高校一年生の男子である藤真は、その生い立ちから周囲の人間に対して強い猜疑を抱くようになっていた。そんな彼に訪れる些細な転機、そして、それに対して彼が取った行動とは...?

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━ 友人 藤真に捧ぐ

 運命、という言葉が有る。この"運命"という日本語は、英語に置き換えると"Fate"と"Destiny"との二単語に別れる。英語では、運命の性質によってその名称が変わるのである。例えば運命の行く末が悲劇的である場合、それはDestinyでは無くFateである。逆に、運命の行く末が喜劇である場合はFateで無くDestinyとなるのだ。日本語の場合、結末の喜劇悲劇の何足るかに関わらず、運命は運命と訳される。そしてもし、この青年の"運命"を英語に置き換えるのであれば、それは間違い無くFateに分類されるものであった。"或る青年の運命"を"Destiny"とするのは、誤訳である。

 その青年は、表面上愉快を装ってはいるが内心孤独に震えていた。青年の心身には常にあらゆる方面からの重圧が加わっていた。それは両親であり、社会であり、また人との交流についてであった。私は此処に、日本のとある田舎で起きたその一つの小さな出来事を明確に書き留めておこうと思う。それは、その青年に対するせめてもの敬意であり、処罰であり、また何よりも弔いの為である。もし、この一連の出来事を書き留めた日記を読んで、登場する青年 藤真(とうま)に心当りがある方が居たならば、どんな方法でも良いので私に連絡をして頂きたい。...念の為に忠告をしておけば、この日記に書かれている事は、フィクションでは無いという事だけである。この日記は決して、一人の無名作家の狂言や、つまらない想像の作品では無いのだから。どうかそれだけは、是非覚えていておいて欲しい。

                  (───藤真の友人 H.S 2017Y 6M 19D PM4:28)

 

 

 

  ───────── 一節 日常 ──────────

 

【五月二十九日】

 

「貧しいっちゅうのは、どうにも駄目じゃやぁ。」

 父は顔を紅潮させて、呂律(ろれつ)の回らぬ口調でそう言った。血管と筋肉の隆起した浅黒い左手にはマニキュアの容器の様な形状のウィスキー瓶が握られており、右手では食卓に置かれた枝豆を酒の(さかな)に摘まんで食べている。その言葉は何の脈絡も無く発せられたが、先程まで蜂蜜に似た色のウィスキーを何杯も呑んでいたし、その呂律からも酔った人間の適当な戯れ言だとは分かった。しかし、何も反応しなければ機嫌を悪くして色々面倒事を起こすのは目に見えていたから、媚びる様な猫撫で声で適当に返事をした。

「そうだね。やっぱりお金は、大事ですよ。」

「いや、何ね。俺は金のどうこうを言ってる訳じゃあないんだよ。」

「それは」

「ただ俺はや、貧しかったらあれもし切らんこれもやり切らん。そういう活力の話を、してるんだっちゅー話よ。」

「やる気のこと?」

「やる気とも違う、うーん、違うっちょやぁ。まぁ、お前みたいなちびには未だ分からんよ。」

「そうかい。」

「ああ、何じゃ。機嫌が悪いのか。親に対してそんな口...。」

父は訝しげにそう言って、顔をひらりと返して台所の方に向けて嫌味に叫んだ。

「なあー、金が無いっちゅうのは嫌な事だや!」

台所には母が居た。母が、ガチャガチャと音を立てて皿を洗っていたのだった。そして先の嫌味は、明らかに母に対して言ったものだった。...それが何かの火種となるであろう事は容易に分かった。すると、母は濡れた手のままで台所から僕と父の座る居間に早足でやって来た。そして半狂乱じみた蒼白の表情で以て、囁く様にこう呟いた。その睨む様な視線は父に向けられている。

「良いじゃない、金が、お金が無くたって。お金が何なの。ねぇ、お父さん。まさか、お金が無いから、貧しいから、貧乏だから、人でなしだとでも言うつもりなの。そうやって、また私を馬鹿にするの。また私を貶すんですか。いえ、分かるわ、貶しているの。いい加減にして、もういい加減にしてよ! 人でなし!!」

