ダクソかブラボとダンまちのクロス流行れ   作:鷲羽ユスラ

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投稿を〜、悩むなら〜、投稿してから、悩みなされ〜っ
真面目なサブタイにしたので初投稿です。


原作三巻分
酔うてしがなき灰色の鳥よ


 『ダイダロス通り』最奥、『故も知らぬ小部屋』。

 煙のない篝火が灯る小さな一室で、リリルカはじっと待っていた。

 現在の時刻は昼に差し掛かった頃。外では貧民達の生活音が遠く聞こえ、『ダイダロス通り』を出れば世界の中心と称されるオラリオの活気を肌で感じられる時間だ。

 リリルカも普段なら、サポーターとしてダンジョンに篭っている。しかし今は篝火を見ながら、息を詰めて待ち人を待っていた。

 

「――ついたぞ。ここだ」

「や、やっとついた……アスカさんの部屋がこんな入り組んだ所にあるなんて思わなかったよ……」

「貴公が世話になるとすれば、何らかの形で本拠(ホーム)を失った時くらいだろうからな。今回の件がなければ、教えるつもりもなかった場所だ」

 

 扉の向こうから男女二人の声がする。ややあって重い扉を開けたのは、闇に浸したような長衣のアスカと普段着のベルだった。

 

「あっ、リリ! もう来てたんだ! 遅れちゃってごめん!」

「謝らないで下さい、ベル様。わざわざここへ来てくださるよう頼んだのはリリなんですから。むしろ――ベル様が来てくれて、リリは嬉しく思っています」

 

 丁寧に頭を下げてリリは儚げに笑う。いつもと少し違う少女の笑みに少年は少し顔を赤くして、照れくさそうに頭を掻いた。

 

「そう? なら良いんだけど……あ、篝火。それにこの剣、ひょっとしてアスカさんが置いたもの?」

「そうだ。篝火は私にとって特別な意味を持つ。貴公もよく見ているだろう」

「よく見てるっていうか、本拠(ホーム)じゃお世話になりっぱなしというか……ねえ、少し暖まってもいいかな?」

「構わんが、後にしろ」

「うん、そうするよ。それで、リリ。大事な話があるって聞いて来たんだけど……」

「それは――」

 

 新雪のような真っ更な笑顔で尋ねるベルに、リリルカは顔を伏せて目配せをする。栗色の視線を受け取ったアスカは、こくりと頷いて部屋の外に向かった。

 

「ベル。私は席を外す。リリルカは貴公と二人だけで話したいそうだ」

「そうなの?」

「ああ。私は案内をしただけだ。この後、所用も入っている。帰りはリリルカと一緒に出るか、私が戻るまで此処で待っていたまえ」

「うん、分かった。いってらっしゃい、アスカさん」

「ああ。ではな」

 

 朗らかに笑って小さく手を振るベルに少し微笑んで、アスカは外出した。残されたベルはリリルカの勧めに従って、向き合う形で円卓に座る。

 

「それでリリ、話って何かな? 相談とかなら、あんまり力になれないかもしれないけど、僕に出来る事なら何でも言ってよ。リリにはいつもお世話になってるから」

「……ベル様は本当にお優しいんですね。ちょっとでも気を抜くと、その優しさにリリは溺れそうになっちゃいます。

 でも、そういう訳にはいきません。リリは今日、ベル様に本当のリリを知ってほしいんです」

「本当の、リリ?」

「はい、そうです。リリがどうしてベル様とパーティを組みたがったのか。どうして他の冒険者様に追いかけられていたのか。リリが本当は何をしていて、何を目的としていたのか。

 建前じゃない、本当の事を話したいんです。ベル様に、本当のリリを知ってほしいんです。

 …………勿論、ベル様が嫌だとおっしゃるなら、お話ししません。今日の事はなかった事にしてください。リリは――ベル様に嫌だと言ってほしいと、思っています」

「…………」

 

 自分の胸元を掴んで、けれどリリルカは真っ直ぐベルと向き合った。震える手、期待や恐怖、諦念、様々な感情が内在した瞳。臆病が垣間見えるリリの固い表情にベルは少し驚いて、すぐに自分の姿勢を正した。

 

「リリ。リリは僕に、本当のリリを知ってほしくない?」

「……分かりません。最近のリリは、自分で自分の事が分からないんです。だから、逃げ出したい。今のリリを見つめるのが怖いんです。

 でもリリは、リリのために見なくちゃいけない。自分の事も――ベル様の事も。

 ……これは、リリの勝手なわがままです。ベル様には何の得もありません。ですから、嫌なら嫌と言って下さい。本当のベル様で、リリと向き合って下さい。

 リリは、そう、思っています」

 

 少しだけ躊躇しながら、けれどリリルカは確かに言った。少年の方から拒否しない限り、絶対に目をそらさないと決めていた。

 その瞳を受け止めて、ベルは――にっこりと、あの笑顔で笑った。

 

「大丈夫だよ、リリ。僕は義理だとか、いやいやだとか、そんな風に思ってない。

 僕はいつもリリに助けられてばっかりだから。リリがいなくちゃ、僕に出来なかった事はいっぱいあるから。

 だから僕も、リリの力になりたいんだ。リリに助けてもらったみたいに――今度は僕が助ける番だって、そう思うんだ。

 それに言ったでしょ? リリの事、放っておけないって。今も、上手く言葉にはできないけど……きっとリリだから、助けたいんだって思う」

「――――」

 

 その笑顔と言葉は、リリルカの心を焼くものだ。

 荒んで、乾いた風しか吹かなかった彼女の心を、温かいもので満たしてくれる。灰色の影がちらついても、それも気にならないくらいに。

 

「…………ありがとうございます、ベル様」

 

 叶うなら、ずっとこの心を抱いていたい。リリルカは本心からそう願う自分(リリ)と見つめ合い。

 

「じゃあ、お話しますね。――リリが、どれだけ悪い小人族(パルゥム)なのか」

 

 現実ではなく、理想を追って。リリルカは一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 アスカが、リリルカを取り巻く悪意を殺害したあの日。

 アスカはリリルカにこう問い掛けた。

 

「貴公、ベル・クラネルに惹かれているのではないか?」

 

 古鐘のような掠れた声は、確かにリリルカの心を示していた。それに半ば驚き、けれど知られていても不思議ではないとリリルカは納得し、首肯する。

 

「ええ、その通りです。リリはベル様に惹かれています。何故かは、リリにも分かりませんが」

「ならば貴公に提案だ。【ヘスティア・ファミリア】に改宗(コンバージョン)しないか?」

「……本当に、アスカ様は突拍子がないですね。どうしてそうお考えになったんです?」

 

 心ない本のように会話の筋だけを進める。感情を見せてもしょうがないからだ。

 アスカは言葉を飾らない。真実だけを幼女は口にする。だからと言って正直ではないし、むしろ堂々と逆手に取ってくるが――それが本心である事は、誰にも否定出来はしない。

 心希薄(うす)く、酷薄であろうとも、それはアスカの真実である。ソウルの渦巻く暗い瞳は、言葉の嘘を許さない。

 だからアスカの提案は本気だ。程度はどうあれ、アスカは本当にリリルカを改宗(コンバージョン)させたいのだろう。

 これまでの経験からそう断定するリリルカは、まず話の聞き取りを優先した。心の内を曝け出すのは、それからでも遅くはないと。

 それを見透かす不死の幼女は、ゆっくりと古鐘の声を擦り鳴らした。

 

「この提案は元より貴公にするつもりだった。貴公が受け入れるかどうかは別としてな。

 勝算はなかった。私が満たしたのは貴公の金銭欲のみだ。それ以外の、貴公が奥底に押し留めていたものは考慮せず、むしろ無造作に踏み荒らしたと自認している」

「…………ええ、本当にそうですね。おかげでリリは心に傷を負ってしまいました。

 けれど、それがどうしたと言うんです? アスカ様はそんな事、どうでもいいと考えるお方でしょう?」

「そうだな。私にとっては些事に過ぎない。この提案も貴公が身を引く寸前に行うつもりだった。無謀ではあるが、やってみなければ分からんからな。

 だが今は違う。貴公はベルに惹かれている。そうであるならば、改宗(コンバージョン)の可能性も現実味を帯びる。

 ベル・クラネルはリリルカ・アーデを望んでいる。故に私は貴公を引き止める。ベルの家族として、まともな人のように、真っ当なやり方でな。

 だから貴公が去るのなら追わない。『敵対者』にならなければ害する事もない。

 私と貴公は対等だ。故にリリルカ・アーデ――これは貴公が選ばねばならんのだ」

「…………」

 

 凍てついた太陽の瞳からそっと目を伏せて、リリルカは膝の拳を握り込む。栗色の瞳を閉じて思案し、数秒後。

 リリルカはアスカを見据え、はっきりと言い放った。

 

「お断りします」

「そうか。貴公はベルを信じ切れないか」

「はい。私はベル様を信じられません」

 

 理由を見抜くアスカに物怖じせず、リリルカは己の心を吐露し続ける。

 

「言葉だけならいくらでも偽れます。笑顔なんて本物の保証なんかどこにもありません。

 リリはずっと騙してきました。調子の良い言葉で、媚び(へつら)った笑顔で、憎い憎い冒険者様を散々騙してきました。

 ウソの味をリリはよく知っています。偽者である事の心強さを、弱っちいリリは身に染みて分かっています。

 だから……だから、ベル様の暖かい笑顔が、リリの心から消えなかったとしても。それを疑う限り、リリはベル様の側には居られません。

 ……居ては、いけないんです……信じられないのに、一緒に居たいだなんて……そんなわがまま、リリは……」

 

 自分の胸を両手で押さえ、血を吐くようにリリルカは言った。それは誰からも救われず、世界の悪意に打ちのめされた彼女の、あるいは初めて口にした本心だった。

 それを永きに渡って人を見続けてきた不死はこう見る。リリルカはベルを信じ切れないと同時に、自分の業が許せない。

 降って湧いた己の希望。それに縋りたい、信じたいと思いながら、いざ汚れた自分がそれを掴み、穢してしまったら。自分のために暖かな光を曇らせてしまったら――そう思うからこそ、リリルカはアスカの提案を受け入れられない。

