馴染みない布の感触と私の知らない匂い。
何度か寝返りを打って違和感を消そうとしたけれど、結局それは無くならないので体は寝る事を諦める。
薄っすらと眼を開けると、石の様な色の天井が広がっていた。
「……あたま……が」
……頭が少し痛い。それに体が異様に重たい気がする。
動くことがとても難儀に感じられ、意識が朦朧とする。
だが、私は体を起こして知らないベッドから降り、辺りを見回した。
「窓がない……。家具も……」
壁が鉄で作られた部屋だった。
正確に言うと壁を鉄の板で覆った部屋。ボルトを使って鉄の板を全面に固定している。
ベッドと以外には何も置かれておらず、ドアがあるだけで窓はない。
一人で暮らすには少し大きい長方形の部屋。
当然だけど、こんな部屋は知らない。
「眠る前は……」
「おはよー、丁度起きたみたいだね」
頭を押さえて記憶をたどろうとしたところで、鉄のドアから見知った相手が入ってきた。
小柄な体形で包帯を全身に巻き、赤い服についたフードを被っている。
人気作家で私の数少ない知り合いの半喰種。
「高槻さん、……ここはどこかしら?」
「まぁまぁそれよりこれを見てくれ。奮発して高いハンカチまで買ってきたから」
複数の紙袋を両手に持ち、肩にバッグをかけている彼女は紙袋の方を私の前に並べる。
その中身を覗き込んで見ると、冬用の衣類が入っている。その中にはブーツなどもあった。
「君の着替えを買ってきたよ。雪乃ちゃんはモデルさんみたいに美人だから絶対似合うよ」
「……?」
少し“雪乃ちゃん”と呼ばれたことに引っかかる。
それに今の状況が呑み込めていないけれど、高槻さんが着替えをしつこく促すので、とりあえず着替えを済ませた。
「ん~、やっぱり白のコートが良く似合う。インナーもシンプルな黒にしてよかった。お嫁さんに欲しいくらい可愛いなぁ」
「………」
なぜか丁度サイズの合うブーツの紐を結びながら頭を使う。
“雪乃ちゃん”
最近誰かにそう呼ばれて、……嬉しいと感じた気がする。
その時に、誰か私の中で特別な人が増えた気がする。
とても大事で、その人の事を考えると優しい言葉が聞こえてくるのに、その人の顔が思い出せない。
「高槻さん、私は何を……、一体誰の所に……」
「……ふむ、やたらと落ち着いていると思ったらそういう事か。頭ぶっ叩いたのが良くなかったのかな?」
心臓が一度大きく拍動して、それからだんだんと早く動き出す。
ケケッと笑う彼女を見て、何かを思い出しかけた。
「残念だったね。……あの“お姉さん”」
「……姉さん…、……姉さん?」
朦朧としていた頭はちゃんと働きだして、自分が繰り返し発する言葉の意味を理解する。
「…っ……!!」
頭の中で急に何かが切れたような感覚が走り、眼を見開く。
そう、……そうだ。
「姉さん、……姉さん。……あの時、私を抱きしめたのは……」
息が荒くなり始め、膝がガクッと折れて後ろのベッドにお尻が着く。
さっきまで穴が開いたみたいに抜け落ちていた記憶が溢れかえる。
雪の中での出来事が早送りにした映像のようにどんどん頭の中を駆け巡る。
姉さんと戦ったこと。
姉さんのお腹を貫いたこと。
抱きしめられたこと。
涙を流して愛していると言ってくれたこと。
私を妹だと言ってくれたことも、私の名前を呼んでくれたことも。
そして、最後に映ったのは……。
「……比企谷くん、……比企谷くんは…っ!?」
記憶の最後にいたのは、あの場に一人残って背を向ける彼だ。
彼はあの後どうなった。そもそもあれから何日過ぎた。
「あぁ、彼か」
彼の名前を呼びながら高槻さんに眼を向けても、すました様子でちゃんとした返事をくれない。
だから変な事を想像してしまって、心臓の音が今までにないくらい大きくなる。
そんな事あり得るはずがないのに、嫌な事を想像してしまって息が余計に荒くなる。
……呼吸をすることが苦しくなるほどに。
「わたし、は……ちゃんとあなたに、……彼の事を頼んで」
「それはもう話したよね。先約があったって」
嫌な想像に頭がかき乱れて、ぐちゃぐちゃになっていく。
そんなのはただの想像であると信じたい。
「……そんなこと、あっていいはずが……。彼に何かあったら……、私は、あなたを…っ…」
ただ一言、無事だという言葉が欲しかった。
たどたどしくなる私の言葉を止めて、彼は大丈夫だと言ってくれればそれでよかった。
最悪彼が捕まったとしても、どんな手を使っても助け出すからそれでもよかった。
「それは参ったな。せっかく雪乃ちゃんのために拾ってきたのに、逆に怒られそうだ」
高槻さんは今までずっと肩にかけていたバッグを床に置き、包帯を巻いた手でチャックを開く。
バスケットボールが二個ほど入りそうなそのバッグ。
ゆっくりと開かれたその中から、籠っていた匂いが部屋に漏れ出した。
「あ…………」
その匂いはほんの少し嗅いだだけで何か分かる。
「元は同じ捜査官だったのに容赦なかったよ。まぁ仕方ないと言えば仕方ないけど」
ただ、……生きていてくれればそれでいいのに。
「拾ってくるのも大変だったんだよ? 美味しそうだから喰べちゃいたくなるし」
彼女が、カバンの中から取り出した物は、……私が今まで何度も喰べてきたもの。
五本の指が揃って、肘の数センチ先で綺麗に切断されている。
食欲をそそる血の匂いと、その中に混ざった彼の匂い。
これは……、彼の……。
「匂いで分かるだろ?これがひき____」
「黙って!!!!!」
叫び声にも近いそれは鉄の部屋の中で反響する。
彼女の続きの言葉をかき消さないと私が壊れそうになった。
「ああぁ……、あああああぁぁぁ!!!」
いや、もうとっくに壊れている。
言われなくとも、見せられた右腕が誰の物かなんて匂いで分かる。
その匂いを私が間違えるなんてことはあり得ないから。
「彼は喰種じゃない。私達みたいに肉を喰えば治せるわけじゃない」
心臓がドクドク言って、頭がぐちゃぐちゃになる。
両手で頭を抱えても、私の頭がぐちゃぐちゃになる。
潰されて突き刺されてかき回されて。
ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ___________。
「……君と私はやっぱり似ているね。私達化け物に関わる人は碌なことがない」
スッと最後に息を吸って、無情にも彼女は告げる。
「“彼は死んだよ”」
「ああああああああああぁぁぁ!!!!!!」
何も考えられなくなって、行き場のなくなった感情だけが暴れだす。
私は咄嗟に指の爪を立て、彼女に襲い掛かった。
キリの良さ的に今回は少し短くなりました。
前話のあとがきで残り三話と言っていましたが、今最終話を書いていましたら予想以上に長くなってきたので分割するかもしれません。
なのでこれからが本当のラスト三話です。