母は(せき)を切った様に、そう面罵(めんば)の言葉を浴びせかけ、泣き崩れてしまった。

 

 母は地方のそれなりに名の有る名家の生まれで、所謂貴族的な人間だった。その名家というものも財に恵まれた家庭だったから、こと金銭の問題については生まれてから今まで何不自由無く暮らしてきたと母はよく言っていた。それは、父と結婚してからも母にまとわりついていて、およそ二年前までは、

明子(あきこ)(これは母の名前です)は昔っから身体が弱いから、無理しないで良いんだよ。」

と、実家から月三十万近い仕送りを受け取っていたらしい。畢竟(ひっきょう)働かなくても生活出来るからと父は建築業の仕事を辞め、日がな家に入り浸る様になったのである。僕の通う学校の学費や住んでいるマンションの家賃や光熱費なども、全て母の実家が負担しているらしかった。母はその生まれの為に社会や労働に対する年相応の知識も無く、又父は母の財力のお陰で職を捨て堕落の日々...、そんな不健康な生活は十年と少し続いた。この十数年と幾つかの歳月は、僕から見ても不健康極まり無かった。少なくとも学生の僕にはそこまで影響しなかったが、しかし父は、その不健康の代償を顕著に背負った。父は仕事を辞めて以降殆ど家に居て、大抵昼夜酒を呑んでいる、そんな生活を十年。況んや、父は脳髄までアルコールに犯され、所謂"依存症"となり、狂った。_狂った? 狂ったというよりは、本性が遂に露呈しただけかもしれない。父は今でこそ酒の影響で直ぐ激昂し凶行に及ぶが、昔も多少我慢していただけで相変わらず幼稚だったし怒りっぽかった。些細な事で苛々し、自分の望む答えが返ってこないと怒声を張り上げるのは決して今に始まった事では無い。

 ...私と母は、二年前までその父に怯えながら縮こまって生きてきたのだった。何故、二年前か。理由は容易い。そう、およそ二年前。母は発狂した。原因は単純なものだった。発狂の一年前、母の実家の二十代目当主に就任したのは、母の実の兄である佑樹という男だった。この佑樹というのが、相当な遊び人であったらしく、永々蓄えてきた家の財の殆どを、酒や煙草や婬売婦、またその家に仕えていた幾人かの可愛らしい女中に対するプレゼント(絢爛な貴金属や高価そうな時計やら)に使い切り、しかもツケだ何だと言って募り積もった多額の借金を家に遺して、当の本人は十幾人と寝た(めかけ)と一緒に首を括って死んだという話である。借金返済の為に代々受け継いだ家も売り払い、自然消滅的にあの高額な仕送りも喪失...、確かにそれらも少なからず母の精神に深い傷を残したろうが、しかし何より母を狂わせたのは「名家に生まれたお嬢様」という地位の喪失に他ならなかったのである。一時期は貴婦人やらセレブやらと周囲の人間に持て囃されていた母だったが、近頃は蛸みたいな酔漢から乞食とか疫病神とか、そうした面罵の言葉を浴びせかけられているようで、一昨年遂に精神を病んでまるで白痴のように、退行を来してしまったのである。それ以来、金やら将来やらの話をしていると何処からともなくすっ飛んで来て、莫迦にするなと金切り声の様な怒声を発しては大きく泣きじゃくるのであった。この日もそれは同じであった。母は病人であった。

 母は大きく泣き叫ぶと、私は悪くないのと言って膝をつき更に大きく泣き始めた。すると、父はウイスキーの注がれたコップを壁に叩き付け、どんっと足で床を突いて

「おい藤真。何で母親を泣かせるんだ?ええ?」

「お前のお母さんだぞ、おい、聞いてるのか。」

「何で母親を泣かせたんだ、言えよ、言え、おい!」

と激しい憤怒を漂わせて呶鳴り、ウイスキーの入っていた酒瓶を僕の方に加減も知らず投げ付けてくるのだった。酒瓶は僕の額の少し下に当たり、堪らず倒れた僕を父は見下ろして、そうして直ぐ僕の下腹部辺りに跨がって人殺しの眼をしながらこう言った。