 罪に身を(やつ)すしかなかった、小人のありふれた罪悪感だ。それを取り払う言葉などアスカは持ち合わせていない。当然だ、狂王たる“灰”は聖職者では無き故に。

 だが、自らを知らしめる事は出来る。本質的に正しく、真っ当さ故に罪に苦しむのであれば――目の前にいる灰髪の小人族(パルゥム)が、リリルカ以上に汚らしい塵芥だと教えれば良い。

 

「私の眼を見ろ、リリルカ・アーデ」

 

 銀の半眼が暗く輝く。ソウルの荒立つ双眸をリリルカは見つめ、魅入られる。

 言の葉の真実を叩き込む瞳。それがアスカの、“灰”と呼ばれた不死の悪性を晒していた。

 

「私は人殺しだ。数え切れぬ程の人を殺してきた。

 私は人喰いだ。ソウルに飢え、時に死肉すらも噛み飲み干した。

 私は人でなしだ。我欲のために仇も友もこの手にかけた。

 死体から剥いだ身ぐるみばかりが、私の持つ武装のほとんどだ。装具欲しさに狩り殺した敵の数は(おびただ)しい。

 奪う事も、殺す事も、私にとっては手段でしかない。人の世に馴染まず、馴染もうともせず、放浪し時代を啜り尽くす者が私だ。

 人の世界において、私は呪われた化け物である。人の世界の怪物、火の時代の蚕食者。それが私だ。

 

 その私でも、ベルの側に居られる。そうである事を、ベル・クラネルは許すだろう。

 それでも貴公、リリルカ・アーデ。自らの罪に苛まれ、願いの成就を望まないのか。

 ずっと最後、貴公の息が絶えるまで、暗い日陰で生き続けたいか。

 そうであるのなら、止めはしない。貴公の現実がそうであれば、私からはもう何も言わん。願望を捨て、我らに背を向け――暗い現実を這い続けるがいい」

「…………そんなの、嫌です」

 

 銀の瞳のソウルに冒され、リリルカは無意識に涙を流しながら叫ぶ。

 

「でも、じゃあ、リリはどうしたらいいんですか!? ベル様を信じたい、でも信じられない! アスカ様のようにあの人の側に居たいのに、リリにはその資格がない!

 嘘っぱちで、弱っちくて、何も信じられなくて、役立たずで、そのくせワガママで……! こんなリリの事を受け入れてくれるわけ、ないじゃないですか……!

 それが現実だって、リリは……リリは知るしか、なかったのに……」

 

 リリルカ・アーデの人生は暗い。

 悪意に苛まれ、痛みを抱え、一度は逃れても再び突き放され、絶望に落ちた。

 希望が見えても、それが彼女を救う事はない。それが『現実』だと思い知らされてきたリリルカには、自らに燻ぶる願いを選べない。

 それを瞳を通し、ソウルから読み取るアスカは――面倒そうに鼻を鳴らしてリリルカの『現実』を否定した。

 

「それは違うな、リリルカ・アーデ」

「え……?」

「貴公は既に選んでいる。ここに在るのがその証左だ。

 貴公が本当に現実を見ているのなら、私と対話する事はない。

 必要ならば奪い、邪魔であるならば殺す。それが私だと貴公は知っている筈だ。選ぶ前の貴公であれば、その『現実』から逃げる選択肢も容易く取れていただろう。

 

 だが、貴公は選んだ。ベルを魔剣で助けた時から――ベルにただのリリルカ・アーデを救ってくれるのかと口にした時から。

 自覚がないだけだ。貴公は現実など見ていない。表面をいくら贋物で取り繕おうとも、その時が来れば貴公は命を投げ出すだろう。

 貴公が誰であれ助けると約束した、他ならぬベル・クラネルのために」

「…………」

 

 リリルカは否定出来なかった。アスカの言葉に嘘はなく、暗い銀の瞳が映した自身の行動はとっくに打算だけではなかったと認めるしかなかった。

 それでもなお、少女は動けない。その理由を端から察していたアスカは、やはり面倒そうに頬杖をついてリリルカの望みを口にした。

 

「……要は、保証が欲しいのだろう? ベルが言葉だけでなく、本当に貴公を守るその時まで。あるいはベルが貴公を受け入れなかった時、全てを元に戻すという保証を貴公は求めている」

「……それを、アスカ様が担うというんですか?」

「そうだ。もはや私に貴公は害せない。他ならぬベルがそれを望まない。だから貴公が全てを捨てたくなったのであれば、私に言え。

 貴公がそれを望むのなら、全ての縁を断ち切り、オラリオの外に住処を与えてやる。それくらいならば、私にもできる」

「…………」

 

 表情に影を落としてリリルカは沈黙する。長い時間をかけ、視線を床に落としていた少女は。

 顔を上げた時、危うくも確かな決意を栗色の瞳に秘めていた。

 

「――一度、ベル様と話させてください。お返事はその後に、お返しします」

 

 

 

 

「……以上が、リリの行った全てになります」

 

 リリルカは全てを話した。

 ヘスティア・ナイフを盗んだ事。そのためにベルに近づいた事。探索の分け前を掠め取り、必要ならいつでも切り捨てようとした事。

 それ以前の、リリルカが冒険者相手にやった悪行も全て話した。リリルカはどこか心が軽くなったように感じながら、俯いて少年の沙汰を待つ。

 

 きっと許されないだろう。擦り切れた自分が鼻で笑って嘲っていた。

 どうか、それでも受け入れて欲しい。理想を求める自分が静かに祈っていた。

 

 沈黙が場を支配する。影が炎に揺らめき続け、篝火が何度か火を散らし――リリルカはそっと、ベルに抱き締められた。

 

「リリ。僕はリリと一緒にいるよ」

「あ――」

 

 リリルカの小さな体に少年の温もりが伝わる。ベルは深紅(ルベライト)の瞳に優しさを灯して、子守唄のように語りかけた。

 

「リリのした事は許されないかもしれない。それでも僕は一緒にいるよ」

 

 ベルはこれが正しい事なのか分からない。

 だから、自分がされてきた事を返そうと思った。

 自分を受け入れてくれたヘスティアのように――ずっと傍にいてくれたアスカのように。

 こんなにも寂しそうな少女を見捨てる事だけは、絶対に間違っていると思ったから。

 

「リリの事、助けてあげたいんだ。リリが僕を助けてくれたみたいに……」

「……うっ、えぐっ……」

 

 リリルカは静かに泣いた。泣きながら、少年の胸に顔を埋める。

 ベルは目を閉じ、優しく微笑んで受け入れた。

 

 篝火の灯る、誰も知らぬ部屋での一幕。

 それは未来に飾られる事のない、少年と少女の物語だ。

 

 

 

 

 ――それでは、語られる事のない、暗い物語を始めよう。

 

 『ダイダロス通り』の近くには【ソーマ・ファミリア】の酒蔵がある。

 神酒(ソーマ)に憑かれた冒険者らしく、ホームより余程厳重に警備されている酒蔵の上階では、主神であるソーマが黙々と作業を続けていた。

 薄汚れたローブを纏う長髪の男神の背後には【ソーマ・ファミリア】の団長であるザニス・ルストラが形ばかりの礼儀を繕って立っている。

 

「ソーマ様、以上が本日の報告になります。【ファミリア】の運営はこのザニスにお任せ頂ければ、何の問題もありません」

「…………」

 

 理知人を気取り、内心の嘲りを隠せない歪んだ笑みで主神を見るザニスにソーマは反応しない。乳棒を擦り動かし、酒を造る事だけに没頭している。

 それが【ソーマ・ファミリア】の日常であり、ザニスが欲望の限りを尽くせる理由だった。

 

 一人の不死が、その場に足を踏み入れるまでは。

 

「ほう、丁度良い。団長と主神が揃っているとはな」

「ん?」

 

 ギイッ、と扉の開く音にザニスが不審げに振り返る。

 そこにいたのはやたら髪の長い幼女と、大きな荷物を背負った見覚えのある小人族(パルゥム)だった。

 

「なんだ、アーデか。そのガキは誰だ? ここは部外者立ち入り禁止だと、言わずとも分かっているだろう」

「…………」

「ふん、まあいい。それで何の用だ?」

 

 灰髪の幼女をザニスは訝しんだが、やたら印象の薄い小人族(パルゥム)などすぐに捨て置いた。そしてたっぷりと嘲りを含んだ目でリリルカを見遣る。

 だがリリルカはザニスの言葉を無視してソーマの元へ向かった。ザニスはピクリと頬を顰め、しかしすぐに目的を察して面白そうに事態を見守る。

 ソーマの近くに寄った少女は荷物を床に置き、大きく広げる。

 そこには大量のヴァリス金貨と宝石が山となっていた。

 

「お願い致します、ソーマ様。リリの退団を認めてください」

 

 そう呟く少女の目には、この時はまだ、怯えがあった。

 

 

 

 

「……本当について来る気なんですか?」

「ああ。少しばかり、気にかかる事がある」

 

 少し前、不安気なリリルカの問い掛けにアスカは遠い酒蔵を眺めながら答えた。

 多くの【ソーマ・ファミリア】団員が厳重に警備するあの場所に、これから彼女らは侵入する。

 それについては問題ない。

 【音無し】【見えない体】《霧の指輪》《静かに眠る竜印の指輪》。

 アスカの魔法と指輪を用いれば密偵の真似事など容易い。それが詐欺師と不死ならば尚更だ。

 リリルカが懸念しているのは、アスカが同行する事そのものだった。

 

「脱退金の用意はあります。ソーマ様がこちらにいらっしゃるのも事前に把握していますし、アスカ様まで来る必要はないと思うのですが……」

「万が一もある。私は貴公を守らねばならない。ならば行動を共にする必要もあるだろう」

「……そうですか。でしたらリリはもう何も言いません。好きにしてください」

 

 有無を言わせぬ物言いにリリルカは諦めた。何が何でもついて来る気配がありありと漂っていたからだ。

 正直勘弁してほしいとリリルカは思っていた。

 護衛としては頼もしいが、それ以上に厄介事を引き起こすのがアスカという小人族(パルゥム)なのだから。

 改宗(コンバージョン)が何事もなく終わる事をリリルカは祈っていた。

 

 

 

 

「なるほど、なるほど。1000万ヴァリスといったところか。大したものだ、まさかお前にこれだけの大金を用意できるとはな」

「…………」

「おやおや、無視と来たか。この私を無視するなど随分と態度が大きくなったものだなぁ、アーデ?

