が乗った容器を手にして、明らかに「空田へ」近づいてくる、最近になって親しくなった女性の姿を。
土井の機嫌がいよいよ良くなって、にこりと笑いながらで頭を下げる。その女性も、先輩も、一礼してくれて、
「空田君」
その呼びかけで、空田の言葉がぴったりと止まる。
先ずは福田が、次に空田が、声の主に首を向けて、
「こんにちは。良かったら、一緒に食べてもいいかな?」
周囲は、変わらずお喋りに興じている。西の方をちらりと見る者もいたが、すぐに視線を引っ込めてくれた。
福田が嬉しそうに微笑して、肝心の空田は顔真っ赤。西は、そんな空田のことをちらちらと覗っている。
平和だなあと、土井は思う。
「空田」
「あっ。……ど、どうぞ、西先輩なら大歓迎です」
「ありがとう」
そうして、西が空田の隣へ腰掛けてみせる。実に流れるように。
――まず、西が「いたーだきます」と宣言する。そうして静かに、漬物から口にし始めた。
沈黙が訪れるが、気まずいとは思わない。だって空田は、西は、互いに様子見しあっていたから。
だから、土井は黙る。人の恋路を邪魔してはいけない。
西が銀しゃりを口にする、空田がほっけの骨をべりべり剥がしていく。再び西と目が合って、そそくさと二つの視線が緊急離脱する。そうして食べては見つめあって、逃げては食べての繰り返し。その微笑ましい光景に、土井の機嫌が底上げされていく。
そして、何の前触れもなかったと思う。
空田が、ぐいっと熱い味噌汁を飲み干した。
お椀を容器の上に、音を立てて置いた時、空田から「行くぞ」という声が聞こえてきたような気がした。
「西先輩」
「あっはいっ」
西の首が、高速で空田の方へ向けられる。
福田は、土井は、「みんなは」、口出しはしない。
「西先輩って、外来語が得意、でしたよね。ちょくちょく耳にしますし」
「あ、うん。一応は」
知波単学園は、良くも悪くも日本気質な世界だ。それ故に、国語は大の得意で、計算もそこそこ強くて、外来語はてんで苦手だったりする。
外からは「なぜ?」と疑問視されることもあるのだが、外来語を使わなくとも生きていけたからだと思う。学園艦の目的である、「国際交流」とはだいぶかけ離れた生き方をしてしまっているが。
――そういった意味でも、西は「優秀」と讃えられている。
「僕、今日から外来語について、勉強しようと思ってます」
西が、嬉しそうに「ほう」と漏らす。
「偉いぞ、空田君。勉強して、損することなど何もない」
「ありがとうございます。……あと、その、もう一つ、新しいことを学ぼうかなと」
土井が、福田が、空田の目をじいっと見つめる。西も、好奇心を吹き出しながら、「それは?」と質問した。
緊張が見え隠れする、空田の深呼吸。
「――単車の免許を、とってみようかなと」
西が、沈黙する。西の表情が、真顔になる。
「あと……叶えたい夢がふたつ、できました」
それは?
西が、縋るように問う。土井は、福田は、何も言うことが出来ない。
そして、
「この知波単学園艦で、一番、速く走れる男になりたいです」
「え」
西と、福田と、土井が、同じように反応する。
「それで、夏の陸上競技大会で、優勝を勝ち取ってみたくなりました」
――空田が西のことを、確かに見つめ始めた。
優しそうに、好きなように微笑んで。
「どう、して?」
西が疑問を、土井が心の中で質問を、福田が表情で問う。
そして、空田が気恥ずかしそうに苦笑して、
「あなたと、これからも釣り合えるような男になりたいからです」
その言葉が耳に届いた時、土井からため息がもれた。
たぶん、荷が降りたからだと思う。友達が、今度こそ幸せになろうとしているからだろう。
福田の横顔を見ようとして、目があった。
やっぱり、嬉しそうな顔をしていた。
「空田、くん」
「すみません。いきなりこんなことを言われて、びっくりしてしまいましたよね」
西は、空田から決して目を逸らさない。
空田は、西から決してその身を離さない。
「――その、本当にいきなりで、申し訳ありません。……けれど、」
「けれど?」
「……これが、残された最後の機会だと、思ってしまって」
その一言に対して、土井は共感を覚えたし納得もした。
恋愛感情とは、誰の心をも繊細にしてくれるのだ。ほんの小さな一挙手一投足すらよく捉えてしまうし、些細な言葉も決して聞き逃さなくなる。そして、必然的に自意識が肥大化してしまうのだ。
必要以上に髪型を整えてみたり、言葉に対して百通りの返事を考えてみたり、時には自分だから「こそ」と自信がついたり、時には自分「なんか」と自己嫌悪してみせたりと、感情があちらこちらへ飛んでいってしまう。
本気の恋心を抱いた以上、このめちゃくちゃからは逃れられない。「やっぱり君もか」と、土井は心の中で親指を立てた。
「返事は、僕が目標を達してからで構いません。むしろ、そうしてください。くだらない、男の意地みたいなものです」
西は、返事も頷きもしない。表情だって、泣きそうなままだ。呼吸すら止まっているのかも。
いつもの賑やかな食堂は、ずいぶんと静かに思えた。
「西先輩。僕のことを救ってくださって、本当にありがとうございます」
一礼。
「走ることしか能がない自分に、こんな僕に、目標を、夢を与えてくださって、心の底から感謝しています」
笑顔。
「西先輩。僕は、これ以上の恋はできません」
告白。
必然的に、間が訪れる。
西の顔が、戸惑う。西の瞳が、揺れ動く。西の口が、そっと閉じていく。
――そして、西絹代が、「うん」と頷いた。
「空田君」
「は、はい」
空田の、怯えるような返事。
「本心を打ち明けてくれて、私は嬉しい」
西の、何を咎めることの無い微笑。
「空田君。私は消えない、絶対にいなくなったりしない。……空田君と離ればなれになるのは、嫌だ」
西の左手が、花のようにそっと開いた。空田からは「あ」という声。
「だから、」
銀しゃりを、箸でひとつまみする。
「私は、いつまでも待つよ。夢が叶った時は、必ず返事をする」
その箸を、空田の口元へ近づけて、
「――さ。沢山食べて、もっと体力をつけてくれ。知波単学園の一番に、なるんだろう?」
昼休みの食堂は、今日も今日とて賑やかだ。一角ではこんな事になっているというのに、雑談が、箸の動きが止まらない。
そこで、「戦車道履修者」の女子と目が合う。にこりと微笑んでくれて、僅かに頭を下げ合った。こうして、見守ってくれている人もいる。
あとは空田、お前次第だぞ。分かったら鼻の下を伸ばしながら、はいあーんを食らえ。
「西先輩。僕は必ず、必ずあなたに追い付きますから」
両肩まで動かしておいての深呼吸、間、西の不安げな「た、食べないのか?」、間、何してんだよと土井が睨む、空田が両手を合わせて「いただきます」。
西の施しを口にして、空田が何度も何度も噛み締める。何がなんでも、八十八回ほど味わうつもりなのだろう。
「さあ、もう一回食べてくれ」
喜色満面の笑みとともに、西が銀しゃりをひと摘みする。対して空田は、生真面目に「いただきます」と手を合わせた。
安心感が戻ってきたからだろう。気楽に影響されて、土井も銀しゃりを掴み取って――福田と、行動が被っていた。
どうしようかなえへへと苦笑しあい、間もなく箸が交差し合う。差し出された銀しゃりを同時に頬張って、二人してうんうんと頷いた。
食堂のどこかから、激しい咳込みが噴出する。調子が悪いのか、荒んだ呼吸が耳に入ってきた。「思春期っていいなあ」という、池田の感想。
