・・・・・・・・・・・・
ほんのり甘い香りが漂い、後ろからは夕陽の暖かい光が差し込む。
手元の本に書かれている文字列を目で追っていると、たまにペラッとページがめくれる音が聞こえる。
私もそれに合わせるかのように本のページをめくり、静かなこの部屋で小さな音を立てる。
「紅茶、……飲まないと冷めるぞ」
「……え?」
文字の世界から急に抜け出し、声のする方へと目を向ける。
ずっと集中していたから分からなかったが、向かい側には私のよく知った人がいた。
「比企谷くん……?」
比企谷くんが向かい側で椅子に座って小説を読んでいる。
なぜかどこかの学校の制服を着ていて、私が知っている顔つきや雰囲気よりもどことなく子供っぽい。
「せっかく淹れたのにもったいなくないか?俺はもう一杯欲しいくらいだぞ」
戸惑いながらも近くの長机に置かれたティーカップに手を伸ばす。
カップの中にはその名の通り紅色の液体が入っていて、薄っすらと湯気が立っている。
「確かに冷めそうだけれど、……私は飲めないわ。だって私は……」
「大丈夫だ」
さっきまで小説を見ていた彼はこちらに視線を向けてそう言う。
「大丈夫だから飲んでみろ」
どうしてだろうか、頭がぼんやりとしている。
そう言えばここはどこだろう。
よく見てみると教室みたいなところだ。
「……分かったわ」
ゆっくりとカップに口をつけ、中の液体を舌まで流し込む。
そうしてみると、口の中で甘い味が溢れた。
「……美味しい」
「まぁいつも飲んでるけどな」
彼はふっと笑ってまた小説を読み始める。
……そうか、今は部活の時間だった。
いつもの様に椅子に座って小説を読み、いつもの様に紅茶を飲んでいるだけだった。
「……コップを渡してちょうだい。もう一杯入れるわ」
「ん、いいのか?」
「あら、さっき淹れて欲しいアピールをしていたのは誰だったかしら?」
少しからかって彼のコップを手に取りポットのお湯を注ぐ。
……そう言えば、今日は家からクッキーを持ってきていた。
「どうぞ、……良ければこれも一緒に」
新しく淹れた紅茶と共にカバンからクッキーを取り出して比企谷くんに渡す。
彼は小腹が空いていたようで、喜んでそれを食べ始めた。
「……うん、普通に美味いな」
「ええ、とっても、……とっても美味しいわ」
彼につられて私もクッキーを口にすると、サクッとした感触が伝わり噛むたびに細々になっていく。
紅茶とはまた違った甘さがあり、とても美味しかった。
「……私はいつもこうやって生きているのよね。普通の女の子みたいに」
「……あぁ、そうだ。雪ノ下は普通の女の子で、嘘を吐かない立派な奴だ」
確かめるように聞く私と、言い聞かせるように答える彼。
そこで会話は止まり、また静かになったこの部屋では本をめくる音が良く聞こえる。
「……」
静かで穏やかだ。
私は誰にも追われていない。
誰にも嫌な目を向けられない。
自分に嘘を吐かなくてもいい。
彼と同じものを食べて美味しいと感じられる。
安定した今日を過ごして、当たり前のように明日がある。
今日を比企谷くんと過ごして、また明日になると会える。
……ずっと比企谷くんと一緒に居られる。
「……私が人だったら、こんな素敵な世界があったのかもしれないわね」
「雪ノ下?」
こぼした言葉は比企谷くんの耳に届き、彼は私を見る。
「私が嘘を吐かないなんて、そんな素敵な世界があったのかもしれないのね」
「……どうしたんだよ?」
彼は心配そうに声をかける。
たぶん私が涙を流しているのを見て動揺しているのだろう。
「……ねぇ比企谷くん、私幸せよ。だってここに居れば、ずっとあなたのそばに居られる気がするから」
「じゃあ何で泣くんだよ?」
簡単な質問に私は涙を流しながら笑顔を作った。
「幸せ過ぎて悲しくなったのよ。だってこんな事あるわけないじゃない」
こんなものはただの偽物で、私が思い描くただのおとぎ話。
「私は人の肉しか喰べられない、“化け物”なのだから」
振り返って窓の方を見ると、そこに映っていたのは右眼が赤い化け物。
そしてその化け物を見た瞬間、この幸せ過ぎる世界は崩れ去った。
*
・・・・・・・
暗い部屋の中、枕元の目覚まし時計がカチッと音を鳴らして針を動かした。
私は布団から腕を出し、その時計を手に取って時刻を確認した。
時刻は二時四十八分。まだ起きるには早すぎる。
「……嫌な夢」
私は寝返りを打ってまた眠ろうと目を閉じる。
だがどんな体勢で体を休めようと、眠りに落ちることはなかった。
昨日やっと、……久々の食事をとって胃を満たしたというのに。
「……」
最近、たくさん涙を流した気がする。
時には悲しくて泣き、時には嬉しくて泣いた。
後者は比企谷くんがそばに居てくれると言ったあの日の事だ。
あの時死のうとしていた私にとって、その言葉は今でも本当に嬉しい。