「おい、聞いてるのかよ。返事をしろよ。」

「何で泣かせるんだ。何で母親を泣かせるんだ。言ってみろ、言ってみろよ!」

父は顔をより一層紅潮させ、ミチミチと不快な歯軋りをした後、僕の胃の周辺(恐らく鳩尾のすぐ下辺りだと思われた)を勢いよく、そして力強く拳で撲った。途端、胃液が込み上げて来て、溺れそうになって、呼吸もままならず呻く事しか出来ない僕が、意地を張った生意気な餓鬼にでも父の瞳には映ったのだろうか。身を捩って少しでも苦痛を減らそうと泣きながら身体を動かす僕の頬を、父は更に数回ひっぱたいた。これが私の、所謂日常であった。撲られてから数時間もしない内に母は家事に打ち込み、父は酔って寝てしまう。そして、起きたら起きたで平気な顔をして親の面を呈し、随分腫れた(若しくは凹んだ)僕の顔を見て、大丈夫かだの何か有ったのかだのと、目を円くして聞いてきやがる。しかし、それも一瞬の事で、次の瞬間には誰にやられたんだ誰がやったんだと、訊問(じんもん)めいた口調の怒号を発し始めるのである。答えなければ、親に言えない様な事をしているのかと激昂して僕の首根っこを掴んで、これまた力任せに顔面を撲ってくる。酔った父さんに撲られたんだと言えば、堰を切った様に泣き出して、ごめんな、駄目な父親でごめんな、と僕を抱き締めてくる。その度に、僕は根源的な生命の危機に対する恐怖と嫌気とを感じるのである。よもや泥酔しているとは言え、息子の顔面を加減無く、そしてそれも幾度と無く殴り倒して、終いには酒瓶やら傘やらで力任せに撲ってくる様な父に。僕はもしや親に殺されるのでは有るまいかと感ぜられる程に狂った父親に、抱き締められているのである。(いわ)んや、僕の心身を襲うのは父に対する言い知れぬ許りの恐怖だけであった。寧ろ僕の目の前でその首に包丁を突き立ててくれた方が余程救われる様に思われた。だが父が謝れば謝ったで、今度は母が奇声をあげて登場し、

「ああ、おとうさん、おとうさん! 私のせいで泣いてるの、違いますよね、お父さんはそんな方では無い筈よ。あなたはそんなに残酷では無い筈よ。じゃあ、どうして泣いて?」

「分かったわ、きっと生きるのに疲れたのね、人生に疲れたのね。もう、死んでしまいましょう。いっそ死にましょうよ。それでいいんじゃないかしら。」

と言って、僕と父に包丁を突き立てようとするから、父は激昂して母を殴り飛ばし

「ふざけるな、ふざけるな。俺は死なん、誰も死なん。」

と、これまた怒号を発し、しかしいざ我に返れば、手を頬に当てて啜り泣く母を見て、行き場の無い怒りの込み上げを感じて、そこかしこに有る物を、例えば灰皿や時計やら電話やらを手当たり次第に掴んではやたらめったらにぶん投げて...そして解消仕切れなかった怒りは、最終的に全て僕の身に降り注ぐのだった。...生きるという地獄。少なくとも僕にとって、日常というものは苦しいものでしか無かった。呼吸する度に細い糸の様な針が僕の肺に突き刺さり穴を空けていく、赤黒いワームが僕の脳を胆汁を垂らしながら食い尽くしていく。生きる事が即ち苦痛であるというのは、他のどの地獄より叫喚に値する物である。百の蛮兵(ばんへい)の殴打より、吸い込む空気の猛毒である方が余程絶望的なのであるから......。_せめて、せめて誰か僕をこの苦痛の渦の中から救いだしてくれる人の一人二人は無いだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ────── 二節 非道 ──────

 

【六月一日 月曜日】

 

