驚くほど真っ暗闇にいた。
いや、闇であるかもわからない。
色すら認識できないほどに光が存在しなかった。
無色、無音、無臭、無感触。
いや、体を動かす感触すらなかった。
ぼくの体は存在しているのだろうか。
目は、耳は、鼻は存在しているのだろうか。
そもそも何を感じることもないのだからぼく自体ここに存在しているかがわからない。
……いや、意識はあるのだからきっと存在しているのだろうな。
先ほど目が覚めた、いや、意識が覚めたばかりだというのにもう眠くなってきている。
きっとここで眠ってしまえば死んでしまうのだろう。
もういいのではないか、そんな言葉が意識を揺さぶる。
もう、いいのかもしれないな。
ぼくが生きていてもどうしようもないではないか。
周りはみんな嘘をつく。
ぼくは自分が一体誰なのかもわかっていない。
ただ、深雪さんが言った通りに動いているだけだ。
深雪さんが本当のことを言っているかもわからないのに。
自分の意思で動けない糸の切れたピエロのようだ。
仮面を被って切れた糸を誰かが動かしてくれるのをただ待っているだけ。
そう考えると笑えてくる。もう笑いたくても笑えないけれど。
もう、辞めてしまおうか。辞めてしまえばいいんじゃないか。
きっともう疲れてしまったんだ。
目を開けると真っ白な部屋にいた。
真っ白な部屋の中の真っ白なベッドの上で真っ白な服を着ていた。
体を起こすと部屋を見渡した。
真っ白な部屋の中には赤黒のルーレットがあって、銀色の球は黒の十に入っていた。
真っ白な部屋の中の真っ黒な机の上には真っ白な手帳があって、わずかに黒のインクが滲んでいた。
ここはどこだろうか。病院ではなさそうだ。
深雪さんの部屋でもないだろう。あの人は賭け事が嫌いだから。
「いつまで寝ぼけているんだい?」
耳慣れた声が脳を打つ。
様々なことを思い出して、様々なことを忘れ去った。
「目が覚めたかい? オヒ」
「あぁ。ちゃんと起きているよ、ヌッルム」
「ならよかった。夢の中にずっと囚われ続けるのは良く無いことだからね。ところでオヒはどんな夢を見ていたの?」
「さぁ、覚えていないや。夢なんてものは現実を見た途端に掠れて消えてしまうからね」
「そうだね。じゃあ、ゲームを再開しようか」
「ルールは?」
「いつも通り、僕が黒の何かにかけてオヒが赤の何かにかける。零はどちらがかけても問題ない。一回にかけれるのは一つだけ」
「結果が出るまで続けて、負けたものはまた夢を見るの?」
「うん。夢を見るのはもう飽きちゃった?」
「うん、もう見たくないかな」
「でも僕はまだ夢を見たいよ」
「なら、ヌッルムが負けたら夢を見る。僕が負けたら……どうしようか」
「……そうだ! オヒが負けたら僕の下僕になりなよ。命令は一回」
「下僕って……。何をすればいいの?」
「僕の言うことを聞いてくれればそれでいいよ」
「言うこと? まぁ、簡単なことならいいよ」
許可すると何故か嬉しそうにはにかんだ。
「僕は黒の八にかける。オヒは?」
「赤の九にかける」
カラカラと銀色の球が走り出す。
黒の二十二に入った。
「二十二にすればよかった」
「結果が出てからじゃあもう遅いよ。それにしても惜しかったな。隣に入れば良かったのに」
「確かに」
それから幾度もルーレットを回し続けた。
九千八十五回目にようやく勝敗が決まった。
入った球は黒の二だ。
「また僕の負けか。下僕ってなんだか嫌だな」
「オヒはつくづく運が悪いよね。何度もオヒのかけた球の隣に入っていたのに」
「ヌッルムは夢を見たいんじゃないの? 僕が勝たないと夢を見れないんだよ」
「夢は見たいけど、負けないと夢を見れないだろ? 夢を見たくても夢を見るチャンスすら回ってこない」
「夢なんて、そんないいものじゃないよ」
窓一つない真っ白な部屋。外の天気なんてまるでわからない。今まで見たどの夢も悲しくて残酷だった。結局は夢なんて見ずにただひたすら現実にいれば楽なんだ。
