真っ黒なブレザーが少し暑苦しく感じる季節になった。
天気はルーレットのように移り変わっている。
背もたれにもたれかかり、深く息を吐く。吐き出された空気がゆったりと空に上るような錯覚を覚える。
気づかない間にボクの目は彼女を追っているようで、地毛だというその栗色の綺麗な髪を耳にかけながら頬を赤らめて友人たちと話をしていた。
何を話しているのだろう。
そんなことが気になり、外に出るふりをしてドアの前の彼女たちを通り過ぎた。
「好きな人いるんでしょ? 教えてくれたっていいじゃん」
「だから、違うってば。あれは誤解なの」
困ったように言いつつ、恥じらっている様子はまるで恋する乙女のようで。
思わず見惚れてしまうところを抑えて教室を出た。
教室を出たのはいいが、何もすることがない。そもそも彼女のそばを通ることが目的だったんだ。目的は達成した。
朝礼が始まるまであと15分ほど。すぐに教室に戻るのも変に思われる。少し迷って手洗い場に行くことにした。
尿意なんてものそもそもなかったのだから当たり前だけれど、出たものは小さな苔に染み込んだ雨水程度の量で。
一体ボクはこんなところで何をしているのだろう。
そう思いながら手を洗い、教室に戻ろうとした。
「朝礼まであと10分」
耳元で囁かれたその言葉よりも、聞こえたその声にドアを開けようとした手が止まった。
その声の持ち主は確かにこの場にいないはずの者の声で。
動揺を悟られないように落ち着いて振り返ったそこにはボイスレコーダーが掲げられていた。
「今、驚いたでしょ。あの人のわけがないもんね」
そう言って黒髪の彼女は笑う。
笑うなら、もっと綺麗に笑えばいいのに。
「雨の香りがするね。龍くん、傘持ってきた?」
その問いかけに少し考え、頷いて答えた。
「そっか。次は傘持って来ないでね。莉乃、龍くんと相合傘したいから」
今度は首を振った。硬い髪が額に当たる。
相合傘なんて、そんな面倒なことをしたら片側の肩だけ濡れることになる。濡れることは好きじゃない。
「えー、ケチだな。あの人にチクっちゃうよ?」
そんな文句に苦笑で返す。
何気ない日常の中でどこかで、気付かないほどの違和感が染み込んでいる。
「あっ、先生来た! 朝礼まであと3分だよ。じゃあ、私は自分のクラスに帰るね」
慌ただしく走っていく音に思考が遮られた。
教師に声をかけられないようにさっさと自分の席に戻った。
真っ暗闇。音のない世界。
チャイムの音で無理矢理引きずり出されたボクはくぐもった世界に取り残され-
「龍くん! 莉乃と相合傘しよう? それで、莉乃を家まで送って行って?」
-なかった。
頭を掴んで引きずり出されたように、頭が痛くて割れそうだ。
言われたことを無視して帰る準備を始めた。
「ねぇ龍くん、いいでしょ?」
しつこい彼女に黙って首を振った。
「えー、なんで! 莉乃今日傘持ってない!」
誰か男子生徒が声をあげた。
「篠原なんてほっといて、俺と帰らない?」
それにつられて他の男子生徒も名乗り出した。
騒ぎに乗じてボクは教室を抜け出した。
先に栗毛の彼女がいる。一人で帰っているようだ。
緊張で喉が渇いて仕方がない。舌が顎に張り付いている。
追い越すことも隣に並ぶこともできずにただ後ろを気付かれないように歩いた。
まるでストーカーか変質者だ。
人通りが少なくなって彼女がボクを振り返る。
「何か、用でもあった?」
あぁ、気付かれていたのか。いや、気付かれないと思っていたわけではないけど。
返事に困って反応出来ずにいた。
そんなボクに逆に困ったように笑って。
「篠原くん、私の家通りすぎるよね。せっかくだし、私の家まで一緒に帰らない?」
頷いて彼女に近寄る。
黒髪の彼女が熱に浮かされたような頭の片隅でチラついた。