 身の程を弁えてこそこそと鼠のように生きるお前はどこへ行ったのやら」

 

 大袈裟な仕草で闊歩するザニスを一瞬睨んで、リリルカは焦燥や恐れが綯い交ぜになった顔を地に伏せる。

 

「ご無礼を働いた事は謝ります、ザニス様。その上でどうか、リリの用件をソーマ様に取り次いでいただけませんか」

「くっくっくっ、いいだろう」

 

 眼鏡の位置を直す傍ら、嫌らしい笑みを浮かべるザニスは大仰にソーマへ礼を取る。

 

「ソーマ様、こちらのアーデが脱退金まで用意して我らが【ファミリア】を抜けたいそうです。苦楽を共にした仲間が消えるなど何とも心苦しい話ですが、アーデの()()()()努力を無下には出来ますまい。

 つきましては退団を認めようと思いますが、如何でしょうか?」

「……任せる」

「だ、そうだ。良かったな、アーデ」

 

 振り向きもせず答えたソーマの言葉にリリルカは内心飛び上がりそうな程色めき立つ。

 抜けられる。【ソーマ・ファミリア】を、リリルカを虐げるだけだった世界(げんじつ)の象徴から開放される。

 それをどれほど待ち望んだ事か。あまりにとんとん拍子に進んだ退団にリリルカは思わず顔を上げた。上げてしまった。

 絶望の底で希望を垣間見たようなリリルカの顔を、ニヤリと口元を歪めたザニスが嘲笑うように見ていた。

 その瞬間、沸き立つような不安に襲われたリリルカを見ながら、ザニスは芝居がかった動きで天を仰ぐ。

 

「ああ、しかし、しかしだアーデ。お前の脱退金には確かに届いているが――()()()()

「……は?」

()()()()()()()()、アーデぇ。お前自身の脱退金はあっても、()()()()()()()()()()の返済にはまるで届いてないんだ」

「しゃ、借金っ!?」

 

 予想外の台詞にリリルカはがばりと体を起こす。

 そんな、ありえない。そんな筈はない!

 あの神酒(ソーマ)に囚われ死んでいった両親に借金があったとして、それを今までリリルカに押し付けなかった道理なんて【ソーマ・ファミリア】にあるわけがない!

 言外にそう語るリリルカを心底楽しげにザニスは笑い、滔々と理由を並べ立てる。

 

「お前の親が死んだのは三つの頃だったか? どうでもいいが、当時物乞いでしか生きられなかったお前に借金(それ)を押し付けるのはあまりに哀れだ。だから皆、お前から借金の取り立てをしなかったんだ」

「そ、そんな訳ありません!? 冒険者(あなたがた)がそんな気を使うなんてありえないっ!!」

「おいおい、我々の善意を疑うのか? 悲しいなぁ、アーデ。だが、これは事実だ。覆しようもなくお前の親は借金を負っていた。

 そう……()()()()()()()()()()()()()()にな」

「――!?」

 

 その言葉の意味を理解し、リリルカは顔を蒼白にした。

 神酒(ソーマ)を求め金に飢えた獣共から金を借りていた――それが真実かどうかなど関係ない。

 ザニスは認めたのだ。リリルカは【ソーマ・ファミリア】が食い物にできる、立派な()()であると。

 

「借金の額は2000万ヴァリス。なぁに、脱退金を集め切ったお前なら十分稼げる額だ。それを用意できたら、正式に退団を認めよう」

「にせっ……!? そんな、そんな大金、リリにはっ……!?」

「いいやできる、できるはずだ。今ここにある金がそれを証明している。信じているぞぉ、アーデ? なんなら協力してやってもいい。同じ【ファミリア】として、なぁ?」

「っ……! ザニス、様……!!」

 

 逃がすつもりはない。獲物を見つけた蛇のような絡みつく視線がリリルカを縛り付ける。

 恐慌、絶望――そして、憎悪。目まぐるしく変化したリリルカの感情は、ベル達と出会う前の荒み切った"灰かぶり"のそれとなり、淀んだ栗色の目となってザニスを睨みつけた。

 それを心地良さそうに受けるザニスは、ニイィッと顔を醜く歪める。

 

「ああ、その目だ、アーデ! お前のその目が見たかった! つまらない希望など捨ててしまえ!

 薄汚いお前には、この世の全てを恨んでいるようなその目がお似合いだ!」

 

 醜怪(しゅうかい)な形相で笑うザニスにリリルカは何も言えなかった。代わりに何も出来ない自分への罰のように爪が食い込むまで拳を握る。

 そうして高笑いするザニスと踞るリリルカの間に――ドンッ! と大量の袋が突如現れた。

 

「ん? 何だこれは?」

「――2000万ヴァリス」

「何だと?」

「2000万ヴァリスだと言っている。貴公がリリルカに示した借金、その全額だ」

 

 何もない空間に物体が出現する事象に対するザニスの反応は()()。目の前の袋にも、いつの間にか寄ってきた灰髪の小人族(パルゥム)にも碌に警戒しないザニスは、やっと“灰”へ認識を向ける。

 

「お前は……ああ、アーデが連れてきたガキか。まだ居たとは気付かなかった。

 あー、それで……2000万ヴァリスだと? まさかこの袋の山がそうだと言うのか?」

 

 疑念を向けるザニスに“灰”は無言で袋を押した。積み重なっていた袋の上部が倒れ、袋口から大量のヴァリス金貨が流れ出る。

 残った袋も開けてヴァリス金貨を見せつける“灰”に、ザニスはようやく、最初にするべき質問を口にした。

 

「……誰だお前は」

「名前はない。ただ“灰”と呼ばれている」

 

 呟く“灰”の存在感は薄く。

 霧のようにそこに立つ“灰”の後ろで、文字通りの霧が立ち込み始めていた。

 

 

 

 

 ザニス・ルストラにとって【ソーマ・ファミリア】は理想的だ。

 主神は【ファミリア】に関心がなく、自らが頂点であり、団員を自由に動かせる神酒(さけ)がある。

 この世のありとあらゆる快楽を貪りたいと願うザニスからすればこれ以上のない組織だ。たとえ神酒(ソーマ)に狂い死んでいく団員がいようと、彼らの下で踏み躙られる弱者がいようと関係はない。

 全ては己の食い物になるか否か。必然、格下ばかりを食らう下種が完成する。

 理知人を気取る【ソーマ・ファミリア】団長は、その仮面で隠し切れない醜悪な外道だった。

 

「……“灰”……“灰”ねぇ」

 

 そのザニスをして、目の前の小人族(パルゥム)は測りかねる存在だ。

 まずもって存在が薄い。身長の低い小人族(パルゥム)だからどうという話ではなく、そもそもが陽炎のように意識が向かない。純粋に興味が湧かないと言うべきだろう。

 おそらくは歯牙にもかけられない格下だから、と早々に結論を下したザニスは、それよりも眼前に積まれたヴァリス金貨に目を向けた。

 黄金の輝きは魔性だ。価値の有る無しに関わらず、見る者全てを引き込んでいく。適当に一枚取り、その輝きが本物であると確かめたザニスは、金貨を手で弄びながら“灰”を見た。

 

「聞かん名だが、ま、それは置いておこう。それよりもなぜ、これ程の大金をここに出した?

 まさかアーデの借金を肩代わりしよう、なんて事はあるまい?」

「その通りだ。私はリリルカの借金を精算するために金を出した」

「なぜだ?」

「リリルカ・アーデを改宗(コンバージョン)させるためだ」

「……ほう」

 

 改宗(コンバージョン)。その言葉を聞いてザニスの目が変わった。見知らぬ物を観察する目から爬虫類のように細く、獲物を見る目に。

 

「何を言い出すかと思えば改宗(コンバージョン)とは……その意味が分かって言っているのか?」

「勿論だ。私はリリルカ・アーデを引き抜きたい」

「ふはははははっ! わざわざアーデを引き抜くために2000万ヴァリスを支払うと? お前がどのようなガキで、どんな【ファミリア】に所属しているかも知らないというのに?

 やれやれ、全く呆れ果てる。そんな得体の知れない奴に大切な団員を売れるわけがないだろう」

「では、何が必要だ」

 

 眉一つ動かさない“灰”にザニスは頬を歪める。確かによく分からず、格下に見える得体の知れない女だが……どうやら金だけは持っているらしい。

 そして何よりも、()()()()の臭いを感じ取ったザニスは、大仰な動きで条件を示した。

 

「そうさなぁ、差し当たっては保証金か。アーデが引き抜かれる損害、改宗(コンバージョン)後に契約を反故しないための前金、後ろ暗い取引に関わる我々の危険(リスク)……占めて3000万ヴァリスといった所だろう」

「分かった。この場で支払おう」

 

 言うや否や、ザニスの前にある金貨の山が倍以上に膨れ上がる。ジャラジャラと金属音を上げながら山なりに崩れる黄金の光にザニスは下卑た大笑を響かせた。

 

「ふははははははははっ!? おいおいアーデぇ、一体どこでこいつを見つけてきた!? 

 明らかにヤバい事に関わっているガキだ! お前本当にこいつのいる派閥に改宗(はい)るつもりか!?」

「アスカ様……」

 

 ザニスの話を半ば聞き流すリリルカは呆然と呟く。

 危険なのは承知の上だ。アスカという存在がどれほど恐ろしいのかリリルカは重々分かっている。

 だがそれを何故、ザニスは分からないのだろう。こうして守られている今でさえ、アスカからは巨大な老木のような力を感じるというのに。

 何か見え方が違うのか。リリルカの瞳に映る小人族(パルゥム)とザニスが嘲笑う“灰”には決定的な差異があるように思えた。

 燃え上がる火の届かざる彼方に潜む、影か、あるいは尽きぬ闇のように。

 

「くはっ、くははっ! ああ、構わんとも! お前がどこの誰だろうと金を払うなら構わない!

 アーデの退団を認めようじゃないか! どこへなりとも連れて行くがいい!」

 

 両手を広げザニスは笑い続ける。黄金の魔性に囚われた男は眩んだ目でしか“灰”を見れない。

 獲物、食い物、吸い続けられる金蔓。大金を軽く支払える無名の弱者など何処に繋がっているか分かったものではないが、同程度の取引ならザニスは既にやっている。

 たとえこのガキが闇派閥(イヴィルス)だろうと金が尽きぬ限りは繋がろうではないか。リリルカの利用価値を天秤にかけても“灰”に傾いたザニスは、更に欲望で顔を歪ませた。

 まだ出せるのなら、骨の髄まで搾り取る。もっと甘い汁を啜ろうと哄笑混じりの言葉を吐き出す。

 

「だがそれは更に5000万ヴァリス支払ってからだ! アーデの親の借金に利子は加算してなかったからなぁ〜! それも払って貰わねば貸した我々の立つ瀬がない!

