今日も良い天気になりそうだと、眩しい日光を手で遮り回廊を音を立てずに歩く。まだ日が昇りだしたばかりだが、城主や客人以外は皆働きはじめ各々の仕事をこなしていた。楓も例に洩れず何時ものように冷水の入った桶と手ぬぐいを片手に目的の部屋へと急いでいた。
「北の方様」
部屋の外から小さく声をかけた。
常ならこの声量で返事がかえってくるのだが、今はない。昨晩重々と言い聞かせておいたのだがそれが無駄に終った事を確認して、小さく謝罪を述べてから襖を開けて部屋へと入った。
当初は泣きそうになりながら部屋の外から声をかけ続け、何度も他の者に手助けをしてもらい起こしていたのだが、何年も続くと神経も太くなるもので堂々と部屋の中に入り無理矢理起こすというのも日常になっていった。
桶と手ぬぐいを几帳の傍に置きその足で部屋の中央に引かれている褥へと向かった。その中でぬくぬくと眠っている者も楓が部屋の中にまで入ってきているのに気付いているのだが、まだ起きたくないとばかりに掛布をぎゅっと握り締める。まだ寝ていても全く問題のない人物なのだが、昨晩その当人から必ず起こして欲しいと頼み込まれた身としては全力を持って起こすしかない。
「おねね様ご起床のお時間で御座います」
がばりと布を剥ぎたい所だが、ぐっと我慢して掛布の端を少しだけつまみ上げる。すると中からくぐもった声であと四半時・・・と返事がやっと帰ってきた。
「無理で御座いますおねね様。その時間も本日はございません」
「――じゃあお願いだよ。あの子達を足止めしておいてくれないかい」
「それこそ四半時も、というのは無理でございますれば」
あの方々を四半時も相手にするのは非常に辛いものがあるので、それだけは全力で遠慮したいとどうにかこうにか宥めすかして、おねね――この大阪城の主の1人を起こし準備をさせた。
「待たせたね!元気だったかい皆?」
何時ものように際どい忍び姿ではなく、城主に相応しい打ち掛け姿のねねに秀吉は満足そうに顔をほころばせた。ねねとて打ち掛け姿は嫌いではないが、元は農民の身で華美な格好をするのがこそばゆく、また忍び装束の方が動きやすいという考えから城内でもその姿を選ぶ事が多かった。
だがここ数年考えに変化が起こったのかこういった華美な格好もするのが当たり前のようになり、その立役者である楓は秀吉直々に礼を言われてしまい仰天してしまう事もあった。
「ほぼ時間通りか。やるな、楓」
「前は四半時ならいざ知らず、一刻待たされるのもふつーだったしな」
「お褒めに預かり恐悦至極に存じます」
見知った清正と正則に声をかけられ、それに小さく応えると二人は楓の偉業を讃えた。幼い頃からねねの行動を見知っている者としては、ここ数年の激変は手放しに喜べるもので讃えるのは当たり前の事だった。
その会話を横で聞いていた子飼い仲間も小さく頷いているので余程酷かったのかと生ぬるい目でねねを見てしまった。
現在大阪城には城主夫妻とその配下が数人集まっていた。秀吉が関白、実質的な天下人となってまだ日が浅くそれに異を唱えるものも存ずるのでその対策練るために集められた配下は秀吉が全般の信を置くに値するとされた厳選された者達だった。
その中でも加藤清正と福島正則は秀吉とねねの縁戚という事もあり大阪城にもよく上がっていたので、御中臈(おちゅうろう)候補としてねねの傍に付きはじめた頃からの顔見知りで正式に御中臈となった最近ではねね不在の時には文を預かるような関係となっていた。
「楓、楓こっちおいで」
全員に白湯を配り終わりそろそろ退室しようと腰をあげたところ、丁度良くねねに呼ばれそちらを向いた。声のする方をみると秀吉とねねが一緒に座っている所に手招きされている。
