ダクソかブラボとダンまちのクロス流行れ   作:鷲羽ユスラ

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ちょっと遅かったんとちゃう?


私は神を憎悪し、神は私を■する

 目の前で繰り広げられる戦いを、リリルカは足を取られないようモンスターの死骸を回収しながら、じっと目を離さず眺めていた。

 天井から燐光が降り注ぐ薄緑色のダンジョン内。冒険者の息遣いとモンスターの鳴き声が交錯する空間に、紫紺の光が飛来している。

 それは空を泳ぐ燕のようで、だが稚拙に過ぎる動きだ。鳥の如く優雅にはいかないベル・クラネルのナイフ捌きは、それでも【ステイタス】と武器の威力によってモンスターを狩っていく。

 右手に持つのが黒い短剣、リリルカの狙っていた《ヘスティア・ナイフ》なら、左手に持つのは何の変哲もない《ダガー》だった。ギルドが支給している《短刀》よりは上、そんな程度の武器に見えるが、遮二無二(しゃにむに)振るわれる鉄の輝きはリリルカの見立てよりずっと丈夫に、ベルの戦いを支えている。

 一対一の定石(セオリー)を愚直に守るベルの戦い方は、速攻即撃、それに尽きる。モンスターが動くよりも早く攻撃し、反撃はできるだけ回避する。ともすれば防御を捨てた攻撃特化型、それがベルの戦法だ。

 

 何ともまあ、初心者(ルーキー)らしいやり方だとリリルカは心の中で嘆息する。ダンジョンの恐ろしさを知らない新米冒険者にありがちな、守りを軽視した付け焼き刃の戦い方だ。

 これでよく生き残ってこられたものだ。最初にパーティを組んでダンジョンに潜った時、リリルカは皮肉な賞賛を浮かべていた。一方でこの『新米殺し』が現れる階層――七階層に至れる実力を持ちながら、冒険者となって一月も満たないという事実に驚いていた。

 新米冒険者がこの階層に降りられる力量に至るには、どんな才能があっても数ヶ月は要する。【ステイタス】はそう簡単に上がらないし、冒険者としての知識、経験を培う期間も必要だ。だから一月足らずで降りてくるなんて普通は自殺行為でしかない。

 けれど事実として、ベルは戦い抜いている。それもほとんど単独(ソロ)でだ。

 それが気にならないと言えば嘘になる。だが今はとても、探る気にもならなかった。そもそも【ステイタス】の情報なんてロクな金にならない。第一級ならともかく、下級冒険者なら尚更だ。だからリリルカは金品を掠め取る事以上はしてこなかった。

 

(まあ、できなかったのもあるんですけど、ね……!)

 

 ベルとモンスターの立ち位置、周囲の状況を注意深く観察して、リリルカはモンスターの死骸を安全地帯に引っ張っていく。長年のサポーター業で身に着けた立ち回りは無駄なく機敏なものだ。

 だからこそ――自称サポーターであるアスカの動きの拙さは、戦っているベルにすら伝わっていたに違いない。

 

「あっ……」

 

 ズンズンと迷いなく前に出るアスカにリリルカは察したような声を上げる。同時に影から奇襲する『キラーアント』の鋭い外顎。下級冒険者の骨肉を簡単に裁断するダンジョンの脅威が、リリルカよりも小さい灰髪の小人族(パルゥム)に襲い掛かる。

 一秒後、アスカが哀れな肉塊になるのは明白だった。リリルカが耳にしてきた身の程知らずの冒険者の末路と、いっそ喜劇的なくらい、アスカの行動は重なっていた。

 しかし……何とも忌々しい事に、この小人族(パルゥム)に常識なんて通用しない。

 ()()()()()、とリリルカが認識できたのは、アスカの右手にいつの間にか握られていた《ロングソード》が、垂直に地面へ垂れ下がっているのを見た後。右手から飛びかかってきたキラーアントは、二つの物体となってアスカを素通りしていく。

 この間、一切表情を動かさなかったアスカは、二つに分かれた蟻型モンスターの灰にならなかった方を手に持ち、もう片手で最初に拾いに行った死骸を引きずり戻ってくる。

 一部始終を目撃していたリリルカは、頬が引きつらないようにするので精一杯だった。

 

(なんてデタラメな……これでサポーターとか完全にリリを舐めてますよね)

 

 リリルカが後の魔石回収を見越して計算づくで積み上げたモンスターの山に、アスカは恨みでもあるんじゃないかってくらい乱暴に死骸を放り投げる。貼りつけた笑顔を自制心で維持しながら、リリルカはアスカについて考えた。

 まずアスカは自称サポーターだが、嘘だ。サポーターの技能など持っていないし、サポーターをするような実力でもない。この道で必死に生きてきたリリルカに言わせれば、アスカのやっている事は完全に遊びである。

 それでもサポーターという一面を切り取って考えれば、破格の《スキル》を有しているのが本当に腹立たしい。ダンジョンに潜る前に説明された《スキル》について、リリルカは明確な嫉妬と羨望を抱いていた。

 

(どんな物でも虚空に収納できる《スキル》……そんなの反則もいいところです。リリの商売上がったりですよ。いえ、それ以前にリリがその《スキル》を持っていれば……)

 

 もっとマシな自分(リリ)であれたかもしれない、という思考を、リリルカは唇を噛んで打ち切る。どうせあの【ファミリア】に居る限り、利用されるだけだ。そう思いながら、それでもリリルカは、自分の【縁下力持(あるだけまし)】な《スキル》と比べるのを止められなかった。

 もし。もしリリルカがアスカの《スキル》を持っていたなら。この暴力的な理性を持つ幼女よりも、ずっと上手く利用できる。それを確信するリリルカは、所詮叶わぬ夢と自嘲した。

 今はただ、サポーターに徹するしかない。戦闘が一段落ついたと判断したリリルカは、魔石をナイフで取り出しながら――素手で引き抜くアスカに若干引きつつ――いつものように本心を伴わない笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 本心の伴わない笑みを浮かべながら、リリルカは少し困惑していた。

 店内に響く冒険者達の談笑。見目麗しい従業員の忙しない姿。目の前に並べられた料理。楽しそうな白髪の少年の笑顔。

 自分にはまるで縁のなかった酒場の一席で、リリルカはベル、アスカと共に夕食を取っていた。迷宮探索の後、ベルに誘われた形だ。

 出される料理は食材の質と料理人の腕がいいのか、とても美味しい。食事にお金をかけるなんて勿体無い、あるいはできないと考えているリリルカでも、つい進みが早くなってしまうくらいだ。

 リリルカの一食の十倍以上の値段である事が玉に(きず)だが。今夜は奢りと言われているリリルカは、一見して遠慮がちに振る舞いつつ、遠慮なしに食事を楽しんでいた。

 

(……何をしているんでしょうね、私は)

 

 だから、リリルカは心の中で惑っていた。いくら奢りとはいえ、どうして自分がこんな所にいるのかを。どうしてこんな風に、楽しいと思いながら食事を取っているのかを。

 事の起こりは少し前の夕方、ギルドで換金を終えてからだった。ベルの快進撃とドロップアイテムに非常に恵まれた結果、今日の稼ぎは実に五八〇〇〇ヴァリスという凄まじいものだった。

 一般的な下級冒険者五人パーティの稼ぎ、その二倍を優に超える金額だ。望外の喜びをベルと分かち合ったリリルカは、けれど一方で冷めていた。どうせこの冒険者(ベル・クラネル)も、平等に報酬を分けようとはしないだろうと。

 しかし、リリルカの手元に残ったのは二九〇〇〇ヴァリス。きっちり平等に、半分渡されたのである。

 独り占めしようと思わないのか――つい、そう訊ねてしまったら、ベルは心底不思議そうに疑問を返して。そのまま、「リリがいたからこんなに稼げたんだよ。だから、ありがとう。これからもよろしくね」と言ってのけた。

 

 不思議な気分だった。そんな事を言われたのは初めてだった。目を大きく瞬かせて、ぼぅっとしていたリリルカは、一緒に夕食を食べようと誘ってくるベルに、慌ててもう一つの疑問をぶつける。

 

「あ、あの、どうして二等分なんですか?」

「え?」

「だってパーティは、ベル様とアスカ様と私の三人じゃないですか。どうして三等分にしないんですか?」

「ああ、それはね」

「我らと貴公は、対等だからだ」

「え……?」

「リリルカ・アーデ。貴公は【ソーマ・ファミリア】の所属であり、我らは【ヘスティア・ファミリア】の所属だ。今回の編成は他派閥同士の組み合わせであり、従って我々の間に格差は存在しない。

 我々は対等に契約を交わした。その報酬を平等に分け合うのも当然だ。そこに人数、能力の差、その他議論を差し込む余地はない」

「でも……!」

「リリ。これはアスカさんと相談して決めた事なんだ。これから先、リリみたいに他の【ファミリア】の人とパーティを組むかもしれない。そうなったら対等に契約しようって決めたんだ。

 けじめはつけなきゃいけないからさ。そうしないと、僕達と組んでくれる【ファミリア】なんていなくなっちゃうから。僕とアスカさんの二人だけで、ずっとダンジョンを攻略していくのは無理だって、リリなら分かるよね?