福田の銀しゃりを噛み締めながら、西と空田を眺めながら、土井は思う。
みんな、幸せになって欲しい。
知波単学園艦は、今日も平穏に、海の上を流れ行く。
―――
金曜日がやってきた。
金曜日も平日ではあるが、学生諸君からすれば休日の前日でしかない。それ故に、教室だろうが廊下だろうが図書館だろうが、大抵は明日の予定が聞こえてくる。
明るい未来が控えている分、金曜日こそが、学生の全盛期ともいえよう。かくいう空田も、「明日はどうしようかなあ」と、昼休みの図書館でぼやいていた。
――改めて、本に集中する。
今読んでいるのは、単車の専門書だ。前もって知識を備えておくことで、免許を取りやすくしようと考えたのだ。
その控えとして、英和辞典がしっかりと置かれてある。単車という宿命か、専門書には固有名詞たくさん、横文字いっぱいなのだが――これが思いのほか、結構楽しかったりする。
専門書に詰まれば英和辞典を引き、意味を知って「なるほど」と関心して、自力で前進できるという「ご褒美」が得られるのだ。優越感もついてくるので、余計に面白い。
ページ(覚えたて)をめくっていき、鼻で唸る。何枚かの写真を拝見したが、やっぱり格好良いなあと思う。
いつか、西先輩と一緒に。
英和辞典を右手に、専門書を左手に、二刀流の構えで言葉を紐解いていく。あまりにも熱中しすぎていたもので、土井から「空田ー」と呼ばれようが、福田から「空田くーん」と言われようが、あまり気にせずに文字に集中して、
「あ――な、何?」
危うく、友人を二の次にするところだった。いかんいかんと首を振るい、英和辞典と専門書を机の上に置く。
土井と福田は、「ほう」と頷いて、
「すごく熱中してたみたいだね。邪魔だったかな?」
「いや、大丈夫。何か用?」
「ああ。明日は土曜だけど、何か予定は?」
少し考えてみる。あくまでほんの少しだけ、頭を動かして、
「無いな」
その言葉を聞いた瞬間、福田と土井が、にこりと顔を見合わせた。
――あ、何か嫌な予感がするぞ。
身構えてみる。
「よし。じゃあさ、明日は練習試合を見にいかない?」
「練習……ああ、戦車道の?」
「そうそう。僕、今のいままで練習試合っていうのを見たことがなくて……福田さんの晴れ姿なのに」
がっかりと、土井がため息をつく。福田が「まあまあ」と苦笑する。
「本土へ行くのも、ただではありませんから。仕方がありません」
「まあねえ。――でも、やっぱり福田さんの頑張りを見なくちゃいけない。僕は福田さんの婚約者なんだから」
図書館の何処かで、「があああ」という男の悲鳴が聞こえてきた。どうか幸せが訪れるよう、心の中で祈る。
「いい考えだと思うよ。あ、余裕があったらさ、お土産買ってきて」
冗談交じりで、へらへらと笑いながらお願いする。本来なら「はいはい」とか「えー」とか、そういった返事を期待していたのだが、
土井は、「何言ってんだこいつ」な真顔を繰り出していた。突如の不意打ちに、空田の口から「え」が漏れる。
「空田は行かないの?」
「え、練習試合?」
福田も、こくりと頷いて、
「そうであります。西隊長の活躍を、生で見たくないのでありますか?」
あ。
今更気づく。福田が試合をするということは、必然的に西絹代も出場するというわけで――
「あー。……でも、僕なんかがいても、ねえ?」
「そんなことは、ないであります。直接見てくれるだけで、居てくれるだけで、その人の力になれるのであります」
福田から真剣に見つめられて、反論のはの字も出てこない。
福田という婚約者が言うからこそ、福田という正直者が口にするからこそ、否応の無い説得力がびしびしと伝わってくる。
「あっ。ですが、お金に余裕がないのなら、無理にとは言いませんっ」
「いや、大丈夫。貯金なら割と」
その
間抜けな声が漏れる、確かに意志が伝わってくる。確かに聞いたからな、西絹代のことをちゃんと見守ってやれよ。
――まあ、いいか。
戦車道を生で見てみるのも、それはそれで良い経験になるかもしれない。友人である福田が、どんな活躍を見せてくれるのか、興味はある。
「よし。じゃあ午後の七時に出発ね」
「あいよ。うわー、旅行みたいで楽しみ」
福田が、元気よく口元を曲げてみせて、
「良い土産話を、作ってみせるでありますよ」
頼んだ。空田と土井が、首を縦に振ってみせた。
――西絹代が築いた知波単戦車道が、どんな風に強くなったのか。とてもとても、興味があった。
―――
土曜日が訪れ、間も無くして練習試合の火蓋が切って落とされようとしている。
天気は晴れ、夏らしく少し蒸し暑い。どこに耳を傾けても、虫の音がよく聞こえてきた。それに混ざっての、お酒いかがですかー。
特設モニターを前に、空田がどっしりと腰掛ける。その隣には、もちろん土井の姿が。
戦車道とはやはり派手なものらしく、客入りも悪くはない。おじさんからおばさん、若いあんちゃんからお姉さん、いいとこのお嬢様らしい金髪の女性、彼氏らしい男性。真剣な表情で、無糖のコーヒーを口につけていた。
知波単学園と試合をするは、強豪聖グロリアーナ女学院。
戦場は旧市街、実に戦場らしい戦場だ。それほど展開された場所でもないから、上手く動けば一方的に食っていけるかもしれない。気をつけて立ち回れば、背後からばちきを受ける可能性は低いかも。
素人判断だから、まるであてにはならないが。
鼻息をつく。
自分は、あくまでも観客でしかない。西絹代のことを、応援することしか叶わない。
それでも、体全体が緊張する。走るのと同じくらい、意識が研ぎ澄まされる。以前の自分だったら、知波単戦車道を見ても「頑張って欲しい」としか思えなかっただろう。
けれど、今は違う。正しく負けることも大事だろうが、何としてでも勝って欲しかった。知波単戦車道には、西には、確信めいた自信を抱いて欲しかった。
試合開始のお知らせが、会場全体に反響する。
衣嚢を、ぐっと握りしめた。
↓
チャーチルを不意打ちで撃破して、次に進む。その途中で「敵と交戦」の無線が届いたが、歯を食いしばり、情を堪え、勝つために「待つ」。
これも、戦車道の一つだ。細見がとった選択を、誰も咎めはしない。それでも体が震えてくれたが、装填手が肩に手を置いてくれた。
――ありがとう。
敗退者に対しては、勝って報いてやればいい。これは戦車道なのであって、死が纏わる戦争ではない。
終わりよければすべてよし。西は、このことを何度も教えてくれた。
それに応えるのが、隊員の仕事だ。
――何より、
「なあ」
「はい」
「来てるのか、彼は」
「はい。福田が、誘いをかけたようです」
口元が釣り上がる、二つの目ん玉が冴えてくる。意識がいよいよもって冷却していって、そうかそうかと言葉を漏らして、
「隊長に、報いよう」
細見が乗るチハの中で、「応」が木霊した。
↓
目前で、敵のマチルダが横切っていく。
ここで物陰から飛び出せば、勇気を持って突撃を仕掛ければ、確実にマチルダはぶっ飛ばせるだろう。
だからこそ、体全体で抑える。いつまでも待つ。玉田の口から、静かに静かに「真の勇敢さとは」を連呼する。
真の勇敢さとは――マチルダが、遠くへ行く。
真の勇敢さとは――無線越しから、後のことは頼みます。
真の勇敢さとは――フラグ車のセンチュリオン、引きつけたであります。
操縦手の背中を蹴る、玉田のチハが唸り声を上げる。
――でかしたぞ福田、よく大物を釣ってくれた。今回は「二つも」、大事なことを成してくれたな。
