朝、真上の空には雲が漂っているが、少し先では青い空が見える。
寒気の影響だか暖気の影響だか知らないが、東京では数週間ぶりに雪が降り注ぐ。
いつ見てもそれは美しくて、ついつい上を向きながら目的地に向かった。
雪で濡れた踏切を渡ってたったの数歩。
その場所に到着して店のドアを見ると、“OPEN”と書かれたプレートが掛かっている。
早い時間でも営業していることに安堵し、肩についた雪を軽く落としてから店のドアを開いた。
「いらっしゃいませ」
ドアの金具に吊り下げられているベルが綺麗な音を鳴らし、花の香りが鼻孔をくすぐる。
そんな中、パタパタと近づいてくる店主さんを見て思わず頬が緩んだ。
「あっ、やっぱりまた来てくれた」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・*
三月三週目
彼がいなくなってから三週間が過ぎた。
人が三週間と聞いて長く感じるのか短く感じるのかはそれぞれだが、私にとってこの三週間は途方もないほど長かった。
ただ時が流れるのを待つだけだったから気持ちの悪いほど一日が長い。
もう彼が私の前から居なくなったのが一年前くらいに感じられる。
随分と遠くに、……彼は行ってしまった。
「……」
私は父が他界してからずっと一人で生きてきた。
喰種の知り合いなんて高槻さんくらいだったし、大学で親しい人もいなかった。
だからずっと一人が当たり前だった。別に一人でもいいと思っていた。
ただ自分が化け物であることが不満で、一人であることには何の不満も持たなかった。
そう考えれば、今はただ昔に戻っただけ。
比企谷くんがいない事なんて昔の私からすれば普通だった。
「…………」
なのに、今の私はこんなにも脆い。
寝具もないのに一日中彼と一緒に暮らしていたアパートに籠り、未だに立ち上がれない。
水を飲んで今までやり過ごしてきたけれど、もうずっと前から胃が肉を求めている。
このまま部屋の中にいたら確実に餓死するけれど、それでも私は外に出る気がない。
「…………雪…?」
でも、そんな私を動かしてくれるのは雪だった。
薄っすらと眼を開け、カーテンの隙間から見えたのは朝の空を白くする雪の結晶達。
三月では珍しい雪が降り、今日はあの事件の日以来の降雪日となった。
「……」
雪を見ていると色々なことを思い出す。
辛い事や楽しい事、顔の知らない母の事を思ったり、顔の似ていた姉さんを思ったり。
きっと私と姉さんが似ていたから私達は両方とも母親に似たのだろう。
切っても切れない関係、私達はそんなところで繋がっている。
「雪の中で……」
本当に思い返すと雪の中で色々な事があった。
その中でも、やっぱり大切だったのが彼との出会いだ。
「……ちゃんと、お礼を言いに行かないと」
手で床を押して立ち上がる。思い立ったことをするためにやっと私は動き出す。
脆くて崩れ落ちそうでも、私は行かなければならない事に気がついた。
今日まで散々涙を流してやっと気がついた。
生かしてもらった私はどれだけ辛くても絶対に行かなければならない。
あなたのいない世界を思うとまた泣きだしそうになるけれど、本当にあなたを思うなら進まなければならない。
「ちゃんとお礼と、……お別れを言いに」
あなたに貰った全ての幸せを、……ちゃんと言葉にしてお別れを言わなければならない。
*
部屋の中から見ていた景色と実際に外に出て見る景色は違っていた。
夜中の内に派手に降っていたのか街は雪化粧で姿を変えている。今の雪はどちらかと言えば小降りで空は曇っているが青い部分も多い。
歩く地面は白に染められて、ブーツでその上を踏むと何とも言い難い結晶がつぶれていく感触が味わえる。
酷いところは完全に凍っていて、その場所を通ると滑りそうにもなる。
会社に通勤している人や自転車で大学に向かう学生などは危ないから嫌がるだろうが、小学生なんかは喜んでいるに違いない。
まぁ日も出ているので昼過ぎには解けてしまっているだろうけど、と呟いてフードを被った。
まだ朝の8時になって間もない時間帯、近くの駅に向かい電車で7区から8区へ戻る。
散々泣いたお陰なのか思っていたよりも落ち着いていて、何の問題もなく8区の駅に着いた。
ただ、電車に降りるときに三週間前の7区の事件について話し合っている人達がいたので、耳に届かないようすぐさまそこから離れた。
「さすがにどの辺りにあったのか……」
駅を出て歩いている途中、偶々見つけた看板地図の前で足を止める。
眼に入った地図は簡易的なものであるが、なかなか広大な範囲を示している。
他に誰も見ていないので存分に眺め、目的地を探すこと約数分。やはり簡易過ぎるのかどうにも目的地が見当たらない。
これはもう記憶を頼りに探すしかないのかしら。
「…っ……これね」
諦めずに指で地図をなぞっていると、緑色で塗られたとある場所に眼が留まる。