 だからリリ、悪いけど、どうか受け入れてくれないかな? 僕達を助けると思ってさ」

 

「お願いだよ、リリ」。そう言われてしまっては、リリルカに反論はできなかった。そんな言い方、ずるいではないか。

 自分がベルに言った事――サポーターと冒険者は対等であってはいけない。そうしなければ誰も雇ってくれない。だから自分を助けると思って、受け入れてほしい――それと同じ言い回しをされては、受け入れない選択肢はなかった。

 そして誘われるがまま酒場、『豊饒の女主人』に連れてこられて。こうして今、一緒に食事を楽しんでいる。

 不思議な気分だった。それを悪くないと思う自分が、確かにいた。

 

 

 

 

 食事を終えて、夜の路地裏。月明かりが少ししか届かない石畳の上を、リリルカはトボトボと歩いている。

 そこは地上の迷宮街。『ダイダロス通り』と呼ばれる、奇人ダイダロスが築いた複雑怪奇な住宅地域。リリルカですら足を踏み入れたくない貧民達の砦の中を、重い足取りで進んでいく。

 道順は、強制的に覚えさせられた。縦横無尽、目印などすぐに見失う住宅街を、迷いなく掻き分けていく。右へ左へ後ろへ前へ、上へ下へと曲がりくねる内、最下層の全く目立たない扉の前にリリルカは立った。

 深呼吸を二回して、大きな取っ手に手をかける。リリルカには重い、古びた扉を外側に開くと――ありふれた室内に一点だけ、奇妙に灯る篝火があった。

 煙を起こさない、火が揺れるだけの篝火。灰と熱と、突き刺さる赤い螺旋剣が印象的なそれに扉を閉めて近づくと――暗がりから、掠れた声が擦り鳴らされる。

 

「来たか。リリルカ・アーデ」

「っ……」

 

 びくりと体を震わせて振り向けば、椅子が四つある円卓の一席に、灰髪の小人族(パルゥム)が腰掛けていた。今日ダンジョンを共に探索し、夕食を一緒に取ったアスカ――いや、その皮を脱ぎ捨てた“灰”である。

 

「……驚かさないでください。心臓が飛び出るかと思いましたよ」

「そうか。それは済まないな」

「…………絶対済まないと思ってないでしょう……でも、別にいいです。さっさと終わらせましょう」

 

 意図して軽口を叩きながら、小刻みに震える足を無理やり動かして、リリルカは“灰”の正面に座る。それを確認して、“灰”は手を前に差し出し――青白い光を大きな亜麻色の袋に変えて、リリルカの正面に置いた。

 

「約束の報酬、後払いの十万ヴァリスだ」

「…………」

「確かめてくれ」

 

 ジャラリと金属音を掻き鳴らす亜麻色の袋。その緩んだ取り出し口からは黄金の輝きが漏れ出ている。ゴクリと喉を鳴らして、リリルカは震える手でそれを手に取り、青い顔で金貨を数え始めた。

 こちらをじっと見続ける“灰”の視線から目を逸らすように。しかしこれまで散々リリルカを叩きのめしてきた現実が、現実主義者(リアリスト)であるリリルカに逃避を許さない。

 一枚一枚、丁寧に金貨を数えながら――リリルカは“契約”までの経緯を思い出していた。

 

 

 

 

 それは夕闇の記憶。昨日、いつものように冒険者を騙したリリルカは、灰髪の小人族(パルゥム)に足を切断され、喉を潰され、頭を踏み躙られた。

 騙した冒険者、ベル・クラネルから盗んだ武器(ヘスティア・ナイフ)を取り戻す。ただそのために、塵のように扱われたのだ。

 リリルカはその激痛の中、世を呪いながら意識を手放した。そしてそのまま、死んだ筈だった。

 けれど目を覚ました時、リリルカはこの隠された篝火の部屋に居た。御丁寧に手を縛られ、目の前に切断された足を置かれた状態で。

 不思議と痛みはなかった。いや、今思えば痛みを消失させる何かをされていたのだろう。【激しい鈍麻】、ひどくのろまになった肉体は、視界の端が暗く濁っていた。

 

「起きたか。リリルカ・アーデ」

 

 そんなリリルカの栗色の瞳に、灰髪の小人族(パルゥム)は無表情に映っていた。変わらぬ虫を見るような瞳、銀の半眼はじっとリリルカを捉えている。

 状況を掴み切れず、ぼぅっと濁った目を揺らすリリルカの前で、“灰”はいそいそと置かれていた足を持ち上げ、リリルカの側に寄った。そしてぐちゃりと、適当に切断面を引っ付けて、鈍い緑色の瓶から黄金の液体を振りかける。

 それによって足が回復したのは、復活した両足の鈍い感覚から理解できた。驚くリリルカに、灰髪の小人族(パルゥム)は無理やりその液体を飲ませる。熱さと、炉に積もる灰のような味が通り抜け、潰された喉が治った瞬間――急速に戻ったリリルカの理性が、瞬時に今を理解した。

 

「――――ッッ!? ごほっ、げほっごほっ!?」

「ん? エストを吐き出したか。勿体無い真似をする」

 

 喉が完治しても口に注がれ続ける液体に、リリルカは呼吸困難から吐き戻す。それを少し意外そうな顔で見て、灰髪の小人族(パルゥム)はすぐさま無表情に戻る。

 そして俯いて咳き込むリリルカの髪を掴み、乱暴に顔を持ち上げて、二人の小人族(パルゥム)は正面から向き合った。

 

「私の眼を見ろ、リリルカ・アーデ」

「っ……!?」

 

 髪を引っ張られる鈍い感触に目を見開くリリルカは、その暗い銀色に凍てついた。灰髪の小人族(パルゥム)の、まるで凍った太陽のような半眼には、良く分からないものが渦巻いている。

 ()()()()()()()。その直感は、けれど無意味だ。髪を掴まれて首を回す事ができないリリルカは、真っ向からそれを見続けるしかない。

 逸らす事を許されない中、灰髪の小人族(パルゥム)は静かに、声を擦り鳴らした。

 

「まずは前提の確認といこう。貴公、目を覚ます以前の記憶は鮮明か?」

「は……はい……」

「私が誰か知っているか?」

「い、いいえ……」

「おおよその見当はついているか?」

「はい……」

「では、私に恐怖を抱いているか?」

「……は、い……」

 

 次々繰り出される質問に、素直に答えるリリルカ。答えるしかないリリルカ。「ふむ」と口元を手で覆いながら、灰髪の小人族(パルゥム)は思案顔をする。

 それを見ながらリリルカは、状況の把握に必死になっていた。ここは何処なのか、こいつは誰なのか、一体何が目的なのか――考えても考えても、目の前の人物の正体以外、ほとんどの事が分からない。分かるのは、逃げられないという事だけ。

 どうしようもないとリリルカは悟った。彼我の戦力差は身をもって理解している。どんなに頭を回しても、向こうの言いなりになる以上の事はできない。そう結論付けたリリルカは、諦念と絶望でそっと体の力を抜いた。

 同時に、思考を終えた灰髪の小人族(パルゥム)がリリルカに向き直る。今度は全てを諦めた人間の腐った目でそれを見返したが、なんら頓着した様子は見せず。古びた鐘のような声は、一方的に告げられた。

 

「それでは、自己紹介から始めよう。

 私に名前はない。ただ“灰”と呼ばれている」

「…………」

此度(こたび)、貴公を(かどわ)かしたのは、貴公に利用価値を見出したからだ。

 私はサポーターを欲している。ただの荷物持ちではなく、迷宮を知り、手際が良く、優秀なサポーターだ。貴公はその基準を満たしていると判断した。

 故にリリルカ・アーデ。一個人として、私は貴公に提案する。

 リリルカ・アーデ――サポーターとして、私と契約を結ばないか?」

「……はっ」

 

 無意識に口から飛び出たのは、呆れと嘲笑の声だった。灰髪の小人族(パルゥム)――“灰”の提案とやらに、一週回って余裕の生まれたリリルカは、鼻で笑って嘲るように言う。

 

「冒険者様はおかしな事を聞きますね。愚図で鈍臭いリリなんかと、契約をしたいだなんて。

 素直に言ったらどうですか? リリを奴隷にしたいから四の五の言わず従えと。冒険者様の腕なら、そんな事簡単でしょう?」

「私にも事情はある。家族の前では、まともな振りをしなければならない。

 だから今、私と貴公は対等だ。貴公に関するあらゆる決定権は、全て貴公の手の内にある」

「対等……? あはっ、対等ですかぁ? 一度辞書で「対等」の意味を調べられてはいかがでしょう? きっとリリが知っているのとは違う意味が、冒険者様の辞書には書かれているんでしょうね」

 

 自棄(ヤケ)になっている。リリルカにその自覚はあった。相手は自分を真に人ならぬ塵のように扱い、今なお虫を見る目で視線を合わせ続ける冒険者。奇跡が起ころうと、リリルカが逆立ちしようと敵わない相手。

 飛び出す声は震えている。顔は蒼白で、手先からは血の気が引いていた。それでもリリルカの嘲弄は止まらない。あるいはこの状況だからこそ、溜まっていた鬱憤が爆発したのかもしれなかった。

 

「冒険者様はいつもそうですよね。傲慢で、残忍で、リリから何もかも奪わないと気が済まないんでしょう? 役立たずと罵って、いざとなれば囮扱い、リリの事を嗤いながら、唾を吐きかけるのが貴方がたです。

 ――ああ、全く、本当に。見限るのに困らない奴等(かたがた)ですね。冒険者様は」

 

 リリルカの引きつった不細工な笑みはただの強がりだ。諦めていても、怖いものは怖い。次の瞬間、不興を買ってあらん限りの苦痛を与えられて殺されるかもしれない。そんな恐怖と戦いながら、それでもリリルカは“灰”と向き合っている。

 単純に、何もしないまま死にたくなかった。今もリリルカを蝕む鮮明な記憶、世界を呪いながら自分の無力を噛み締める死に様が、何もしない事を許さない。

 こんな愚図で、消えても誰も気にかけないリリルカ・アーデにも。何も変えられないと知りながら、叫びたい事はあった。塵のように殺されそうになって、初めて分かったちっぽけなプライドだった。

 その小さくも、卑小である故に持ちうる弱者の矜持に、“灰”は僅かに眼を細め。瞬きをし、対等に向き合う。

 

「貴公の考えは良く分かった。その上で、改めて言わせてもらおう。

 リリルカ・アーデ。サポーターとして、私と、対等な契約を結んでほしい」

「…………」

 

 繰り返される言葉に、リリルカは怪訝な顔をする。

 どうして対等に拘るのか。それは一から十まで“灰”の都合だろうが、サポーターと冒険者が釣り合うと考えているのなら、片腹痛い話だ。他ならぬ役立たず(サポーター)であるリリルカが天秤は両立しないと、本心からそう思っているのだから。

 だが、“灰”はそう思っていないようだ。“灰”の可愛らしく膨れた唇は、その可愛さを嵐で吹き飛ばすような無表情の下で小さく動く。

 

「私は貴公に利用価値を見出している。

 貴公は良いサポーターだ。迷宮(ダンジョン)をよく調べ、鷹のように俯瞰する目と使いこなす能を持ち、技術と経験を持ち合わせている。良いサポーターだ。何より貴公は、人の澱みをよく知っている。それは私が欲する者に近しい。

 私には家族がいる。貴公が武器を奪った冒険者、と言えば分かりやすいか。

 アレは純粋で、無垢で、真っ新な男だ。人の穢れを知らず、また知ったとしてもその在り様を、おそらくは変えない。人の世において稀有な、愚直で、それ故に眩しい男だ。

 私はアレの役に立ちたい。だが、そのための力が足りない。私にはサポーターとしての能力が致命的に欠けている」

「……自慢ですか? 冒険者様なら、そんなの当然でしょう。リリだって、なりたくてサポーターをしているわけではありません。これしか道がなかったから、仕方なく覚えただけです」

