あらゆる「ここ」でない場所、あらゆる「今」でない時間。俺はいつ終わるとも知れない篝の研究を、飽くことなく眺めていた。
篝は停滞……いや、ほとんど硬直していた。体感時間でざっと50年ほど。理論のある部分に手を触れたまま微動だにしない。篝の傍らに置かれたコーヒーもまだ湯気を立て続けている。時間の概念が消え去ったこの場所では、事象が進まない限り世界そのものが停止するらしい。ターン制RPGみたいな世界だ、と笑い飛ばそうとしたが、どうにもうまくいかない。代わりに、ずっと冷めないコーヒーってのも贅沢でいいもんだ……と、篝と熱々のコーヒーを視界に収めながらゆっくりと瞼を閉じ、しばし微睡むことにした。
不可解だった。
■は不可解に陥っていた。
本来、生命の系統樹はそれぞれ平行に枝を伸ばし、決して交わることはない。枝の結合などという現象が起きれば、一つ一つの枝がその負荷に耐え切れないためだ。
だがこの枝だけは特殊な伸び方をしていた。先細り、消えていく寸前で枝分かれを始めたのだ。そのほんの一部がほとんど糸のような細さで時間軸に対して逆行し、隣の枝に接続されている。隣の枝も十分な強度とは言い難い。いずれ消える運命にあった。そしてどちらの枝も唐突な消滅でないことは、救済――と、ヒトらが呼ぶもの――ではなくヒト自身による滅びを意味する。
理論全体に大きな変化はない。他の領域に影響を及ぼすこともない小さなエラーだが、そのイレギュラーは■の興味を引くに余りあった。精査をかける。ただのエラーなら修正して次の計算に移るまでのことだ。瞬間、記憶が■の中へと装填される――
《系統樹No.57842■55■19 参照/座標:AD21■■/視点:CodeName 星の人》
私は歩いていた。いつからだとか、どこからだとか、そういった問いはこの場において意味を成さない。私はただ歩くのみだ。私の持っているものを伝えるために。
さあ、今日はどこへ向かおうか――
ひび割れたアスファルトの地面を強かに打つ死の雨は、どんどんと急低下していく気温から鑑みるにいずれ近いうち雪へと転じていくだろう。老いが目に見え始めた身体には益々厳しい環境になる。もし積もるようなら機材を運ぶリヤカーとて動くまい。ソリだって調達する必要があるだろう。
こうしている今でも、疲労が全身にじわりじわりと蓄積されているのがわかる。屑屋だった頃のように車両を乗り回すこともできない。今日は早めに仮宿を探すことにした方がいいだろう。
なるべく移動経路は安全な地域を選ぶようにしている。道半ばで斃れるわけにはいかない。今歩いているのは比較的被害の少なく、また軍の施設もない都市だった場所のようで、代わりに大学や研究所だったらしき建物が散見される。戦後、こうした建物は逃げ延びた難民の一時避難所として使われる傾向にある。とするならば、電気こそ通ってはいないようだが一夜を明かすにはうってつけの場所だろう。適当にあたりをつけて研究所跡へと潜り込んだ。
地上部のガレージにリヤカーを置いて階段を下ると驚くほど保存状態の良い空間が現れた。どうやらこの研究所は地下に広がるシェルターのような構造を成しているようで、雨の侵入もほとんどない。明かりの一つもなく、コンクリート打ちっ放しのいかにも無機質な空間だが、目を引くものがあった。懐中電灯を向ける。
「これは……何かの落書きのように見えるが……」
そこにはこう記してあった。
『解った! 解った! 解ったぞ! ついに観測した! 世界は無数の光条、溢れる光の束! 光条にして大樹、我等の在り処は大樹の中の無数にある一枝! ああ……あまりに遅い! あまりにも我等は遅すぎた! この事実を伝える人間がもうほとんどこの世界にいないとは! もはや一刻の猶予も惜しい、我等は"旅"に出るべきなのだ!』
見慣れたような文字列だ。恐慌状態の閉鎖空間では、人間など瞬く間に正気を失ってしまう。これまでの廃墟や集落でも散々見てきた現象だ。人の規格、枠組み、理を外れた狂える研究者たちは、この閉ざされた直方体に押し込められ……
(いや……)
(それだけで、終わる話なのか?)
