目を覚ますと、目の前に広がっていたのは見覚えのない光景だった。
茅葺屋根をした粗末なあばら家。私の背後には荒れ果てた田んぼ。周囲を見渡せば、同じくボロボロになった家々がいくつも並んでいる。
この荒れ果て具合は、おそらく幻想郷ではない。幻想郷の住民の生活には逐一気を付けている紫ならば、こんな荒涼とした場所があればすぐにでも救済措置を取るだろうから。幻想郷の妖怪が生きるためには人間が必要不可欠なのだし。
できるだけ状況を把握するために周りの妖力を感知する。
大きな反応はない。遥か先に見えている山にはいくつか小さな反応を感じるが、妖力の大きさから言って妖精や下級妖怪の類だろう。放っておいても問題はない強さだ。
ひとまず危険はないことを確認すると、現状を整理する。
私は威の精神の中に入った。彼の二面性を分割し、裏の威のみを封印するために。
侵入した途端に現れた目の前の風景。これはもしかして、威と関係のある場所なのではないだろうか。
とにかく今は情報を集めよう。
一応周囲に気を配りながら目の前の家に向かって足を進める。
『嫌だ! やめてよお父さん!』
「っ!?」
不意に届いた悲鳴に肩が跳ね上がる。子供のものと思われる甲高い叫び声は、とても平生の状態で出せるような平和なものではないことを私に感じさせた。
どこかの子供が危険な目に遭っている。
咄嗟に声を出そうとしたが、何故か私は口を噤んだ。心の中で、私の一部分が「関わるな」と警鐘を鳴らしていた。他人に対して積極的に干渉しようとしなかった、かつての私が。
今の状況を考えるなら、放っておいて先に進むべきだろう。私には関係ないと切り捨ててしまえばいいかもしれない。
でも、そうすると私はどんな顔をして威に会えばいいのだろうか。どこまでも純粋で優しい彼なら、たとえどんな事情があったとしても他人を助けようとするだろう。もし今の悲鳴を無視しようものなら、威はきっと私を相当責めるはずだ。
「なんで助けなかったんだ」、と。
大幣と札、封魔針が十分あるのを確かめると、私は悲鳴が聞こえた方向に向かって走った。あばら家の向こう側。外からは死角になっているそこから、子供の叫び声が聞こえてきた。台詞から考えるに、父親に何かをされているのだろう。この荒れ果て具合だ、食糧難からの口減らしとかだったら、一刻も早く助けないと。
……口減らし?
何か覚えがあるその単語に首を傾げながらも、私は家の裏側へと回り込む。徐々に大きくなってくる既視感に心臓がけたたましく早鐘を打ち始めるが、迷っている余裕はない。あの悲鳴の真意を早く確かめないと。
あばら家の裏。日陰になっているそこには、二人の大人と一人の子供が居た。
継ぎ接ぎだらけの粗末な服。顔はやせこけ、もう何日も満足な食事をとっていないことが窺える。三人共元気と呼べる感情は残っていないようで、大人二人に至っては死んだ魚のような目をしていた。その無機質な瞳で、彼らは五歳ほどの子供をただじっと見下ろしている。涙と鼻水に塗れ、絶望の表情で泣き叫ぶ子供を。
その子供に視線をやった瞬間、私は頭を強く打たれたような感覚に襲われた。
頬にはやつれ線が入り、身体も痩せ細ってはいるものの、その姿は私の記憶に残るアイツに瓜二つだ。幼いながらにマイペースで、いつも神社で私と遊んでくれた彼。目の前にいる子供は、まさに威そのものだった。
まさか。
一つの仮説が頭に浮かぶ。可能性としては至極有り得る。私自身の現状と現在地を照らし合わせたうえで、私が立てた仮説はこうだ。
これは、雪走威の記憶。
不意に八雲家で映姫から聞かされた威の話が脳裏に甦る。彼女は確か、威が怨霊になった原因を「愛していたはずの親による口減らし」と言ってはいなかったか。飢饉と重税に苦しみ、にっちもさっちも行かなくなった両親によって殺された、と。そして、彼が死んだときの年齢は五歳くらいだ、と。
偶然の一致だとは考えにくい。あまりにもタイムリーが過ぎる光景に私を鉢合わせた事実が、先程の仮説を確かなものにしていた。私という異物が入ってきたことで不安定になった威の精神が、私に自分の記憶を見せてしまっているのではないか。言うなれば、さとりが他人の心を覗くと同時に記憶までをも見てしまうように。
『なんで! なんでこんなことするのお父さん!』
『……すまねぇ。こうしねぇと、このままじゃ三人共飢え死にしちまうんだ……』
彼らには私の事は見えていないようで、会話がどんどん進んでいく。よく見ると父親らしき男の右手には威の顔程もある大きな石が握られていた。彼は左手で威の首を抑え、泣き出しそうな表情で今にも石を振り下ろそうとしている。その背後では目の前の光景から目を逸らすようにして俯いた母親が、静かに肩を震わせていた。息子を殺す罪悪感に泣いているのだろうか。
――――やめなさいよ、アンタ達!