「だからこそ、私は貴公を必要としている。

 専属と定めたからこそ、貴公の能力は高い。進むべき道が一つしかないと理解した人間の、諦念を抱えてなお前へ進もうとする力の大きさを、私はよく知っている。

 だから貴公と、私は契約を結びたい。他の誰でもない、リリルカ・アーデを私は選択する。

 後は貴公の、返答次第だ」

 

 断言される“灰”の言葉は、真っ直ぐにリリルカの心に落ちる。何か(ソウル)が渦巻く銀の瞳が、それが真実だと告げてくる。

 リリルカは自棄になっていた感情から理性を取り戻した。同時に素早く思案し、確認するように矢継ぎ早に質問する。

 

「仮に断ったらどうしますか?」

「話は終わりだ。貴公を解放し、私は去る」

「リリがそれを信じるとでも?」

「それは貴公の勝手だ。私に語る以上の保証は出せない」

「……リリのした事を許すんですか?」

「私の目的は達成された。《ヘスティア・ナイフ》を取り戻した以上、利用価値のある貴公を殺すのは無為だ。だからこうして提案している」

「……リリが提案(それ)を受け入れるとでも?」

「それもまた、貴公の勝手だ。私に語る以上の勧奨(かんしょう)はできない」

「…………報酬は、ちゃんと支払ってくれるんですよね?」

「勿論だ」

 

 鷹揚に頷く“灰”に、リリルカは目を閉じて考える。

 “灰”の言葉に嘘はないだろう。それは間違いない。確証は何もないが、“灰”の瞳に嘘はなく、その性質も嘘を好まないとリリルカの観察眼が訴えてくる。

 そしてまた、容赦もない。リリルカが生きているのは利用価値があったから。“灰”にサポーターとしての知識経験がなく、リリルカにはそれがあった。そういう運の巡り合わせでこの場は成立していて、ボタンが一つ掛け間違えば今頃は呆気なく死体になっていた筈だ。

 推測だが、リリルカに頷かせるつもりで動いてもいる。リリルカが起きてから傷を治したのは、生かすも殺すも自由自在だと認識させるためだ。恐怖と諦念でリリルカの視野を狭め、意志決定を誘導する。嘘は言わないが、行動に躊躇もない。目的の達成のためなら、おそらく何でもするのだろう。

 それらを加味した上で、考える。どうすれば最善に辿り着けるのか。

 

 提案を受け入れる。これは有りだ。対等な契約を結びたいと言っているし、報酬も支払うという。問題は契約と報酬の内容が明言されていない事。だからひとまず保留する。

 提案を断る。これも有りだ。言葉通り、“灰”は何事もなく解放するだろう。口止めに殺されるかもしれないが、吹聴せず、またあの少年を狙わず、故意に接触しなければ問題ない筈だ。一応本命とする。

 答えず逃亡する。無しだ。ともすればあっさり見逃してもらえるかもしれないが、危険(リスク)が大きい。何より逃げられるわけがない。却下する。

 逆に強請(ゆす)る。大穴だが自殺行為だ。億に一つくらいはゆすりたかりが成功するかもしれないが、失敗すれば早々に見切りをつけられるだろう。“灰”はたぶん、愚者を求めていない。却下する。

 その他、様々な可能性を考え、リリルカは再び質問してみる事にした。具体的には契約の仔細について。それ如何によってリリルカの行動は決まる。

 

「契約の内容と報酬を教えてください」

「契約は私とベル、二人の編成(パーティ)に加わる事。サポーターとして貴公には同行してもらいたい。

 報酬は迷宮探索一日につき、二十万ヴァリスだ」

「……馬鹿ですか貴方は。契約内容はともかく、そんなアホみたいな報酬につられると思っているんですか?」

「信用がないのなら分割しよう。前金で十万、後金で十万だ」

「…………リリは随分信用されているんですね。持ち逃げしてくださいって言ってるようなもんですよ、それ」

「その時は、私の見る目がなかったと反省しよう。そして貴公とは二度と契約を結ばない。それだけの話だ」

「…………」

 

 栗色の瞳で銀の半眼と相対して、そこに嘘はないとリリルカは確信する。髪を掴まれたまま目を閉じて、何度か深呼吸をしたリリルカは、カッとまぶたを開いてはっきりと言った。

 

「いいでしょう。私は貴方と契約します。それでよろしいのですね? 冒険者様」

「感謝する。リリルカ・アーデ」

 

 “灰”は一つ頷いて、髪を掴んでいた手を放した。今になって痛みを訴えるリリルカの栗色の髪に乱雑に黄金の液体をかけて、“灰”は拘束していた縄を解く。

 解放されたリリルカは異様に目を輝かせた状態で立ち上がって体を伸ばし、それから時間をかけて“灰”と契約の仔細を詰めた。

 

 

 

 

 断言しよう。あの時のリリルカ・アーデはどうかしていた。いくらなんでもこんな危険人物と契約を結ぶだなんて、正気の沙汰とは思えない。

 金貨を数え終わり、きっちり十万ヴァリスある事を確認したリリルカは、大事に大事にしまいながら、過去の自分をこれでもかと呪う。

 

(馬鹿じゃないですか!? いや本当に馬鹿じゃないですか!?

 報酬につられたのは認めましょう! 半ばヤケクソになっていたのもしょうがないです!

 でもそれでも、どうしてあの時のリリは自分が真っ当な判断を下していると思い込んでいたんですか!?)

 

 あの時のリリルカは極限状態だった。死ぬような目に遭わされて、どこぞと知れぬ場所に誘拐され、痛覚を鈍らせる何かをされて、脅しつけるように契約を持ちかけられた。

 休む間もなくそんな事をされたリリルカの精神がまともであった筈がない。覚えているだけでも、驚いたり、冷静になったり、急に自暴自棄になったり、また冷静になったりと、明らかに情緒不安定だった。リリルカの正常な判断力は事が始まる前から奪われていた。

 そんな精神状況で考えた事なんて、一見して正道であっても中身は滅茶苦茶だ。あの時リリルカがすべきだったのは、即決で断って逃げる事だった。あれ以上、“灰”に関わるべきではなかったのだ。

 しかし現実は、契約をきっちり交わして、前金の十万ヴァリスを頂いて丁寧に帰された。利用している安宿まで送られて、部屋で呆けていたリリルカが我に返った時、抱えた絶望たるやいかばかりのものか。荷物に混じる十万ヴァリスの輝きがリリルカに追い打ちをかけた。

 

(馬鹿馬鹿っ、リリの大馬鹿者っ!!

 殺されかけた相手にお金で(ほだ)されるなんてベル様の事を笑えませんっ! 確かに報酬は美味しいですし、仕事は今までで一番やりやすいですし、分け前だってちゃんと貰えるチョロい仕事ですけども!

 いやいや何考えてるんですかリリはっ!? こんな思考に陥っている時点で相手の思う壺です! 幸いな事に契約は一日更新、報酬は頂いた事ですしさっさととんずらしますよっ!)

 

 ぐるぐると頭の中で考えながらさっさと荷物を背負ったリリは、精一杯取り繕った満面の笑みを“灰”に向ける。そして別れの言葉を言おうとして、硬直した。

 

「ア……アスカ、様……そ、その金貨の山、は……?」

「うむ。リリルカ、貴公の働きは素晴らしい物だった。私の想像以上にな。ついては、追加報酬を払うべきだと考えた。これはその代金だ」

「そ……それは嬉しい評価です、けど……い、一体いくら積んであるんですか……?」

「八十万ヴァリスだ」

「はちっ……!?」

 

 その圧倒的な金額――今回用意された報酬の四倍の値段に――リリルカは完全に言葉を失った。思わず背負った荷物を落としそうになって、慌てて体のバランスを取る。

 

「しょ、正気ですかっ……!?」

「私の正気を疑うか。そこは私自身、狂っていないとは言い難いが……まあいい。

 私はこの追加報酬に関して、契約金も改めたいと考えている。私が最初に提示した二十万ヴァリスに、追加報酬の八十万ヴァリス。計百万ヴァリスを今後の日当として支払おう。

 前金についても、最大限貴公の意志を尊重しよう。望むのなら全額前払いでも構わない。ああ、そういえばパーティに所属している間、使用したアイテムの代金はこちら持ちだったな。手間を掛けさせるが、詳細をまとめて書き出してくれると助かる」

「……………………かですか」

「ん? 聞こえなかったな。済まないがもう一度言ってくれ」

「馬鹿ですかアスカ様はぁあああああああああっ!?」

 

 “灰”の一方的な話に途中から俯いていたリリルカは、溜まりに溜まった活火山のように爆発した。それを正面から受けて、やはり“灰”は動じない。しかしリリルカの方もそんな事では止まれなかった。

 

「一体どこの世界の住人なんですかアスカ様はぁっ!? こんな詐欺でも言わないような法外な報酬をサポーター如きに支払うなんて、頭に虫でも湧いてるんじゃないですか!? シロアリみたいに頭を噛んで噛んで苛むような虫がっ!!」

「いや、そんな筈は……だが、私もまた人の膿。白面の虫も湧こうものか……?」

「例えを本気で取らないでください怒りますよ!! 訳の分からない事言ってないで、ご自身がいかに世間知らずで非常識でとってもとっても変であるかご自覚してください!!

 貴方は本当に心臓に悪くて嫌なんですよリリはぁっ!!」

 

 素っ頓狂な反応を返す“灰”に、若干泣き言を入れながらリリルカは頑張って反駁(はんばく)する。こんなリリルカに都合が良すぎて堪らない話は、特大の地雷がありますよとあらゆる情報手段を駆使して宣伝しているようなものだ。

 ましてそれが自分を殺しかけた相手からの提案であるから性質が悪い。断ったらどうなるか、どうもしないと分かっていてもお腹の辺りがきゅうきゅうしてくる。栗色の目に涙を溜めながら、激憤でようやく本音をぶちまけられるリリルカは、ここぞとばかりに吐き散らかす。

 

「最初に会った時から思っていましたが、アスカ様はおかしいですっ! リリを塵のように扱ったあの一件もそうですし、かと思えばこんな報酬をポンと支払う道楽者、貴方の事が掴めなくて今日一日どれだけリリが怖がっていたか分かりますか!?」

「そういえば努めて目を合わせようとしなかったな。まあ、健気であったと思う」

「感想がそれとかホントおかしな人ですねぇっ! そんな貴方に現実ってものを嫌という程教えてやりますよっ!!」

 

 一旦区切って、リリルカは大きく息を吸う。そして目元を拭ってキッと“灰”を睨みつけた。

 

「いいですか!? まず貴方はリリの事を優秀なサポーターだと思っているみたいですが、全然まったく勘違いです! リリ程度のサポーターなんてそれこそごまんといますし、なんならアスカ様の方がずっと凄いです! サポーター顔負けの反則《スキル》を持っているんですからね!」

「私にとってはありふれた技能(スキル)なのだがな」

「リリが話してるんですから黙っててください! それで、そんなリリにこれだけの大金を払うのは詐欺師か大馬鹿と相場が決まっています! お金で釣って騙して追い剥ごうとする魂胆が見え見えです! 残念ながらアスカ様は大馬鹿に分類されるようですけどね!