「オヒは夢がいいものじゃないって思ってるけど、僕はそうは思わない。夢はもっと壮大で輝いていて、幸せなものなんだ。きっと」
「ヌッルムの好きなように思えばいいさ」
「うん……。それより、僕の下僕であるオヒには何をしてもらおうかな。うーん……、喉が渇いたからお水が欲しい」
パチンと指を鳴らすと新鮮な水がヌッルムの顔に飛び込んだ。
顔中ビショビショに濡れたヌッルムは僕を睨みつけた。
「僕が言ったのは水に濡れたい、じゃなくて水を飲みたい、だからね。ちなみに水に飲まれたいとも言っていないからね」
「あれ? そうだっけ?」
わざとしたわけではないけどこの状況に笑いが止まらない。
「まったく。オヒ、君ってやつは本当にいたずらが好きだな」
「いたずらは大好きだよ。だって楽しいからね」
「もういいさ。自分で水を飲むよ」
不貞腐れたように言うヌッルムに罪悪感を覚えた。
「ヌッルムごめん。こっちを向いて口を開いて」
訝しげな顔をして僕を見つつ、黙ってこちらを向いて口を開けた。
またもや指を鳴らした。水を口の中いっぱいにいれてヌッルム口に移す。
しばらくヌッルム水を飲み込む音だけが鳴っていた。
口の中の水がなくなったのを感じてそっと口を離す。
無意識に息を止めていたようで肺に一度に多量の空気が流れ込んできて思わず咽せた。
「オヒ、大丈夫か?」
「うん、大丈夫。ちょっと空気に咽せただけ」
しばらく黙って背中をさすってもらっていた。
咽せたり、この借り物の体に何かが起こるなんて今までなかった。
もう大丈夫だと言うように、背中に回されていた手を掴んで外した。
顔を上げると心配そうに僕を見るヌッルム目があった。
「ごめん、もう大丈夫。ゲームの続きをしよう」
気を取り直してゲームを再開した。
三千五百回目のルーレットを回そうとした時、視界が反転した。
黒に染まる。
遠くで僕の名前を呼ぶヌッルムの声が聞こえた。
ゆっくりと視界が開かれていく。体を起こそうとして左腕に違和感を覚えた。
見て見るとヌッルム僕の左腕に腕を置いてこちらを見ていた。
「オヒ……。もう大丈夫か? 急に倒れたから心配したんだぞ?」
「多分大丈夫だよ」
「何があったんだ?」
「よくわからない。気付いたら体が倒れていた」
何かを言い渋るように口を開いては閉じるヌッルムを見て僕は考えていたことを口にした。
「今までこの体に何かが起きることなんてなかった。この体に異変が生じ始めたのはさっきのゲームで負けたからだ。僕が今まで夢を見たのは十六回だ。もしさっき夢を見ていたら十七回になる」
「十七の意味は……」
黙って頷く。
もしさっきのゲームで夢を見ていたら僕はもう存在しなかった。
「ヌッルム、僕の体に何か目に見える異変はあるか?」
訊ねるとあからさまに顔色を変えて俯いた。
「ヌッルム」
「……何も、何も変わっていないよ」
そう言ったきり口を開こうとしない。
数十分と時が流れた。
これ以上待っても何も言わないだろうと判断して僕は再び口を開いた。
「ゲームの続きをしようか」
「え? あっ、いや、ゲームをするのは少し休もう。それより僕はオヒが今までどんな夢を見たか気になるな」
「夢なんて、もう覚えてないよ」
「そんなこと言わずにさ、ね? 教えてよ。僕は一度も夢を見ていないんだよ。夢ってどんなのか知りたいんだ」
「そう言われても……」
「思い出そうとすればきっと思い出せるよ」
「仕方ないなぁ」
結局ヌッルムのお願いを聞いて、夢を思い出すことにした。
「あっ、そうだ。オヒが夢を見るたびに出てくるものを机の引き出しにしまっていたんだ」
ベッドから離れて机に向かったヌッルムは机の少し前で立ち止まり、喉から引きつったような声を出した。
「ヌッルム? どうかした?」
「な、なんでもない。なんでもないから、大丈夫だからオヒはそこにいて。動いたらダメだよ」
慌ててこちらを振り向き、笑顔で言ったが、その顔は死人でも見たかのように青白くなり、その笑顔は失敗したお面のように歪み、その目は恐怖の色で染まりきっていた。