ただ黙って、隣に並んで歩く。何を言うこともなく、ただ並んで歩いている。
沈黙が心地よくて、でも何故か焦ってしまって口を開いた。
「名前……」
掠れた音で出てきた言葉は単語だけで、まるで幼子のようだと思った。
ボクを振り返り、目を見開いた彼女は足を止めた。
「私の名前は九条莉奈。……忘れないでね?」
どこか悲しそうにそう言った。
「篠原。篠原 龍」
悲しそうな顔を見るのが嫌で、きっと知っているであろうボクの名前を言った。
呆気たように口を開いてボクを見つめる。
「ふふ。私、知ってるよ。ちゃんと」
何だか申し訳なくてただ頷いた。
「そんな顔しなくていいよ」
ボクは本当に彼女のことが愛しくて堪らない。
歩き出した彼女に続いて足を出す。
彼女の家にはすぐに着いた。別れたくなくて、もっと彼女と一緒にいたくて。でも、ボクは今日初めて彼女と知り合った他人だからどうすることもできない。
さよならと言う彼女に手を振ってボクは家に帰った。
日常の繰り返し。
雨上がりの朝。丁度いい体感温度で、それでも日なたに入るとじわじわと肌が焼かれていくようでどこか気分が悪かった。
早く来すぎたようで、教室には誰もいなかった。
自分の机に突っ伏して少し眠っていた。
しばらくしてガラガラと騒がしい音を立てて教室のドアが開き、栗毛の少女が入って来た。きっとこのクラスの子だろう。すぐに興味を失って顔を俯けた。微かに見えたその顔が悲しそうに見えたのはきっと気のせいだ。
学校が終わり、目が覚める。朝よりも鋭くなった日差しとコンクリートに反射された熱が真っ黒なブレザーに吸い込まれて服の中に熱がこもる。まるで日が差し込む窓辺に置かれた、氷の入ったコップだ。雫がたらたらと垂れていく。
目の前で今朝見た栗毛の少女が歩いていた。なんとなく気まずくて、顔を俯かせたまま横を通り過ぎた。
今日が終わる。
真っ白なページの真っ白な枠に黒いシミが着く。
汗が制服に染み込み、体に張り付いている。水の中にいるようだ。
教室のドアを開くと栗色の髪をした女の子がいた。あ、目も栗色だ。
「あ、ごめんなさい」
綺麗な瞳の色に見惚れているボクの横を滑るように通り過ぎていった。
ふと我に返って足を進める。
自分の席について、特にすることもなくぼんやりとしていた。
視界に栗色が入って、つい目で追ってしまった。
ふと目が合って、全身が沸騰する。はにかむように笑われて、きっと今のボクは頭の天辺から湯気が出ているのだろう。恥ずかしくて思わず下を向いた。
チャイムが鳴って学校が始まる。
ボクはずっと横目で彼女を観察していた。
栗毛の髪は光に当たると艶やかに輝き、目を伏せると長い睫毛によって影ができる。
学校が終わるチャイムが鳴り、ボクは彼女を追うように教室を出た。
校門の前で彼女はボクを待っていた。
「家の方向、同じだし一緒に帰ろうか」
優しく笑う彼女にこう思う。この人はなんて素敵な人なのだろうかと。
一緒に歩きながら、他愛ない話をする。会話は続かなくて、よく無言になる。無言になると足音が響く。
そんな空間が心地よかった。
彼女の家の前に着いた。さよならを言って家に入ろうとしていた彼女が振り返る。
「来週の月曜日から夏服だよ。間違えて冬服を着てきたらダメだよ? 腕かどこかに書いておくといいと思うよ」
頷く。ありがとうと言いたくて、でも声が出なくて。ボクが馬鹿みたいに口を開いている間に彼女は家のドアを閉めてしまった。
ボクは家に帰って手の甲に「5月15日から夏服」と書いた。
そう言えば今朝、左の太ももに「九条莉奈」と書かれていた。これは一体なんなのだろう。
土砂降りの雨で朝を迎える。
半袖のシャツだと少し肌寒い。
電気は点いているのに教室が暗く感じる。
気分も暗くなっているようでみんなどうしてか静かだ。