 そもそもサポーターを雇っておきながら、稼ぎ以上の報酬を支払う時点で意味不明です! しかも稼ぎ自体はきっちり折半するとかイカれてるとしか思えません! 裸に鉄兜を被って両手に松明を持ちながらドラゴンに挑むくらい馬鹿で間抜けでありえない話です!

 貴方がやっている事はそれくらい、誰が見てもおかしい事なんですよっ!!」

 

 バァンッ、と最後は円卓を両手で叩いて、リリルカは強く言い切った。呼吸を大きく乱す詐欺師の小人族(パルゥム)に、“灰”の様子は変わらない。

 ただじっと、まぶたの半分降りた瞳でリリルカの目を見つめ続けている。そして数拍おいて、“灰”は静かに口を開いた。

 

「リリルカ・アーデ。貴公は一つ勘違いをしている」

「……何ですか? これだけ言ってまだ馬鹿が治らないんですか、アスカ様は」

「私の愚かさなどどうでもいい。重要なのはそこではない。

 私はな、リリルカ。本当は貴公にそこまで価値を見出してはいないのだ」

「え……?」

 

 銀の光が音も無く輝く。ソウルが渦巻き、絶対的な真実を叩き込む眼がリリルカを捉える。

 

「正確には、貴公の力を認めはしているが、わざわざ契約するまでもないと考えている。貴公に語った事は嘘ではないが、大袈裟だった事は否めない」

「じゃあ、なんで……」

「ベルが、そう望んだからだ」

 

 呆然とするリリルカに、アスカは滔々と答える。

 

「貴公が良いと、ベルが言った。サポーターとして一緒にダンジョンに潜るなら、リリルカ・アーデを選びたいと。ベル・クラネルがそう望んだ。

 だから私は貴公と契約した。《ヘスティア・ナイフ》を奪い返す都合上、そのまま解放しては貴公が姿を眩ませるのは明白だ。故に誘拐を断行し、契約を迫った。ベルの望みを叶えるためにな」

「……リリに、有利な契約は……」

「貴公に断らせないようにする口実だ。生半可では逃げるだろう、そう考えて断れない金額を提示した。今回の値上げは、それでも契約の続行を渋ると判断した故、吊り上げた。

 金銭を欲する貴公が、決して拒絶しないように」

「……は、はははっ……」

 

 明かされた真実に、乾いた笑い声を上げてリリルカは倒れ込むように椅子に体を預ける。貼りついた笑顔の下で、思う事は一つだけだ。

 

(――ああ、リリは。一体何を勘違いしていたんだろう)

 

 “灰”と契約したのは、リリルカがまともな状態じゃなかったから。ばっくれなかったのは、“灰”が恐ろしかったから。報酬を受け取ってすぐに帰らなかったのは、大き過ぎる金額に目が眩んだから。

 リリルカが今日、“灰”との契約に従った理由は様々だが、その中に一つだけ、ほんの小さな想いがあった。

 

(――こんなリリにも、価値を見出してくれる人がいる)

 

 それはずっとリリルカが願っていた事だ。“灰”が与えてくれたのは、残念ながら歪であったが。それでもリリルカを一個人として対等に扱い、価値を見出してくれた。

 リリルカ・アーデが良いと選んでくれて。他ならぬリリルカ・アーデを頼ってくれた。

 それが単なる利用価値であっても良かったのだ。リリルカの小さな小さな、けれど誰も叶えてくれなかった願いを、僅かでも満足させてくれたから。

 けれど実際は――単なる、玩具(オモチャ)扱いだった。

 リリルカ・アーデが良い。家族(ベル)がそう言ったから、リリルカは大枚をはたいて買われただけだった。子供に玩具を与えるように、リリルカはそう扱われたのだ。

 滑稽だ。笑えてくる。子供の欲望を慰める玩具として買い取られて、必要とされていると思い上がるなんて、まさしくただの道具じゃないか。壊れるまで遊ばれて、飽きられたら捨てられる。ただそれだけの、道化の玩具。

 

(ああ、なんて馬鹿らしい。勝手に期待して、勝手に失望するなんて。リリはいつから、そんな夢見がちな乙女になったんですか?)

 

 分かっていた筈だ。この世界は、リリルカに優しくない。夢を見たところで叶う訳がない。ずっとずっとそうだった。今更何が変わると期待していたのか。

 リリルカの心に、今日の出来事が次々浮かぶ。ベルの拙い動き、アスカのサポーターを舐めたサポーター業。酒場での夕食と、少年の笑顔。楽しいと思えた小さな一時。

 それら全てを破却して、リリルカは濁った目を“灰”に向けた。

 

「――本当に、報酬として百万ヴァリス頂けるんですね?」

「約束しよう。貴公が望むのなら、全額前払いしよう」

「ではそのようにお願いします。ああ、できれば金貨ではなく宝石の類であると嬉しいのですが」

「ふむ。ならばそちらを用意しよう。ただ、実際の価値の証明はできない。貴公が鑑定し、報酬に足りなければ追加する。それで構わないか?」

「はい、構いません。そもそもリリに文句なんてありませんから」

 

 歪んだ笑みを張り付けてリリルカは“灰”を嘲笑う。勝手が分かれば、あとは簡単だ。“灰”は、要は貢ぐ女なのだ。あの純朴な少年のためにリリルカを差し出すなら、せいぜい搾れるだけ搾り取ってやる。

 

(日に百万ヴァリス……それだけの稼ぎがあれば、リリの目標にぐっと近付きます。いえ、それ以上の稼ぎが期待できるでしょう。

 なんたってアスカ様は、手段を選ばないお方ですから。やり過ぎたら切り捨てられるでしょうが……逆に言えば、程度を弁えるなら多少お金がかかっても文句は言わない筈です。

 今日だってリリが分け前を四対六にしていたのを、アスカ様は気付いていた筈。でも指摘しなかったという事は、ベル様にバレさえしなければ、チョロまかしても見逃すのでしょう。そもそもアスカ様は金銭になんて興味がないのでしょうね。

 アスカ様は本当に、ベル様基準のお方ですから。ベル様のためなら何だってする、そういう人ならリリだって遠慮はしません。リリの目標のために――アスカ様には生贄になってもらいます)

 

 悪人面を隠しもせず、リリルカは“灰”へ手を差し出した。“灰”は目を細めるのみで、小さな白い手でそれに応える。

 

「それではアスカ様、これからもよろしくお願いします」

「ああ、よろしく。リリルカ」

 

 手を握り合って、リリルカは篝火の部屋を後にした。扉を閉めた後、空に浮かぶ月のように口端を引き裂きながら。

 そうやって悪い顔を意図して顔に刻み付けないと、リリルカはやっていられなかった。怒り、悲しみ、侮蔑と羨望、そんな感情が渦を巻いてリリルカの心を乱している。

 それを全部無視して、リリルカは無理やり己の目的のために行動していた。そうしないと、立ち止まってしまう。

 あの少年の笑顔だけが、リリルカの心から消えてくれなかった。

 

 

 

 

 リリルカとの契約更新を終えた“灰”は『ダイダロス通り』を抜け、ホームへの道のりを歩いていた。その表情はいつも通り、無に半眼が乗っかっている。

 

(さて……リリルカ・アーデはどれだけ()()か)

 

 内心で考えるのはリリルカの雇用期間について。“灰”は元々、この契約がごく短期間に収まるだろうと予想している。リリルカの金銭に対する執着を推測した結果だ。

 【ソーマ・ファミリア】――リリルカの所属する、酒造の資金集めをするためだけの酒神(ソーマ)の派閥。『神酒(ソーマ)』に取り憑かれた彼の眷族たちは、上納金によって神酒を飲めるか否かが決まるため、常に金に飢えている。

 そんな【ファミリア】をリリルカが嫌悪しているのは明白だった。そして神酒に酔った様子もない彼女がなおも金銭を求めるのは、脱退を狙っているからに違いない。そう判断した“灰”は、百万ヴァリスという大金でリリルカを釣り上げた。

 それも長くは続かないだろう。リリルカの言う通り、サポーターに支払う報酬としては法外もいいところだ。これだけの金銭を日当として支払えば、すぐにリリルカの目標金額に到達するのは火を見るより明らかだった。

 そうなれば必然、契約を切られ姿を消される。それだけの事をしたと自覚する“灰”は、その時はその時で仕方ないと考えていた。

 

(例えベルの望みであっても、出会いと別れは避けられない。分かたれる時が、いつかは来る。我ら不死人であろうとも、それが変わる事はなかった。

 金銭で繋ぎ止められないのなら、そこが私の限界だ。これ以上はまともな手段でリリルカを留められない。口惜しいが、諦めるしかないか。……ベルをどう宥めたものかな)

 

 既にリリルカが雲隠れした後の事を考え始める“灰”は、角を曲がった先に手押し車を押した灰色のローブの神物(じんぶつ)を発見した。肩にかかる群青色の髪を風に任せる後ろ姿に、“灰”は暗い嫌悪を表し、感情は闇に霧散する。

 そうやって理由は不明のまま神を嫌う“灰”は、無視して先へ進もうとした。相手が神だからこそ、挨拶など絶対にしない小さな幼女は早足で神の横を通り過ぎ――視界の端に捉えた手押し車に乗っかる物体に、ぴたりと足の動きを止める。

 

「ヘスティア……?」

「む?」

 

 “灰”の呟きに反応して手押し車を押す男神も止まる。それを無視してまじまじと視線を這わせれば、そこに居たのは間違いなく“灰”の主神、ヘスティアだった。

 顔は赤らみ、酒気が呼吸にこれでもかと乗っている。荷物のように運ばれながら幸せそうに酩酊している主神(ヘスティア)の姿に、さしもの“灰”も重心が僅かにブレた。

 