これは敵前逃亡するか潔く向かうか。問答無用で前者を選びたいところだが無邪気なねねの笑顔にほだされた形で二人のいる上座に向かった。ただしすぐ傍に行くわけにもいかないので二人分間を置いた形で腰を下ろし頭を下げた。
「お呼びでしょうか」
「もう相変わらず堅苦しい子ねぇ。ほら、顔を上げて」
「――失礼いたします」
私が堅苦しいのではなく、貴方様が気楽なだけですと心の中で小言をいいつつ顔をあげた。よく見ていなかったが、二人の前には一人見慣れぬ青年が顰め顔で座っていた。
「三成なんでそんな顔をしてるんだい」
「そうだぞ三成。なんかあったんか?」
「そうではありません。おねね様もこられた事ですのでいい加減話をはじめませんか」
「まぁ待て待て。久しぶりなんだから皆も積もる話もあるじゃろう。もう少しまっても」
「そうだよ。三成だって久しぶりに来たんだ、もっと話をしようじゃないか。お前ときたら呼んでもすぐに帰ってしまうんだから、ねぇお前様」
「そうじゃぞ」
三成と呼ばれた青年は、頷きあうねねと秀吉をうんざりという体で見ている。いつもの事だからと流せれば気苦労も少ないだろうな、と苦笑しながらその様子をみていると三成と目があった。
「おねね様、俺の事はいいのですがこの者はどうするのですか。呼びつけておいて放っておくのは如何なものかと」
「ああ御免よ。三成はまだ会った事がなかったね。この娘は楓、私の御中臈となったから顔を合わせるようになると思うよ。楓、この子は石田三成、うちの人の子飼いの一人だよ」
「お初にお目にかかります、楓と申します」
楓が三成の方に体を向け頭を下げるとああ、という言葉が降ってきたので顔を上げて三人に向かった。
「そういえば、正則が言っていたおねね様の遅刻癖と正装嫌いを矯正してくれたという女中ですか?」
「なんだい遅刻癖って」
「本当の事でしょうか」
「まぁ反論はできんな。そうだ、この楓がねねのお目付け役兼教師なんだぞ」
「教師?」
「ほら、私着物の重ねとかあんまり覚えてなかったんだけどね・・・この子がきっちりみっちりと教えてくれるから自然と覚えてきちゃって」
「ほぉ」
「それに文字も読めるし書けるし。算術も出来るんだよこの子。凄いだろう」
文字を読むのは一定以上の家の出の者であれば、女子(おなご)でもこなすものは多い。だが、それを今度は書くまで至らしめるのはまた別で、さらに算術にまでなると聞いた事が無い。
珍しく驚いた顔をみせる三成に、ねねはしてやったりという顔を見せて楓を下がらせた。ただ面通しのためだけに呼ばれたのも楓も分かっていたので何も言わずその場から下がった。その姿を自然と目で追っていた三成にねねが声を掛けた。
「大丈夫。あの子は間者じゃないよ」
「そうじゃ。ねねが調べているからな」
「いえ、そういう訳では・・・」
目で追っていたのは珍しさからではなく、疑惑を持っていたからである事を二人に見破られどこか罰が悪そうに視線を戻した。
御台の御中臈というからにはねねから全般の信頼を置かれているはずの人物に疑惑を持った事に気をわるくしたかと思ったが秀吉もねねもその様子はない。
「そりゃ私も最初は疑ったよ。何せあの子を拾ったのは私だからね」
「拾った?」
「そう。なーにも無い山の中で一人倒れてたんだよ。纏う衣はみた事の無いようなものでね。すっごい怪しいなぁと思ったけど女の子じゃないか、流石に山の中に一人で置いとくのは夢見が悪いと思ったし、何かあっても一人で対処できるだろうと思ったのよ」
「おねね様。今後一切拾いものは禁止いたします」
「なんだい、私はそんなに拾いものしてないよ。で、連れて帰って目を覚ましてみるとどうも様子が可笑しくて。――記憶が欠落してたんだよあの子」