玉田から、どう猛な笑みがこぼれ落ちる。今の今までだんまりを決めていたのは、はやる血の気を抑えていたのは、隊員の敗退を堪えていたのは。
敵大将の首を、密かに刎ねるため。
真の勇敢さを、体現するため。
正しく戦うという、ほんとうの勇気を表現したいがために――玉田は、「行くぞ」と叫ぶ。隊員が、「了解!」と絶叫した。
チハを全速力で走らせながら、玉田は思う。
あなたを、必ずや幸せにしてみせます。
↓
戦車道が始まって、どれくらいが経過したのだろう。
じっくりと試合を目にするのは、これが初めてのことだ。果たして知波単学園は有利なのか、聖グロリアーナ女学院は押されているのか、それすらも分からない。
けれど、
特設モニターから轟音が吐き出されるたびに、体全体が否応なく強張るのを感じる。建物がざんざんばらばらになるたびに、男の血がやかましくなる。知波単の戦車が撃破されるたびに、悲観の声が漏れる。聖グロの戦車が白旗を挙げるたびに、口元が歪んでいったのをよく覚えている。
知波単学園の戦車が散る、聖グロの戦車が後ろから刺される。
時間が経つにつれ、単純に思う。戦車って、すごく格好良いなと。知波単戦車道は、間違いなく強いと。西絹代の歩みは、決して無駄ではなかったと。
――耳が、感覚が、戦車道の世界に慣れてきた頃に、空田は「あ」と察した。
気になってはいたのだ。玉田の戦車は、どうして遠くから迂回していたのだろうと。援護もせず、囮にもならず、なぜ隠れてばかりだったのかと。
戦場は既にもみくちゃだ。部外者である空田ですら、目も頭も忙しい。
これが当事者なら、大半は「細かいことなど気にしていられない」と思考するだろう。真剣に対応しているからこそ、些細な問題などは後回しにしてしまう。
なんとか冷静に意識しようにも、戦場のあちらこちらからどっかんどっかん撃たれては、とてもでないがたまらない。競技といえども「撃たれることに変わりはない」のだから、頭よりも手が先に出てしまう。
ましてや聖グロの相手は、不意打ち大好き知波単学園なのだ。とやかく考えている隙に、後ろから撃たれる可能性も十二分にある。
――そんな混乱状態では、「たかが一両」欠けていようが、「え、そうだっけ?」と考えてしまってもおかしくはない。だからセンチュリオンは、聖グロのナンバー1は、素で気付けなかったのだと思う。
ひっそりと背後に回りこんでいた、玉田のチハに。
そして、
↓
「いやほんとう、見に行ってよかったね」
「だな。初勝利、らしいからな」
「うん。突撃一辺倒だった頃は、聖……聖グロにはぜんぜん敵わなかったらしいよ」
「だろうね。素人目から見ても、強豪らしい堅実さが伝わってきたもん」
「ね。……ほんとう、西先輩は、やってくれたよね」
全くだ。そう思う。
「それにしても、戦車道の試合ってあんな感じなんだね。始めて最後まで見てみたけれど、凄かった」
「うん。轟音、爆発、攻撃に反撃と、何もかもがデカく表現されるからね。また見てみたい」
「僕、すっかり戦車道の事が好きになったよ」
「僕も」
「――ほんとう、本土に来て良かったね」
全くだ。そう思う。
「それにしても」
「ん」
「久々の本土も良いものだね。学園艦も良いけど、何だかこう、安心感があるよ」
「なんでだろうな」
「うーん……実家があるから、とか?」
「ああ」
全くだ。そう思う。
「よし決めた。夏休みになったら、福田さんと本土で遊び歩こう」
「いい考えだと思う。福田さんも凄く頑張っているし、いい気分転換になるだろう」
「だね。――空田は?」
「僕ぅ? 僕にいい相手は、」
「いるでしょ?」
ああ、全くだ。そう思う。
「まあ、それもおいおい考えるよ。……それよりもだな」
え、何。まるでとぼけるように、土井が首を傾げる。
空田は両腕を組みながらで、呆れを露にしながらで、視線を斜め上に傾ける。
「なんで僕らは、戦車喫茶の前で佇んでるんだっけ?」
「え? そりゃーそのー、ほら、僕らってば今しがた、戦車道が好きになったじゃない?」
「だな。で?」
「で、ここには戦車道好きの聖地、戦車喫茶るくれーるがあるって聞いてさ」
やや棒読み気味に、「ルクレール」と発音する。土井の表情も、どこか白々しい。
本土の街中は、ずいぶんと静かなものだった。夏の虫が鳴いて、車が横切っていって、静寂さが重なっていく気がした。見上げてみれば、雲が散らばる晴れの空。
「せっかくだし、寄ってみようかなと思ったんだけれど」
ちらりと、なるだけ無関心そうに、窓越しからルクレールの中を拝見する。
客入りは十分、デザートも美味そう。必要以上にうるさくなければ、静かすぎるわけでもない雰囲気と、中々良い空気を醸し出している。外に立て付けられたメニュー表によると、今日のおすすめは、超重戦車マウスをイメージした「チョコレートマウスケーキ」とのこと。写真曰く「※実際のサイズを掲載しています」とのことだが、よく見なくとも鯉レベルででかい。
最初こそは、冷静に「え?」と思考はした。しかし悲しいかな、男とは轟音、爆発、そして巨大に憧れてしまう生き物なのだ。よって、「食ってみたい」と考えがシフトしてしまうのは、当然の流れともいえた。
このようにして、戦車喫茶ルクレールは完璧に見える。
「……でもな、土井」
「うん?」
見えるのだが、
「お客さん、みんな女性だろ」
「え、あ、うーん、そうだねえ。まあ戦車自体、女性のものだしねえ」
一応、メニュー表には「カップル限定! 無料でカップルジュースをお届けします!」という宣伝も書かれてはいる。カップルという響きを目にして、土井という幸せ者を視界に入れて、「はあー」と露骨にため息をこぼしてやる。
「え、何」
「福田さんがいたら、ほれ、飲むんだろ」
カップルジュースという単語めがけ、人差し指を向けてやる。瞬間、土井ときたら「えへへ」と笑い出して、
「福田さんと一緒に……当然でしょ」
「うらやましー」
いつものことなので、別に恨んだり妬んだりはしない。是非とも、福田と幸せに生きて欲しいと思う。
ただ、それでもやはり、思ってやる。羨ましい。
「よし。予定も決まったことだし、さっさと帰ろう」
「え? ……まあまあ、もうちょっと話をしよう」
「え、何の。ここに居たって、どうしようもないでしょ? 戦車喫茶は女性向けなんだし」
「そうなんだけどねえ、こう、諦められなくてねえ」
こいつは、と思う。同時に「珍しいな」とも思考する。
土井という男は、どちらかといえばかなりののんびり屋だ。それ故に、強い執着心を抱いたりもしないし、嫉妬なんて覚える気もない。我がままを言う暇があったら、「じゃあこれで」と妥協出来るタイプだ。
ただ一つの例外は、「福田さんは僕が幸せにする」。
だからこそ、空田は「はて」と首をかしげてしまう。そんなにも戦車道のことが好きになって、こんなにも戦車喫茶に関心を抱いたのかと、割と真面目に疑問する。
少しだけ考え抜いて、「あ」と結論する。
土井は、福田のことが大好きだ。戦車道履修者である、福田のことを心の底から愛している。そのような関係であれば、相手の影響をよく受けるのも仕方がない。
ましてや、さっきの練習試合だ。あんなにも格好良い場面を見せられては、福田が大活躍をしては、土井なんて「福田さんが愛する戦車道を、僕も愛する」と決意するに決まっていた――「あ、でも、一番愛しているのは福田さんだよ」という補足つきで。
全くこいつは、と思う。苦笑しながらも、今回は諦めろと腕を掴もうとして、