「……何をしているんだ、我が主神は。場末の(おり)でも見ないような醜い様を晒すなど……」

「ヘスティアが主神とな? ふむ……美しい銀の瞳に艶のある灰髪、人形のように端正な(かんばせ)小人族(パルゥム)……もしやそなたはアスカ、ではなかろうか」

「……私に名前はない。ただ“灰”と呼ばれている。

 そちらこそ、我が主神の盟友である神ミアハとお見受けする」

 

 妙に容姿を褒めてくる男神――ミアハの品のある笑顔に一歩引きながら、“灰”、いやアスカは最低限度の礼儀を取った。常ならば敬意なく呼び捨てにするのだが……手押し車にすっぽりと収まる主神の姿から察するに、眷族たる己には払うべき礼儀があるとアスカは判断していた。

 そんな小人族(パルゥム)の心中を知ってか知らずか、長身の端麗な男神は爽やかに微笑む。

 

「うむ、私がミアハだ。それにしても、聞いていた通り()小人族(パルゥム)よ。ヘスティアの子供である事だ、お近づきの印にポーションを一ついかがかな?」

「……有り難く受け取ろう。感謝する、神ミアハ」

「なに、気にするな。零細ゆえ、売り込める時に売り込むと決めているのだ。これを機にぜひとも我が【ファミリア】を御愛顧ねがいたい」

「……己を零細と知るのならば、商品を無償で配るのは逆効果ではないか?」

「ふははっ、それはそうなのだが――そなたは美しい。男として、見栄の一つも張らなくてはな」

「…………そうか」

 

 腰を落とし、慈愛の表情で目を細めてミアハはアスカの頭を撫でる。永い不死の人生で一度としてされてこなかった行為に、アスカは困惑しながらもう一歩引いた。このような事態にアスカは全く慣れておらず、従って対応を測りかねていた。

 だから強引に流れを断ち切る事にする。視線を合わせるミアハから意図して目を逸らし、醜態を見せつけるヘスティアへ向いて掠れた声を擦り鳴らす。

 

「……それはそうと、我が主神は何故このような事になっている? 済まないが、説明してくれると助かるのだが」

「ああ、ヘスティアか。ううむ、どう言ったものかな……」

 

 難しい顔で立ち上がって指に顎を置くミアハに、アスカは大体の事情を察した。

 

「余計な気は回さなくていい。私が知りたいのは真実だ。ヘスティアの沽券などその辺りに捨ててくれ」

「いや、しかしだな……」

「残念ながら、ヘスティアの評価は私の中では既に最底辺でな。今更何を聞かされようと、これ以上の失望はない」

「……相分かった。ヘスティアの子供の頼みだ、私が断るわけにはいかんな」

 

 ズイッと爪先立ちをして顔を寄せる幼女の瞳に本気を見たミアハは、内心で盟友(ヘスティア)に謝りながら全てを話す事にした。流石に酒場の片隅で愛を叫んだ顛末は語らなかったが……全てを悟ったような顔をするアスカは、露骨に白い目をヘスティアに向ける。

 そしてミアハに向き直り、深々と頭を下げた。

 

「…………この度は、我が主神の数々の失態、その肩代わりをして頂き感謝する。そして多大な迷惑をかけた事、ヘスティアの一眷族として謝罪する」

「むう……大仰にされるのは困るのだが……」

「済まないが、付き合ってくれ。我が主神は貴公を無理に付き合わせ、酒に飲まれ愚痴をこぼし、潰れた挙句に奢らせ、(あまつさ)えホームへの移送を押し付けたのだ。

 これで謝らねば、【ヘスティア・ファミリア】に――ひいてはベルの尊厳に傷がつく。それを私は看過できない」

「ベルのためか……うむ、それならば受け入れよう。顔を上げよ、ヘスティアの子よ。そなたの想い、確かに頂戴した」

「感謝する」

 

 アスカの真意が聞き及んでいた通りと知り、ミアハは快く受け入れた。ミアハも認める真っ直ぐで純朴な少年、ベル・クラネルのためにアスカは頭を下げている。己ではなく家族を第一に考える姿勢にミアハは好感を抱いていた。

 同時に、ヘスティアが敬われていない事にほろりと涙しそうになったが、致し方ない事だろう。アスカはヘスティアの醜態をおそらく別の形で知っているのだ。顔を上げる美しい幼女の心情を、真偽の読めぬ神ながらミアハは正確に見抜いていた。

 

「それではヘスティアはこちらで引き取ろう。これ以上、貴公に迷惑はかけられない。支払った額も返金しよう」

「いやいや、一度切った身銭を返してもらうのは忍びない。そなたには憂いを強いるが、ここは一つ、私の顔を立ててくれ」

「……分かった。しかしヘスティアは私が運ぶ。これは譲れない」

「ならばこの手押し車を貸そう。そなたにヘスティアは大きいからな」

「だが、これには商品が積まれている。借りるわけには……」

「私もついて行けば問題あるまい? 丁度酔いを覚ましたいと思っていたところだ、いい散歩になる。何より、夜道を女子(おなご)二人で歩かせるわけにはいかんしな。

 これは私も、譲れんぞ?」

「…………いいだろう。(しば)し、御同行願う」

 

 人差し指を立てて笑うミアハに、アスカは渋々承諾した。平時、無表情の眉目は小さくしわが寄り、やりにくそうな雰囲気を発している。それを知ってか知らずか、ミアハは楽しげに話しかけながらアスカと共に廃教会へ歩いていった。

 

 

 

 

 翌朝。ヘスティアは見事な二日酔いに陥っていた。それをアスカは放置する事にした。

 もはやアスカの中にヘスティアに対する尊敬はゼロだ。元からなかったかもしれないが、家族としての情は芽生え始めていた。ベルのついでになら手助けしてやってもいい、そう思っていたアスカの枯れた人間性は、昨日の醜態で木端微塵に吹っ飛んでしまった。

 生憎とベルには酩酊女神の真実が伝わっておらず、ミアハの言葉を大真面目に受け取った少年は、本気で神様(ヘスティア)の心配をしている。

 ベルらしい、とアスカは看病を任せて、リリルカに本日の探索中止を伝えに行った。大荷物を背負った濁った瞳の小人族(パルゥム)は、一瞬だけベルの姿を探して、偽物の笑顔を大きく顔に貼りつける。

 

「それでは契約に則り、報酬をきっちりいただきますね」

 

 ヘスティア派の都合による探索中止の場合、報酬は全額支払う――そういう契約を結んでいたアスカは、空元気に弾んだ声に頷いて百万ヴァリス分の宝石を渡した。人目につかないところで渡されたノームの宝石にリリルカは目を輝かせ、「これからもよろしくお願いしますね、アスカ様」と嘲笑しながら去っていった。

 これでアスカの琴線を見極めてやっているのだから大したものだ。悪意の底を生き抜いたリリルカの観察眼は確かである。ベルの推薦ありきではあるが、アスカがリリルカの能力を評価しているのは事実だった。

 《ヘスティア・ナイフ》を盗んでさえいなければ、もう少し良好な関係を築けたかもしれない。アスカにしては珍しくそんな事を考えながら帰宅すると、そこには慌てるベルに無理やり縋りつく駄女神(ヘスティア)の姿があった。

 

「かっ、神様ぁ!? もうこれ以上はッ!?」

「ベル君に抱きしめてもらうと痛みが和らぐんだよー……ボクを助けると思ってさー」

「で、でもぉっ!?」

「…………」

 

 酒臭さを垂れ流しながら甘えまくるヘスティア。真っ赤になって困り果てながら、それでも主神を慮って突き放す事のできないベル。いたいけな少年の良心に、ヘスティアは見事に付け込んでいた。

 それを眺めるアスカは、何とも言えない表情をして、深い深い溜息を吐いた。

 

「ア、アスカさん! 助けてください!?」

「……看病は貴公に任せると言っただろう。私は知らん」

「ええっ!? アスカさん!? アスカさぁーんっ!?」

 

 天国のような地獄の中で一筋の光明を見たようなベルをばっさり切り捨てて、アスカは早い足取りで部屋の奥に向かった。色恋沙汰にまるで疎いアスカは、このような状況で自分が何の役にも立たないと良く知っているのだ。

 むしろ祖父の訓導を受けたベルの方が、まだ対処法を理解している。残念ながら、それを実行できる度胸がベルにはないようだが……それはもうアスカであってもどうしようもない事だ。

 ベルから見えないところで親指を立てるヘスティアに適当なジェスチャー、手を振るだけの小さな【了解】を返して、アスカは簡易に作られた仕切りに入り、聖女一式を身に纏う。そしてベルの悲鳴を環境音に、物語の編纂作業を進めるのだった。

 

 

 

 

 リリルカをパーティに加えたダンジョン探索は順調に進んでいた。

 ベルが戦い、リリルカがサポートし、アスカが傍観する。素人以下のサポーターの真似事に痺れを切らしたリリルカに指摘された結果、このような形となっていた。

 戦闘は特に支障ない。元々アスカは本当にベルについていくだけで、戦闘には一切参加していなかった。なけなしのサポーター業も本職のリリルカがいる今、アスカがすべき事などほとんどない。

 例えばそう――ベルが注意を怠り、絶命の危機にでも陥らない限りは。

 

「ダメ――――っっ!!」

 

 リリルカがそう叫ぶ前に、アスカは動いていた。

 『ニードルラビット』に奇襲を受け、『キラーアント』に組み敷かれた状態。振り上げられた鉤爪がベルの命を奪う前に、暗い銀眼の不死はその手に武器を顕現させる。

 刑吏の突撃槍、《チャリオットランス》を用いた槍突撃(ランス・チャージ)。人の身で、だが不死刑の馬車の如く、流れる灰髪が閃光となって倒れたベルの上を通り過ぎる。

 その一瞬で、アスカはベルを組み敷いていたキラーアントともう一匹を貫いていた。正確に急所を抉られた蟻の怪物が外骨格を震わせる中、アスカは回転し、ニードルラビットに回し蹴りを叩き込む。

 不意を打たれたニードルラビットはベルの方向へ吹き飛ぶ。そのままリリルカの放った魔剣の炎に飲み込まれ、モンスターの群れは呆気なく全滅した。

 

「……はっ、はっ……」

 

 一瞬で拭われた危機にベルは上体を起こして断続的に息を吐き出す。死の予感に荒れ上がった心を落ち着かせるように呼吸を整え、ベルは近づいてくるアスカによれよれと笑顔を向ける。