ガラリと音を立ててドアが開き、黒髪の少女が入ってきた。
「やっぱりみんな雨だから暗くなってる! 元気じゃないと雨止まないよ?」
そんなことを言ってみんなに声をかけていく。
どんどん教室が活気的になり、明るくなっていく。
「あ、龍くん。もう来てたんだ。おはよー」
ついにぼくのところに来た少女に名前を呼ばれる。
面倒臭くて、机に突っ伏したままでいた。
「龍くんつれないなー。ま、いっか。また後でねー」
声が遠ざかっていくのを聞きながら意識を闇に沈めた。
はっと起きた時には既に学校が終わっていたようで、教室にはぼくと黒髪の少女しかいなかった。
「おはよう龍くん。よく眠れた? 疲れてたの?」
確かに疲れていたのかもしれない。今日は朝から疲れるような天気だったから。
「雨だから、精神的に疲れてたのかな? あの日も雨だっからね」
あの日なんて、いったいどの日を言っているんだろう。いったいどの口でその言葉を紡いでいるのだろう。
反応をしないぼくを見て彼女は小さく笑った。
「冗談だよ。何でもない」
そう言った後、また小声で何かを言ったようだったが、ぼくは聞き取ることができなかった。
真っ白な霧に覆われた部屋の中の真っ白な紙に着いた黒いシミが滲み出す。
土砂降りの雨が止まない。
南海にある梅雨前線の影響を受けているらしい。
少し寒さに震えながら学校に向かった。
雨の日なのにみんな明るかった。教室もどこか違和感を覚えるような明るさがあった。
違和感を視界に残したくなくて机にもたれて眠った。
時々目が覚めて黒板を眺めるが、何を書いているのかさっぱりわからない。
起きては眠り、また同じように起きては眠っていた。
ぽやぽや宙に浮いているような頭で雑多な話し声を聞いていた。
「篠原涼」という単語が耳についた。誰がそんな単語を発したのだろう。
探そうと思って顔を上げてもすぐにその声は雑多な声に紛れて見つからなかった。
今日は違和感のある一日だった。
帰り道では後ろからついてくるような足音を聞いた。
学校ではやけに耳に残る単語を聞いた。
いつもこうなのだろうか。もしそうなのならボクは学校に来ても安全なのだろうか。
雨の音が戸を叩く。あまりにうるさくて、ぼくは眠れない夜を過ごした。
0時を超えて、朝日が昇る。雨が止んだ何かの機械から音声が流れる。ぼくはそれを聞きたくなくて家を出た。
よれたシャツに長ズボン。ボサボサの頭に体調が悪そうな青白い顔。
適当に歩いていると公園があった。公園の屋根の下にあるベンチに寝転がる。まるでホームレスだなと、そう思った。
木で組まれた屋根の裏を見ていると段々と眠たくなっていく。
呼吸をする度に闇に吸い込まれていく。
意識が消えた。
眼が覚めると女の人が僕の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫? 公園のベンチに倒れていたから拾って来たのだけど……まさかホームレスなわけがないし」
何が何だかよくわからない。ぼくはもしかしたら本当にホームレスなのかもしれない。
「どうして」
「どうして? 人が倒れていたら助ける余裕はあるの、私」
違う。そういうことじゃない。
「ホームレス」
「あ、そういうこと。あそこの公園はホームレスが入るには綺麗すぎるのよ。みんな入ることに躊躇して結局別のところに行くわ。それに……その服、結構高いものだから。ホームレスならもっと安い服を着るわ。それより、どうしてそんなことを聞くの? 自分がホームレスじゃないことぐらいわかるはずよね? もしかして……あなた、記憶がないの? 自分の名前わかる?」
ペラペラとよく喋る口だと思った。
「わからない」
ぼくが答える言葉は単語ばかりで、子供みたいだと思った。
「うーん……。涼、とかどうかな?」
