『はい、体調がすぐれないので一週間ほど……、はい、すみません。…分かりました。それでは、失礼させてもらいます』
相手が通話を切りツーツーと独特な電子音が流れてくるのを確認し、私は携帯を閉じた。
「……コーヒーでも入れましょうか」
十二月の二週目、そろそろ冬の寒さがやってきた。
私は自室の暖房を少し強め、テーブルの上のカップにインスタントコーヒーの粉末とお湯を入れる。
スプーンで中身をかき混ぜると、瞬く間にカップの中身は焦げ茶色の液体へと変わった。
「早くどうにかしないとバイト先に迷惑がかかるわね」
そう言いながら湯気が立ち上るコーヒーを飲んで空っぽの胃を少しでも満たす。
だがそれもほとんど意味がなく、私の胃袋は肉を求める。
……。
……さすがにそろそろ限界かしら。
壁にかかったカレンダーを見ると、思わずため息が出る。
前回の食事から、もうかなりの日にちが過ぎていた。
本来であればもう少しの間我慢できるかもしれないが、この前の戦闘で赫子を使い、さらに多くの傷を負ったためいつもより余計にエネルギーを消費してしまった。
まぁ傷に関して言えば、戦うのに十分なエネルギーがないのに捜査官達と戦ったから仕方のない事だけれど。
「……あの時、あの男がいなければ本当にどうなっていたのかしら?」
ふと、先日あった男の事を思い出す。
死にかけの私をなぜか助けたあの男。
結局、彼の目的は分からないまま飛び出してきてしまった。
「……どうせ今頃、私の情報を話しているのでしょうね」
冷静に考えると、やはり殺すべきであった。
顔がばれた以上、私は今までのように街を出歩くことはできなくなり、当然この場所からも離れなければならない。
それに私の眼も見られてしまった。
これだけの事があれば十分に殺す必要があったのに……。
「比企谷、……だったかしら」
なぜ私を殺さなかったの?
なぜ私を助けたの?
なぜ私をかくまったの?
なぜあの時、……あなたは謝ったの?
いくら考えても、その答えは分からなかった。
「……一週間だけ、様子を見ましょう。
もしあの男が私の情報を話していれば、詳しい外見を載せた手配書が出るはず」
手配書が出ればここを去って、ほとぼりが冷めるまで身を隠せばいい。
出ていなければさすがに今まで通りとまではいかないけれど、また用心深く過ごせばいい。
……そのためにはまず、今の間に食料を確保しないと。
私は残りのコーヒーを飲み終え、夜になるのを待った。
*
喰種対策局にて
俺と平塚先生は対策局のデスクで担当の喰種について資料を読み漁り、特徴や行動範囲などをまとめていた。
これは当然のことながら喰種捜査にはとても必要な事で、相手の出現場所などが大体わかれば現地捜査に向かう。
敵と対峙することになれば、そこからは頭ではなくクインケでの仕事だ。
「平塚先生、今回は他の捜査官たちと協力しないんですか?」
「ああ、この前の事件で私たちの担当区はかなりの人数不足になっているし、それにたいした相手ではないからな」
「そうですかね?」
俺達の担当する喰種のレートはB+。
確かにレートだけを見ればそこまで強敵ではないかもしれないが、このレートは推定であって実際はもっと強いかもしれない。
「安心したまえ。もし本気で戦えば君一人でだって余裕で倒せるさ」
「無理ですよ。それに今は左手が使えませんし」
「いや、それを差し引いてもだな……」
「ひゃっはろー!」
平塚先生との会話の途中で部屋のドアが勢いよく開けられ、頭の悪い挨拶が聞こえてくる。
……どうやら魔王がやって来たようだ。
「陽乃、仕事中だぞ。暇潰しなら他所でやってくれ。
それとそのバカみたいな挨拶はやめろ」
「も~、せっかく様子を見に来たのにひどい。
それにさっきの挨拶は最近の若い子の間で流行ってるんだよ。
……まぁ静ちゃんが知らないのも無理ないか」
「なっ!今遠まわしに若くないと言ったな!」
雪ノ下陽乃。
平塚先生のアカデミー教官時代の教え子。
女性の身でありながらこの若さで准特等まで昇りつめた天才。
容姿端麗、文武両道、周りには明るく振る舞い誰からも好かれる性格をしている。
「比企谷君もひゃっはろー」
「ども」
「比企谷君テンション低いよ。せっかくお姉さんが来たのに…って、あれ?その手どうしたの?」
俺に絡んで早々、彼女は包帯の巻かれた左手に気づく。
「階段で足がもつれて」
「へぇ、喰種にやられたわけじゃないんだ」
俺の左腕を観察するように眺め、彼女は言う。
「……ねぇ比企谷君、まだ喰種を殺してないの?」
体を凍らすような、冷たい声だった。
「私、あの時の君に本気で惹かれたよ。
顔も名前も知らなかった年下の男の子が、今まで誰にも興味を持たなかった私を一瞬で魅了した。それほどの光景だった。
……でもそれだけに最後は残念だったな。まさか情けをかけてとどめを刺さないなんて」
「……別に情けをかけたわけじゃないですよ」
「本当にそうかな?」
彼女は俺の言葉を全く信じようとしなかった。
「あの時の比企谷にもう一度会いたいなぁ……」
彼女は過去を思い出しているのか、目を細めてまるで呟いているように言う。
「……今の君は、何だか中途半端な気がする」
「陽乃、その辺でやめておけ」
ずっと黙っていた平塚先生が口を開く。
「……もうそろそろ時間だ、お前はもう帰れ。
比企谷もそろそろ片づけをして帰宅の準備をするんだ」
部屋の時計を見てみると、短い針はもう9を指している。
いつの間にか帰る時間になっていた。
「……まぁ今日は遊びに来ただけだしいいか。
それじゃあ言われた通り私は帰るから。比企谷君、ちゃんと一人前の捜査官になったらお姉さんと付き合おうね!
静ちゃんみたいに行き遅れたくないし」
「誰が行き遅れだ!」
「あぁ、それと今日から私も8区担当になったから」
それじゃあね、と言って彼女は部屋を去って行く。
相変わらずやりたい放題だ。
「はぁ……、全くあいつは……。肝心な事をさらっと言うのだから困ったものだ。お前も災難だったな」
「いえ、別に気にしていませんよ」
そう言いながら、俺は右手を使ってデスクを片付ける。
雪ノ下陽乃は勝手で言いたい放題言ってくるが、今の俺にはどうでもよかった。
「……平塚先生、雪ノ下准特等に妹さんっていますか?」
「ん?陽乃に妹? ……そんな話聞いたことないし、いないと思うがな」
俺の頭の中には雪ノ下陽乃に言われた事などなく、
ただただ家のベランダを飛び出していった女の子の名前だけが駆け回る。
“雪乃よ”
「……」
俺が出会った喰種は雪ノ下陽乃によく似ている。