 およそ大抵の学生にとって、休み明けの学校というのはどうにも鬱屈とした物である。特に雨なんかが降っていれば、更に倦怠感は増すものだが、しかし青年というのは臨機応変なもので、起きた時こそ弱音を吐いていてもいざ学校に着くと直ぐに友人と話してげらげら笑うのが普遍的なものである。無論、僕にとっても休日明けの学校というのは億劫極まり無いのだが、...いや、少し語弊が有るだろうか。僕にとって休日明けの学校、というより"学校"というのはそっくりそのまま『苦痛』、敢えて遠回しに比喩を用いるならば正に『悪鬼』とでも表現すべきものだった。それは端的に、人と関わる事の恐怖が社会的地位を獲得して僕のような人間に逃げ場の無い責め苦を強制する様であった。僕は数ヶ月前に中学を卒業して今年の春高校生になったのだが、未だその高校の雰囲気に、延いては在学する生徒の雰囲気に慣れる事が出来ずにいた。それどころか、寧ろその生徒達に対して病的なまでの疑心を抱くようになっているのである。隣人の一語一語から或いは後ろの席の他愛無い溜め息に至るまで、通常なら環境音と済ませられる様な極々些細な言葉や所作にさえも僕は過敏に反応し、そして縮こまってしまうのである。それら全てに、僕に対する反感や嘲笑の内包されている様な気がして堪らないのだ───。

 それは一時間目の、自習の時間であった。担当だった社会科の貫井(ぬきい)先生が胃炎か何かで病院に行ったからと、遂さっき突然設けられた自主学習の時間であった。言わずもがな、およそ大半の"健康的な"学生は二三人から成るグループを形成し、ひたすら歓談に耽っている。僕の耳に入ってくるのは、賑やかな男子達の卑笑と女子の発狂したかの様な甲高い下品な声、そして怒号と淫談...、僕は少しずつ自分の気力と体力が磨り減っていくのを感じていた。僕はこの雰囲気が嫌いである。殊に、青年達特有の『罵りで成り立つ交流』が、僕には甚だ不快であった。僕は自分の脳髄が彼等の狂声によって腐らされている様な、精神汚濁の予兆を沸々(ふつふつ)と感じ取っていた、と、隣の席で話していた女子 馬場が一人僕の直ぐ横に来て、こう一言無愛想に呟いた。

「何してんの。」

僕は馬場の顔を見上げた。僕を見ていた。その視線は明らかに僕の顔に向けられていた。恐ろしい、恐ろしい...、僕は馬場の顔から目を逸らし、父に殴られて出来た頬の擦り傷を触って、無気力を装ってこう答えた。

「書いている。」

「何を?」

「日記。」

「はっ。」

馬場は嘲る様に笑った。この女、この女め、と内心怒りに震えながら、然しその確固たる侮蔑に対して僕は縮こまるより他無かった。怯えと動揺を隠す事は出来なかった。馬場は目を鋭くして僕と僕の日記を睨み、下品な顔をして踵を返した後、四・五人ほどの女子グループの中に戻っていった。...女性、いや、女、女、女、女───。僕が抱くあらゆる疑心と不信の中で最も不気味なもの、それは大抵女に関係するものであった。女という生き物、僕は女という一つの種族に対して、未だ何の素性も掴めずにいた。不可知、未知。だが或る一事。女のただ一つの性質だけは、僕はその経験則から知っていたのである。女、というものは何かと嘘を吐く生き物だという事である。男というのは、例えどんな嘘を吐く時であれ必ず嘘を吐いているという自覚を持っているものだが、しかし女は違う。女は欺きの、とかく錯視の天才である。自分の吐いた嘘を、自らの本音だと自分自身に錯覚させる事が出来る、極めて器用な種族である。僕にはとても理解出来ない存在であった。

 ここまで長々と書いたが、詰まる所僕は人間が恐ろしく、又非常に苦手なのである。人と関わるのに重要な要素と性質、即ち社交的な偽証と同調の気概を僕は持ち合わせていなかった。精神的欠落を患った身障者だった。そんな中で人と関わるというのは、相手の急所の判らぬままに殴り合う様な、盲目者が釘の生えた道を行くような蛮行と然したる違いは無かった。人と関わる事の恐怖、いや、不適合への恐怖...と考えた途端、次は男子がやってきた。