今まで生きてきて、嬉しくて泣いたのはあの時が初めてだった。
だから後者の方は別にいい。その涙は私が幸せな証拠だから。
……だが前者の方はどうだろう。
悲しくて泣くのはいつも同じ理由で、何度頭を悩ませようとも解決しない。
今日も、……と言うより昨日の夜もそれで涙を流した。
「……いつになったら涙は枯れてくれるのかしら」
昨日、比企谷くんと暮らしてから初めて食事をした。
朝いつものように比企谷くんが仕事に向かった後、私は新しく始めた本屋のバイトに行き夕方まで働いた。
場所はこの間高槻さんと待ち合わせしたデパート内の本屋で、この前行った時に求人広告を見かけたので働くことにした。
最初比企谷くんにアルバイトを始めると言った時は別に家事をやってくれるからいいと言われたが、さすがに経済的に余裕がない。
もちろん外に出かける時と同じでメガネや髪形を変えてある程度の変装はしている。
そしてバイトの後、私は家に帰らずとある人物を訪ねに行った。
人物と言っても人ではなく、私と同じ喰種で7区に住む高齢の夫婦。
彼らは他界した父の知り合いで、高槻さんを除けば唯一の喰種の知り合いだ。
引っ越し先を7区に選んだのも彼らの存在が大きい。
……本来喰種とはそれぞれの区内で仲間を作り、誰かをリーダーとして群れのようなものを作ることが多い。
それゆえになわばりの様なものがあり、他所から来た喰種に好き放題はさせず自分たちのテリトリーを必死に守る。
狩りをし過ぎると白鳩に感づかれるし、しなさすぎると餓死してしまう。
そんなジレンマの中で上手く暮らして生きていくのが喰種だ。
つまり何が言いたいかと言うと、今まで8区にいた私が急に他の区に行くのは軽いものではない。
他の区にどんな喰種がいるのか知らないし、どんなルールで統治されているのかも知らない。
まぁ私の実力なら区内の喰種を敵に回しても大丈夫だとは思うけれど、今は比企谷くんと二人暮らしをしている。
私のせいで比企谷くんが目をつけられてしまったら大変だ。
さすがの彼でもクインケを持っていなければ喰種に対して無力だろう。
「……あまり迷惑をかけたくなかったのだけれど」
だから私は他の喰種たちに波風を立てないようにするため、知り合いの所まで尋ねに行った。
事前に連絡してみると食料はいくらか保存してあるから気兼ねなく来てくれと言われたのでその言葉に甘えてしまった。
こうすればわざわざ自殺者や事故死した人を探さなくて済むし、誰かのテリトリーを荒らすこともない。
それに、……自分の手を汚すこともない。
私の手は、汚れてなんか……。
「……嘘を、……また自分に嘘を吐いたわね」
布団を握った手は段々と昨日触れたものを思い出す。
冷たくて、なまめかしい感触。
色も匂いも覚えている。
私が喰べたのは、比企谷くんと同じ……。
「人の肉」
強くよみがえって来た肉の記憶が私の体を震えさせる。
布団のなかで寒さを感じ、震えを止めようとしたけど止まらない。
……ダメだった。
どうしても我慢することが出来なかった。
この数週間、気を抜くといつの間にか彼に咬みついてしまうんじゃないかと怖かった。
どれだけ意識が拒もうと、何度気をそらしても意味がない。
身体中が肉を求めて、私の理性を蝕んで。
だから私は、人を喰べてしまった。
「……っ…」
私は部屋の電気をつけず、視界が真っ暗のまま布団から出て立ち上がった。
そして近くの扉をゆっくりとスライドさせ、隣の部屋の布団に入る。
布団の中は暖かくて、嗅いでいると落ち着く匂いがした。
「……」
嫌と言うほど鮮やかによみがえる血と肉の光景を忘れたい。
自分に嘘を吐いてでも、この手が汚れているとは思いたくない。
そんな無責任で卑劣な考えをする私は目の前の背中にスッとおでこをつけた。
「……ねぇ比企谷くん、……もし私がこんなにも醜い化け物じゃなくて、夢の中みたいに人になれたら」
ゆっくりと吐き出すその言葉はだんだんとかすれて嗚咽が漏れだす。
それでも私は、言わずにはいられなかった。
「私は……」
さっきまで居られた素敵な世界を思い出し、現実の世界と比べると嫌になる。
夢の中で味わった紅茶は甘くて美味しかったが、思い出してみると血と同じ味だった。
夢の中で口にしたクッキーは感触が違えど人の指の部分と同じ味だった。
「私はあなたに、……恋がしたい」
今日、この時で泣くのは最後にしよう。
そう思って私は彼の背中でボロボロと泣いた。
嬉しくて泣くわけでも悲しくて泣くわけでもない。
ただもう涙が出てこないように今のうちに泣いておこう。
これ以上自分の弱さで泣かないように、今のうちに感情を吐き出しておこう。
彼はきっと、ぐっすり眠っていて聞こえていないから……。
「……」
時間が空いたので投稿しておきました。
これからも頑張ります。