もうすぐ行われるだろう惨劇を思い我慢できなくなった私は制止の声を上げてしまうが、彼らの耳に私の叫び声が届いた様子はない。姿だけではなく、声すらも彼らには認識されないのだ。同じ場所にいるようで、私と彼らは遥か遠くにいる。この光景はあくまでも記憶だ。既に過去のものである風景を前にして、現代を生きる私にできることは何もない。ただ、事の成り行きを見守ることしかできない。
泣き叫ぶ威を前にして、父親は口を引き結ぶと石を振りかぶる。もう、彼に言葉はなかった。これ以上の会話は未練を残してしまう。そう思ったのだろう。
対して、威の顔は絶望に支配されていた。愛していたはずの父親から裏切られ、殺されてしまう事実は心が満足に発達していない子供であっても精神的に壊れてしまうほどだ。悲哀と憎悪。後に裏の人格として誕生することになる威の核が、目の前で生まれようとしていた。
どうすることもできない。しかしこのまま黙っておくことが耐えられなくなった私は必死に声を荒げる。届かないことは分かっているが、何度も彼に向かって手を伸ばす。
――――だが、急な意識の喪失が私を襲った。
視界が眩む。まるでスローモーションのようにゆっくりと威に石が振り下ろされるのを前にしながら、私の意識は徐々に霞んでいく。もう、声を出すこともできない。
意識がブラックアウトする直前に私が聞いたのは、威の断末魔の叫びだった。
☆
「うぁぁあっ!」
「妖夢!」
雪走の妖力弾を腹部に受けた妖夢が吹っ飛ばされる。弾かれるように私は彼女の名前を叫ぶが、そっちに意識を向けている余裕はない。目の前には次の攻撃が迫っている。
次々と飛んでくる弾幕を箒に乗って躱しながら、私は思わず舌を打った。
「紫の結界を破るたぁ、大したやつだぜまったく」
三角帽が風で吹っ飛ばされないように手で押さえつつ視線を前に飛ばす、その先にいるのは、荒い息遣いで我武者羅に攻撃を続ける雪走だ。霊夢が精神に侵入した影響なのか、どこか混乱したような様子が窺える。先程までの冷静さはなく、まるで癇癪を起こした赤ん坊のような暴れっぷりを披露していた。
『くそっ……オレに、何をした!』
「馬鹿正直に教えるヤツがいるかよ! とにかく、これでも喰らって黙っとけ! 恋符【マスタースパーク】!」
『雑魚が……! オレの邪魔をするんじゃねぇ!』
八卦炉から放たれる私の砲撃に合わせるようにして雪走が霊力砲を放つ。
我武者羅に撃たれた力の塊は想像を遥かに超える勢いでマスタースパークに拮抗していた。火力に関して言えば私自身幻想郷内でもトップクラスに入ると自負しているが、その私を以てしても互角。いや、下手をすれば押し負けてしまうほどの馬鹿力だ。以前歓迎会の際にやった弾幕ごっこの時よりも数段階レベルアップしている。妖怪として覚醒したからか修行の成果かは分からないが、どちらにせよ迷惑な話だ。
元来保持している霊力量の差が表れ始めたのか、徐々に私が押され始める。しかし、弾幕はパワーだといつも声を大にして言い張っている私が雪走なんかに負けを認めるわけにはいかない。それにこんなところで負けていたら、いつまでたっても霊夢には追いつけない!