「あ! こ、これはぐうぜんでありますね!」
大きく声をかけられたせいで、何者かをすぐには把握出来なかった。
どこかで聞いたことのあるような、聞き覚えのあるような。そうやって考えながら、ゆっくりと振り向き、
「そらたくんに土井くんではありませんか! どうしてここに!」
空田の体が、硬直した。
いま、目の前にいるのは、
「そ、空田君。ど、どうしてここに?」
西絹代だった。その隣には、先ほどまで囮となっていた福田。
「え、あ、いやその、あの……」
「あ、福田さんににしせんぱい! ぐうぜんですねーどうしたんですかー」
土井が、ひらりと前に出てくる。
「あ、いやその、履修者のみんながな? 『撤収作業は私たちに任せて。西隊長と、よく頑張ってくれた福田は、どうぞ遊んできてください』とか言ってきてな……」
え、そうなの。
本当のことらしく、福田はにこにこと微笑んでいる。
「そ、それでな? 福田がな? ここに行こうと誘ってくれたんだ」
「はい! ここは、せんしゃどうりしゅうしゃのせいちでありますからね。それでたまたま、ほんとうにたまたま、ぐうぜんにも、土井君とそらたくんをみかけたのであります」
心底思う。
嘘だ。
「こんなこともあるんだねー。ぼくと福田さんはとにかく、そらたとにしせんぱいも、そういうえんがあったんだねー」
「仕組んだな?」
「まさか」
「ここで合流させる為に、食い下がったんだな?」
「まっさかー」
「しかも、戦車道履修者の公認なんだな?」
「それは認める。みんな、西先輩には幸せになって欲しいと願っているからね」
途端に、土井の発音が元通りになる。
――驚いた。ただ、「そういうことか」と受け入れられた。嫌悪されるよりは、見比べられるよりは、断じてマシだ。
この流れに、不自然さは感じられない。だって西とは、何回か食堂で昼食をとったことがあるから。励ましたことも、励まされたこともあるから。喧騒に混じって、告白をしたこともあるから。
そんな自分に対して、西は、
私は、いつまでも待つよ。
こう、言ってくれたから。
だから土井も、福田も、西先輩を愛する知波単戦車道履修者も、背中を押してくれたのだろう。
観念したように、ひと息つく。右足を、そっと撫でる。
「空田、君」
「はい」
「そ、その……申し訳ない。履修者のみんなが、」
「いえ。――ありがとうございます。こんな僕の為に、みんな協力してくれて」
力なく、出来る限り笑ってみせる。
「今日はじめて、知波単戦車道の戦いをじっくり見ましたが……最高に格好良かったです。忍者みたいで、血が騒ぎました」
我ながら、拙い感想だと思う。
けれど西は、不安げに、真剣に耳を傾けてくれた。
「これだけ強いのなら、優勝も夢じゃないと。素人ながら、思いました」
西が、小さく頷く。空田も、一緒になって首を縦に振るう。
――言おう。いま一番、言いたいことを。
「知波単戦車道って、最高ですね」
「え?」
「こんなにも強くて、こんなにも優しいんです。……僕は、知波単戦車道のことが大好きになりました」
言えた。
ここまで生きてこれて良かったと、そんなことすら思う。西絹代の何もかもを愛せて、心の底から嬉しく思う。
西が、不安そうに表情を浮かせる。しばらくはそのままで、そっと両目をつむって、ほんの小さく、「そうか」と口にして、
「――そうか! そうか、そうか! 好きになってくれて、本当にありがとうッ!」
世界中の喜びをかき集めたように、精一杯に笑ってくれた。
ほんとうにこの人は、このひとは、知波単戦車道のことを、
「西先輩」
「何だ?」
「僕、西先輩のことがもっと好きになりました。……本当に愛しているんですね、知波単戦車道のことを」
「――うん!」
その返事を聞けて、空田は心の中で断言する。
だから、知波単戦車道は強い。
「……僕に出来ることがあれば、いくらでも言ってください。部外者ですけど、ね」
「いや、いいんだ。その言葉だけで、十分だ」
納得するように、笑って頷いてみせる。福田も土井も、見守るように微笑んでくれていた。
どこかわだかまりが解けたような、悩みが消え失せたような、実に清々しい空気が場に吹き込んできて、
鐘の音が鳴った。
知波単学園生徒一同が、一斉に振り返る。戦車喫茶の出入り口から、若い女性客が普通に出てきた。
ちらりと視線が合うが、何事も無かったかのように口笛を合唱する。空田が一番の下手糞だったが、この際気にしてもいられない。
――健闘の末に、女性客とすれ違うことが出来た。何だか大恥をかいた気がして、盛大にため息をつく。
「……さて」
わざとらしくせき込み、
「そろそろ、帰りましょうか」
間。
「……帰り、ません?」
えと。西の、ささやかな小声。
「空田、君」
「あ、はい」
申し訳なさそうに、西が斜め下に視線を逸らす。この時は、西の言動が予想できなくて、
「その……」
西の視線が、さりげなく戦車喫茶の方へ。
この時になって、西の望みが予測可能となった。
「あ、ああ、なんてことでしょう」
「え?」
土井と同じく、ひどい棒読みが出てしまった。
まあいい、このまま突っ走れ。己が喉を蹴っ飛ばす。
「なんだかお腹が空いてきました、こんな時間ですからね。……あ、そうだ。ちょうどいいので、ここで腹ごしらえをしましょう」
間髪入れず、
「賛成であります!」
「うん、そうしよう」
福田と土井が、はっきりと賛同する。
望みが合致したからだろう。西が、分かりやすく笑顔になってくれて、
「……うん、良い案だ。行こう!」
「はい。試合でお疲れでしょうし、甘味をとって安らいでください」
言えた。心の中で、「っしゃあ!」と叫んだ。
西の為に、こうして提案したのも嘘ではない。ただ、チョコレートマウスケーキを食べてみたいという好奇心も少しは。だからこそ、躊躇なく口に出来たのだろう。
己が欲望も、たまにはマシに動いてくれるらしい。
「じゃ、行きましょう」
「ああ。……空田君」
「あ、はい?」
本当に何気なく、身構えもせず、西の言葉を待ってみせて、
「――ありがとう」
その一撃に、空田の意識が動かなくなって、
「空田君」
空田の何もかもが、西のものになる。
――西が、手を繋いでくれたから。
↓
「何名様ですか?」 土井が間髪入れずに「二名で」。
それを耳にした瞬間、己が口から「へ」が出たのをよく覚えている。気が利く店員から、快く「かしこまりました」と言われたのも記憶している。
土井と福田は、そそくさと相席へ。笑顔のままの店員が、
「お二人ですね?」
誤解、されても仕方がないと思った。
だって、西と自分の手は、繋がったままだったから。
――そんないきさつがあって、西とは店内でお見合い中である。
もちろん目なんて合わせられない。覗おうにも西と視界がぶつかってしまい、そそくさとテーブルの上へ退避してしまう。
えと、あの、その。
なんともいえないやりとりが続く。
気を利かせてくれたのか。助けて。
顔どころか、感情まで真っ赤に染まっていく。二人きりなんて、釣りではよくあったことなのに。なんでだろうと思うが、ここが喫茶店だから、真正面から向き合っているから、西が「意識」してくれているからかもしれない。
いつまでも鈍感ではいられない。こういう変化ぐらいは、一丁前にわかっているつもりだ。
だから、男の子として話題を切り出さなくちゃいけないんだろう。
両肩で息をして、心の中で気合を入れて、衣嚢を軽く握りしめて、
「西せんぱ、」