 さあ、ガキぃ〜! 払って貰うぞぉ、アーデが欲しければなぁ!」

 

 そう。ザニスは言葉を吐き出してしまった。

 リリルカに示した両親の借金。“灰”に求めた多額の保証金。

 それに続く、借金の利子という“三度目”の要求を、ザニス・ルストラは口にした。

 

「……そうか。分かった。三度目だ」

「なに――ぐげえっっ!?」

 

 瞬間、ザニスは床に叩きつけられる。

 灰色の残影をおいてザニスの首を締め上げた、“灰”の逸した力によって。

 

「なっ、ぐっ、ぐええっ!?」

「私は三度も、同じ事はしない。貴公は三度、私に要求した。

 十分だ。ここからは、力尽くで行かせて貰おう」

「何を、言って……!?」

 

 自らの喉に食らいつく腕を掴みながら、ザニスは反射的に“灰”を蹴る。

 床に叩きつけられた仰向けの姿勢、自由に動くのは両足しかない。空気を裂いて振るわれる男の足は、本来なら簡単に“灰”を吹き飛ばせる筈だった。

 

「な、なぜだっ……!?」

 

 だが、それは叶わない。ザニスより遥かに小さいガキなのに、巌の如く動かない。蹴り上げようと殴りつけようと、“灰”は一切動じずザニスを床に拘束し続けた。

 

「馬鹿なっ!? 俺はっ、Lv.(レベル)2だぞっ!?」

 

 ザニスはがむしゃらに抵抗したが、一つの成果も得られなかった。そんな筈はないと抵抗を続けても、現実は何も変わらない。

 

(なぜだっ!? こいつは明らかにひ弱なガキだったはずなのに……!?)

 

 ザニスはずれた眼鏡の奥から“灰”を睨む。ありえない異常事態に冒険者としての観察眼が“灰”を捉えた。

 ザニスの暴行に揺れる、生まれより伸びる灰髪の奥。そこにある凍てついた太陽のような銀眼を、ザニスは見てしまった。

 その瞬間、闇に首筋を撫でられたかのような生暖かい怖気が走り、ザニスは恐怖で体を強張らせる。

 

(なんだっ!? なんだこいつはっ!? これ程の力、これだけの存在圧、明らかに普通じゃないっ!

 なぜ気付かなかった!? ただのガキだと、そんな馬鹿な話があるか!

 こいつは、あの狂った闇派閥(イヴィルス)の化物どもと同じか、それ以上の――!?)

「――私の眼を見ろ。ザニス・ルストラ」

 

 降り掛かった古鐘の声に、ザニスはビクリと硬直する。ギリギリと喉を締め上げられる焦燥感の中、半眼の小人族(パルゥム)ははっきりとザニスを見ていた。

 

「私はリリルカ・アーデの改宗(コンバージョン)を望んでいる。

 金は、5000万ヴァリス以上は支払わない。それ以上は意味がないからだ。

 それで納得して貰おう。後は、力尽くで頷かせる。

 ――リリルカ・アーデの改宗(コンバージョン)を認めろ」

「ぐっ……!? わ、わかったっ! 認める、認めようっ! だから放せっ」

「いいだろう」

 

 小さな手を放されたザニスは(うずくま)って咳き込む。そして縋り付くようにソーマの元へ這いずり嘆願した。

 

「ソ、ソーマ様! アーデの改宗(コンバージョン)をお願い致します! この“灰”とかいうガキは異常です! これ以上関わるべきではありません!」

「……」

「……ソーマ様?」

 

 ソーマは反応しない。リリルカの退団も、ザニスの欲望も、“灰”の暴行も全て絵画の向こう側の世界のように無視するソーマは、黙々と作業を行っていた。

 

「お聞きください、ソーマ様……!」

「やかましいぞ、ザニス。今は忙しい。雑事なら後にしろ」

 

 ザニスの必死の嘆願に目もくれず、ソーマは一蹴した。絶句するザニスを見つめ、“灰”は進み出る。

 

「ソーマ。リリルカ・アーデの退団を認めろ」

「……これを飲んでまた同じ事が言えたなら耳を貸そう」

 

 “灰”の尊大な物言いにソーマは煩わしそうに動き、棚から酒瓶を取り出して(さかずき)に注ぐ。

 神酒(ソーマ)。今なお【ソーマ・ファミリア】の団員を狂わせる神の酒をソーマは“灰”に差し出した。

 

「それは……!? いけません、アスカ様っ!」

 

 その味を知っているリリルカは多大な恐怖に支配され思わず叫ぶ。それをアスカは手で制止し、ゆっくりと盃を受け取った。

 酒の水面に“灰”が映る。目眩を催すほどの涼しく芳醇な香りが“灰”の鼻をくすぐり、幼い容貌に小さな亀裂が刻まれる。

 やや眺め、緩慢な動きで“灰”は酒を呷り――半ばでぴたりと止まり、唇から杯を離した。

 

「――――()()()

「…………は?」

 

 それは誰の声だったか。吐き出された“灰”の言葉にザニスは驚倒し、リリルカは呆然と眺め、ソーマは瞠目する。

 それを他所に、“灰”は杯を()()()()。甲高い音を立てて割れる杯を、“灰”は溢れた酒ごと()()()()

 

「な……何をしている!?」

 

 思わず、といった風にザニスは絶叫した。目の前の出来事が信じられなかったからだ。

 外界最高峰の『神の酒』。子供たちを溺れさせ、獣に堕落させるほどの美味さを持つ至高の品。

 それを「まずい」などと言い放ち、(あまつさ)え飲み干しもせず床に零すなどありえない。踏み躙るなど論外だ。

 だからザニスは叫んだ。自らの頼った神酒(ソーマ)を否定する光景に恐怖し、拒絶したが故の反応だったかもしれない。だがそれは、もはや無意味だ。

 

 首をもたげ、ザニスを睨む灰髪の小人族(パルゥム)。垂れ下がる髪の隙間から覗く貌は、憎悪に満ちていた。

 

「ああ……ああ……よくも、よくもこんな物を私に飲ませたな……()()()など、巫山戯(ふざけ)た物を、よくも……」

「ひっ!? ち、違う!? 俺じゃない!? 俺じゃ――!?」

「煩い」

「ぐげあっっ!?」

 

 “灰”の腕がブレた瞬間、ザニスは壁に激突し一瞬で意識を刈り取られる。ずるずると落ちるザニスを暫し睨み、“灰”は亡霊のようにソーマへ視線を向けた。

 

「……さあ、リリルカ・アーデの退団を認めろ」

「……お前は……」

「……何だ、その目は……私の行いがそんなに疑問か……?

 下らない……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 だから貴様にも、期待はしない……応えぬのなら――斬り伏せるまでだ」

 

 “灰”は虚空に手を伸ばし、現れた柄に手をかける。

 引き出されたのは《混沌の刃》。斑流紋の浮かぶ刀にして、敵と同時に持ち手を蝕む『魔剣』。

 混沌の魔女クラーグのソウルより作り出された刃を抜き去り、“灰”は大上段に構えた。

 

「……そうか。お前は、そうなのだな。

 ならば良い。お前がそれを望むのなら――この命を差し出そう」

 

 対し、ソーマは。

 “灰”の眼からして認識し難い感情を墨色の瞳に宿し、やがてまぶたを降ろし、沙汰を待つ罪人のように厳かにその場で立ち尽くした。

 故に“灰”は止まる。ソーマの行いを理解出来なかったが故に。

 そして呆然と眺めていたリリルカは、全身の血の気が一気に引くような焦燥に取り憑かれた。

 

(まず)い……!? 拙い、拙い、拙い――!?)

 

 “灰”は恐ろしい。それに今更疑いを抱くべくもない。

 けれど、“それ”は駄目だ。“それ”をしてしまっては、もう人の世界で生きる事など出来ない。

 『神殺し』――神時代以来、神、ひいては人類と敵対する絶対の罪。

 神は、神しか殺してはいけない。その不文律を破る決して犯されてはならない最初の罪を、“灰”は執り行おうとしている!

 どうする、どうすればいい。リリルカは愕然としながら必死に頭を回した。

 それはベルの為だ。アスカが『神殺し』を行えば、同じ【ファミリア】であり家族であるベルに被害が及ばない理由がない。

 ここで止めなければ、あの白い笑顔を曇らせてしまう。

 そしてまた――アスカの為でもある。

 アスカは、“灰”は恐ろしい。関わりたいか否かで言えば、間違いなく否だ。今まさに神を殺さんとする狂気を膨れ上がらせる“灰”を見れば誰だってそう思うだろう。

 けれど、それでも()()()()()()()()。その手法がどうであれ、リリルカを取り巻く悪意をアスカはその手を汚して取り払った。

 心は、少年(ベル)に救われた。現実は彼女(アスカ)が打ち破った。

 

 ならばリリルカは、動かなければならない。ここで呆然と眺めているだけなんて、リリルカ自身が許さない。

 限界まで考え、必死に周囲を見渡し、やがてリリルカはあるものを見つける。

 僅かに躊躇し、それでも動いた。相対し止まったソーマとアスカの側、壁に備え付けられた棚まで走って――置かれていた酒瓶を手に取り。

 

「待ってください、アスカ様っ!!」

 

 叫んで、神と、人がリリルカを見た瞬間。

 意を決して酒瓶を呷り――泣きながらソーマに、自分の想いを精一杯叫んだ。

 

 

 

 

「――以上が、事の顛末だ。リリルカ・アーデは正式に退団した。我らが【ファミリア】に入団するに、何の問題もないだろう」

「ん〜、んん〜〜〜……そうだね、何の問題もない……わけないだろおっ!?

 何をしているんだアスカ君っ!? 他の【ファミリア】に殴り込みじみた事をするなんて危ないじゃないかっ!?