そんなヌッルムを心配していてもそちらに向かわなかったのは、行けばヌッルムが怒鳴り、喚き散らすかもしれないと思ったからだ。
ゆっくりとした動作で机の引き出しが開けられる。
引き出しの中からヌッルムの腕の中に、そしてベッドに移動されたものの中にはスノードーム、貝殻のネックレス、腕時計、薔薇のドライフラワー、赤い羽根、香り袋、クローバー、ハートのトランプ、古びた本、桜の押し花、真っ赤な口紅、小さな燃え移らない炎、釘の刺された藁人形、錆びついた剣、紫陽花が書かれた手帳があった。
「じゃあ、まずはこれ! 一回目にスノードームが出来たんだ。何か……思い出せる?」
期待するように目を見つめられる。
スノードーム。何か。何も思い出せない。そもそも現実に戻れば夢なんてものは消え去ってしまうんだ。
諦めて思い出せない旨をヌッルムに伝えようとして顔を見た。
ヌッルムの目を見て、言えないと思った。
仕方がない。何か作り話でも聞かせてやればいいんじゃないか。思い出せないのも、それを伝えることができないのも仕方がないのだから。
「思い出したよ。この夢はね、病気で外に出ることのできない少女が雪を見たいと少女の恋人に言ったんだ。それを聞いた少女の恋人がなんとか少女に雪を見せてやりたいと思ってスノードームを作ったんだ。そんな夢だよ」
ぱっと思い付いたそんな優しい物語を語る。語って本当の夢を思い出す。
あぁ、確かに少女は雪を見たがった。そして少女の恋人は確かに少女に雪を見せた。
外に出られない少女を連れ出して、そして少女は一人ぼっちで雪の中でーー。
「オヒ?顔色が悪いようだけど、どうかした?」
言えない。ヌッルムは夢に期待しすぎている。こんな残酷な話はヌッルムにはできない。
「なんでもないよ。気のせいじゃないかな」
心配そうな顔をしたままのヌッルムに気付かないふりをして貝殻のネックレスを手に取った。
さて、これはどんな物語にしようか。
薔薇のドライフラワーの話をしたところで確信をもった。
夢は、オヒに何か幸せな話をすれば思い出すことができる。
今のところどの話も僕が死んだところで終わっている。
夢の中で暮らした日にちはルーレットの数による。
どの夢も残酷だ。
こんな夢、夢なんかじゃない。夢はもっと幸せでないといけないんだ。
そして、これはまだ推測でしかないけれど、夢の中での僕の環境はどんどん酷くなっていく。
僕が騙る物語はすごく優しいのに。現実に見る夢はなんて残酷なのだろうか。
夢を騙る度に心が冷えて行くのを感じながら表面では笑顔を保ち続けた。
「オヒ、本当にどうしたんだ? だんだん顔が怖くなっていっている」
それはハートのトランプの話をしている途中だった。
「そう? 少し話に熱中していたかもしれない」
「オヒ……。オヒは嘘の夢の話をしていないよね?」
「そんなこと、あるわけないだろ」
「本当に? 約束できる?」
約束。それはできない。
「できないの? やっぱり嘘をついているの?」
「嘘なんて……、ついていないよ」
しばらく無言が続いた。
「オヒは、覚えてないかもしれないけど……。僕たちがこの部屋に生まれた時に言われたんだ。絶対に、嘘の夢の話はしちゃいけないって」
「誰に? そもそも僕たちは最初からここにいたじゃないか」
「やっぱりオヒは忘れているんだ……。最初をよく思い出してみてよ。神様に、ちゃんと忠告されたでしょ?」
「どれほど昔の話をしているんだよ。そんなの覚えているわけ……」
「オヒは何をいっているの?十八時間前の話じゃないか。夢を見るのは三十秒だけで、一つのゲームの勝敗が決まるのに五十分かかる。そんな昔の話じゃないだろう?」
そんな筈がない。だって夢の中では何日も経っていたじゃないか。
「オヒ、よく聞いて。僕たちは十八時間前にこの姿形でこの部屋のルーレットの前で生まれたんだ。目の前には真っ白な服を着た神様がいた。その神様に僕たちの名前と注意事項を教えてもらったんだ。思い出せた?」