あの文字列の意味こそ全く掴めないが、あれこそが真実だという直感が、頭の中で弾けて止まない。私は自ら名乗った星屋という責務も忘れ、あの頃のように辺りの探索を始めた。無機質な部屋だが、何もないという訳ではない。水と食料の包装はそこらに転がっているし、壁際のデスクの上には同じような文章が並ぶ書類が散乱している。そんな中、この空間には不釣り合いな豪奢さを放つ扉に目が止まった。
「これは……」
まるで、そう、まるで……
「プラネタ……リウム……」
手をかけて、一気に引く。暗闇の室内に、扉の隙間からあまりにも強い光が射し込んでいく。両眼を光に射られ、明順応が追いつかない。焼きつく景色は真っ白のまま。その呪縛から解放されるより先に、どこからか声が聞こえる。
『おめでとうございます!』
この、声は……
『あなたはちょうど、250万人目のお客様です!』
視界が解放される。私の両眼は世界の正しい認識を許される。網膜を焼き、視神経を伝い、届けられる情報に――
彼女は、いなかった。
単純な記憶のフラッシュバック。あまりにも似通った情景に、私の脳が見せた幻。半自動扉の閉まる音を後ろに聞いた後、どれほどの時間呆然と立ち尽くしていたことだろう。
私を現実へと連れ戻したのは、眼前に広がる異様な光景だった。自家発電が生きているのか室内には橙色をした明かりが灯っている。一つの機械を取り囲むように置かれた座席と半球の天井こそ確かにプラネタリウムだが、中央の機械を中心にした円を描くように、周囲に不釣り合いなほど黒く無骨な直方体の機械が数台鎮座し、それぞれの配線が座席の合間を縫って接続されている。中央から放射線状に伸びる配線は、さながら中に入った人間を捕らえる巨大な蜘蛛の巣かのような様相を呈している。私は本来の用途とはおおよそ外れて改造されたこの空間に、静かな憤りを覚えた。中央へと歩み寄っていく。この製作者に文句の一つでも浴びせようと思ったのかもしれない。
その機械は三面鏡を思わせる構造を成していた。驚くほどシンプルな構造で、どういった意図で作られたものかまるで理解できそうにない。黒く、縁に鋲の打ち込まれた板状の構造体が三つ折りになって屹立し、その下に階段が作られている。
ここにきて、雲を掴むような直感が、根拠のない自分でも不思議なほどの確信に変わりつつあった。
(この先に、私の行かねばならない場所がある。その場所にこそ、私を必要とする人々がいる)
階段を一段一段踏みしめるように登る。三面鏡型パネルには扉のような取っ手がついている。己の確信めいた直感に従い、一息に開け放つ。見知らぬ街、見知らぬ施設、見知らぬ機械。何十年と培ってきた危険信号は赤ランプを激しく明滅させている状況だが、不思議と躊躇いはなかった。
彼の登っていった階段、その裏側には人が一人入れそうなくらいのシリンダーが設置されている。誰の目にも止まることのなかった一枚の紙が、その側にひっそりと落ちている。
『風祭特殊鳥獣害対策本部より寄贈:"
鍵"(捕獲・無力化状態)』
パネルの背面モニターはとある文字列を表示させていた。
『"系統樹観測鏡"跳躍ログ:1件 7名 No.57842455119→No.16258413』
『時間座標:現在位置より100年遡行』
『目的枝:変更なし』
『跳躍準備 完了』
『よい旅を』
記憶、断絶――
(続)