何と比べても大切なものが、私には確かにあった。
どんな高価な宝石よりも輝いて、どんな素敵な物語よりも心を豊かにしてくれる。
私にとってはそれほど素晴らしくて大切なものが確かにあった。
けれどそれは、私だけの話で他の人にとっては正しくない。
大っぴらにすれば奪われて、きっと私の中から完全に消えてしまうだろう。
私の中でたった一つ輝くものが間違っていると言われ、この暗い世界に飲み込まれてしまう。
それがどうしても嫌で耐えられなかったので、私はそれを隠した。
誰にも奪われたくないから。誰にも消されたくないから。
自分の奥底へと沈め、体に泥を塗って周りの真似をした。
こうすればきっとバレやしない。きっと完璧に隠すことが出来る。
汚れてしまっても私は周りと違う。ただ真似をしているだけで本当の顔は別にあるのだ。
そう思って仮面を付けるとすべてが楽で、生きる事がとても簡単になった。
簡単すぎて少し退屈なくらいだった。
だから私は自分を偽ったまま。
自分に嘘を吐いたまま楽で退屈を凌げる方へと進んでいった。
……だけど、そんな私はいつか後悔する。
空が黒い雲に覆われ、冷たい雨にさらされた日。
私は濡れたまま自室に行き、ふと久々に自分の顔が見たくなった。
ずっと楽に生きてきて、退屈を凌ぎながら生きてきた。
そんな私がどんな顔をしているか、気になってクローゼットの鏡を覗き込んだ。
「……」
心のどこかで、大丈夫だと思っていた。
私は周りとは違う。ただ偽っているだけで本当の素顔は全くの別物だと思っていた。
……しかし、そんなものはただの甘えで、空虚な妄想でしかなかった。
鏡を覗き込んでも、もうそこには昔の私はいない。
周りと何一つ変わらない、暗い世界の住人。
私は急いで自分の中に隠したものを探したけれど、それは手の届かないほど深くに沈みこんでしまっていた。
*
ノイズが鼓膜を震わして、耳のなかに強い異物感のようなものを覚える。
しかし、それでもインカムを指先で押さえ、息を白くしながら伝えた。
『対策部へ通達。対象“猫又”の推定レートの引き上げを』
『平塚か?こちら対策部、丸手だ』
『丸手特等、現状は映像で見られている通りだと思います』
『……あぁ、分かってる。“猫又”のレートはSS~に繰り上げ。増援が来るまで持ちこたえてくれ』
『了解です』
指を放して手をクインケに添えると、最後にインカムからこう告げられた。
『“あいつ”を呼ぶ』
*
「本当に、これほどまでの赫子は滅多に見ない。
鱗赫付近からも尾が出ているのか……?」
遠く離れたところから向かってくる照明の光が大きな尾を映し出す。
見上げた赫子の長さは三メートル近くあり、数が多くて頭が混乱しそうになる。
相手の背中側から生えたそれらは前列に四本、後列に五本と並び、まるで樹の幹が動き回っているようで気味が悪い。
……いや、気味が悪いなど通り越している。
光に照らされながらも夜の闇に紛れようとする喰種は赤い右眼でこちらを睨む。
その殺気に満ちた赫眼が私を突き殺さんばかりに鋭くて、目が合った瞬間に感じた。
この喰種は本当に危険だと。
「陽乃、……何本までなら捌ける?」
「四本は無理、今のままじゃあ三本で限界かな」
「そうか…」
敵の喰種が体勢を低く構え、それにつられる様に九本の赫子は大きく広がる。
尾の先が私達を品定めするみたいにこちらを向いて、ゆっくりと揺れる。
そして全ての赫子が一瞬だけ止まり、次の瞬間には一斉に襲い掛かって来た。
「…っ!……来るぞ!!」
安浦特等と私が両サイドに走り出し、赫子が密集しないように散らせる。
いくら九本出せたと言ってもこちらは四人。
分散すれば対処できない数じゃない……。
「くっ!」
大きく右に回り込んだ私の所へ二本が追尾してきて、私は目一杯引き付けてから鋭い一撃をクインケでいなす。
だが先ほど戦っていた時と違って剣にかかる力がかなり重い。赫子の数が増えただけでなく一本の太さも増している。
それに二本の連撃スピードが速いし一撃一撃が力任せにじゃない。九本も操っているのにそれぞれの動きが的確で完全に私を仕留めに来ている。
このままだと防ぎきれない。
「…攻められん!」
「平塚さん、かわしてください!!」
二刀流で赫子を捌いていた安浦特等も同じ事を思ったのか、向かい側で赫子を大きく払い、後ろに下がって遠距離攻撃に備える。
そして私の左側で戦う田中丸特等も同じようにクインケを構え、陽乃と私が射線から外れてすぐ、二人の特等は引き金を引いた。
「……連携が早いわね」
「「射っ!!」」
クインケが放たれ、瞬く間に大きな衝撃波と爆発が一点で交差する。
その強力な攻撃は道路のコンクリートを抉り、辺りの雪を舞い上がらせながら強い熱気と煙を放つ。
爆発から少し近かった私は熱気に当てられる頬を腕で庇い、数歩下がって煙の上がる中心を見つめた。
「ふっふ~~ん。
我がハイアーマインドとレディー清子の是毘図による必殺クロスファイア。体どころか髪の一本も残るまい」
「可能な限り捕獲したかったのですが、仕方ありませんね」