わからない。何も思い出せないしわからない。目の前にいるこいつは誰だ? 十八時間前だと? そんな短い時間で僕はこいつのことを信じ、慈しんだというのか。
「あ、いや。少しだけ……。ところでヌッルム。もし嘘の夢の話をすればどうなるの?」
「最後の話をし終わった時に話者が消えるって聞いた」
そうか。僕はこいつのために消えかけていたのか。十八時間で信頼関係なんか気付けるわけがない。僕はきっとこいつに騙されていたんだ。
そもそも僕は夢を思い出すことができないと何度もこいつに言っていた。なのにこいつは僕に夢を思い出させようとした。だから僕は嘘をつく羽目になったんだ。
こいつのせいじゃないか。僕が体調を崩し始めたのだって僕とこいつが口付けてからじゃないか。こいつが水を飲ませろなんて言わなければこんなことにはならなかったんだ。
こいつのせいだ。何もかもこいつのせいだ。
どんどん憎しみが膨れ上がり、僕はついに笑顔の仮面を毟り取った。
「オヒ? どうしたんだ?」
心配そうに僕の顔を覗き込むこいつが憎くて仕方がない。
どうせその顔だって作り物なのだろう。その真っ黒な腹の中ではどうやって僕を消そうか考えているんだ。
あいつらみたいに、そう夢の中で僕を殺してきた奴らのようにこいつも僕を殺すんだ。
もう騙されない。もうやられてたまるか。
やられる前にやれ。そう、もう僕は死なない。
決意と同時にヌッルムの首に手をかけた。
「殺してやる」
僕の手の届く中で苦しそうにもがくヌッルムの顔を見ながら何度も何度も唱えた。
「殺してやる。殺してやる。殺してやる……」
どれぐらいの時間が経っただろうか。窓も時計もないただひたすらに白いだけのこの部屋の中で気付けばヌッルムは粘土で作られた人形のように動かなくなっていた。
だんだんと部屋に同化していくヌッルムを放ってベッドに戻った。
静かだ。とてもとても静かだ。僕が息をする音と、どこかで水が流れる音しか聞こえない。
緩やかに眠気に誘われて目を閉じた。
真っ白な部屋の中で静かに赤色の水が溢れ出した。
やがて音が聞こえなくなった。
狭い狭い部屋の中で少女が息を吐き出した。
「また失敗か。夢を見せることには成功したんだけどな。どうすれば思い通りにこれを動かせるんだろう。ねぇ、どう思う?」
少女は何もない空間に問いかける。
「そうなのよ。ヌッルムが余計なことを言わなければなんとかなったのに」
少しの間を挟んで何かに返事をするように会話をする。
「そう? あの夢別に悪くないと思うわよ」
「うーん。そうね、ヴィーヴォがそこまで言うなら夢の内容少しは変えようかしら。でも私、ああいう夢が大好きなの」
「そんなことないわよ。そりゃあ確かに歪んでいるかもしれないけど、大好きな人に殺されるって幸せなことじゃない」
しばらく目に見えない何かの言葉を聞いていた少女はその柔らかな唇を突き出した。
「わかっているわよ。そもそもずっとオヒの様子を観察していたんだから。この夢を気に入ってくれるオヒを作ろうかしら」
一転、表情がいたずらを思いついた子供のようにキラキラし始めた。
何か楽しいことを考えているようだったがまたぶすくれた表情になった。
「ヴィーヴォには教えません! だってあなた、すぐに私を馬鹿にするじゃない」
「絶対に? 馬鹿にしない? 約束できる?」
「仕方ないわね。教えてあげるわ。私が望んでいる結末は――ヌッルムとオヒが互いに愛し合って一緒に死ぬこと」
目を開くと真っ白な世界が広がっていた。
「おはようございます。ヌッルム、オヒ」
左手に柔らかな温もりを感じると同時に目の前に真っ白な服を着た神様がいた。
END.
Thank you very much for reading my literary work .
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