 

「あ、ありがとう、アスカさん。助かったよ……あいたっ!?」

 

 が、その笑顔はアスカの手刀によって遮られた。

 

「ベル、貴公、油断したな。手酷い油断だ、蛾にも劣る」

 

 いやに醒めた瞳で見下ろすアスカにベルは震え上がる。こういう時、アスカは容赦を投げ捨てるとよく知っているからだ。腰の抜けた体は、無意識に正座していた。

 

「油断、慢心、それを悪とは言わない。油断とは余裕であり、慢心とは自信の裏返しに過ぎないからだ。

 だからこそ、本質を理解しなければならない。永遠の緊張も恒久的な全力も人には為せず、必ずどこかで緩みを生む。

 その緩みをいつ見せるのか、見極めを貴公は怠った。今の危機はその結実だ。何一つ、不可思議ではない」

「ごめんなさい……」

「謝罪はいらん。重要なのは、繰り返さない事だ。

 いつかまた危機に瀕し、変わらぬままであるのなら。覚悟しておけ、いかに貴公とて、こんなものでは済まさない」

 

 アスカがそこまで言い切るとベルは真っ青になったまま石化していた。青ざめた白兎に瞳を尖らせ、アスカは灰髪で空を切るように振りかえって視線を切る。

 そのまま棒立ちのリリルカに近づいて、懐から三つの魔剣を取り出した。

 

「受け取れ。冷気、雷、炎の魔剣だ」

「え、は、えっ?」

「貴公の支援は適切だった。貴公は戦闘においても適切な行動を取れると私は確認した。

 これはその支援のための道具だ。使い道は、貴公に任せる」

 

 事も無げにアスカは言うが、リリルカは理解が追いついていない。ベルの死を幻視して、無我夢中で虎の子の魔剣を振るっていた。そんな自分の行動さえ分かっていない。

 ましてアスカの動きは目で負えず、瞬きの間もなく去った危機に呆然としていたのだ。急な魔剣の譲渡など、すぐさま理解できなかった。

 それでも、正座したまま動かないベルに視線を向けると――リリルカは差し出された魔剣を受け取りもせず、慌ててベルの元へ走る。

 

「ベル様! 無事ですか!?」

「あ……リリぃ……」

 

 リリルカが肩を揺らすと、ベルは錆びた歯車のように首を回して青い顔を見せる。それにホッとしつつもリリルカは説教をし始めた。アスカの説教の上に重ねられた追い打ちにベルは弱り切った顔をする。

 そんな二人をアスカは遠目に見ていた。暗い銀の瞳は、静かにリリルカを測っている。

 これまでのリリルカを顧みれば、一連の行動は不自然と言えよう。

 希望を持たず、現実を直視し、手段として金銭を欲する。それがアスカの見立てたリリルカ・アーデの根幹だ。

 それに従えばベルの危機を助ける理由はあっても、アスカから魔剣を受け取るよりベルの安否確認を優先する筈もない。弱さを自覚し、だからこそ強かなリリルカに、自己の利益に優先するものなどない。

 そう考えていたアスカにとって、目の前の光景は矛盾している。魔剣をしまう事すら忘れて説教し、支離滅裂な発言をしながら、どこか安心したように顔を赤らめている。昨日の探索休止の際はあれほど濁った目をしていたリリルカが、だ。

 

「…………」

 

 それが如何なる結果を招くのか、アスカには分からない。

 だが、あるいは、確かめるべきなのかもしれない。

 守った憧憬を瞳に映し、アスカはベル達の側へ歩いていった。

 

 

 

 

 半ば強制的にリリルカへ魔剣を渡してから二日間、アスカは物語の編纂に勤しんでいた。

 理由はリリルカの都合によりパーティを組めない事、それに追随してベルがダンジョン探索を休止しているためである。

 魔剣を渡した後、ダンジョン内で昼食を取った時に見えた不和。リリルカとの間に広がる溝に、ベルは苦悩していた。

 そんなベルをアスカは放置している。相談されれば話はするが、他派閥である以上やれる事は多くない。あくまでもリリルカの問題であり、余計な真似はしない方が良いとアスカは諭した。

 ベルは納得していなかったが、自分の無力も理解していたのだろう。それでも鬱屈を捨てきれず、昨日今日と引きずっている。

 仕方のない事だ。アスカはそう割り切って、編纂の傍ら本拠(ホーム)の清掃や食事を共にする事でベルの気分転換を図っていた。それが功を奏したのか、今は『豊饒の女主人』にベルは出かけている。

 空のバスケットを抱えて地下室を飛び出したベルを見送って、アスカは編纂を続けた。そして作業を終えた頃、ベルは帰ってきた。

 その手に分厚い白色の本――魔導書(グリモア)を携えて。

 

「――――」

「ただいま、アスカさん」

「……ああ、お帰り。ベル」

 

 ベルに言葉を返しながら、アスカの視線は魔導書に固定されている。不思議に思ったベルが銀の瞳の先を辿り、照れ臭そうな笑みを浮かべて本を見せた。

 

「あ、これ? シルさんから借りてきたんだ。気分転換にどうですかって。誰かの忘れ物らしいけれど、誰かに預けた方が良かったみたいだし、ちょっと甘えちゃった」

「そうか。では、それが何か理解しているわけではないのだな」

「え?」

 

 きょとんとするベルを置いて、アスカはソファーにかけ直す。テーブルの上を片付け、どこからか取り出した黒色の本をテーブルに添え、ぽんぽんと隣を叩いて座るよう促した。

 首を傾げながらベルが従うと、白色の本をテーブルに置くよう指示する。黒と白、二つ並べられた本を前に、アスカは淡々と説明を始めた。

 魔導書(グリモア)。それは魔法の強制発現書。『神秘』と『魔導』、二つの発展アビリティを極めた者にしか作成できない希少著述本。最低でも数千万ヴァリス、場合によっては億以上の価値がつく一筆入魂の一品である。

 また使い切りである事を聞いたベルは真っ青になり、石膏の像のように固まった。何気なく借りた一冊の本がそこまで価値のある物とは思わなかったのだろう。滝のように汗を流す白兎をアスカはじっと見つめる。

 そして少し時間を置いて、アスカは唐突に切り出した。

 

「魔法が欲しいか、ベル」

「え?」

「魔法が欲しいかと聞いている」

「そ、そりゃあ欲しいけど」

「ならば、これを使うがいい」

 

 そう言ってアスカはテーブルに置かれた黒色の本をベルの方に寄せた。持ってきた白色の本と同様に幾何学模様の描かれたそれにベルはハッとして目を見張る。

 

「こ、これって、まさか!?」

「魔導書だ。私の私物だな」

「アスカさんの!? そんなの使えないよ!」

「何故だ?」

「だ、だって……」

 

 ベルはしどろもどろになりながら理由を並べる。

 

「魔導書って僕なんかに手も出ないくらい高いし、そんな貴重な物を使うなんてもったいなさすぎるし、そもそもアスカさんの物だし……」

「ベル」

 

 申し訳無さそうに魔導書をチラチラ見るベルの頬に手をやって、アスカは視線を合わせた。交錯する深紅(ルベライト)と暗銀の輝きを近づけて、幼女は古びた鐘の声を発する。

 

「貴公は、魔法が欲しいと言っただろう?」

「そ、そうだけど」

「そして目の前に、それを手に入れる手段がある。何を迷う事がある?」

「でも……」

「ベル。貴公は、冒険者だろう」

 

 顔を寄せてアスカは諭すように言う。

 

「冒険者が、今この場にある機会を逃すのか? 今を逃せば二度と手に入らぬやもしれん、これはそういう代物だ。貴公が迷う理由は、それを覆すほどなのか。

 魔法が欲しいのだろう、ベル。ならば貴公は、これを使うべきだ」

「…………」

 

 アスカの言葉に息を呑んで、ベルはゆるゆると魔導書を見た。おそるおそる手を伸ばし、逡巡して、幾ばかの時間が経った後、少年は表情を固くしてアスカへ顔を向けた。

 

「……本当に、いいの? アスカさん」

「ああ」

「これはすごい財産だし、本当ならアスカさんが使うべきだって思う。それでも、いいの?」

「ああ」

「……アスカさん。僕は、魔法が欲しい。

 モンスターを倒すための、凄い力が欲しい。

 弱い自分を奮い立たせるための、大きな武器が欲しい。

 僕が憧れた、英雄みたいな――魔法が欲しい。

 そのために僕は、この魔導書を使わせてもらう。いや、使う。僕にはこれに代えられるものなんて何もないけど、それでも。

 僕は、僕のためにこれを使うよ、アスカさん。だからこれを……その、えっと……僕の物にしたい、です」

「ああ、いいぞ。それでいい」

 

 なけなしの意気地を総動員して言い切ったベルに、アスカは柔らかく微笑んだ。

 

「私は嬉しいよ。一端の我儘を言うようになったじゃないか、ベル」

「ご、ごめんなさい」

「罵ってはいない。だが、貴公は時に遠慮が過ぎる。こうして我儘を言ってくれた方が、助け甲斐もあるというものだ」

 

 黒色の魔導書を大事そうに抱くベルを見届けて、アスカは白色の本を手に取った。そのまま立ち上がり、地下室の出入り口に向かう。

 

「それでは、これは私が返しに行こう。貴公はゆっくりそれを読むといい」

「え、でも、それは僕が借りた物だし」

「野暮用もある、そのついでだ。貴公の魔法、楽しみにしているぞ」

 

 背中越しにそう言って、アスカは階段を登っていく。その瞳は先程まで家族に向けていた暖かさはなく、冷たく、暗い銀光が輝いていた。

 

 

 

 

「シル・フローヴァはいるか」

 

 『豊穣の女主人』にて開口一番、“灰”はそう言い放った。昼時を過ぎ客の姿もまばらな店内に響いた声に、サボりつつ掃除をしていた茶色の毛並みの猫人(キャットピープル)が真っ先に反応する。

 

「ニャニャ? おミャーは確か、白髪頭といつも一緒にいる小人族(パルゥム)かニャ?」

「そうだ。ベルが借りた物を返しに来た」

「借りた物って……その本ニャ?」

 

 首を傾げるアーニャが“灰”の右側を指差す。長い灰髪を揺らして幼女が小脇の本を差し出すと、「ニャニャ〜?」とアーニャは顔を近づけて目を細める。

 小さな唇を尖らせてゆらゆらと尻尾を揺らす猫人は、思いついたようにピーンと尻尾を天に伸ばした。

 