ただ黙って頷く。
「じゃあ、涼くんって呼ぶわね。私の名前は篠原莉羅。よろしくね?」
「よろしく、お願いします」
たどたどしい話し方で言葉を返した。
「家の場所はわかる? はずないか……。涼くんのこと、何かわかるまで私と一緒に暮らしましょうか」
甘えるのも断るのもなんだか申し訳なく、なんとも言えずにいた。
そしたら彼女は困ったように笑って、
「断らないで。私の自己満足なの。お願い」
栗色の髪を揺らしながらそう言った。
栗色の髪が、記憶の中の誰かと重なる。言うべきか、言わないべきか。迷いつつ、助けてくれたこの人はいい人だと、口に出した。
「栗色……」
「栗色? あ、これ、地毛なの。周りと違うから、自慢の髪なのよ。手入れにも気を使ってるわ」
「誰か、女性が」
そこまで言うと顔色を変えて、迫って来た。
「何か思い出したの!? 栗色の髪の女性ね……。これだけだと範囲が広すぎるわ。どんな栗色かわかる?」
「もうちょっと濃い」
「私の髪色より濃いのね。身長はわかる?」
頭を抑えて、首を振って目を閉じた。
「大丈夫? 痛いの? ごめんなさい、無理にいろいろ聞いちゃって。また明日にしましょうか。おやすみなさい」
ぼくの上体を横たわし、布団をかけると部屋から出ていった。
さっき眼が覚めるまで眠っていたはずなのにまたすぐに眠気が襲ってきた。
どんどん視界が狭まっていく。どこかで高笑いする声が聞こえた気がした。
声が聞こえて目を開ける。
知らない女性がぼくの顔を覗き込んでいた。
「涼くん、おはよう。朝だよ。昨日はずっと部屋にいたからわからなかったかもしれないけど、あの時もう六時だったの。昨日のお昼から何も食べていないけど、大丈夫? 昨日寝る前に何か食べさせるべきだったね、ごめんね」
涼くんって誰だろう。もしかしてぼくのことか? いや、誰かと間違えているんじゃないだろうか。
女性が何を言っているのかわからない。
「誰、ですか?」
なんだか怖くなって恐らく使い慣れていないであろう舌を動かした。
目が丸くなって口を開いたまま固まっている。
何か、変なことでも言ったのだろうか。
「そう、寝るたびに記憶を失っているのね。……そんなこと、聞いてなかったわ」
何やらよくわからないことを呟いてその女性は笑顔を作った。そう、笑顔を作ったのだ。
「話は後として、取り敢えず食事を取りましょうか。栄養が足りなくて死んでしまうわ」
そう言うとすぐに部屋を出て行き、お盆を持ってまた入ってきた。
「コーンスープだよ。しばらく働いてなかった胃にガッツリした物はダメだと思って。パンを浸してるの。さ、食べて?」
お椀を差し出され受け取ったものの、見知らぬ人からもらった物を食べることに躊躇して口を付けずにただ持っていた。
「そんなに……。ううん、なんでもないわ。何も入ってないわよ。じゃあ、まず私が一口食べるね」
目の前でスープを口に運ぶ。しばらく観察して、何も異常がないことを確認した。
一口口に含む。味はまずまず。いや、美味しい。懐かしい味がする。
あっという間に全部飲み干した。
「そんなにがっつかなくても大丈夫なのに。誰も取ったりしないわよ」
楽しそうに笑いながらお代わりを持って来てくれた。
「はい、どうぞ」
「あ、りがとう」
あまりがっついているように思われたくなくて、今度はゆっくりと食べた。
女性はそんなぼくを優しく見守っている。
なんだか見られていることが恥ずかしくなって、俯きがちに食べた。
「あ、ごめんなさい。外にいるから、食べ終わったら教えてね」
ぼくが恥ずかしがっていることに気付いて、すぐに部屋から出て行ってくれた。
普通の家の母親はきっとあんな感じなんだろうな、と思った。
全て食べ終わり、ベッドから降りようとすると体の力が抜けた。思うように体が動かなくてベッドから転がり落ちる。鈍い音が重く響いた。