「何か書いてるの?」

「うん。」

「なに書いてるの。」

「日記だね。」

「へぇー、すごいね。」

僕はそのわざとらしい感嘆に言い知れん許りの怒りと虚しさを覚えた。そして、その偽の感嘆の裏の冷徹な憫笑を僕は決して見逃さなかった。

 

 二時間目。天気は薄灰色の曇りであった。つい二時間ほど前までの過ごしやすかった天気とは打って変わり、風が強くなり少々肌寒かった。空の向こうには泥墨(どろずみ)の様な黒雲が次第にその体躯を肥大化させ、風に乗って少しずつこちらに迫ってきている様に見えた。教室の窓から見える桜の木は、鱗の様な緑葉を風に煽られ、紙ヤスリ同士を擦りあわせているが如く繊細な音を奏でている。時刻はおよそ一時、こうして外の様子を日記に綴っている間にも、周囲の俗めいた歓談は一層熾烈を極め、それに伴って僕を標的とした嘲笑もいよいよ勢いを増していっている。どんなに幽かな笑いでさえも、僕は聞き逃さなかった。そしてその些細な笑みから、僕は僕に対する評価を悉く発見していく。クラスの端で毎日本を読んでいた大人しいあの女生徒でさえ唯一の友達である悠乃と耳打ちして、僕の方を見ては愚図愚図と笑っている。...彼女は入学したての頃は物腰柔らかく恬淡としていたのに、あの貪欲で、卑俗で、狡猾な女 悠乃と関わり出してからというもの、貞淑さを失い、化粧を覚え、桃色の口紅を塗り、時にネックレスとピアスを身に付ける様なただのつまらない女へと成り下がってしまった。それはつまり、悠乃が精神的に彼女を強姦したという事と全く同じではないだろうか。僕は悠乃のあらゆる所作に泥酔した父の影を目撃していた。殺してやる、とも考えた。しかし、僕は未だに悠乃を見る度に汗を流し、呼吸は深くなり、たちまち強い動悸に襲われてしまう。悠乃はまたそれを見て更に僕を嘲笑い蔑視するのだった。父の影、それは僕を正気から遠ざけるのに最も手軽なものである。僕に一生付き纏う亡霊、呪縛...。僕の休める場所など、最早無いのかもしれない。これはもう、猜疑の問題では無い。よもや僕はその心の根本の部分、思考の根底にまで重大な欠如を抱え込んでいるのでは? そう考えてみると、周囲のあの女子と男子...、即ち『魔物』たちが、何の欠損も無い無欠の存在に思えてならなかった。彼らは完璧で、僕は不出来、彼らこそ正常で、僕だけが異常......。その疑念を本当だとは思わなかったが、しかし真実味だけはある様に思えた。正常であるというのは、社会に対する適応力の事を言うのだろうか。そうだとしたら、僕は─────。

 僕の疑心はいよいよ自分自身にまで及んだ。自分の精神と思考の動向を朧気な不安から疑ってしまうという無力感、そして絶望感と恐怖は決して言葉に表せる様なものではない。まるで意識だけを取り残して全身に麻酔を掛けられる様な理解不能の恐怖。まるで自食症にでも陥ったかのように、僕は僕自身を蝕み傷附けている。たまらなく不気味になった。たまらなく不気味になって、僕は右手の爪を噛んだ。昔っからの悪癖である。僕は恐怖を少しでも和らげる為、そして崩れかけの自尊心を少しでも保つ為に爪を噛み続けた。まるで白痴の様に...。

 