「あー、思い出したニャア! シルが見つけた忘れ物ニャ!」

「アーニャ、どうしたの? そんな大声出して」

「あっ、シル! この本見るニャ!」

「本?」

 

 丁度そこにやってきたシルにアーニャは“灰”を掲げて見せる。シルは無表情で持ち上げられる半眼の小人族(パルゥム)に目を瞬かせて、その手にある白色の本に驚きの声を上げて口元を隠した。

 

「これって、ベルさんに渡した本ですよね」

「ああ。不要になったからな、返却しに来た」

「不要になった? それってどういう……」

「シル・フローヴァ」

 

 古い鐘の声が言葉を遮る。“灰”は真っ直ぐにシルを眺め、はっきりと断言した。

 

「手出しは無用だ」

「え?」

「用はそれだけだ。邪魔をしたな」

 

 困惑するシルを放って、するりとアーニャの手から抜け降りた“灰”はトコトコと店外へ去っていった。呆然と見送る二人は、ぽつりと言葉を零す。

 

「一体何だったんだろう……本も置いていったし。ベルさん、どうかしたのかな。気になっちゃうよ」

「ミャーはそれよりも、がっちり掴んでた筈ニャのに生きの良い魚みたいにすっぽ抜けた事にびっくりなのニャ……何者なんだニャー?」

 

 少女たちの疑問に答える者はいない。代わりに「サボってんじゃないよ、馬鹿娘どもぉ!」と女将の声が轟き、二人は慌てて仕事に戻った。

 再び店の奥に飾られた魔道書は、いつしか忽然と消えていたという。

 

 

 

 

 ホームに戻ってくると、ベルは魔導書を枕に突っ伏していた。

 目を覚ます気配はない。見た目に変化もないが、おそらく魔法発現のための何かが起こっているのだろう。

 眠るベルに毛布をかけて、アスカはさらりと白髪を撫でる。口元をほんの少し緩めて、彼女はベルから離れ壁に寄りかかった。

 目を閉じ、ソウルの海から本を取り出す。小さな手のひらに現れたのは分厚い点字聖書――ヘスティアの神話を元に作り上げた、二つの【奇跡】の物語だ。

 すでに編纂を終えた聖書を開き、浮かんだ点字を指でなぞる。指先から導かれる物語を一字一句違いなく、『記憶スロット』に刻み込む。

 巻末まで指を滑らせ、全ての物語を読み終えた不死は、本を閉じてゆっくりと瞳を鎖した。記憶の中に、その物語は確かな形を成していた。

 奇跡として十分な体は保っているようだ。使える事を確認したアスカは適当に《タリスマン》を取り出して、早速試してみる事にする。

 廃教会の地下室、神の血を分かち合った家族が二人。眠る少年の横顔を、暖かな光が照らしては消えていった。

 

「……ん。ヘスティアが帰ってきたか」

 

 一通り奇跡を試したアスカは、神特有のソウルの気配に《タリスマン》をしまう。点字聖書もソウルに溶かし、自らの主神を待った。

 

「ただいまー……」

「おかえり、ヘスティア」

「今日はホント疲れたよぉ……なんだってヘファイストスは今日に限って視察になんか来るんだ……おかげで一日中みっちり働かされて筋肉が……あれ?

 ベル君、どうしたんだい? 本を枕になんかしちゃって」

 

 借金返済の労働を嘆くヘスティアは、机に突っ伏すベルを見るなり疑問の声を上げた。アスカは説明しつつ背中を押してベッドへ誘導する。

 

「魔導書を読ませた。今は魔法習得のために眠っているのだろう」

「なるほどー、魔導書をねー。それならあんな風に寝ちゃってるのも納得だよー」

「そうだな。ベルが起きるまで休むと良い。私は夕食の準備をしよう」

「そうさせてもらうよ、アスカ君。それにしても魔道書かー。魔道書、魔道書……………………魔道書(グリモア)ァっっ!?」

 

 ベッドに寝転がったヘスティアがぐでぐでと呟くのを尻目にアスカが準備を進めていると、ヘスティアが悲鳴と共に飛び起きた。人体の転がる音に目を向けてみれば、勢いが強すぎたのかベッドからずり落ち頭をぶつけた女神が悶絶していた。

 

「全く、何をやっているんだ、我が主神は……」

 

 アスカは嘆息して、呻くヘスティアに『雫石』を握らせて砕かせる。馬鹿馬鹿しい使い方だが、何より手っ取り早い回復方法だ。ついでに助け起こしてベッドに座り直させたアスカは、女神の横に座りながら平坦な声で尋ねた。

 

「それで、どうした? 急に大声を上げて」

「どうしたもこうしたもあるもんか! なんでベル君が魔道書なんてものを読んでるんだ! ていうかなんで魔道書があるんだ、おかしいじゃないか!?」

 

 頭痛の取れたヘスティアは泡を飛ばす勢いで捲し立てる。首元を掴まれてがっくんがっくん揺さぶられるアスカは、微塵も揺らがない表情の下で言葉を擦り鳴らす。

 

「魔道書は私の私物だ。ベルが魔法を欲しいと言ったから使わせた。説明はそれで十分だろう」

「十分だけど十分じゃないっ! なんで君が魔導書なんか持って……あれ、なんでだろう、全然不思議じゃない……」

「ならば良かろう。離してくれ」

 

 ヒートアップしていたヘスティアは、アスカなら持っていても仕方ないと妙な納得感を抱いてしまい拍子抜けする。

 その隙にアスカは首元の腕を解いた。するりと抜けた感触に微妙な顔をしつつ、ヘスティアは自分より小さな幼女を見遣る。

 

「……なんだか理不尽な納得を味わった気分だよ……でも、なんで君は魔道書なんて代物をもってたんだい?」

「故あって譲り受けた。それだけだな」

「その故ってのをボクは知りたいんだけど……」

「まだこの話を続けるのか? 経緯はどうあれ、魔道書は既に使った。もう戻りはしない。そも、私の私物をどう扱おうと貴公には関係なかろう」

「いやまあ、そうなんだけどさ……仲間外れにされてるみたいで寂しいじゃんか……ボクだって君の家族なんだぜ?」

 

 しおれたツインテールの真ん中から上目遣いの瞳が覗く。寂しげに揺れる青い色に、アスカは半眼を更に狭め、透明な息をついた。

 

「ならば、貴公にも関係のある話をしよう。

 以前、私は貴公と約束をしたな。私の持つ力について、いたずらに広めぬよう努めるという約束だ」

「え? ああ、うん。君の素性は間違いなく神々の格好の的になるからね」

「私は一度それに同意したが、そのままでは不都合が生じるようになった。だから、私が見込んだ相手に対してはそれを明かし、場合によっては継承する許可が欲しい」

「君が見込んだ相手に対しては、か。うーん、話すだけならともかく、継承って言うと……それはつまり、君の力の使い方を教えるって事だろ?」

「ああ、そうだ」

「……本当なら、極力避けてほしいけど……ボクは君を信じてる。なら、君が見込んだ相手もきっと大丈夫だ。

 うん、だから許すよ、アスカ君」

「感謝する」

「いいよいいよ、そんな畏まらなくてもさ。

 それはそうと、この事がボクにどう関係しているんだい?」

「……そうだな。その辺りはベルが起きてから、話すとしよう」

「あ、おい、アスカ君?」

 

 ちらりとベルを見てそう答えたアスカはベッドから立ち上がって夕食の準備に戻った。台所で揺れる長い灰髪に「自由だなあ」とヘスティアは苦笑して、「ボクはベル君でも起こそうかな〜!」と勢い良くソファにダイブする。

 女神の笑声と少年の悲鳴を背景に、灰髪の幼女は黙々と食事を用意した。

 

 

 

 

 ベル・クラネル

 Lv.1

 力:B774→A812 耐久:F388→E472 器用:B790→A813 敏捷:A889→S901 魔力:I0

 

《魔法》

【ファイアボルト】

・速攻魔法

 

《スキル》

【】

 

「ふむ、速攻魔法か……」

 

 ベルの【ステイタス】が書かれた用紙を眺めて、アスカは顎に手を当てる。

 速攻魔法。それはアスカの知るこちら側の魔法の知識にはないものだ。一番近いもので言えばおそらく『超短文詠唱』型の魔法だろう。

 一言二言の詠唱で魔法を放つ。威力にはそう期待できないが、速射性と利便性を備えている。ベルの発現した魔法はおそらくその類と思われる。

 【ステイタス】から読み取れるのはその程度だ。アスカはこちら側の魔法について詳しくない。ヘスティアの方がまだ詳しいだろう。

 顔を上げ、銀の瞳を隣に向けると、同じ予想に至ったヘスティアがそれを伝えていた。今すぐ試したがっているベルを苦笑いで宥めながら。

 

「ベル。魔法が発現して良かったな」

「あ、はい、嬉しいです! 魔道書、本当に、本当にありがとうございます、アスカさん!」

「礼などいいさ。貴公の役に立てれば、それでいい」

 

 小さな両手を掴んで破顔するベルに薄く笑って幼女はこっくりと頷く。ヘスティアはそんな子供たちを微笑ましく思いながら、少しだけ陰った笑みを浮かべていた。

 ベルの喜びはヘスティアの喜びだ。アスカの献身が報われ、数少ない笑みを見せるのも喜ばしい事だろう。

 けれど同時に、寂しくもある。ヘスティアもまたベルの役に立ちたいのだ。

 二人きりの頃はこんな風に思わなかった。ベルとヘスティアの二人三脚でお互いを支え、想いを分かち合っていた。あの頃は二人とも精一杯で、こんな事を考える暇もなかった。

 けれど今は、アスカがいる。悪いことじゃない。家族が増えて、あの頃よりもずっと幸せだ。

 でも、自分とアスカを比較するようになってしまった。二人ともベルを大事に思っていて、ヘスティアはアスカほど何かをしてあげられていない。

 これは嫉妬だ、理屈じゃない。ヘスティアはベルを愛している。だからこそ自分が一番だと声高々に叫びたい。

 誰よりもベルを想っている、そこだけは負けたくないのだ。子供を愛する神の、それは純粋な対抗心だった。

 それが妬みではなく疎外感として表れ、幼い女神は寂しがっていた。

 そんな主神の姿をちらりと見て、アスカは古い鐘の声を呟く。

 

「……さて、それではもう一つ、貴公に贈り物をしよう。

 私からではなく、ヘスティアからの贈り物だ」

「え? ボクから?」

「ああ。ヘスティア、こちらへ」

 