 というか、サポーター君の改宗(コンバージョン)の話とか、ボク何も聞いてないんだけどっ!?」

「事後承諾でどうとでもなると思った」

「ぬあ〜〜〜っ! あーもう、これだからアスカ君はさあ〜〜〜っ!」

 

 頭を抱えてぶんぶんとツインテールを振り回す主神(ヘスティア)の奇行にアスカは冷めた目を向けていた。

 場所は廃教会地下。バイトを無理やり切り上げさせられて呼び出されたヘスティアは、疲れた様子のリリルカを連れてきたアスカの話に混乱している。

 

「というか、話の中でアスカ君普通に暴れてたけど大丈夫なのかい!? 怪我はしてなさそうだけど、報復とか色々あるだろ!?」

「チャンドラ・イヒトという男と話をつけている。リリルカの改宗(コンバージョン)、移籍については一先ず後腐れはない」

「それ以外は!?」

「何かあれば、()()()()。貴公が望むまいと、私が蒔いた種だ。私自身で刈り取り尽くす」

「出来ればそういうのはなしにして欲しいんだけど……う〜ん、う〜〜〜ん……とにかく、とりあえずは何ともないんだね? 何かまずい事とかやらかしてないよね? いや、さっきの話がまずくないってわけじゃないんだけどさ」

「ヘスティア。一つ、至言を紹介しよう」

「何だい?」

「バレなければ犯罪ではない」

「駄目じゃないかっ!?」

 

 「どうしてこう、君ってヤツは!?」とヘスティアはうがーっ! と天を仰いだ。目の前で繰り広げられる神と眷族の(コント)にリリルカはどうすればいいか分からないでいる。

 

「はーっ、はーっ、はあ〜〜〜っ……とりあえず、とりあえずその辺の話は置いとこう。後でたっぷり説教させてもらうけどねっ!

 今は――サポーター君の改宗(コンバージョン)の話をしようか」

「っ!」

 

 話を聞くだけで疲れ切った様子のヘスティアは、大きく深呼吸をして神の顔を表に出す。超越存在(デウスデア)としての瞳でリリルカを見定めるヘスティアは、まさしく天の女神だった。

 

「まずは君の話を聞かせてくれ。話せるだけでいい、その後アスカ君からも聞いて、君の入団について判断しよう」

「……はい、分かりました」

 

 ヘスティアの瞳に気圧されて、けれどはっきり見返したリリルカは話した。

 自身の半生、ベルに出会ってから、盗みの話、アスカにされた事、何を思って改宗(コンバージョン)を承諾したのか。

 神妙な顔で聞いていたヘスティアは、途中アスカの所業にドン引きしていたが、最後まで口を挟まず聞き届けた。

 そして腕を組み、目を閉じて黙考する。リリルカは緊張した様子で沙汰を待ち、アスカは夕食の食材を確認していた。

 やがて腕を解いたヘスティアは、不承不承という風に頷いた。

 

「…………分かった。サポーター君の入団を認めよう」

「っ! 本当ですか!」

「心情的には正直、いやかなーり認めたくないんだけどね。

 君がベル君の側に居るのに相応しいとは思わない。一度ベル君を狙ったのもそうだし、その上でベル君に許されて罪悪感で潰れそうになっているのも気に食わない。しょぼくれた顔をしてさ、卑怯だよ、君は」

「っ……」

「ただ……うちのアスカ君が色々やらかしてるし、やらかし過ぎちゃって主神として責任を取らざるを得ない状況になってるし……何より今は無所属の君を放り出すなんてボクの存在意義に関わるし……。

 ……アスカ君、ひょっとしてここまで読んで行動してたりしないだろうね?」

「ああ。貴公ならそうするだろうと考えていた。だから事後承諾で十分だと思った」

「やっぱり……今更だけど、君という(こども)がどういうやつなのか分かってきた気がするよ……」

 

 はあーっ、と盛大なため息をつくヘスティアは、頭を振ってリリルカへ向き直る。

 

「というわけで、ボクは入団を認めようと思う。もし君が納得できないなら、これからの行動で示してくれ。

 ベル君と、アスカ君を助けてやってくれ。それが出来るのなら、ボクは君と『家族(ファミリア)』になるよ」

「っ……はい、ありがとう、ございます……ヘスティア様」

 

 暖かな笑顔と共に差し出された手を、リリルカは両手で受け取った。大切に、泣きそうな顔で、もう離さないと誓うように。

 それを見届けて柔らかく微笑むヘスティアは、神妙な顔に戻ってすっとリリルカに近づく。

 鼻と鼻が触れ合う距離。驚くリリルカにヘスティアはそっと囁いた。

 

「それから一つ――何か隠している事があるね?」

「っ!?」

「たぶん、アスカ君の事だろう。あの子はどこか危うい。口にしちゃいけないような事をしたんじゃないか?」

「……それは……」

「……無理には聞かない。けれど、話すべきと思った時は話してくれ。

 ボクはあの子の家族だ。もしもの時は、ボクが止めなくちゃならない。

 だから、あの子を頼む。アスカ君は無理をし過ぎる。それを出来るだけ、止めてやってくれないか」

「――約束します。ベル様のためにも、アスカ様のためにも、リリが頑張ります」

「うん、ありがとう。頼りにしているよ」

 

 そうやって内緒話を――アスカには聞こえていただろうが――切り上げたヘスティアは、改宗(コンバージョン)を終えた後、急ぎ足でバイトに戻っていった。色々話すべき事はあったが、無理やり抜けてきたのでヘファイストスが怖いのだ。

 「話の続きはまた後でねー!」と去っていったヘスティアを見送って、地下室にはアスカとリリルカが残される。

 ぽつんと残されてどうしようかと考えていたリリルカに、アスカは声をかけた。

 

「……さて。ベルがダンジョンから戻るまで時間もある。その間、我々【ヘスティア・ファミリア】について話をしようか」

「あ、はい、お願いします」

「差し当たっては、【ファミリア】の家計についてだ。まず、ヘスティアの金銭感覚は信用できない。ベルは言わずもがな、知識が足りない。私には興味がない。

 故に家計に関しては、貴公に任せようと思う。異論はあるか?」

「いえ、ありませんが……本当に、リリに任せてしまうのですか?」

「信用云々なら今更だ。貴公はもう、私の家族だ。家族を疑うなど、それは人の所業ではない」

「アスカ様……分かりました。家計はリリが責任を持ってお預かりします」

「うむ、任せる。それと、私の持つ金の半分ほどを貴公に預けよう。何かあれば、貴公の判断で好きにしてくれて構わない」

「了解です。それで、いくら位ですか?」

「そうさな……――(おおよ)そ30億ヴァリス、の筈だ」

「……………………は?」

 

 ピシリ、とリリルカは固まった。30億? 30億ヴァリス? 30万ヴァリスの聞き間違いではないか?

 石像のように動かなくなるリリルカを露とも知らず、アスカはソウルから『底なしの木箱』を取り出した。

 古く神を貪欲の罪で追放された一族に課せられる、《貪欲者の烙印》とも呼ばれる木箱。それを開き、腕を突っ込むアスカは次々と大袋を取り出す。

 明らかに箱のサイズと合わないそれらは、ザニスの前に積み上げた物と同じ袋だった。

 

「…………はっ!? ちょ、ちょっと待ってくださいっ!?」

「どうした、リリルカ」

「ヴァリス金貨で出されても困ります!? 移動も保管もままなりません! というか何ですかその箱は!? リリの常識を軽々しくぶち壊さないでくださいっ!!」

「そうか。済まないな」

「絶対そう思っていないでしょうアスカ様は……っ!」

 

 ぜーぜーと肩で息をするリリルカを一瞥してアスカは袋をしまう。ややあって、思いついたようにもう一つ『底なしの木箱』を取り出したアスカはそれをリリルカの前に寄せた。

 

「ではまず、これの説明から始めよう。

 名を『底なしの木箱』という。見ての通り、底の空いた木箱だが、貪欲に際限なく物を収納できる。

 一先ずはこれに30億ヴァリスを詰めて貴公に譲ろう」

「……さらっととんでもない事を言ってくれやがりますね、アスカ様は。でも、いいんですか? こんな貴重なんて言葉じゃとても言い表せない貴重品をリリに譲るなんて」

「何度でも言うが、貴公は家族だ。家族とは、私にとって特別な意味を持つ。

 だから貴公の力となるのなら、私は私の全てを懸ける。無論、最も尊ぶ者はベル・クラネルただ一人だが、その次点に添えるくらいにはな。

 家族とは、そうあるべきだと、私は知っている」

「アスカ様……」

 

 リリルカにはその言葉の重みは分からない。アスカ自身、大して重みを感じていないだろうが、彼女がそう云うのならそれはまさに誰にも覆せない『真実』だ。

 ふと、花屋の老夫婦を思い出す。彼らには迷惑をかけた。最後には拒絶されたが、それも当然だ。それでも老夫婦と過ごした日々は、リリルカの心から消える事はないだろう。

 アスカにとっても、それは同じかも知れない。そう思うと、目の前に置かれた木箱が重くなったような気がした。

 ……というか普通に持ち運べそうにない程大きくて重そうだった。

 

「アスカ様……これを、リリにどうしろと言うのでしょうか……」

「ん? ……ああ、そうか。貴公はまだ“ソウルの業”を覚えていないのだったな。

 丁度良い。私も“ソウルの業”の根幹、基本を人に教えた事はない。ならば貴公にそれを教える事で経験を積む事が出来る」

「……危なくないでしょうね?」

「大丈夫だ。危険があれば前もって準備をする」

「何も大丈夫じゃないんですがそれは……まあいいです。どうせ何を言ってもしょうがないですし。

 それで、教えてくれるのは何ですか?」

「“ソウルの業”の基幹。最も単純で「火の時代」において誰もが使用していた術――『物質のソウル化』とそれの逆様(さかしま)だ」

「――!」

 

 その言葉を聞いてリリルカは姿勢を正す。

 『物質のソウル化』。それはアスカが当然のように行っている『虚空に物を収納するスキル』の事だろう。まさかそのまま技術(スキル)を指しているとは思わなかったが、もし本当ならリリルカもそれを使えるようになる。

 自分にアスカと同じ事が出来たなら――そう何度も夢想してきた。それが現実となるのなら願ってもない事だ。

 そして同時に、これこそが本当の意味での信頼の表れとも思った。アスカにとっての利益もあるだろう。だが利益だけなら『底なしの木箱』か『物質のソウル化』、そのどちらかでいい筈だ。

 リリルカを家族として見ているから、アスカは助力を惜しまない。改宗(コンバージョン)をして以降、明確に変わった彼女の在り方にリリルカは思わず涙ぐみそうになり、顔を腕で擦って奮起した。

 

