雪の中の化け物【完結】   作:LY

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第三十七話

高槻さんとの電話を終え、家の中に入った私はいつもと同じ様に過ごした。

 

手早く比企谷くんのご飯を作り、手早く入浴を済ませて自身と彼の布団を敷く。

 

普段通りでいつも通り。

 

 

そして夜は着実に更けて行き、あっと言う間に時刻は23時になろうとしていた。

 

 

 

 

「…ふむ、もうこんな時間か。体内時計はあと一時間早いのにな」

 

「……少し早いけれど今日はもう寝た方がいいんじゃないかしら。昨日も今日も体力を使ったし、自分で感じているよりも疲れが溜まっているかもしれないわ」

 

 

 

ドライヤーでいつも以上に入念に髪を乾かしながら、隣の部屋にいる彼と扉を開けて話をした。

 

 

 

「まぁそうだな。正直瞼が重くなってきたし、明日も仕事だからな」

 

 

 

おとなしく寝るわ、と言って彼はあくびをする。

 

どうやら本当に眠たいそうだ。

 

 

 

「じゃあ先に眠らせてもらうわ」

 

「ええ、……おやすみなさい」

 

 

 

彼が電気を消すために立ち上がり、私も睡眠の邪魔をしないように引き戸を閉じようとした。

 

だがふっとある事に気がつき、扉に手を伸ばすのを止めて彼に言った。

 

 

 

「比企谷くん、腕時計が付けっぱなしよ。外してから寝ないと」

 

「……おぉ、本当だな。風呂に出てから無意識にまた付けたのか」

 

「習慣的な事は意図せずにやってしまう事があるわね。私も偶に……」

 

 

 

比企谷くんが腕時計を外すのを見て、私の目はある一点で止まる。

 

それの存在に気づくと、次に口に出そうとした言葉が消えてしまった。

 

 

 

 

 

「……比企谷くん、それは…」

 

「……あっ」

 

 

 

私の視線に気づき、彼は反射的に右手で左腕を隠す。

 

だが、もちろんそれで何かが変わることはなく、私は立ち上がって彼の部屋に入った。

 

 

 

「……見せて」

 

「いや、別に見なくても……」

 

 

 

目を泳がせながら比企谷くんは拒むが、私は彼の左腕を掴んで服の袖をまくった。

 

 

 

「やっぱり……」

 

 

 

蛍光灯の光に晒された腕には赤黒い線が5センチほど浮かんでいる。

 

それはかさぶたなどではなく完全に皮膚が変色したもので、たぶん触っても痛みはないだろが酷い傷痕だ。

 

こんなにもハッキリしているのに今まで気がつかなかった。

 

 

 

「痕、……残っていたのね」

 

「まぁな、カッコいいだろ?」

 

 

 

バカね、と言って傷痕をスッと撫でる。

 

この傷は私がつけたもの。彼と初めて出会った日、夜の公園で私が彼の肉を喰べた時だ。

 

……私は彼に咬み傷をつけてしまった。

 

 

 

「雪ノ下がどう思っているか分からんが、俺にとってこの傷は大切なものだ。

気に入っている…って言うのはおかしな表現だが大切にしている」

 

「……咬み傷が、…大切?」

 

「ああ、むしろ痕が残ってよかったわ」

 

 

 

傷痕を見て気落ちする私とは違い、彼は傷痕を見て嬉しそうにする。

 

その表情からは私を励ますためではなく真剣に傷を大切にしているのがよく分かる。

 

 

まさか痕が残ってよかったなんて、そんな事を言う人がいるとは思わなかった。

 

 

……そんな嬉しい事を彼が言ってくれるなんて、私は思っていなかった。

 

 

 

「……あなたはいつもそうね」

 

「ん?……何が?」

 

 

 

比企谷くんはいつも優しくしてくれるから、おこがましい私はそのたびに甘えてしまう。

 

今もそうだ、また私の中に欲が湧き上がってくる。

 

本当はこんな事良くないけれど、理性的な判断よりも感情を優先してしまう。

 

 

 

「おかしな、……おかしなお願いをするのだけれど、比企谷くんは聞いてくれる?」

 

 

 

私は俯きながら彼の腕を放して、自分の左手を胸元まで上げる。

 

この事を伝えて嫌がられるのが怖い。だけど気持ちが収まらないから躊躇いがちに人差し指を彼の口元まで近づける。

 

 

そして私は言った。

 

 

 

 

「咬んで」

 

 

 

 

「……は?」

 

 

「咬んで、……咬み傷をつけて欲しいの」

 

 

 

前置きをしたとはいえ突飛で変な頼み事に彼は戸惑う。

 

彼の反応は至極当然で私が変になったのかと思うかもしれない。

 

だが、私は話を続けた。

 

 

 

「別に痛みが欲しいわけではないの。ただ私も、……咬み傷が欲しい。変に思うかもしれないけど喰種にとっては大切な事なのよ」

 

「大切って言われても、さすがに傷つけるのはな。それに皮膚を切れる自信ないし……」

 

「……そうね」

 

 

 

よくよく考えてみたら比企谷くんが私の指を咬んでも傷がつかないかもしれない。

 

喰種の体である事も理由の一つだが、もう一つの理由として、彼が私の指を咬んでも本気で皮膚を咬み切ろうとしない事だ。

 

人間の顎の筋肉なら相当力を入れないと同じ人の皮膚でも切れないだろう。

 

 

 

「じゃあ、これで……」

 

 

 