「記憶が、欠落?」
「そう。辛うじて自分の名前が楓である事は分かるんだがそれ以外は霞がかったように思い出せないらしんだ。悪いとは思ったけど、薬と術も使って確かめてみてもやっぱり何も憶えてないみたいでね。私が面倒をみる事にしたんだよ」
そうしたら今度は私が面倒を見られるようになったんだけどね、とねねは苦笑しながら白湯を煽った。
普通、正室付の女中ともなれば出自のはっきりした者のみで構成されねねの周りの女中もそういった者達で構成されていたはずだ。そこに混ざった異分子。常であれば排除されるであろう者が女中の中でも最高位の御中臈に数年でなるとは聞いた事がない。
「気付いたと思うけど、あの子の立ち振る舞いは凄く綺麗なんだ。私なんて足元にも及ばない――姫と呼ばれていても可笑しくない位の作法と教養を持っている。けどね、あの子ったら誰よりも世話好きな性格なもんだからいつの間にか女中になって、そうしたら御中臈まで上り詰めちゃったのよ」
不思議だけど可愛い娘みたいな子なのよ、と秀吉とねねは笑う。
特にねねにとって娘のように思える者はいままでいなかったため嬉しさも一入の様で楓の事を話すその目は優しい。ねね自らが危険性がないと判断し、またそういった事に人一倍過敏な清正が気安くしているという事は彼も楓の背後を調べ何事もないと判断したからそう扱っているのだろう。ならば自分は何も言う事はないと三成はいい加減不届き者の対策を練りたいと秀吉にもう一度進言した。
「馬鹿が」
「馬鹿者が」
どちらも馬鹿じゃないのかという合いの手を思わず入れたくなったが、それを堪えて三成と清正の前に白湯を置いた。
奥女中のはずの楓がこの場に居るおかしさにも気づかずに、二人は言い合いを止めようとはしない。何について白熱しているのか聞いてはいないが、会話の断片から察するに・・・先日の戦でねねに助けられた二人が何か贈り物をしたいが、何を贈るかで悩んでいる模様だ。
なぜこの内容でここまで、たとえるならば戦前のような緊張感を持ったような話し合いになるのか。しかもここ大阪城でそんな話し合いをすれば当のねねにもこの話が耳に入ってしまうのではないかと思うが、その辺りは無頓着なのだろう。細やかなのか大雑把なのか男の考えることは分からない、と飲み干されていた湯呑を下げたところで漸く三成が楓が居る事に気づいた。
「奥の楓がなんでここにいる」
「何かあったのか?」
「何もございません。おねね様と懇意にされているお二人が来られたという事で傍付の私が指名されただけの事にございます」
実情は二人の気迫に怯えてた年若い女中に懇願され通りがかった楓にお鉢が回ってきたのだ。見目麗しい者達が多い子飼いの者達が来た場合年若い女中の者達が遣わされるのだが、仲が良いとは言えない三成と清正の二人が揃った時は積極的に行こうとする者がいない。その場合慣れている奥女中の者が時折遣わされるとは聞いていたが本当とは。
「ふん。大方清正の声に怯えたんじゃないか」
「それはお前の冷たい言葉だろう」
その両方だとはいわず本心を隠し曖昧な笑顔で切り抜けると、二人共微妙な顔をして目を逸らした。
「石田様、加藤様お客人が参られました」
「分かった。入れろ」
何故大阪城で二人が顔を合わせたのかと思っていたのだが、誰か客人を待っていたらしい。
それならばそれと入れ違いに退室しようと叩頭したのだが、それを止められてしまった。
「待て。丁度いいお前も居ろ」
「そうだな、楓も居てくれた方が心強い」
珍しく三成と清正の考えが一致したらしく、二人して引きとめられてしまった。目上の者に言われればそれを断るわけにもいかず、この場に留まる事となった。