「ご注文のチョコレートマウスケーキ、お持ちしました」
当店のおすすめが運ばれてきたことに、今更気づいた。トレーの上にある、「それ」を目にした瞬間、最初に出た言葉は、
「でかい」
「でかい」
チョコレートマウスケーキ入りの皿が、ごとりと置かれる。かちゃん、ではなく、ごとり、だ。
この時点で、超重戦車の風格を感じざるを得ない。
「すごい」
「すごい」
西の目は、既にお星様だ。空田も、男の子回路がばちばち唸っている。
チョコレートマウスケーキとは、まず無慈悲なまでに大きい。人の顔サイズくらいはあるから、食えば一発で満腹になれる。
その上で、部品をモチーフにしたデザートやらホイップクリームやらが、暴力的な数をして乗っかっているのだ。一つ一つは小さいそれだが、糖分の力が込められているのを忘れてはいけない。おまけに、砲身イメージのぶっといチョコスティックつき。
西とは一緒になって、あらゆる角度から偵察してみたが――駄目だった。どんな観点から見ても、でかかった。
ため息をつく、嬉しそうに。
だって、子供の頃からの夢である、「お菓子食べ放題」が叶うのだから。
「それと、こちらはサービスになります」
店員が、にっこりと笑う。
大きなコップが、ごとりと降臨する。
一本だけの、はあとのストローが差し込まれる。
召し上がれと、オレンジジュースが日光に射される。
店員が、にこりと立ち去って行く。
間。
「いたーだきーます」
空田と西が手を合わせ、早速とばかりにナイフでケーキを切り裂く――が、分厚いせいで、ずいぶんと力まなければならない。
逆に興奮してきた。西も、おっかなびっくりな手つきでケーキと戦っている。
「っと。では」
同時に、チョコレートマウスケーキを口に入れる。
瞬間、チョコが舌の上で溶け出し、容赦のない甘みが体全体に染み込んでいく。マウスを構成するスポンジが、質量と甘さをもってして、食欲を根こそぎ誘拐する。次は次はとチョコ ホイップクリームを飲み込んでみれば、暴力的な甘さが喉にはりついて離れない。
結論。
「あまい」
「あまい」
二人揃って、当然の感想が漏れる。これを機に、西のナイフが、空田のフォークが止まらなくなる。
スイーツの魔力とは凄いもので、気分までもが上々に明るくなっていく。甘いからだろう。
「――西先輩」
「うん?」
「本当に、お疲れ様でした」
西が、うんと頷いて、
「空田君こそ、これからも頑張って欲しい。君の夢が叶うことを、心より祈っている」
「はい。壁は、高いですけどね」
「大丈夫。私も、聖グロという目標を乗り越えられたんだ。だからきっと、うまくいく」
「ありがとうございます」
戦車喫茶だからか、目に見える客のほとんどが女性だ。耳を傾けなくとも、映画の話がよく聞こえてくる。食器の鳴る音が、心地よく耳に入ってくる。お悩み恋愛談義が、空田の興味を僅かに引く。来客を知らせるベルが鳴り響き、「ここが戦車喫茶ですわね」の一声。
「なあ」
「はい?」
「もし、もしもだが、もしもだぞ?」
「はい」
この時になって、
西は、少しだけ躊躇って、
「――君の夢が叶わなかったら、私は、君の隣にいてはいけないのかな」
――。
それを聞いた瞬間、答えなんてすぐに決まった。
「いえ。一緒に、いてください」
正直に、気持ちを返答した。男の意地に付き合って欲しいとか、そんなことをほざいたくせに。
けれど、そう言えて良かったと思う。西が、胸をなでおろしてくれたから。
「空田君」
「はい」
ケーキの一切れを、フォークで刺して、
「さあ。これを食べて、燃料を補給してくれ」
「――はい」
嬉し恥ずかしい気持ちを抱えながら、四度目のはいあーんを味わう。
我ながら、辻褄の合わないやりとりをしていると思う。未だ夢を掴んでいないというのに、半ば結論めいた告白をしてしまった。
けれど。ケーキを噛み締めながら、西の笑顔を目にしながら、「ああ」と納得する。
恋愛とは、大なり小なりこんがらがってしまうものだ。一生ものの感情だからこそ、ちょっとやそっとの矛盾なんて、必然的に犯してしまうのだと思う。
好きという感情は、理論の繋がりなんて、いとも簡単にほっぽり出せてしまうものだ。
だから、これでいい。西絹代が喜んでくれるのなら。
――そうして何度か、ケーキを熱心に味わっていくうちに、
「空田君」
「はい」
ケーキをごくりと飲み込む。
「今週末は、予定は空いているかな? 君と、釣りをしようと思っているんだが」
「大丈夫ですよ。週末は、いつも暇していますから」
「そうか! あ、でも、無理なら無理と言っても良いからな?」
「とんでもない」
ケーキをナイフで切断して、
「西先輩と釣りをするためなら、いくらでも時間を作ります」
フォークに刺したケーキを、西めがけそっと差し出す。これだけ頑張った西には、癒しがもたらされなければならない。
「……そうか」
西が、空田のチョコレートマウスケーキを口にする。眉をハの字に曲げながら、西は何度も何度もケーキを噛んでいって、
「――よかった」
こちらこそ。同意するように、頷いてみせた。
空田がうまいうまいと食べ、西があまいあまいと味わって、時にはケーキを差し出してみれば、いつの間にやらチョコレートマウスケーキが消えてなくなっていた。
ああうまかったと、腹をさする。体全体に糖分が行き渡っているのか、やけに意識が重たい。しばらくは、お菓子は食えないと思う。
「はー……何か、飲みたいな」
「そうですねえ。そういやお冷、出されませんでしたよね」
「そうだなあ」
「なんででしょうねえ」
西と空田が、同時に「それ」を見る。
チョコレートマウスケーキ亡き今、意識はどうしても、絶賛放置中のカップルジュースに傾けられてしまう。
はあと型のストローを見て、どきりとする。西をちらりと見て、ごくりとする。これどうすればいいんだよ、「先輩」である福田と土井はどうやって対処を――当然とばかりに、幸せそうな顔でカップルジュースを堪能しあっていた。
だろうなと、現実を受け止める。さすがだなと、敗北感を抱く。
「――あ、あの」
「あ、は、はい……」
流石の西も、口元が「~」の字に歪まざるを得ない。自分だって、どんな間抜け面をお披露目していることやら。
間が生じる、沈黙が訪れる、気まずさにも似た気分を覚える、西がちらりちらりと目を向けてくる、ここで男気が降って湧いてきた。
「西先輩」
「あ、はい!」
思わず声が出てしまったらしい。西が「す、すみません」と静かに謝罪する。
「えと……嫌でなければ、二人で飲みませんか?」
「あ、よろこんで」
間。
「あ、本当に、いいんですね?」
「う、うん」
「僕なんかで、いいんですね?」
「なんかじゃない。君は空田君だ」
「すみません。……じゃあ、もったいないですし、飲みましょう」
「そ、そうだな。無料で提供してくれたんだから、飲もう飲もう」
はあと型のストローに口をつけ、極めて微弱にジュースを吸い込んでいく。なるだけ、西の方にバランスが偏るように。
ちらりと西を見る、視線が被る。西の方も心なしか、弱々しくオレンジジュースを味わっているように見えた。
――こんなところまで、息ぴったりでなくてもなあ。
けれども、力は決して込めない。中身が空になるまでは、この時間は終わらないから。嬉しくて恥ずかしい気持ちが、ずっと残ったままになるから。
終始無言のまま、けれども目を合わせたり合わせなかったりしながら、戦車喫茶のひと時が過ぎていく。
↓