扉が開いてあの女性が入ってきた。
逆さまに歪んだ視界の中で女性が笑ったような気がした。
「思ったより、効き目が早いのね。さぁ、おやすみなさい」
暗闇に染まった。
体を起こすと女性がいた。栗色の毛が窓から差し込む光に煌めいていた。
「おはよう涼くん。私が誰だかわかる?」
「わからない」
「そう……,私はね、あなたのお母さん。あなたは事故にあって記憶をなくしてしまったの。あなたの名前は篠原涼。私は篠原莉羅。わかった?」
「わかった。えっと……お母さん」
「ううん、莉羅さんでいいよ。涼くんは今までずっとそう呼んでたから。何かわからないことがあればなんでも言ってね」
「うん」
「それじゃあ、そこのクローゼットに服あるから着替えてね。ご飯が冷めないうちに来てね」
扉が閉まる音を聞いて、足を床に下ろした。
服を脱いだ時に左の太ももに「九条莉奈」と書かれているのを見つけた。
色が薄くなっている。上から丁寧に書き直した。
九条莉奈を探しに行こう。
下の方からぼくを呼ぶ声が聞こえた。慌てて服を着て部屋を出る。
「莉羅さん、遅れてすみません」
「大丈夫よ。まだ暖かいわ。さ、召し上がって」
「いただきます」
焼き鯖に味噌汁、白ご飯。そして漬物。ザ、日本食って感じだ。
美味しい。懐かしいような感じがする。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
ぼくが全部食べたのがそんなに嬉しかったのか、満面の笑みだ。
「莉羅さん、出かけてもいいですか?」
「いいわよ。どこに行くの?」
九条莉奈を探すことを言ってはいけない気がした。
「少し、外を見たくて。色々行ってみます」
「そう。私も行くわ」
「いえ、大丈夫です。そう遠くまで行かないので」
なんでもないように言って席を立つ。
なんだかとてもいけないことをしているようで、心臓がドキドキと音を立てる。
「行ってきます」
家を出て少し歩いて立ち止まる。莉羅さんが付いてきていないことを確かめて再び歩き出した。
これからどうしようか。九条莉奈を探す。手掛かりは名前だけだ。聞き回って変な人に捕まったら面倒だ。
お店を出している人に聞いてみようか。いろんな人が来るはずだ。
商店街を探し歩いた。三十分ほどで付いた。
一番手前の魚屋に聞いてみた。
「あの、すみません」
「お、なんだいお兄さん。店を開けたばかりでどの魚も新鮮だぜ」
「あ、えと人を探していて……。九条莉奈という人を知りませんか?」
「九条莉奈……。あぁ、あの子なら知ってるよ。あの子も人を探していてね。篠原涼だっけな龍だっけな。確かそんな名前の男性を探しているそうだ。お前さん、もしかしてその人か?」
「あ、はい。篠原涼と言います」
相手もぼくを探しているということか。
「地図をもらったんだ。もし来たらこれを渡してくれって頼まれたんだ。はい、これこれ」
手渡しされた紙に従って歩き出した。
だんだんと見慣れた道に入って行く。
地図を睨みながら歩いていると誰かにぶつかった。
「あ、すみません」
「ご、ごめんなさい」
慌てて頭を下げ、再び頭を上げると目の前には莉羅さんに似た、いや、更に深く濃い栗色の髪をした少女がいた。
急な胸の高鳴りに動きが止まった。
「龍、くん?」
柔らげな唇から溢れた言葉に一気に頭がクリアになる。
「今までどこで何してたの。あ、記憶がないから言っても意味ないか……」
驚いた顔から悲しげな顔になった。ころころと変わる表情を見ていた。
「ぶつかってごめんなさい。人を探していて、前を見ていなくて」
「い、いえ。ぼくの方こそ地図を見ていて。すみませんでした」
「地図? ちょっと見せてもらえますか?」
「え、はい。これなんですけど」