襖が開かれそこから商人然とした男が数名、その後に大きな荷物を持った者達が十数人入ってきてその場で二人に対して叩頭した。
「この度はわが商家をご利用くださりありがとうございます」
「お前の所は質が良いと聞いたのでな。その話に違わぬものを期待するぞ」
「承知の上でございます。では広げますので少々お待ちくださいませ」
商人の合図と共に使用人達が一斉に運び入れた荷を解き、中から品物を広げだした。ひとつは反物、ひとつは帯、ひとつは玉石とどうみても女人が好みそうなもので例にも漏れず楓もその華美さにおもわず溜息を漏らしてしまった。
「どれがいい」
「この中ですとやはり帯と・・・いえ、打ち掛けと扇でしょうか」
三成に問いかけは流れからして、ねねに献上する物としてどれが相応しいかと問いかけられたのだが、あまりに自然に問われたものでうっかり自分の好みを出してしまいあわてて誤魔化した。それには誤魔化されてくれたようで何も言わず楓の言った二つに絞り見定めているようだ。
「俺に扇は分からんから三成がみてくれ。俺は打ち掛けをみる」
「分かった」
時折両方に呼ばれねねが持っているものと重なっていなか、苦手とする画はないか等問われる事に答えながら楓も近くで鑑賞する事ができた。手の届かないような高価なものを自分で買うとなると二の足を踏むが、見るだけであるなら遠慮せずにしっかりと見る事ができる。
商人はその他にも身の回りを飾る小物等も上等な品を幾つも持ってきていた。
だが、女が使うような物に全く頓着しない二人は、素直に楓の言った商品にのみ目をむけその他には一瞥もくれない。それはそれで勿体無い、と楓が代わりに色々と手にとって見てみる。
いかがでしょうか、と商人に言われても自分では買えそうにない品物ばかりなので当たり障りの無い言葉ばかりを返してみていた。ひとつひとう目を向け、一番端にまで届くとひとつの簪にたどり着いた。赤い玉のついた簪は思い出を刺激される造りをしていた。
昔、貰ったものによく似ている。
「お気に召しましたかな」
「・・・そうですね。とても綺麗」
「珍しい紋様でしょう。奥州の方から取り寄せたものになります」
「奥州、ですか。またとても遠いですね」
「ええ。ですのでこれを取り扱う者はこの辺りではとても少ないと思います」
いけない、と思いながらもそれを手に取り玉に刻まれた文様や、添えられている紐の繊細さを見る度に似ていると確認してしまう。
思い出に縋りたいわけではないが、品が何もないのもとても寂しい。思い切って商人に代金を聞いてみると、やはり通常の簪とは天地程の差があった。けれど今までの蓄えと次に出る給金を全て足せばなんとか買えない金額ではなかった。頭のなかで勘定をしてしまうと、欲しくなるのが人の性。店の場所を聞いて日を改めて購入しに行こうと考えていた矢先傍に三成が座った。
「なんだ、これが欲しいのか?」
「・・・いえ、とても綺麗でしたので思わず手にとってしまいました」
「確かにあまり見ぬ紋様だな。どこのだ?」
「奥州のものになります」
三成の問いかけに商人が答えると珍しそうにその簪を見つめた。
「ほう、奥州とはまた珍しい。だが、お前には聊か色が幼いのではないか?」
「やはりそう思われますか?」
「ああ」
真っ赤な玉のついた簪というのは幼子が身につけるものという認識が一般的で、楓のような年齢の者がつけるには違和感を植えつける。
「お前になら、こちらの方がいいな」
三成は赤玉の隣にある青緑色の玉がついている簪を指さした。これも同じように奥州の物とおもわれる紋様が入っている。これであれば身に付けるに良いものなのでそうですね、と返すが今欲しいのはやはり赤玉のもの。
気が漫ろで返事をしたのが分かったのか三成はそれ以上言葉をかけることはなかった。