今日は楽しかったです、本当にお疲れ様でした。
そうして、西と福田とは離れ離れになっていく。最後まで手を振ったまま、出来る限りいい顔を浮かばせて。
――さて、知波単学園艦へ帰ろう。帰りの連絡船も確保してある。
港へ向かいながら、何となく夕暮れ模様の空を眺める。暑さの中の風を浴びながら、もう夏か、と思う。
陸上競技大会も、だいぶ近づいてきた。
「空田」
「うん?」
「今日、どうだった?」
「お前と同じ気持ち、と言っておく」
「そっか」
港だからか、波の音色がよく聞こえてくる。知波単学園の生徒らしき男女が、戦車道の話題で持ち切りとなっていた。
「土井」
「うん?」
改めて、誓う。
胸ポケットを、軽く握りしめながらで、
「僕は、絶対に一番を取るよ」
連絡船から、間もなく出港の放送が流れる。万が一乗り遅れてはいけないと、早歩きし始める。
――そんな中でも、土井は、のんびりとした顔つきで、
「今の空田なら、なれるよ」
頷いて、応じてみせた。
↓
知波単戦車道が所有する連絡船へ乗り込み、まずは集合を命じる。生真面目な表情をした福田が、細見が、玉田が、池田が、履修者達が、西の前で整列した。
「みんな。――今日は本当に、よくやってくれた。お前たちは、私の誇りだ」
「ありがとうございます!」
はっきりと、上機嫌を孕ませた返事が、船首の上で響き渡る。
「あの、強豪聖グロリアーナ女学院に、私たちは自力で勝つことが出来た。これは大いなる前進といっても、過言ではない」
「はい!」
「この調子でいけば黒森峰女学園も、そして優勝をも勝ち取れるだろう」
「その通りであります!」
「だからこそ、慢心を恐れるように。来週も、引き続きこの調子で頼む」
「はいッ!」
西の言葉に、誰もが強く応答する。この場に居る誰もが、油断を晒さない無表情で整っていた。
――西が無言になる。それに従うように、履修者達も沈黙した。
一人ひとりの顔を、西はじっと目にする。福田、よくぞ敵を引き付けてくれた。細見、お前の一撃必殺は実に恐ろしいな。玉田、でかしたぞ。池田、見事な相打ちだった――心の中で、絶対に称賛した。
カモメの鳴き声。西の吐息。
「よし、堅苦しい意思表示はここまで。今から、パーッとやろう!」
「待ってました!」
「流石西隊長! 格好良いであります!」
「銀しゃり! 肉! 味噌汁でありますな!」
「そうだ! いくらでも食べていいぞ!」
やった――――ッ!!!
夏の夕暮れの下で、知波単学園戦車道の雄たけびが反響する。連絡船の食堂内には、今か今かと夕飯が湯気を立てているのだ。
「じゃあ西隊長、さっそく、」
「あ、ちょっと待った」
既に背を向けていた履修者が、「はい?」と首を向ける。突撃しようとしていた細見が、玉田が、「何でしょう!」と直立する。――福田は、西のことを見守ったままだ。
「これは、その、個人的な話になるんだがな」
「はい」
履修者達が、再び整列し始める。これから何を言うのだろうと、視線が聞いてきた。
西はといえば、口に指を当てて、「えと」と「あの」と言葉を区切らせる。たぶん、顔は既に真っ赤っかだ。
――けれど、これだけは言わなくてはいけない。
ポケットに手を差し込んで、指先から柔らかい感触が伝わってくる。それをきゅっと握って、勇気を「貸してもらって」、両肩で深々と呼吸して、
「――今まで応援してくれて、本当にありがとう。今日はとても、楽しかった」
よく、笑えた。
西の表情が、意志が、ちゃんと伝わったのだろう。最初こそ、履修者らしい無表情が目立ったが――皆が皆、思い思いの笑顔を振りまき始める。深くは聞かず、「よかったでありますね」と細見が口にしてくれた。
「西隊長」
「うん?」
福田が、一歩前に出る。愛をよく知り、愛を覚えて欲しいと願ってくれた、次期隊長候補。
そんな人が、わたしに対して、「いつも通り」の笑顔を見せてくれながら、
「幸せに、なってくださいね」
わたしの口元が、自然と緩やかに曲がる。目が、余韻深く閉じていく。手のひらを握り締めて、はあと型のストローを分け合ったあの人のことを想いながら、わたしは言った。
「うん。なる」
―――
練習試合が終わって、憂鬱な月曜日が始まる。
ほどほどに勉強をやっつけて、休み時間中には単車関連の本に目を通しておく。昼になれば食堂へ走っていて、当たり前のように福田と土井と、そして西と昼食を楽しんだ。
そうして放課後になれば、待ちに待った陸上部が始まる。目指すは一番なのだが、壁となるは同級生の杉下だ。
こいつは運動神経抜群、性格も良し、容姿も悪くはない、おまけに菊池という彼女持ちと、あらゆる面で不利だった。最初の頃は、「敵わないなあと」思っていたのだが――西絹代という女性と出会えたことで、明確な対抗心が一気に芽生えたのだ。
だから、月曜日で負けても、火曜日で敗退しても、水曜日で敵わなくとも、木曜日で二番になろうとも、空田のモチベーションは決して折れなかった。西に対するかけがえの無い恋心が、空田のことを何度も何度も蘇らせてくれたのだ。
そして、何よりも、
――お、西先輩だ。また見に来てくれてる。
――これは、気合を入れないと。
――空田。お前最近、西先輩と仲が良いらしいじゃないか。羨ましいぜったく。
――うるせ、お前は菊池と幸せになっとれ。
西が、いつも見守ってくれる。だから空田は、夢に向かって突撃し続けられる。
↓
金曜日が訪れる。西にとっての金曜日とは、待ちに待った休日前であり、空田との釣りが控えはじめる瞬間でもある。
勉強して、学友とお喋りをして、空田と福田と土井とで昼食をとって、時たま単車関連の質問をされて、「この人、本気なんだ」と嬉しくなって、残りの五時間目六時間目があっという間に過ぎ去っていって、
放課後が、あっさりとやってきた。その時の西はといえば、掃除当番をしっかりとこなしてみせて、気になってはいた壁の汚れを根気よくやっつけ始める。正攻法を駆使して、おばあちゃんの知恵袋をも拝借して、遂にはしつこい汚れを攻略してみせた。
実に清々した西は、学生鞄を手にとって、早歩きで玄関にまで駆けて、金曜日の放課後世界へと飛び立つ。
そして、運動場を目の当たりにした。
陸上部は、今日も元気一杯に活動中だ。長距離選手が、ペース配分を気にしながらでグラウンドを数週している。その一方で、四人の短距離走選手が腰を屈め、身構え、銃声とともに一気に地面をけ飛ばす。
スタートからゴールまで、実にあっという間だった。何となく、戦車よりも速く走れるのでは、とすら思う。
一着を掴み取った部員が、マネージャーの菊池へ駆け寄る。「時間は?」「うーん。前より、少し落ちてる」「そっかー」。
それでも、部員のモチベーションが下がったりはしない。ストレッチをこなしてみせて、次の機会を待ち構えていた。
次は、空田君と杉下君か。
聞いた話では、杉下は二年の中で、それどころか陸上部一番の俊足持ちらしい。三年からもよくよく期待されていて、レギュラーも確定されているとか。
これまでに何度か、杉下の走りっぷりを目にしたが――見事な突撃だったと、言わざるを得ない。
始めて目の当たりにした時は、「これは強いぞ、空田君」と思ったものだ。幾度となく空田を追い越し、誰よりも速く一着を取る杉下は、間違いなく隊長格だった。
けれど、
空田は、スタート地点で身を屈める。隣に杉下が居ようとも、決してゴールから目を離したりはしない。
銃声を待ち望み、自分のことを見向きもしない空田を見て、心の底から思う。