地図を渡すと少女は少し固まって、目が潤い始めた。
「わ、私、九条莉奈っていうの。覚えていてくれたの?」
「すみません、覚えていたわけじゃないんです。実は、あなたの名前が体に書いてあって。重要なものかもしれないと思って探したんです」
「そう。私もずっとあなたを探していたの。……人が少ないところに行きましょう。色々、話さないといけないことがあるの」
急に真面目な顔になって、ぼくの手を引いて歩き出した。
「どうして人が少ないところに?」
「人が多いところは誰に聞かれてるかわからないから。あまり人に聞かせていい話じゃないの」
「その話はぼくに関係があるんですか?」
「関係ないならこうして手を引いてないわよ」
「あ、そっか」
バカな質問をしたなと思った。
「さて、ここら辺でいいかな」
立ち止まって振り返る。
「お互い少し自己紹介をしましょう。私の名前は九条莉奈。忘れないでね?」
「ぼくの名前は篠原涼」
「涼? いいえ、あなたの名前は篠原龍よ」
「いや、ぼくは篠原涼だ」
「それじゃあ、どうしてあなたは自分が篠原涼だと思うの?」
「莉羅さん、ぼくの母親がそう言ったから」
「莉羅さん……。どうして彼女があなたの母親だと思うの?」
「それは……。それは、彼女がそう言ったから」
「だから、あなたはそれを信じたの? じゃあ、私はあなたの恋人よ。これ、信じるの?」
「いや、信じない」
「どうして? あなたは莉羅さんが自分をあなたの母親だと言って、それを信じたのに、どうして私があなたの恋人だと言ったら信じないの?」
「莉羅さんは……。莉羅さんが作ったご飯は食べ慣れている気がした」
「もしかするとあなたの本当の母親に作らせたのかもしれないじゃない。それに、料理なら練習すればあなたの本当の母親の料理と同じものが作れるわ。それに……。体が覚えているって言うなら……。き、キスをすればわかるでしょ!?」
顔を真っ赤に染めた顔が視界いっぱいを埋め尽くす。唇になんだか柔らかい温もりがあった。
ゆっくりとその熱は離れていき、視界が開けた。
彼女は顔を真っ赤にして、涙目になっている。
「こ、これで信じた?」
なんだか信じないのも悪い気がして、頷いた。
「ば、馬鹿! そう簡単に信じちゃいけないの! 莉羅さんもだし、私もだし。私のことは信じてもらって構わないけど……」
更に顔を赤くして何か言っている。よく聞き取れない。
「どうしたの?」
「な、なんでもないよ! 話を戻すけど、私のことを信じてくれる?」
「うん。信じるよ」
「私が何を言っても? 最優先で私を信じてくれる?」
「え、それは……」
「お願い、信じて。私は私が知ってることを全て話すわ。流石に時間に限りがあるから、数日に分けないといけないけど。私は絶対にあなたに嘘をつかない」
静かに目を見つめられる。
「信じる。信じるから、教えて」
「ありがとう。この話は録音させてもらうわ。あなたは毎日記憶を失うから、時間を短縮したいの」
「録音はいいけど……。ぼくは莉羅さんから事故に遭って記憶をなくしたと聞いていて。それは本当なの?」
「いえ、あなたはショックでこうして毎日記憶を失っているの。あなたには双子の兄が居たわ。あなたが車に轢かれそうになった時にその兄があなたを助けたの。兄が死んだことを知ったあなたはショックで記憶を失った」
「兄の名前は?」
「藤原涼よ。あなたは藤原龍。涼くんのはずがないの。だって彼は死んだから」
「じゃ、じゃあどうして莉羅さんはぼくに嘘をついたんだ」
「彼女は夫に瓜二つな涼くんが死んだことを嘆いていたわ。涼くんの代わりに君が死ねばよかったのにって。もう後はわかるでしょう? それと、涼くんと付き合っていた私の妹はあなたが涼くんだと思っているわ。あなたは弟が死んだショックで弟になりきってるんだって。気を付けて。黒髪の私によく似た女の子よ」