「……」
勝利を確信した二人の特等の声は聞こえても、陽乃の声は聞こえない。
普通に考えれば、さっきの攻撃を受けて生き残れる生物なんているはずがない。避けるならまだしも、特等二人の攻撃を直撃したのなら普通は絶命するだろう。
だから特等方は勝敗がついたと思い、会話をする余裕がある。
……だがきっと、陽乃は勝利を確信していないし、私も同じように勝ったとは思っていない。
霧のようにたなびく煙の中で、化け物が本当に死んでいるのか確認しないと目を離すことが出来ない。
奴が本当に死んでいると確証がなければ、握りしめたクインケを放すことが出来なかった。
「……黒の、…球体?」
煙が薄くなっていくと、何かが焦げた匂いと共に黒の物体が見えてくる。
これは……。
「……四本も持って行かれるとはね」
「まさかっ!田中丸特等!!」
「むっ!!」
現れた球体の中から声が聞こえ、黒の物体はゆっくりと動き出す。
めくれるように形を変え、球体が五本の尾へと形を戻し始める。
そして中から、赤い眼玉が辺りを見渡した。
「まさか、赫子で自分の周りを覆ってさっきの攻撃を……」
「ならばもう一度放つだけだっ!!」
「ハイアー!!」と田中丸特等が叫び始めた瞬間、赤眼の化け物は獲物を捕らえて地面を蹴る。
五本の尾を結合させ獲物を狩る巨大な尾を作り出し、一直線に田中丸特等の方へと向かう。
反応に遅れた私達は完全に出遅れてしまった。
「素早い子猫だが今度こそ終わりだ!!」
「あなたには足を折られた借りがあるわね」
じりじりとエネルギーを溜め、田中丸特等は今にも放ちそうだが化け物は足を止めない。
ハイアーマインドの射線上を最速で走り抜け、身を低くして巨大な赫子を構える。
……全く避ける気配がない。
「ハイアーマインド!!」
「ふっ!!」
三度目のハイアーマインドの攻撃がビルの並び立つ大通りで放たれ、それを巨大な尾が迎え撃つ。
巨大な赫子は衝撃波との衝突でぐちゃぐちゃと崩れ始める。
「………嘘…だ…」
ここにいる誰もが、その二つの衝突を見るまで知らなかった。
クインケの中でもトップクラスの火力を誇るハイアーマインドの一撃が、赫子によって押し返される事があるなんて。
そもそもそんな事をやろうとする喰種がいるなんて。
「ぬああぁぁぁぁぁぁ!!!!」
尾は崩れながらもハイアーマインドの衝撃波を貫き、ハイアーマインド本体まで力尽くで押し進む。
まるで空を裂く槍のような光景だった。
「我がハイアーマインドを、こんな力業で!!」
クインケを盾に構える田中丸特等だが、化け物は勢いを止めず、最後に一歩大きく踏み込む。
そして後ろで溜めた赫子を大きく突き出した。
「お返しよっ!!」
「田中丸特等!!」
「陽乃、援護を!」
私の叫びなど聞かなくとも一番近くにいた陽乃は動きだしていたが、それでも間に合わず田中丸特等はクインケごと吹き飛ばされる。
盾にしたクインケはバキッと音を鳴らし、宙で破片が散るのは見ずとも分かった。
「悪いわね。こう見えても私、根に持つタイプなの」
「それなら真っ先に狙うのは私でしょ」
陽乃は少し大振りで斬りかかったが、敵はそれを軽く避けてそのまま距離を取る。
赫子はだいぶボロボロになったが敵の焦りは感じない。
「そうね…。私が一番戦うべきなのはあなた。
……この世で一番私を殺したがっているあなたと戦うべきだと思うわ」
「……そだね。私は君を殺さないといけない」
先ほどまでの戦いから一変して、異様な静けさが二人を包む。
これほどまで似ている二人はやはりどこかで繋がっているようで、陽乃の声音はただの喰種に向けるものではなくなっている。
どこか悲しげで、けれどちゃんと思いが詰まっている。見下すわけでもなく蔑むわけでもない。何か特別な感情が込められている。
「ええ、だから終わりにしたいの。
私とあなたの二人で、誰の邪魔もなく」
陽乃に合流した私達を一瞥して喰種は白い息を吐き出す。
そしてボロボロになった赫子をまたもや再生し、九本の尾を並べて蚊帳の外だった私達に言い放った。
「だから、……あなたたちは邪魔よ」
「「っっ!」」
……いつからだったか。私は捜査官になって喰種が怖くなくなった。
いつからか、私の中で喰種は人間を喰う生き物から捜査官に狩られる生き物に変わった。
…まったく、この間まで比企谷に散々気を抜くなと注意していたのに、なんて私は傲慢なのだ。
口では偉そうなことを言っているのに、心のどこかでは喰種を見下していた。
私達の方が賢くて強い生き物だと思っていた。
でも、そんなものは目の前の化け物と戦うとすぐに間違っていると気づかされる。
今まさに目の前にいる喰種と戦うと、なぜそんなにも傲慢でいられたのか分からなくなる。
クインケで斬られても立ち上がり、足が曲がっても立ち上がる。
どんな執念が化け物を動かしているのかは知らないけれど、自分の中で確かに恐怖が産まれるのはよく分かる。
あぁ、なぜ私はあんなにも傲慢でいられた。
喰種とはこんなにも恐ろしい生き物だって、なぜ忘れていたのだろうか。