その場所には何の文字も書かれていないので、この地図だけでは具体的に何があるのか分からないのだが、その隣の場所が水色で色づけられている。
私の考えが間違っていなければきっとこの場所が私の目的地。
「……行きましょうか」
進路を確認した私はフードを深く被りなおし、また歩き出した。
*
入り組んだ道を40分ほど迷い続け、やっとそこを抜けると分かれ道に差し掛かかる。
右にある小さな坂道を下り、更に右手の方にはガードレールの向こう側に小さな畑。
青い帽子をかぶったおじいさんが一人で手入れをしていて、それを横目にずっと進んでいった。
「……」
被っていたフードを脱ぎ、鼻から息を吸うと水の匂いがする。
あの時に無意識で嗅いでいたその匂いは、私の中にある大切な思い出を引っ張り出してくる。
腹部から滴る血を押さえ、暗闇の中で息を切らしながら走った。
行き着いたこの場所に倒れこみ、その時に頬で感じた土の感触。
夜中の気温は耐えがたいほど低く、裂けた皮膚が再生しなくてとても痛い。
辛くて苦しかった。縋る物なんてなかった。
「ごめんなさい、比企谷くん。
私……方向音痴だから、来るのが随分と遅くなってしまったわ」
雲の隙間から太陽が光を放ち、青い空と白い雪が美しい景色を作っている。
二歩、三歩と踏み出したその場所は、彼と初めて出会った大きな公園。
右手の鉄格子を挟んだ隣の場所にはあの時と変わらず小さな池がある。
「今日もあの時と同じで、雪が降っているわ」
彼がもしいるのなら、ぶっきらぼうな返事をするのだろう。
そんな事を考えて、黒い鉄格子のそばにあるブランコへ近づいた。
「ハンカチ……、持ってて良かった」
ブランコに積もった雪を手で落とし、ハンカチを使って水分を拭き取る。
何となく座りたい気分なので池のある方を背側に腰を下ろす。
両サイドの鎖を握ってブランコを漕いでみようとしたけれど、鎖が冷たすぎるので止めておいた。
「…………」
心地よい静けさだ。
水の匂いを嗅いでいると余計にそう感じられる。
人の声が聞こえない、聞こえるのは風が公園周りの樹を揺らす音や後ろの水面を撫でる音。
ブランコの軋み音や自分の呼吸音。雪も雨みたいにうるさく落ちてこない。
この世界いる全ての生き物がいなくなって、私一人がここに残っているみたいだ。
もちろん、遠くまで耳を澄ませばそんな事はないとすぐに分かる。
「ねぇ比企谷くん、私はあなたが好きだった」
上の雪雲を見ていると、気持ちが空気を震わす振動に変わって出てきた。
「…いえ、違うわね。……今でも好きよ。
たぶんこの先も私が朽ちるまで」
どうせ誰もいないし何を言っても良かった。
こんな恥ずかしい言葉だけれど、他の場所で言っても意味がないので続けた。
「あなたがいなくなってからずっと考えていたのよ。
どうしてあなたを好きになったのか、なぜあなたに恋をしたかったのか」
好きの定義なんて曖昧なものだけれど、それでも誰かを好きになることはとても難しい事だと思う。
うわべだけの恋なら簡単にできるかもしれないけれど、そんなものは空虚で興味がない。
だけどその分楽にできて、本当に相手を想う事は楽じゃないし勇気がいる。
相手と自分を比べると悲しくなる。彼の隣にいるのが相応しくないからますます自分が嫌になる。辛くて苦しい、傷を負って逃げている時と同じだ。
……じゃあなぜ、私はそんな辛い事をするのか。なぜあなたを好きになったのか。
「きっと……、私はあなたに愛して欲しかったのよ。
傷ついてボロボロになって、それで死ぬことになってもいい。
そんな事よりも、私はあなたに愛される化け物になりたい」
上手く伝えられなくてもどかしいけれど、結局のところはこういう事になる。
私が彼を好きになった根本にある物は、彼が優しいから好きなどではなくて。
「ただひたすらに、あなたに愛される化け物になりたかった。
そんな私なら、本気で自分を愛せるから。生まれてきてよかったと本気で思えるから」
やはり上手く伝えるのは難しい。
だけどこれ以上の言葉はもうなくて、空に向けていた眼をそっと伏せた。
「…………」
心のどこかで……期待していた。
この場所にいれば彼が迎えに来てくれるのではないか、あの時の様に私を助けてくれるのではないかと。
この場所が本当に最後の望みだった。だから今までここに来なかったのかもしれない。
ここで待っていても比企谷くんが来ないと分かれば、彼はもう絶対に現れやしない。
本当にいなくなってしまったのだと嫌でも分かってしまう。
「……」
やっぱり彼は、
もう死んでしまったのだ。
「…………お姉さん?」
「……っ…!!」
そこで、突然公園の入り口から私を呼び掛ける声。
ばッと顔を上げて公園入口を見ると、そこには中学生くらいの女の子が立っていた。
次回、最終話。投稿は明日の20時以降を予定しています。