 自分(リリ)が頑張らなくちゃいけない。

 リリルカは知っている。【ソーマ・ファミリア】から出た後、アスカが神酒(ソーマ)を飲んで以降の記憶を失っていた事を。

 ザニスの気を失わせ、『神殺し』を敢行しようとしたあの記憶を一切失い、ただ神酒(ソーマ)の後味に苛立っていた事実を、リリルカは知っている。

 おそらくは神か、神に関する何かが引鉄(トリガー)。それに触れる事で、アスカはリリルカの半生で抱いていた負の感情など消し飛ぶ程の悍ましい憎悪を溢れ出させる。

 平素、何に対しても冷たい半眼を貫くアスカの、あの表情は怖かった。煮詰まった闇の如く、蠢くような憎悪を刻む灰髪の相貌は、恐怖を超え、畏怖に近い何かをリリルカに感じさせた。それを忘れていたと知った時、リリルカの背筋に冷たいものが走った。

 アスカは、何かを抱えている。それは誰にも触れざるべき、けれど何時しか向き合う事となるであろう何かだ。

 それは殺人の件と合わせて、ヘスティアに隠した事だ。最悪【ファミリア】を追放される程の大罪未遂を伝えるには、まだリリルカの中で考えが熟していなかった。

 だから自分(リリ)が頑張らなくちゃいけない。出来るだけアスカの変異を防ぎ、それが解き放たれた時、アスカが何者も傷つけないように。

 ヘスティアに頼まれた、そしてベルと、アスカと共にある――“家族”として、自分(リリ)がやれる事を何でもやるのだ。

 そう、リリルカが奮起していると、アスカは手を差し出すように言った。素直に従えば、アスカは青白い光を集めて形になった物をリリルカの小さな両手に載せる。

 

 それは猛々しく匂い立つ、茶色の混じった割れた内側が瑞々しい何かだった。

 

「…………………………………………何ですかこれは」

「糞団子だ」

「は?」

「糞団子だ。乾いた排泄物。大便だ」

「…………………………………………」

「まずはこれを起点に『物質のソウル化』を覚えてもらおう。なに、そう難しい事ではない。物質をソウルと化す業そのものには時間がかかるだろうが、自らのソウルの器に取り込み、取り出す事を覚えればほとんどの物質をソウル化出来るだろう。

 それでは、“ソウルの業”の伝承を始めよう。まずは物質のソウルを感じ取る事からだが……リリルカ、聞いているのか?」

「…………………………………………う」

「う?」

「うっっっきゃああああああああああああああああああああああああああああああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!?」

 

 両手に載せられた汚物を、リリルカは渾身の絶叫と共に天へ放り投げた。

 

 ――自分(リリ)が、頑張らなくちゃいけない。

 確かにそう思った。そう、自分自身で決意した。

 けれどこれは、何か違う。ひょっとしたらリリはとんでもない間違いをしてしまったんじゃないだろうか。

 この常識の通用しない小人族(パルゥム)、アスカにこれからずっと振り回される――そんな未来を選んでしまったんじゃないだろうか。

 

 爆発する意識の中、リリルカはふとそんな事を考えた。

 そして糞団子が天井に当たる前にアスカが回収したのは、後々の事を考えればリリルカにとって幸運だったのかも知れない。

 そんな幸運などいらないと、後々の彼女(リリルカ)ならば重いため息と共に吐き出すのだろうけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リリルカ・アーデ

Lv.(レベル)

力:I42 耐久:I42 器用:H143 敏捷:G285 魔力:F317

 

《魔法》

【シンダー・エラ】

・変身魔法。

・変身像は詠唱時のイメージ依存。具体性欠如の場合は失敗(ファンブル)

・模倣推奨。

・詠唱式【貴方の刻印(きず)は私のもの。私の刻印(きず)は私のもの】

・解除式【響く十二時のお告げ】

 

《スキル》

縁下力持(アーテル・アシスト)

・一定以上の装備過重時における補正。

・能力補正は重量に比例。

 

魂業小箱(ソウル・ヴェソル)

・あらゆる物をソウルの器に収納する。

・器に登録した物は即座に取り出せる。

・登録数、容量は総ソウル量に依存。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まだ日も昇らない夜明け間近の時間、リリルカはいつものように目を覚ました。

 窃盗を働いていた時の癖、あるいは嗜みのようなものだ。後ろ暗い生き方には備えて損をする事がない。だからすぐに眠気を飛ばしたリリルカが感じたのは困惑だった。

 ここは根城にしている安宿ではない。狭い部屋だし内装も良くないが、綺麗に掃除されており、何よりベッドの上にいる。

 数秒ほど呆然として、はたとリリルカは気付いた。

 そうだ、自分は改宗(コンバージョン)したのだ。あの悪夢のような【ソーマ・ファミリア】から、理想を求めて【ヘスティア・ファミリア】に。

 リリルカの脳裏に昨晩の記憶が蘇る。それはアスカの授業……授業? にリリルカが疲れ果てた頃、ベルとヘスティアが帰ってきた時から始まる。

 

「……なんかサポーター君のスキル増えてるんだけど」

「はいぃ!?」

 

 そんなやり取りから始まった一騒動は、何かよく分からないがアスカの影響を受けた、という話で無理やり収まった。

 

 【魂業小箱(ソウル・ヴェソル)】。アスカの持つ『ソウルの器』と同じ名前のそれは、言ってしまえばリリルカが覚えようとした“ソウルの業”の基幹だ。

 物質をソウルの器に収納し、また取り出す。「火の時代」とやらでは当たり前に行われていたらしいこの技術は、リリルカにとって革命的な力である。

 まず、重量制限から解放される。探索に持っていくアイテムや装備の選別、探索時の持ち帰る魔石や『ドロップアイテム』の取捨選択、果ては一人では持ち帰れない大物ですら自分だけで運ぶ事が出来る。

 戦闘にも多大な影響があるだろう。戦う才能がからっきしなのはリリルカも身に染みて分かっている事だが、サポートならお任せだ。特に登録した物を瞬時に取り出せるというのが大きい。

 ……他にも後ろ暗い事をするには大いに役立つだろう。例えば何かを盗んだとして、捕まってもリリルカは何も持っていないのだ。道具は運ぶもの、虚空にしまうなんて非常識に過ぎるオラリオでは大きなアドバンテージに成り得るだろう……もうやらないけれど。

 

 流石にアスカと同じ性能は持たないようだが、逆に言えば成長の余地があるという事だ。この《スキル》はリリルカにとって大きな武器になる、そう感じた。

 だからすぐにでも色々試したかったのだが……そうする前にヘスティアが「そんな事よりも、もっと重要な問題があるっ!」と宣言したのだ。

 リリルカの【ステイタス】の更新を終えた後、ソファの上に陣取って拳を突き上げたヘスティアは、ずびしぃっ! とベッドを指差した。

 

「この部屋にはベッドが一つしかない! とてもじゃないが四人、いや三人寝るなら二人がベッドで一緒に寝る必要があるんだ!」

「三人? どうして三人なんですか?」

「アスカ君は寝ないからね……僕らが眠ってる間もずっと起きてるんだよ。ベル君は慣れてるみたいだけど、朝起きたら壁際に立ってじっと見つめてくるアスカ君は正直怖い……」

「ああ、なるほど……」

 

 寝ないなどと、軽く人間をやめている話に納得したリリルカはちらりとアスカを見る。壁にもたれて腕を組んでいる灰髪の幼女は興味なさそうに眼を閉じていた。

 ちなみにベルはいない。リリルカの、女の子の【ステイタス】更新をしているのだから当然だが、上の廃教会で待って貰っている。そろそろ寂しがっているのではないだろうか。

 夜に震える白兎をリリルカが連想していると「とにかく!」とヘスティアが話を戻した。

 

「ベッドで寝る二人、ソファで寝る一人を決めなきゃいけない。そこでボクはこう思うわけだ。新入りのサポーター君は勿論ソファ。

 そして……ボクとベル君が二人っきりでベッドインって寸法さッ……!」

「!? だ、ダメですヘスティア様っ! そんなのダメ、ダメに決まってますーっ!!」

「な、なにをおーっ!?」

 

 自分でも驚くほどリリルカは声を張り上げた。

 何故か知らないが頬が熱い。理由は分からないけれどとにかくダメだとリリルカの心が叫んでいる。

 

「ダメなものはダメですっ! ベル様とふ、二人っきりでベッドなんていけませんっ!? ふ、ふ、ふしだらですよっ!」

「処女神のボクに向かってなんて事を言うんだ! 大体、なんでそんな反対するんだい! まさかサポーター君もベル君を狙ってるんじゃないだろうな……!?」

 

 そう言われてリリルカはかあっと顔が赤くなった。なんでこんなに体が熱くなるのかさっぱり分からないけれど、何かを誤魔化すように身振りを大きくする。

 

「そっ、そんなわけありませんっ! リリがベル様を狙っているなんて、そんなのありえないですっ!

 大体、ベル様は優しすぎるんです! リリの事だって簡単に許してしまいますし、女の子だから助けるなんて調子の良い事を言って! 悪いリリを伝えた時だって、だ、抱きしめられましたし!」

「それは聞き捨てならないぞサポーター君!?」

「そんなの知りませんっ!? ベル様なんてすけこましですっ、女ったらしですっ、女の敵ですっ!

 そんなベル様の事をリリが狙うなんて、あ、ありえないですっ!!」

「そんな事言って本当は――……あっ……な、なるほど、そうなんだね……まずい、これはつついちゃいけない藪だ……」

「何か言いましたか!?」

「う、ううん! 何でもないよ、サポーター君! 疑って悪かったね!」

「分かればいいんです!」

 

 何故か動揺するヘスティアにリリルカはそっぽを向く。顔は熱いままだったが、その理由は努めて気にしない事にした。

 そうこうしていると、地下室の入り口が控えめにノックされた。アスカがするりと外に出て、ややあってベルと共に戻ってくる。

 

「言い争うような声が聞こえたから心配で見に来たそうだ。貴公ら、気を付ける事だ」

「ご、ごめん」

「すみません……」

 

 じろりと見つめる銀の半眼に二人は思わず謝る。それを曖昧な笑顔でベルが押し留めた。

 それからアスカが簡単な経緯を説明して、誰がベッドで寝るかという話に戻る。

 

「つまりだ、ベル君。ここは君とボクが一緒に寝るのが筋なんだ。

 なぜならボクは主神! そして君は団長だ! 主神と団長が仲睦まじいのは当然、すなわちベッドで一緒に寝るのも当然ってワケさ!」

「いけませんベル様! こんな穴の空いたしょーもない屁理屈に騙されちゃダメです!