左手の甲を自身の唇に当て、口を少し開ける。

 

そしていつもの人を喰べる時と同じように、歯を立てて皮膚を咬み切った。

 

 

 

「っ……!何やってるんだよ!!」

 

「ごめんなさい。……でもどうしても咬み傷が欲しいの」

 

 

 

ほんの少し咬み切っただけでも、やはり皮膚が千切れると痛い。

 

ズキズキと痛みの波が手の甲から伝わってくる。出血は少なくても痛いものは痛い。

 

 

 

「……お願い。少しでいいの。……歯を当てて」

 

 

 

気持ち悪いと嫌がられるのを覚悟して、私はもう一度彼の口元に手を近づけた。

 

 

 

「お願いします……」

 

 

 

こんな事をしても何も変わらない、ただの自己満足。

 

咬み傷だって私が自分でつけたもので、比企谷くんはその傷に歯を当てるだけ。

 

それにどうせすぐ再生して咬み傷は残ってくれない。

 

……だからこの行為は、本当に大切な意味を持たない。

 

 

 

「……分かった」

 

 

 

でも、……それでも私は良かった。

 

 

本当の意味をなさなくても、比企谷くんに不快に思われても、私はこれでいい。

 

ただ気持ちだけでも味わえるのなら。

 

 

 

「咬むぞ」

 

 

 

「……っ…」

 

 

 

 

 

 

左手の甲に強い痛みが走り、すぐに傷は癒える。

 

 

 

 

 

 

 

ほどなくして私達は就寝した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

夜光時計を見ると午後11時50分。

 

 

 

暗い部屋の中、ゆっくりと体を起こす。

 

カーテンを開くと外から光が入り込み、布団の近くに用意していた衣服の場所が分かる。

 

私はそれを手に取り、音をたてないよう静かに着替えを済ませた。

 

 

……そして忘れずに、ベランダの鍵を開けておいた。

 

 

 

「……」

 

 

 

壁に掛けてあるコートを羽織って例の引き戸を開ける。

 

比企谷くんの部屋の蛍光灯は薄暗いオレンジ色の光を灯していた。

 

 

 

「よかった。……眠っていてくれて」

 

 

 

寝息の音が聞こえ、近づいて彼の顔を覗き込む。

 

連日の歩き回りに疲れたようでぐっすりと眠っている。

 

 

……今なら聞こえないだろう。

 

 

 

 

「こんな時に、何を言ったらいいのか分からないのだけれど……」

 

 

 

 

寝ている彼の隣に正座をし、小さな声で語りかける。

 

部屋の中の静寂や、ほんのりと漂う彼の匂いで余計に感傷に浸ってしまう。

 

絶対に起こしてはいけないけれど言葉を発したい。だから本当に小さな声で語った。

 

 

 

 

 

「私、……幸せだったわ」

 

 

 

 

言ったそばから鼻の奥がツンとして、涙が込み上げてくる。

 

だがそれを我慢して、また小さく呟いた。

 

 

 

 

「あなたと一緒に暮らせて、本当に幸せだった」

 

 

 

 

こんなにもおぞましくて醜い私をあなたは救ってくれた。

 

私を救って自分と向き合わせてくれた。

 

 

 

 

「あなたに出会えて、……私はどれだけ救われたか」

 

 

 

どれほどの時間が流れようとも、私は決して忘れはしない。

 

あなたは私に言ってくれた。

 

 

 

一人で生きられないのなら、そばに居ると言ってくれた。

 

 

帰れる場所がないのなら、自分の所に来いと言ってくれた。

 

 

私が私を好きになれるまで守ってくれると、あなたは言ってくれた。

 

 

 

 

「ありがとう、比企谷くん」

 

 

 

 

何度も。

 

何度でも感謝の言葉をあなたに送りたい。

 

 

あなたが私にくれたものは、それほど大きなものだから。

 

 

 

 

「……あと一つだけ、今からする事はごめんなさい」

 

 

 

最後の最後に欲が出て、寝ている彼に悪さをしてしまう。

 

まぁこれで決心がつくのだから少しくらいは大目に見てもらおう。

 

 

 

「……」

 

 

 

静かに枕元に手を付けて、どんどん彼との距離を縮める。

 

 

 

途中で髪が垂れないように片手でかきあげ、間近で一瞬の躊躇いが生じて動きを止めた。

 

 

しかし彼の寝顔を見つめていると、やはりやめることは出来ない。

 

 

私はゆっくりと目を閉じ、心の中でもう一度謝った。

 

 

 

 

「…っ……」

 

 

 

 

そしてフワッと彼の匂いに包まれて。

 

 

 

自分の唇を彼の唇に重ねた。

 

 

 

 

 

「………」

 

 

 

柔らかくて、すぐに消えてしまいそうな感触。

 

 

すぐに離れるのは名残惜しいけれど、いつまでもこうしていたら彼が起きてしまうので長くは出来なかった。

 

 

 

 

「………じゃあ、そろそろだから」

 

 

 

時計の歯車がカチリと音を鳴らすのが聞こえ、私は立ち上がる。

 

時刻は午後11時56分になった。

 

 

 

 

「……ありがとう、比企谷くん」

 

 

 

 

また感謝の言葉を伝えて、部屋の扉を開ける。

 

もうここには戻ってこられないと思うと、やはり寂しい。

 

 

 

 

 

 

「さよなら」

 

 

 

 

 

 

 

そして私は、雪の降る外へと向かった。

 

 




来週はお休みさせてもらいます。
良ければ感想等ください。

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