 握られた手を丁寧に解いて、アスカはヘスティアを手招きする。ツインテールを不思議そうに曲げながら彼女は近付き、三人で小さな輪を作った。

 

「まずはベル、貴公にこれを渡しておこう」

「これって……?」

「《タリスマン》だ。魔法の触媒だな」

「魔法の、触媒? 杖みたいな?」

「そう思ってくれていい」

 

 ベルは渡された《タリスマン》をまじまじと見つめる。

 質素な布を丁寧に織り込んで束ねた物のようで、どことなくお守りに見える。一見してこれが杖と同じような物とは思えない。「これが触媒ねえ」と隣から覗くヘスティアも首を傾げている。

 それを一切気にせず、アスカも《タリスマン》を両手で握って見せる。

 

「本来なら片手で持つだけでいいのだが、貴公は初回だ。このように両手でしっかり握れ」

「は、はい」

「ヘスティアはベルの両手を持ってくれ。そうだな、互いに向き合って祈るような形が望ましい」

「あ、うん」

 

 言われるがままにヘスティアはベルの正面に座り、《タリスマン》を握る少年の手を包むように両手で持った。

 するとヘスティアの手が触れた途端、びくりとベルの手が震え、段々と体温が高くなる。ちらりと青い瞳を向けると、熟れた林檎のような少年の顔がそこにはあった。

 

「ふふーん? ベルく〜ん、ひょっとして照れてるのかい?」

「えっ!? いや、その……!?」

「あ、手を引っ込めるのはなしだよ! アスカ君がこう言ってるんだ、ちゃんとやらなきゃねっ!」

「わ、分かってますけど……か、神様!? どうしてそんな手をわさわさと動かすんですか!?」

「いやあ、ベル君がガチガチに固まってるからねぇ。緊張をほぐしてあげようとね〜」

「逆効果ですぅっ!?」

「……あまり集中を欠くような真似は慎んでくれ」

 

 ニマニマ笑う女神は「はぁい」と気のない返事をして動きを止める。顔を赤くしてぐるぐると目を回すベルは、数分経ってようやく落ち着きを取り戻した。

 それを確認したアスカは、《タリスマン》を胸元に寄せて次の指示を出す。

 

「それでは、二人とも目を閉じてくれ。触媒に意識を集中して、しっかりと祈るのだ」

「祈る、ですか?」

「ああ。ベルは神への信仰を。ヘスティアは眷族(ファミリア)への想いを。互いに心を定めてくれればいい」

「分かった、やってみるよ」

 

 二人は素直に目を閉じて祈りの姿勢に入る。それはアスカにとってごくありふれた、聖職者の《祈り》の姿だ。

 準備は整った。信仰も十分、背中も仄かに熱を放っている。自身の【魔法】が確かに発動している事を感じながら、古びた鐘のような声を、不死は静かに擦り鳴らした。

 

「それでは、始めよう。私の後を追って、物語を復唱したまえ。

 竈火の主、祭祀の護人、慈愛を司る者――炉の女神ヘスティアの物語を」

 

 

 

 

 ヘスティアにとって、それは小っ恥ずかしいものであった。

 下界に降臨する前の神話時代。全知全能の神々が、天界で退屈極まりない生活の中で義務を執行していた頃の話。

 ヘスティアからすればぐーたらだった赤裸々な過去を明かされるようなものだ。他の神々に比べれば大人しくとも、言い換えればそれだけ何もせずに過ごしていた証なのだから。

 しかもそれが妙に美化された話になっていたのがむず痒い。特に太陽神に言い寄られた逸話、処女神となった下りなど、本当に必要だったのかと叫びそうになったくらいだ。

 ヘスティアは羞恥に埋もれていた。体全体が熱くなって、顔は火に炙られている気分だった。きっと鏡を見れば、トマトもかくやという色になっていたに違いない。

 

 けれどヘスティアは、決して祈りの姿勢を解かなかった。

 

 羞恥に耐えかね片目をそっと開いた時、ベルは真剣だった。たどたどしく物語を追う声は、強い祈りが込められていた。

 アスカもまた真摯だった。分厚い本をなぞり厳かに語る姿は、敬虔なる信徒の信仰そのものであった。

 ヘスティアは、その姿を強く焼き付けるようにゆっくりと目を閉じた。体を覆っていた羞恥はどこかへすっ飛んでいた。

 血を分け合った家族。この広い下界で奇跡のような出会いを果たした愛しい眷族たち。

 彼らから確かに伝わってくる想いを、無視することなどできるわけがない。ヘスティアもまたひたむきに、眷族への想いを両手に込める。

 擦り鳴らされる不死の声は、朗々と響き、やがて途切れた。物語を最後まで聞き終えた女神が、無意識に目を見開くと――仄かに暖かな燐光が、ベルとアスカを包んでいた。

 

「これは――」

「……ああ、成功したようだ。ベル、もう目を開けていいぞ」

 

 アスカの声に、ベルはややあって双眸を開く。よほど祈りに没頭していたのだろう、淡い燐光に揺れる深紅(ルベライト)は、どこまでも真っ直ぐに澄んでいる。

 それにヘスティアが見惚れていると、ベルはやっと自分の体を包む暖かさに気付いた。火の粉のような燐光を放ち、肌を暖める光に、ベルは驚いて灰髪の幼女へ首を向ける。

 

「アスカさん、これって……」

「【魔法】だよ。貴公が新たに手にした魔法だ」

「ええっ!?」

 

 いつもの調子で呟かれた一言にベルは驚倒する。【魔法】? さっき覚えたばかりの【ファイアボルト】ではない、新たな【魔法】?

 訳が分からない。混乱して手のひらの光から目を離せないベルに変わって、ヘスティアはアスカに問いかける。

 

「アスカ君、これは一体どういう事なんだい」

「貴公は既に知っているだろうが、私は三つの魔法を有している。【魔術】、【呪術】、【奇跡】の三つだ。

 これは奇跡に分類される。神々の物語を吟じ、恩恵を受ける祈り。それは神話の再現と言えるだろう。

 例え虚構であろうとも構わない。稚拙だろうとも真剣で、紛れもない信仰を捧げられるのであれば、あらゆる神話は【奇跡】に足りうる。

 だから私はヘスティアの物語を知り、編纂した。貴公の物語とベルの信仰が、それに値すると考えたからだ。

 そしてそれは、成功した。

 

 受け取るがいい、ベル――ヘスティアから貴公への、特別な“魔法”の贈り物だ」

 

 アスカはゆっくりとベルに伝えた。彼と彼女を包む光が何であるのかを。

 ぼんやりしてされるがままになっていたベルは、耳に沁みた言葉をやっと意味を飲み込んで、破顔して泣きそうな顔で「ありがとう」と言った。

 アスカに、そしてヘスティアに。自分にはもったいないくらいの家族に、神様の両手を握り返して、少年はずっとお礼の言葉を繰り返した。

 ヘスティアは少し混乱していたが、心の底から感謝を口にするベルに、やがて慈愛いっぱいの笑みを浮かべる。頭を下げるばかりの白い髪を、そっと胸元に抱き寄せた。

 

「いいんだよ、ベル君。君にはいつも助けてもらってる。たまにはボクも助けたいんだ。お礼ばっかりなんて、水くさいじゃないか。

 それでも言い足りないなら、その魔法を使ってさ、無事に帰ってきておくれよ。

 君がこれからも、君の物語を歩いていける。ボクにはそれが一番嬉しいんだから」

 

 優しく降る女神の言葉に、ベルは何度も頷いた。それを慈愛の瞳でヘスティアは見つめて、視線をアスカに切り替える。

 【奇跡】はアスカが与えたもの。物語を編纂したのも彼女で、ヘスティアは自分の神話を伝えてもいない。本当は自分の功績のように誇れる事でないのは分かっている。

 けれど、そんな事は重要じゃない。アスカは間違いなくベルと、そしてヘスティアのために頑張ってくれたのだ。

 神様が大嫌いな不死が、それでもただ、家族(ファミリア)のために。その中にヘスティアがいる事を、アスカは認めてくれている。

 

(ボクは間違っていなかった。やっぱり良い子だ、アスカ君は)

 

 ヘスティアの胸には今、色んな感情が溢れている。口にすればきっと長くなるだろう。

 だからヘスティアは、満面の笑みを咲かせて。一番言いたい事を言葉にした。

 ベルと同じくらい愛しい眷族に。紛れもない、自分の本心を。

 

「――アスカ君、ありがとう! 大好きだよ!」

「――――」

 

 その言葉が、アスカにとって何でもなかったのは確かだ。

 ごくありふれた、何の変哲もない神の言葉だった。

 だからそれはいつも通り、暗い魂(ダークソウル)の奥底、深海に沈み二度と浮かばぬ筈だった。

 何故だろう。アスカには分からない。

 それを理解する事は、これまで出来なかった。

 だからこそ知らず、胸元に手を伸ばして、感じようとしたのだろう。

 

 そこにあるべき感情の海。憎悪に凝り固まった深海の心。

 冷たい闇しかない胸に、小さな暖かさが灯った事を、“灰”は理解出来なかった。

 忌々しい神のそれで、けれど人のぬくもりに似た炉の言葉。

 そんなもの、“灰”は知らないのだから。

 “灰”は、知ってはいけないのだから。

 

 幼女の胸元に置かれた手は掻き毟るように小さくなり、ずっと握られたままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

炉の加護

炉の女神ヘスティアの暖かな奇跡

HPを僅かずつ回復し、スタミナ回復速度を高める

またカット率、耐性も上昇する

 

体を覆うほのかな熱は家族のぬくもりのようだ

それは無事と帰還を真摯に願う

女神ヘスティアの慈愛の表れであろう

 




一度気に入らなくて筆が止まるとずっと筆が進まない系作者。
たぶんまた止まって投稿しなくなるんだろうなと予測しつつ投稿。

許してくれ……許してくれ……ヒ、ヒヒヒヒッヒヒ!(発狂)

ヘスティアナイフのテキストがみてくれはすこしあれだったのでちょっと書き換え。
ダクソ2とおんなじ事せんでええのよほんま(自己批判)
でもダクソ2は嫌いじゃない。むしろいっぱいちゅき❤
いいとこいっぱいあったよ、武器も豊富だったしDLCは面白かったし。NPCは影薄かったけどマフミュランとかルカちゃんとか思い出に残ってるしなあ。
悪くはなかった。良作だったと思うよ。
雪原は絶対許さんけどな(豹変)

次の投稿で二巻分は終わりの予定やで。
次っていつなんやろな(哲学)

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