これまでの比企谷君との生活で、変わったことは特になかった。
彼は朝から仕事に行き、日によって多少時間は異なるが夜になると帰ってくる。
私はその間に家から必要なものを取ってきたり、大学の退学手続きを進めたり、引っ越し先を探したりしていた。
だから比企谷君と私が一日で顔を合わせる時間はそこまで長くない。
夜に少し話をして、彼は疲れているから寝てしまう。
こうして考えるとやはり私ばかり楽をしているようで申し訳ない。なので、何か彼のためになることを模索中だ。
そして休日は前の様に出かける事もあったが、それ以外の時は彼も不動産に行き部屋の下見などを一緒にした。
そして二月の二週目。
今日はついに引っ越しの日となり、昼から引っ越し先に行く。
色々な条件の中で最適の場所をやっと見つけることが出来た。
「比企谷君、早く帰ってこないかしら」
そして彼は、今日をもって捜査官を辞める。
*
CCG本部
朝早く起きていつもと同じ道を通り、いつもより少し早い電車に乗って本部まで来た。
今日は朝から雪が降り、CCG本部の前で空を見上げると建物がいつも以上に大きく見えた。
ここに入るのは最後になると思うが、特に寂しいなどの感情はない。
俺は無心のままドアをくぐり、エレベーターで上の階へと向かった。
「やぁ、比企谷。今日は早いじゃないか」
「最後ぐらいは早く来てもいいかと思いまして。
やることはほとんど終わらせていますけどね」
ほとんど片付けられた自分のデスクの隣に座っているは平塚先生。
今日はいつもと違って煙草を吸っておらず、デスクに広がっている資料とにらめっこをしている。
「平塚先生は今後どうされるのですか?」
「まぁ君というパートナーがいなくなるが、私は特別捜査の班に入っているから当分は問題ない。
捜査対象の資料は読み終えているし、捜査も本格的に始まっている。
もうその隻眼の喰種が見つけられてから一月近く経っているからな」
「……そうですか」
特別捜査と平塚先生は言ったが、それは最近確認された隻眼の喰種の調査の事だ。
その喰種の正体、及びアオギリの一員であるかなどを調べるのだろう。
「メンバーに陽乃がいないことには不満だがあいつなりの考えがあっての事だろう」
それからも少し話を聞くと、なぜか第一発見者の雪ノ下陽乃は捜査に参加しないらしい。
彼女の部下は参加するらしいが、雪ノ下さんは固く断って討伐の時は参加するという事になったとか。
相変わらず読めない人だ。
「あいつは最近ラボで自分のクインケをいじっている。だから今日は来ないよ」
「……」
最後に挨拶をしようと思っていたが、どうやらそれはかなわないらしい。
「はぁ、情報が少ないから今回の相手は探すのが難しい。打ち切りになってくれたらいいんだがな」
「……確かに。俺としてもそちらのほうが嬉しいですよ」
捜査を続けても全く手がかりが見つからない場合はその捜査を打ち切りにする。
当然のことだ。探しても見つからない奴より見つけられる奴を探した方がいいから。
だが今回はどうなるか分からない。
はたしてCCGはどれだけ隻眼を敵視しているか、それによって捜査に使う時間や人数も変わってくる。
一体いつまで隠れれば、彼女は自由になれるのか。
「平塚先生、お世話になりました」
俺は座ったままの彼女に向かって、お辞儀をした。
深く深く頭を下げ、長い間顔を上げなかった。
正直言って、俺は平塚先生に顔向けすることも、CCGの敷地に入る事も許される事じゃない。
俺のやっている事は明白な裏切りだ。
喰種捜査官として、本当に最低な行為をしている。
「……あぁ、こちらこそお世話になった。
君とパートナーになってからは控えめに言ってもとても楽しかった。またいつでも連絡してくれ」
そう言って俺の頭を上げさせ、彼女はカバンから封筒を取り出して俺に渡した。
渡された封筒はお札を入れるようなサイズの物で結構太い。
……というか、お札が入っている。
「平塚先生、……これは?」
「君から預かっていたものだよ。ようやく返すことが出来る」
「……討伐報酬ですね」
CCGではレートの高い喰種を討伐した時に報酬が出る。
これはたぶん、ジャック・ザ・リッパーの討伐報酬だ。
「新しい生活をするという事は何かと金がかかる。
変な意地を張らず、取っておくのが賢い者のすることだ」
「……ありがとうございます」
俺の裏切り行為を知らない平塚先生は純粋な優しさを向けてくる。
その純粋な優しさを純粋な気持ちで受け取れないことが何よりも申し訳なかった。
「雪ノ下さんにもよろしく言っておいてください」
「もちろんだよ。………あぁ、忘れそうになっていたが陽乃から君に伝言があった」
「何でしょう?」
平塚先生はタバコの煙を吹く見たいに息を吐いて、俺に彼女からの伝言を伝える。
その内容は、全く俺の予想外の事だった。
「“君のクインケの所有権を私に譲ってほしい”との事だ。本来であれば私に所有権が移るところだったが、どうする?」
私は別にかまわないよ、と平塚先生は言った。
「……」
クインケの所有権か。あの人の事だから別にいいクインケが欲しいと言った理由ではないだろう。
必ず何か考えがある。
「……分かりました。所有権は陽乃さんへお願いします」
「よし、それじゃあこれですべて終わったな」
平塚先生は椅子から立ち上がり、俺の両肩に手を置いた。
「これまでよくやってくれた。本当にありがとう」
本当にこの人は最初から最後までかっこいい。
出来る事なら、この人とは戦いたくない。
「……こちらこそ、本当にありがとうございました」
だから俺は必死で祈ろう。
誰も、雪ノ下雪乃を見つけませんように。
「さよなら、平塚先生」
*
二月は降雪日が多く、雪が広がる景色はいつ見ても美しい。
道の端には落葉樹が等間隔に並んでいて、葉はないが綺麗な並木の景色が広がっている。
その道路を進んで行き、橋を渡ってまた少し進む。
隣を歩く彼は黒いコートで身を包み、首元のマフラーを顎まで巻いて寒そうにする。
そんな彼の顔を盗み見て、私も同じようにマフラーで口元を隠した。
私達がいるのは7区。
8区に隣接している場所で、私達の引っ越し先。
ここから私達の新しい生活が始まる。
「……よし、これでゆっくりできる」
目の前に新たに住むマンションが見えてくると、彼は安堵の声を漏らす。
さすがの彼も少し疲れてしまったのだろう。最近は何かとバタバタしていたから仕方がない。
「お疲れ様、家に入ったらコーヒーを淹れましょうか?」
「ああ、頼むわ」
カン、カンと階段を上がるたびに音が鳴る。
私達が新しく済むのは少し古びたアパート。
二階の一番奥の部屋が私たちの部屋だ。
「……ふぅ」
ポケットから取り出した銀色の鍵を回してドアを開け、私と彼は同時に言った。
「「ただいま」」
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