「わかった。でも、記憶を失えば気をつけることも何もできない」
「あなたの名前は藤原龍。体のどこかに書いておいて。それとあなたの家からここまでの道のりをどこかにメモしたほうがいいわね。……。メモ用紙をどこかに貼っておいて。莉羅さんにバレないようなところにね。今日はもう時間がない。そろそろ帰って。また明日」
明日、また彼女に会えるだろうか。
そんなどうしようもないことを考えながら家に着いた。
「ただいま帰りました」
「お帰りなさい。遅かったわね。そんなに外は楽しかった? お昼を抜いたから、お腹空いているでしょう。ご飯できてるわ。手を洗ったらリビングにいらっしゃい」
言うだけ言って、莉羅さんはリビングに引っ込んだ。
物思いにふけながら夕飯を取っていた。
「涼くん? どうしたの? 美味しくないの?」
はっと我に返って慌てて返事をした。
「い、いや、そういうわけじゃないです。とても美味しいです。ありがとうございます」
「全然美味しそうに食べてないけど……。何かあったの?」
とても心配そうにぼくを見る莉羅さんがどうしても悪い人には見えなかった。それでも、ぼくは九条莉奈の話を聞いて莉羅さんを信じきれないから、莉羅さんに嘘をつくことにした。
罪悪感で心が締め付けられる。
「すごく素敵な場所だと思って。ぼくは記憶をなくす前、どんな風にここで過ごしていたんだろうって、そんなどうしようもないことを考えてました」
莉羅さんの顔が悲しげに歪む。
「大丈夫よ。またこれからの未来があるでしょう。沢山思い出を作りましょう」
これを聞いてぼくは九条莉奈が言ったことは嘘なんじゃないかと思わず疑った。けれどももし本当だった時のことを考えて、今日会ったことを言わずにいた。
部屋に戻って九条莉奈にやるように言われたことをした。
お風呂から出て、ベッドに入っても寝れば記憶を失うと思うと怖くて眠れなかった。
それでも体は眠くて仕方がないようで。
気づかないまま僕は眠りに落ちた。
止まない雨が耳を叩く。
目を開くと、暗闇に包まれていた。
みんな、嘘つきばかりだ。
ぼくは記憶を失っていないし、ぼくの名前は龍じゃないし、九条莉奈は彼女じゃない。
嘘をついた時のあの罪悪感はぼくが何も知らない記憶喪失の篠原龍を演じるために作り出したものだ。
あの日、事故のあった日から龍は涼で涼は龍だった。
龍を庇おうとしたぼくを庇って龍は死んだ。龍はぼくの中にいて、交代で体を使っていた。ぼくは何もかも覚えているけど、涼は毎日新しく更新される。まだ何も書かれていない手帳のように。
深夜。僅かに莉羅さんの寝息が聞こえる中でぼくは動き出した。
ぼくが信用し、従うのはただ一人。ぼくの最も敬愛する人であり、ぼく達の実の母親である深雪さんだけだ。
ぼくの本当の部屋にあった、闇に紛れられるような真っ黒な上着を羽織った。
玄関の扉を開ける。
そのまま出て行こうとして、思い出す。
あの日は「あんたなんか母親じゃない」そう言って家を出て行ったな。
天気も似ている。こんな、土砂降りの雨が降っていた。
鋭く息を吐き出すと小さく言葉を吐き出した。
「何をしたってあんたを絶対に母親に選んだりしないよ」
家を出て、雨の中でゆっくりと足を進めていく。
さしている傘はすでに役に立たず、気休めにもならないかと思うほどだった。
靴も靴下も地面の泥が跳ねてぐしゃぐしゃだ。
足の感覚に至ってはもはや存在していないのではないかと疑うほど、水に濡れ、夜の冷えも相待って恐らく冷めきっている。
水が足を浸す感触すらも感じなくなっていた。
とん、と背中に何かを感じた。
次の瞬間、真っ白な光に視界が埋め尽くされ、膝頭が地面についたと同時に体が宙に浮いた。