「負ける、かぁああああああ!!」
ありったけの魔力を八卦炉に込める。全身から力が徐々に抜けていく感覚に襲われながらも、私は気合と根性までをも振り絞って雪走にぶつけた。劣勢だった流れが拮抗まで持ち直す。
丁度引き分けあたりまで巻き返したところで、限界を迎えた両者の砲撃が相殺、消滅した。
負けなかった。それを再確認した途端、思い出したように極度の疲労感が私の全身を襲う。不意に膝をついてしまうが、慌てて駆け寄ってきた早苗が肩を貸してくれたおかげで地面に倒れ込むことだけは免れた。霞んだ視界をなんとか開いて向こうさんを見ると、雪走は肩を上下させて荒い息をつきながらも二本の足で地面を踏みしめている。あいつももう限界だろうに……雪走なりの意地があるのだろうか。
「しぶといな、アイツも」
「私が認めた雪走君ですから。この程度でへばってもらっちゃ困りますよ」
「お前はどっちの味方だよ」
「幻想郷ですよ。でも、雪走君の凄さは誰よりも理解しているつもりです」
「霊夢よりも、か?」
「…………」
途端に少し辛そうな表情を浮かべた早苗に気づき、罪悪感に駆られてしまう。少し意地悪が過ぎたかな。早苗が雪走に向ける感情をそれなりに分かっていたはずなのにそこを突いてしまうとは、我ながら性悪な事をしたなと少し反省。こうやって一言多いから、いつも香霖やアリスに注意されてしまうのだろう。
罪滅ぼしというわけではないが、悪いことを言った自覚はあるので謝罪。
「すまん。余計なこと言ったな」
「……いいんですよ。最初から心のどこかで覚悟はしていたんですから。雪走君の傍にはいつも霊夢さんがいた。頑固な霊夢さんをマイペースな雪走君が引っ張っていく姿は、誰が見てもお似合いでした。そこには、私なんかが入る余地さえなかったんです」
「早苗……」
「分かっていた、つもりなんです。だから、せめて親友ポジションにいようって。あの人を感じられる位置にいようって、決めたはずなんです。それなのに……」
ポタリ、と足元の地面に染みができる。それは少しずつ数を増やし、途切れることはない。
密着した身体を通して早苗が肩を震わせていることに、私は気が付いた。
「どうして、雪走君は霊夢さんを選んだんですか。どうして、私を選んでくれなかったんですか」
鼻を啜るような音と共に、かすかな嗚咽が私の耳を打つ。
「出会ったタイミングが悪かったなら、私はどうすれば良かったんですか。どれだけあの人の事を思っても、どれだけあの人の為に尽くしても、最初に出会ったのが霊夢さんだから、彼は私に振り向いてはくれない。雪走君を思う気持ちは誰にも負けないつもりなのに。これに関しては、霊夢さんにだって負けない自信があるのに!」
「…………」
「……ごめんなさい、魔理沙さん。急に愚痴を零しちゃって」
「気にすんな。霧雨魔法店は何でも屋だから、人生相談も仕事の内さ」
「ありがとう、ございます……」
「まぁ、難しいことは置いといてさ。雪走を助けたら、お前の気持ちをすべてぶつけてやれよ。成功しようが失敗しようが、後悔するのは嫌だろう?」
「魔理沙さん……」
「それに、アイツはお前も知るように渾身のマイペース馬鹿だ。早苗の気持ちには精一杯考えて一生懸命に答えを返してくれると思うぜ。仮にフラれても、アイツなら大丈夫だ。お前を避けるなんてことは絶対にねぇよ。私が断言する」
「……そう、ですね。雪走君なら。きっとそうしてくれます」
「そうさ。だからまずは、あそこで癇癪起こしている馬鹿をぶん殴って止めてやろう。後は霊夢がどうにかするさ。アイツはあぁ見えても博麗の巫女だからな。異変だろうが恋愛だろうが、霊夢に解決できないものなんてないぜ。ライバルの私が言うんだ、まず間違いない」
「腐れ縁、とも言いますけど」
「どっちでもいいさ」
鈴仙の援護射撃を受けながら接近戦を挑む萃香と先代巫女を見つつ、私と早苗は揃って苦笑を浮かべる。今は辛気臭くなっている時じゃない。できるだけ笑って、テンションを上げてあのお騒がせ野郎を止めることが先決だ。小難しい事情は、この後でまとめて解決してやればいい。
早苗のこともあるんだ。さっさと片付けろよ、霊夢。
今頃雪走と相対しているだろう素敵な巫女に心の中で檄を飛ばすと、私は再び八卦炉を構えた。