彼には、栄光を掴んで欲しかった。
挫折から立ち上がった彼だからこそ、報われてほしかった。
菊池が、銃を真上に掲げる。走者の空気が、ばちりと変わる。
銃声。
空田が飛ぶ、同時に杉下も弾ける。その表情は極めて深刻で、一生懸命で、走ることしか眼中になくて。
釣りをしている彼は、どこにもいなかった。
心の底から、頼むと願って頑張れと励ます。四人で駆けているのだが、空田はひとり、ふたりと追い抜いていく。心の中で、さすがだと思う。
しかし、依然として杉下がトップを食っている。文句なしに足が速くて、姿勢だって完璧に整っている。出力が落ちる気配も、まるで感じられない。
また、空田が負けるのだろうか。挫折から立ち直ろうとも、だめなものはだめなのだろうか。
――分かってはいる。
戦車道履修者だからこそ、皆が皆、等しく努力していることを。
戦車道履修者だからこそ、「選ばれる」選手がいることを。
戦車道履修者だからこそ、「報われない」選手がいることも。
拳を作る。
戦車道履修者だからこそ、戦車道と陸上部には、不可侵の壁があることも。
けれど、
ここまで来て、追いつけない空田を見て、
西の、女の子の心が立ち上がって、
あした、いい気分で釣り合いたいという夢が溢れかえってきて、
ポケットから、ライダーグローブを引っ張り出す。それを履いて、口を両手で添えていて、
「空田君ッ! がんばれっ、突撃を見せてくれ――――ッ!」
それがきっかけ、だったのだと思う。
空田は、杉下の俊足と互角に並び始めて、その瞬間が永くも一瞬に終わって、遂に――
はあ――。
杉下を追い抜いた。
一着、だった。
あれだけの大声を出したからだろう。西のことを注視する、陸上部員が続出した。なんだなんだと、帰路につく生徒たちからよく見られた。
それを分かっているはずなのに、熱だらけの西は、「いまはいい」とすら思う。
やった。
報われたんだ。
夢の一つを、掴めたんだ。
戦車道にまぐれなし、陸上部もそうだ。戦車道履修者だからこそ、よく分かる。
――わたしの空田君は、この瞬間から、知波単学園で一番速い男になった。
何の偶然とは言わせない、万が一なんて否定してやる。空田は確かに、履修者のように、たくさんの修練を積み重ねていった。結果が出るまで待ち続けて待ち続けて、ようやく力が芽生えたに過ぎない。
保証する。
だって、わたしと同じだから。
本当にやったんだな。
一着になろうとも、空田はあくまでも冷静に、菊池へタイムを聞きに行く。そうして菊池と接触したのち、運動場から「すごいじゃん、記録更新ッ!」の叫びがよく伝わってきた。
それを聞けたからこそ、体全体から力が抜けていく。
段々と冷静さが生じてきて、いち履修者に逆戻りしていって、生徒に、部員に注目されている現実を改めて把握して、
あ。とんでもないことを、してしまった。
そう、強く認識した。
瞬間、恥が激流のように流れ込んでくる。水を差してしまったのではと、意識そのものが萎縮していく。
「す、すみませんでした……」
運動場めがけ、深々と頭を下げる。
誰も咎めない中、西は、逃げるようにしてその場から立ち去ろうと、
「西先輩!」
背中から、声をかけられた。
おそるおそる振り返る。怒ってはいないだろうかと、不安が吹き出てくる。
――そして、履修者根性を以ってして、声の主を見た。
「西先輩」
間違いなく笑っている、空田がここにいた。
「空田君。その、勝手なことを」
空田が、首を横に振るう。
「西先輩。――応援してくださって、本当にありがとうございました」
空田が、一礼してくれた。
――人がいるのに、見られているのに。
「空田君」
「はい」
「……その、勝負の邪魔をしてしまって、」
「西先輩」
珍しく、空田が口を挟んだ。
挟んで、くれた。
「スポーツというものは、応援されるのが当たり前ですよ」
縋るように、西は頷いた。
そんな反応で良かったのか、空田がにこりと微笑み、
「本当に、嬉しかったです。これからもよろしく、お願いします」
手を、差し出してくれた。
この瞬間、ありとあらゆる感情が、震えるため息としてこぼれ落ちる。
何を払ってもいい、どんな目に遭っても構わない。何としてでも、この手を掴み取りたかった。
――望み通りに、手と手が一つになる。ライダーグローブをつけたままだったが、手が熱くなっていくのを確かに感じた。
それだけでは終わらない。空田の左手までもが、西の手を包み込んでくれた。
「――空田、くん」
「はい」
「……おめでとう!」
「はい!」
これだけ派手にやらかしたというのに、色気がかった野次がまるで飛んでこない。
ある生徒は、何でもなかったかのように立ち去ってくれて、ある生徒は、「羨ましいぞったくー」と苦笑してそれきり。運動場も、見て見ぬふりをしてくれている。
ほんとう、知波単学園の生徒は生真面目なんだなあと思う。だから、今日も平和なのだろうなあと実感する。
「では、もう少しだけ走っていきますね」
「ああ。無理はしないで、な?」
小さく手を振って、空田の背中を見送っていく。
ひと息。
空気を読んでくれたのだろう。男子が、女子が、男女が、西とはすれ違って行く。ある女子と目があったが、「よかったですね」とだけ。
――まっさらにしてくれたことに、西は心の中で感謝する。
見上げる。知波単学園が映す、どこまでも赤い夕暮れを視界に入れる。
余韻にひたりきって、数分が経過したと思う。それは気のせいで、数秒程度しか経っていないのかも。あまりに熱を帯びているせいか、そんなことすらも分からなくなってしまっている。
学園前の雑談に混じって、銃声が鳴り響く。ちらりと見てみれば、空田とは違う四人の短距離走選手が、全力を担いで両足を飛ばしていた。
みんなすごいな、と思う。
あの中で、空田が一番なんだなと、思う。
手を見る。ライダーグローブごしからの握手だったが、けして間違った選択ではなかった。
握りしめる、「はあ」と息が漏れる。
帰ろう。
一歩、二歩、帰路についていって、そっと胸に手を添える。
ごめん、空田君。君の
―――
夜になった。
夕飯をすませて、釣り用具もまとめて、後は明日の為に眠るだけ。だのに西は、黒電話の前に突っ立ったまま、それきりだ。
先ほどの出来事が忘れられないのか、まるで眠れやしない。肉体から血液まで、よく温まっているのを実感する。遠足を待ち望む小学生よろしく、明日のことで意識がいっぱいだった。
釣りは楽しい。釣れなくとも、川の音が心をのんびりとさせてくれる。何事も無い間があるからこそ、釣れた時はついつい大袈裟に喜べてしまう。たまたま大物が釣れた日には、生きてて良かったとすら思ってしまう。
今となっては、釣りも人生の一部だ。だからこそ、楽しみ過ぎて眠れなくて、
――違う、自分の心に嘘をつくな。
空田と会えるから、一週間ぶりに二人きりになれるから、目が冴え切ってしまっているんじゃないか。
それだけじゃない。
次に会った時は、たぶん、「好き」と言ってしまうだろう。こればかりはもう、抗いようがない。
男の意地に付き合うと言ったくせに、いつまでも待つと誓ったはずなのに――服の上から、胸をぎゅっと握りしめる。そんなことをしても、心臓の動きがはやるばかりだ。比喩でも何でもなく、これ以上我慢してしまったら、爆発すらしてしまうかもしれない。
空田の意志を尊重しているからこそ、どうしよう、と思う。本心本音をぶつけても良いのだろうかと、迷う。