 ヘスティア様は神様なんですから上等なところで寝なきゃいけないんです! ですから一人でベッドに入るべきです!

 ベル様はその、しょ、少々手狭ですがソファでリリと、ふ、二人で……」

「こらー! そんな事許すと思うなよー!」

「きー! なんですかー!」

「あ、あの……僕ほんと、床でいいので……」

「ベル君は黙っててくれ!」「ベル様は黙っててください!」

「ええ……」

 

 自分の寝る場所の話なのに口出しを拒否されてベルは思わず困惑の声を上げる。

 というか、ベルの顔がなぜか赤い。さっきからもじもじと手を擦り合わせているし、ちらちらとベッドに視線をやってはすぐさま目を逸らしている。

 

「あーもー、これじゃあ埒が明かない! ここは一つ、文句なしの一本勝負といこうじゃないか!」

「望むところです! それで、何で勝負をつける気ですか!?」

「ふっふっふっ、それは勿論――ベル君に決めてもらうのさッ!」

「え――えぇえっ!?」

 

 そして理不尽にも話を振られたベルは驚き、しどろもどろに固まりながら必死に舌を回した。

 

「いやあのですからっ、僕は床でいいんですって! それで、ベッドは今まで通り神様に使って貰って、ソファはリリに使って貰えばいいんじゃないですか!?」

「それじゃあ君が可哀想だろ!?」

「そうですベル様! 冒険者たるもの、明日に疲れを残さないために睡眠に気を使うのは当然です!」

「そ、そんなこと言われても……か、神様かリリと一緒にね、寝るなんて……そんなこと僕にはできないですよ!」

「なんだいっ!? ボクじゃあ一緒に寝るには不満だって言うのかいっ!?」

「そうじゃなくてっ!?」

「じゃあリリと一緒に寝るのが嫌なんですかっ!?」

「それも違くてっ!?」

「じゃあなんで一緒に寝れないんだ! ちゃんと説明したまえよベル君!」

「それは……その……あの、えっと……」

 

 顔を真っ赤にして追い詰められた表情を浮かべるベルは助けを求めるようにアスカに半泣きの目を向ける。だがアスカは我関せずを地で行くが如く、明日の食材を吟味していた。

 右から迫り来るヘスティア。左から攻め立てるリリ。詰め寄られ、理由を聞かれ、熟れた林檎のように限界まで顔を赤くしたベルは、とうとう追い詰められた犯人のようにそれを言葉で吐き出した。

 

「だ、だって――女の人と一緒に寝たら、子供出来ちゃうんですよっっっ!?」

 

 その瞬間、無音が地下室を支配した。

 

「……………………え?」「……………………へ?」

 

 ややあって、間の抜けたヘスティアとリリの声が上がる。二人ともベルが叫んだ言葉の意味を咀嚼し切れていない。

 真っ赤になって小さくなったベルを囲む二人がぽかーんと間抜け面を晒していると、食材の吟味を終えたアスカが一つため息をついて会話に加わった。

 

「それは間違いだ、ベル。確かに男女が共に寝る事はセックスに該当するが」

「「は!?」」

 

 否、会話に乱入した。

 

「家族間ではセックスは成立しない。現に貴公、よく私と共に寝ていただろう」

「そ、それは、そうだけど……アスカさんと神様たちでは違うっていうか……」

「何が違う。ヘスティアは家族であり、リリルカもまた家族だ。

 家族ならば、違いはない。分別はあろうとも、本質的な繋がりは同じだ。

 故に貴公のそれは、ただの杞憂だ。何も心配せず、共に眠ると良い」

「そうは言われても……やっぱり何か違うよぉ、アスカさぁん……」

「…………アスカ君は一体何を言っているんだい……?」

 

 くるくる回る会話の衛星を彗星の如くぶち抜いていったアスカに、ヘスティアが恐る恐る尋ねる。それは恐怖というより処女神としての相容れなさと理解できない困惑の表れだった。

 対しアスカは、その困惑を理解できないという風にこてんと首を傾げる。

 

「何がだ? 貴公、何か分からない事でもあったのか」

「いや、分からないっていうか、その……どうしていきなり、セッ……の話をし始めたんだい?」

「? 男女が共に寝るのはセックスだろう?」

「違うよっ!? いや違わないけどッ! セッ……ってのはそれだけじゃないだろう!?」

「……ああ、確かにそうだ。セックスをすれば子供が出来る。それが摂理だな。それがどうかしたのか?」

「そういう事じゃなくて……!? 君、本当にセッ……の意味を分かってるのかい!?」

「勿論だ。セックスとは、男女が共に寝る事だ」

「うん」

「すると子供が出来る」

「……うん?」

「以上だ」

「……――いやいやいやいや!? 大事な部分が抜けてるじゃないか!?」

「? 何か抜けが有ったか? いま説明したのが、私の聞いた全てなのだが」

「誰からそれを聞いたんだよおっ!?」

「ベルの祖父だ。アレが早朝、酔っぱらいながら帰還した時、回らぬ呂律で喋っていた」

 

『良いかぁ、ベルぅ〜。男子(おのこ)女子(おなご)と一夜を過ごすと子供ができるのじゃあ〜。セックスと言ってのぉ、子供ができるのは自然の摂理、神々にすら阻めぬ道理なのじゃあ〜。

 じゃから儂が「浪漫」を求めて女子(おなご)と一夜を分かち合うのも誰にも止められぬ道理なのじゃあ〜!』

 

「――というような事を言っていた。まだベルが幼い日の話だ」

「子供に向かってなんて事を教えてるんだそのお爺さんは!?」

 

 ……そんなやり取りを最後に、アスカの一言でベッドはヘスティアとリリルカが、ソファはこれまで通りベルという配置に決まった。というか決めさせられた。

 あの銀の眼光には誰も逆らえない。【ヘスティア・ファミリア】力関係(ヒエラルキー)の一端をリリルカは見た気がした。

 それと個人的には、セックスの意味について「間違ってないけど間違ってる」と言われたアスカが「馬鹿な……」と呟いていたのが印象に残っているくらいか。

 これ以上思い出すと色々恥ずかしくなってくるので、リリルカは頬を叩いて起床する。

 隣で毛布を抱きしめてるヘスティアが起きないようそっとベッドから降りたリリルカは、ベルとアスカの姿がない事に気付いた。

 

「二人とも、一体どこへ行ったんでしょう?」

 

 「まだ日も昇っていないのに……」と、備え付けの魔石灯を持って外に出たリリルカは、廃教会裏の一角が霧に包まれているのを見つけた。

 どうしてここだけ霧がかかっているのか。そう思いながら近づくと――()()()()()()()()()()()感覚が走り、霧に囲まれた場所へ辿り着く。

 

 そこではベルとアスカが、抜き身の武器を用いて戦っていた。

 

「!?」

 

 目を見開くリリルカの前で、完全武装のベルが《ヘスティア・ナイフ》を振るう。

 【ステイタス】に身を任せた全力の一撃。しかしアスカはそれを難なく受け流(パリィ)し、隙だらけの胴を蹴飛ばしてベルを吹き飛ばす。

 無様に転がり嘔吐(えず)く少年。直剣と中盾を下げて不動を保つ幼女。凍てついた太陽のような銀の瞳は、一瞬たりともベルから逸れる事はなかった。

 

「立て、ベル。次だ」

「っ……はいっ!」

 

 口元を拭いながら立ち上がるベルは険しい顔でナイフを構える。瞬間、接近したアスカの振るう《ロングソード》をギリギリの反応で受け、躱す。

 アスカは手を緩めない。加減はすれど容赦なく、縦横無尽に直剣を振るう。受けるのに必死のベルを余さず見極め、打ち崩れた所を柄で殴り抜いた。

 

「次だ」

 

 生傷の増えるベルを直視し、アスカは呟く。痛む殴られた箇所を押さえるも、動きに支障がない事を確認したベルは、痛苦を堪えて果敢にアスカに立ち向かった。

 

(成程。訓練という事ですか)

 

 近くにあった篝火の側で膝を抱えて座るリリルカは目の前の光景をそう読み取った。

 打ち合いの基礎、いや『駆け引き』の基本というべきか。相手の太刀筋を見切る最低限の力を培うためにその訓練は行われている。

 現に、少しずつだがベルの動きが良くなっている。一手を間違える度にアスカが修正を行い、それに引っ張られるように良い動きを覚えさせられているのだ。

 それは本当に基礎の訓練。無色の、まだ自分にすら染まっていないベルの下地を叩き上げるための戦い。

 リリがやってきてから日が昇るまでそれは行われ、終わる頃にはベルの体は傷がない場所を探せないくらいボロボロになっていた。

 

「頃合いか。修練はここまでとする。息を整えたら、篝火に来い」

「ぜーっ、ぜーっ……! あ、ありがとう、ござい、ましたっ……!」

 

 全力で息をしながらへたり込むベルを一瞥して、アスカは篝火までやって来た。そして片膝をついて座る幼女に、リリルカは声をかけた。

 

「お疲れ様です、アスカ様。いつもこんな事をなさっているんですか?」

「ああ。ベルに頼まれてな。ダンジョン探索に支障がない程度に稽古をつけている」

「……あれで支障がないとは思えないのですが」

「問題はない。肉体の傷ならばエストで解決できる」

「エスト……それって確か、リリの両足を繋げた回復薬(ポーション)ですよね?」

 

 アスカと契約した日を思い出したのかややしかめっ面をするリリルカにアスカは首肯する。ついで取り出したのは黄金色に輝くガラス瓶だ。

 

「……え? それって回復薬(ポーション)じゃなくて……万能薬(エリクサー)じゃないですか!?」

「エスト瓶だ。似たような物だが、万能薬(エリクサー)ではない」

 

 主に回復薬(ポーション)万能薬(エリクサー)の値段の違いで驚愕するリリルカに、アスカは否定を示し、説明する。

 

「エストとは一時に肉体を灰と化し、回復する液体だ。私にはそう作用するが、貴公らは単純に強力な回復薬(ポーション)として使用できる。

 その効力そのものは毒や病を癒やせず、また最高峰の万能薬(エリクサー)にも及ばないが、失った肉体を取り戻す事ができる。目や内臓など代替の利かないものから()くした手足までな。