自分一人で考えたところで、まるで答えは出なかった。己が感情を見つめ直そうとするからこそ、かえって想いが膨らんでいくばかりだった。
もう、だめだな、これは。
口にすべき言葉も、決まってはいる。ただ、空田との誓いを破ってしまうのが恐ろしい。
――後押しが、欲しかった。感情のままに従うことが正しいと、そう言ってくれる第三者を強く望んでいた。
だから西は、黒電話の受話器を重く抜いた。人差し指でダイヤルを回していって、「番号も覚えたな」となんとなく思って、受話器から一度目の呼び出し音が、二度目が、三度目が、
『はい。ダージリンです』
「あ、もしもし。西絹代です」
『まあ、今晩は。――この前の試合は、お見事でしたわ』
「いえ。これも、ダージリン殿のご指導あっての結果です」
『私はただ、卓上の理論を口にしただけ。実戦を以てして、勝利を掴んだのはあなたよ』
「ありがとうございます」
本土へ向けて、西が頭を下げる。
ここに至るまで、ダージリンは沢山のことを教えてくれた。まずは基本的な戦術を、そして「やり返し方」を色濃くじっくり拝聴させてもらったものだ。
ダージリンに言われたことは、全て実践してみせた。時には大成功を納め、時には「合いませんでした」とはっきり意見して、それでもダージリンは「流石、西さん」と褒めてくれた。
それだけではなく、ダージリンはありとあらゆる格言を教えてくれた。格言の力とは凄いもので、前向きになろうとも、うつむいてしまっても、言葉一つで西のすべてを「肯定」し、心から納得させてしまう。
西が上機嫌ならば、その後押しをする格言が。西が思い悩んでいたら、その感受性を称える格言が、ダージリンの口からすぐにでも出てくるのだ。
こうして色々なことを教えてくれたダージリンだが、はっきりと分かったことがある。
この人は、
「――ダージリン殿」
『はい?』
「……その、えと……」
少しだけ躊躇う。舌が躓いたが、明日に近づく時計の針を見て――ぐっと、握りこぶしを作る。
「実は、私は、」
『はい』
「……好きな、人が、できました」
『――まあ』
驚かれたりはした。けれど、すぐに受け入れられたらしい。
ダージリンが『まあまあまあ』と喜んで、
『もしかして、例の『励ましたい彼』のこと?』
「はい。あなたから授かった格言のお陰で、彼は立ち直れました。その節は、本当にありがとうございます」
電話越しから、頭を下げる。ダージリンは、ただ、『よかった』とだけ。
『……今の関係は?』
「両想い」
『まあ!』
ダージリンが、それはもう嬉しそうな声できゃあきゃあと盛り上がっている。嬉しいやら恥ずかしいやら、西が「うう」と唸る。
『あ、これは失礼……それで、お付き合いを?』
「いえ。まだ、こちらから告白はしていません」
『なるほど。殿方から、想いは告げられたと』
「はい。……ただ、その人は、『あなたと並び立てるような男になれるまで、待っていてください』と」
『ふむ――確かに、西さんは知波単学園の象徴ですものね』
「大袈裟ですよ」
『でも、彼はそう見てくれていると』
はい。
『なるほど、これは善き両想いですわね。……それで、具体的なゴールなどはあるのでしょうか?』
「はい。彼は陸上部員で、大会で優勝してみせると誓ってくれました」
『なるほど。知波単戦車道も、優勝候補の一つでしょうしね』
「またまた」
西が苦笑して、ダージリンが「ふふふ」と笑う。ダージリンは知恵者だが、「こういう時」に嘘はつかない人だ。
『その人がなぜ、そんな誓いを立てたのか……よく分かりますわ。あなたはとても優れた人間な上に、強い戦車隊を率いている。そんな女性とは、ただでは交際できないと自覚したのでしょう』
事情をすぐに把握してくれた。これが聖グロの戦車隊隊長なんだなあと、つくづく実感する。
『弁えを、自覚できる人のようね。……いい人と、めぐり合えたじゃない』
「はい」
きっぱりと、返事をする。
『それで、陸上競技大会まで『待つ』と?』
「最初は、そのつもりでした」
『最初は?』
音を立てて、呼吸する。
『想いが、抑えきれそうにないからです』
「まあ」
受話器のコードを、人差し指にからめる。
「彼が夢を掴むまで、私は待つと。そう誓ったはずなのに」
少しだけうつむいて、
「もう、我慢できそうにありません。明日、彼と出会ってしまったら、私は……」
ため息。
「彼は、努力が出来る立派な男です。そんな彼に私は惹かれ、そんな彼に他の女性が近づいてきたらと思うと」
『分かりますわ、そのお気持ち』
「素直に告白をする、これは揺るぎません。――ですがそれでは、彼との約束を、誓いを破ってしまう」
『……生真面目ですわね。このような人と出会えて、殿方も幸せでしょう』
うつむく。
「……自分の感情を、優先にしてしまうなんて。私は、弱いですね」
『違う』
疾かった。
『あなたは、その人の事が好きだからこそ、誓いに賛同したのでしょう?』
「はい」
『彼の夢が叶って欲しいからこそ、あなたは『待つ』ことを選んだのでしょう?』
「はい」
『けれど。想いがそうさせてはくれない、と』
「――はい」
『なら予定を変えて、感情のままに告白をしても良いじゃない』
「そう、でしょうか」
か細い声が漏れた。
『恋愛だもの、『それくらい』は許されるわ。相手を傷つけるわけじゃあるまいし、思いのままに動いてもバチは当たらなくてよ」
「そういう、ものでしょうか」
口では疑問を、心の中で「そうなんだ」と安堵する。
『こんな格言は知ってる?』
「え」
『――恋の始まりは、晴れたり曇ったりの、4月のようだ。……イングランドの劇作家、シェイクスピアの言葉よ」
「つ、つまり、」
『ええ。恋とはどう転ぶか分からない、そしてそれが許される。そういうことよ』
ダージリンから肯定された瞬間、西の口から空気が漏れる。痛かったはずの胸が、段々と沈着化していく。
恋とは昔から、予測不可能の厄介者であったらしい。それを知れただけでも、肩の荷が降りていった気がした。
『西さん』
「はい」
『――必ず、想いを伝えなさい。後悔したくなければ、前進したいのであれば』
その言葉を聞いた瞬間、「あ」と過去を思い出す。
恋愛の先輩たる福田も、同じようなことを言っていた。それに気づいた時、「そういうものなんだな」と、心に整理がついた。
「……します」
『何を?』
「告白を、します。彼に」
「そう」
限りなく穏やかな、ダージリンの「そう」。
ダージリンも、福田も、自分の決意のことを、正しいと認めてくれている。だからこそ、何としてでも本心を言わなければならない。
言わせて、欲しかった。
『西さん』
「はい」
『――幸せに、なってね』
色々なことを教えてくれたダージリンだが、はっきりと分かったことがある。
この人は、とても優しいひとだ。
「はい。……それにしても」
『なんです?』
「恋に対しても、淀みなく意見を申してくれましたね。まるで、経験者のようでありますが……まさか?」
ダージリンが、不敵そうに微笑んで、
『ご想像に、お任せしますわ』
この後は、他愛の無い雑談が交わされたに過ぎない。明日やるべきことは、ぜんぶ心に刻み込んだ。
それからしばらく経って、受話器を黒電話の上に置く。部屋の中が静まり返って、外からすずむしの鳴き声が透き通ってきた。
後は眠るだけ。寝巻きに着替え、電気を消して、布団の中に入り込んで、目をつむって、最後に思う。
――空田君を幸せにするのは、私だ。