 そして最も重要なのが、エストはエスト瓶によって生成され、それは篝火で休む事で自動的に補充されるという点だ」

「……つまり、瓶と篝火さえあれば無限に手に入れる事ができる……?」

「そうだ。それ故にエスト瓶は不死の宝。何にも代え難い秘宝として扱われている」

 

 頷くアスカにリリルカは呆然としたままだ。その脳裏では尽きぬ回復薬(エスト)の価値を目まぐるしく換算していたが、やがて無意味と放棄し、大きな大きなため息を地面に投げ捨てる。

 

「……アスカ様は本当に軽々と常識をぶっ壊してくれますね。そんな物があったら治療師(ヒーラー)の商売上がったりですよ」

「エスト瓶は一人の不死に一つしか持てない。複数持てば、()()()()()。それが定められた(ソウル)の在り方だ」

「そういう話じゃないんですが……まあ、アスカ様ですし、言ってもしょうがないですね。

 ……エスト瓶のついでに、一応この霧に関しても聞いていいですか? どうせアスカ様の非常識な力なんでしょうけど」

「ああ。霧か。これに特別な意味はない。ただ、外側と内側で()()()()()()()()()()。それだけの代物だ。それ以上に、詳しい説明が必要か?」

「いえ、結構です。絶対ロクでもない話を聞かされる事になるでしょうし、どうせ理解できないと思うので。

 そんな事より、さっきからベル様が動いていないのですが、本当に大丈夫なんですか?」

「ふむ……どうやら骨が折れて動けないようだな」

「ダメじゃないですかっ!?」

 

 「ベル様ぁっ!?」とリリルカが飛び上がってへたり込んだままの少年に駆け寄る。アスカは「軟弱な……」と呟き、エスト瓶を持って後を追った。

 それは【ヘスティア・ファミリア】の、ありふれた日常の一幕である。

 

 

 

 

「――以上が、今日の鍛錬の内容だ。何か意見があれば言いたまえ」

「…………何か意見があれば、ですってぇ……!?

 探索前の早朝に全身切り傷だらけにして、骨折させて、疲労困憊まで追い詰めておいて、意見がないとでも思ってるんですかあなたは――――っ!?」

 

 ギルド本部の面談用ボックスにハーフエルフの雷が落ちた。渡された羊皮紙を両手で握りしめてぶるぶる震えるエイナは、目の前で平然と座っているアスカに決死の抗議を続ける。

 

「だいたいっ、なんですかこの「追い詰め方が甘かった。次からは戦闘強度を一段階上げる」ってコメントは! ベル君骨折で動けなくなってるのになんでこんな評価になるんですか!?」

「骨が折れた程度で動けなくなるベルが惰弱なのだ。ダンジョンは死の坩堝、骨が折れたからと行儀良く待つ敵はいない。

 万全でなくても動き、打ち勝つ。その心構えが肝要だ」

「言ってることは分かりますけど、そういうのはもっと到達階層を上げてからって話し合いましたよね!?」

「今回はあえて無視した」

「〜〜〜っ!? もぉ、あなたって人は〜〜〜っ!!」

 

 怒髪天を衝くエイナの叫び。ハーフエルフの怒りを真向から浴びるアスカの表情は全く変わらず、全てはエイナの徒労で終わるのだった。

 

 

 

 

 アスカとエイナ・チュールは協力関係にある。

 その過程には紆余曲折あったものの、最終的にベルのために協力する、という関係に落ち着いた。

 しかし、一口に協力と言っても幅があるだろう。何を協力するのか、どの程度関わるのか。

 結局のところ、エイナは一介のギルド職員に過ぎない。出来る事の多さで言えばベルにより近く、また冒険者であるアスカに軍配が上がる。

 だからエイナが協力するのはそれ以外だ。ギルド職員として培った経験、冒険者を支援するために蓄えた知識、何よりもベルに生きて帰ってほしいという想い。

 それらを統合して話し合った結果、まずは「ベルの稽古」をお互いに妥協できる範囲で収めようと結論が立ったのだ。

 ……というより、話の途中でそれを聞いたエイナが虫の知らせを感じて追求したところ、信じられないくらい過酷な訓練を課そうとしていたのである。

 

『「24時間迷宮(ダンジョン)耐久戦闘」……「一週間以内に上層完全踏破」……「『インファント・ドラゴン』との一騎打ち」……!?

 なんですかこの無茶苦茶な訓練は!? ベル君を殺す気ですか!?』

 

 しかも、これでアスカは大した訓練じゃないと思っていたのだ。エイナが必死になるのも頷ける話である。

 こうしてエイナとアスカは話し合い、「ダンジョン探索に支障が出ない程度に抑えた稽古」を二人の合意の上で策定した。

 結局それは、アスカの匙加減でどうとでもなるものでしかなかったが。

 

「はあ、はあ、はあ〜〜〜……もういいです……あなたに何を言っても無駄だというのがよぉく分かりました……」

「何を当然の事を。我々は元より相容れない、その上での協力関係だろうに」

「それはそうですけど! ……ああダメ、感情的になっちゃダメ……こんな態度、アスカ氏にとったって疲れちゃうだけだもん……」

 

 机に突っ伏して泣き言を呟くエイナをアスカは無視する。側にまとめた羊皮紙を取り出し、明日の訓練の内容をエイナに示した。

 

「次の鍛錬の内容だ。修正すべき箇所があるなら言うと良い」

「……正直、修正したい所だらけなんですけど。アスカ氏は何言っても聞きそうにないですし……」

「貴公、真面目にやれ。これはベルのための鍛錬だ」

「!」

 

 そう言われて投げやりになっていたエイナは姿勢を正す。そうだ、これは少年が死なないための訓練。最後の最後まで諦めず、自分の意志を貫かせるためにやっている事だ。

 いくら気苦労を負ったとはいえ、そこを曲げては本当に自分がいる意味がない。エイナは眼鏡を掛け直し、頭を下げて謝罪した。

 

「申し訳ありません、アスカ氏。気を抜きすぎていました」

「構わん。貴公のそれは美徳だ。私とは交わらず、だがひたむきな献身の道。それを否定するつもりはない。

 全てはベルのために。互いの目的がそこにあれば、それでいい」

「……ええ、そうですね」

 

 実直なアスカの言葉にエイナは苦笑する。なんだかんだと、アスカもベルの身を案じているからこそ厳しい訓練を課している。そこに嗜虐の欠片もなく、ただベルのためにやっている事だ。

 ならばエイナは、その理由を尋ねるべきだ。真意を聞き、考え、よりベルにとって有益な境界を引かねばならない。そう思った彼女は、さっそく疑問を口にする。

 

「それで、どうしてこんな厳しい訓練をするんですか? 私には今でさえ過剰に見えるのですが」

「ベルの成長は、尋常ではない。抜きん出ている、などという言葉が霞む程に、ベル・クラネルは飛躍している。

 【ステイタス】を見た貴公ならば、分かる筈だ。アレには今、本来積み上げるべき経験がない。そこに至るまでの道を飛び、遥か彼方へ降り立とうとしている。

 転べば、死ぬ。損なえば終わりだ。尋常ではない成長には、尋常ではない鍛錬が必要なのだ」

「……成程、一理あります」

 

 口を覆ってエイナは考える。アスカの言葉は確かにそうだ。ベル・クラネルは成長()()()()()()

 僅か半月と少しで既に到達階層を10階層まで伸ばしているベルには、足りない物が多すぎる。備えて過ぎる事はない。むしろエイナの経験から言って、このレベルの訓練でも足りないかもしれない。

 

「――ですが、やはりこの訓練は過剰です」

 

 それでもエイナは、否定した。鋭い銀の眼光を、真向から強く見据えて。

 

「確かにベル君はすごい速さで成長しています。これから彼の立ち向かう過酷な環境を考えれば、これ以上の訓練も必要かもしれません。

 それでもやはり、過剰です。彼はもっと余力をもって探索すべきです」

「余力、か」

「はい。今の訓練では、彼は限界を超えるような戦いを強いられているでしょう。それは確実に彼の精神にダメージを与えています。

 そんな状態でダンジョンに向かう事こそ、私は危険だと判断します。万全でなくても動けるように、という意見は理解しますが、備えられる分は確実に備えるべきです」

「成程、道理だ。それで?」

「――もう一つ、彼に私の知識を伝える時間をください。

 今のベル君はダンジョンでボロボロになってあまり勉強が出来ていません。それはとても良くない事です。

 飛躍しているというのなら、経験以上に知識が必要になる。自分で体験する事も大事ですが、かつて冒険者(だれか)が通った道を知る、それをしなければ、彼はもっと過酷な戦いをしなければいけなくなるかもしれません。

 だから私に、時間をください。彼が――ベル君が生きて、私達の元へ帰ってこられるように」

「……いいだろう。貴公の言葉を信じよう。ここは私が一歩引く」

 

 古鐘の声で頷いて、アスカは広げた羊皮紙をしまった。それから新しい羊皮紙を取り出し、エイナと向き合う。

 

「それでは、新たな鍛錬を検討しよう。貴公の言う通り余力を残し、知識を得る余地のある鍛錬だ」

「はい。それでは、下級冒険者の一般的な訓練内容から提案しますが――」

 

 小人族(パルゥム)とハーフエルフの話は続く。

 受付嬢と冒険者。価値観の違う、相容れない二人。

 けれど道は、少年のために近づき、触れ合う。彼女らの協力関係は、これからもこうして続いていくのだろう。

 

 ……余談だがこの時、別室でこれまでのエイナ教室の成果を試すテストをしていたベルは、()知らぬ、だが身の毛のよだつ悪寒に震えていた。

 彼女らの協力関係はベルの役に立つ。しかしそれはある意味、(アスカ)頭脳(エイナ)がタッグを組んで少年を追い立てるのと同義だ。

 自らの行く末を知らない哀れな兎は、頭の良くない自分に時間を割いて教えてくれたお姉さん(エイナ)に応えるために、悪寒を振り払ってテストを頑張った。

 あまりに善良な優しい子である。故に誰かが見ていたのなら、その不憫さを嘆いたであろう。

 具体的には世界の何処かにいる大神か、嫉妬触覚(センサー)を反応させるロリ巨乳が。

 

『……ベルよ。心折れず頑張るのじゃぞ……』

「はっ!? 今ベル君に他の()の魔の手が迫っているような気がする!」

 

 ……きっと、嘆いてくれるであろう。

 




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