 四時間目。窓の向こうでは苔と藻とが生い茂る小池にぎらぎらと太陽の光が当たり、無数の白蛇の泳いでいる様な輝きを呈していた。こう詩的な表現をしてみたが、しかしその小池の周りにはビニル袋やスチル缶などが無造作に棄てられており如何にも雑駁とした趣を見せている。文明の陰に思えた。何て汚い...、そして僕を標的とした嘲笑と侮蔑も益々激しく雑然と成っていくのを確かに僕は感じていた。遂に彼等の罵倒は、何ら変哲の無い単なる視線にまで及ぶ様になっていた。彼等は僕を見るだけで、僕の感覚に確かなる憐れみの存在を刻み込ませる事が出来るようになっているのである。僕に向けられる視線の全てに宿る冷憫。僕は彼等が必死に隠蔽している本性、即ち醜さの全てを何としてでも見破ってやろうと考えた。特に女─、僕は彼女らのあらゆる所作と、或いは存在そのものに対して確信的な獣臭さと道化の雰囲気を感じ取っていたのである。姦計の狐、邪智の蝿、然もなくば彼女らの分厚い化粧と可愛いげを装った洋服の裏に覆い隠され、しかしながら醜くそして鈍く光り輝く貪欲な本心、気違いの本性を僕は完全に看破していた。僕一人だけが、彼女らの性質的な醜愚に気づいている...、そう考えると、僕の中で小さく有った殺意。況んや彼女らに対する極めて猟奇的な殺意が瞬く間に巨大になっていくのを感じた。それと同時にこの社会に対する怒りと虚無、畢竟厭世観も膨れ上がっていった。僕のか弱い心臓に、鋭い狂気の根が伸びていくのを感じたのだ。何故僕はこうも苦痛に喘ぎ悶えながら、それを必死に抑えてまで生きているのだろうか? 周囲の視線に唖の如く黙りながらただ怯え、両親の機嫌と顔色を窺い、殴られ、ひっぱたかれ、あらゆる人間の心に偽証と隠蔽を見ながら、しかし無知に努め、素知らぬ振りをして、ただただ──。僕は頭を抱え込もうとした。すると周囲の喧騒はより一層その激しさを増して、僕に対する叱咤、罵倒、煽り、批判、暴言、嫌味と、僕に向けられる面罵の言葉が絶え間無く聞こえてきたのである。僕はその重圧に耐えかね吐き気を催し、机に臥した頭を上げ前を見た。すると、ああ、この女!! 髙岸と悠乃の二人が僕の方を笑いながら見ていた。見ていやがった。この女、この女、この女!! 僕は深淵の様な絶望と共に、捩られた炎の様な怒りを覚えた。この女共は、僕より醜く穢い心をその腐った胸中に宿していると言うのに、その癖にまるで私達の方が立派だとでも言わん許りに僕を蔑視している。許せない、女、女、女という生き物! この世の諸悪は全て神と女と権益とが原因なのだ。女という性がそもそも性質的な醜愚の顕れなのだ。...いや、必ず何処かにいる筈なのだ。聖女、美しい女性が。しかし、しかし此処には...。

 僕は我慢の限界が迫っているのを察知して、先生に一言トイレに行ってきますと嘘を吐き、勢い良く廊下に飛び出して下駄箱に向かった。もううんざりだ。何も僕はこれから人を殺しにいく訳じゃない。誰にも迷惑は掛からない。躊躇う理由なんかあるかと、僕は自分に言い聞かせて校内の駐輪場に走った。自分の自転車の前に来て、僕はポケットに手を突っ込み、自転車の鍵と財布が有るのを確認して自転車に跨がった。太陽はぎらぎらと輝いている。学校を抜け出したのは初めての経験だった。

所沢・飯能・西武秩父方面の下り電車の中は、平日の昼間と言う事もあって相当空いた車内へと変貌している。僕は、東久留米市 南沢にある氷川神社に向かっていた。あそこは自然豊かで、所謂大地の恵みを感ぜられる場所だったし、東久留米も、駅周辺は人がそれなりに多く、最近は都会的な雰囲気になってきているから、出来るだけ人通りの少ない場所で、少しでも精神の療養に努めようとしたのである。僕は駅を出て、千葉の松戸にも似た田舎の雰囲気を都会らしさで隠した様な、表しがたい光景に何だか少しほっとして、ゆっくりと落合川の方へと進んだ。落合川へ向かう道中は、意外にも平坦であった。いつも通り散歩に来るのと、然程変わらぬ感覚だった。駅の目の前にある大通りをずっと真っ直ぐ行って、二つ目の十字路を左に曲がる。これをまた真っ直ぐ行くと左手に寺(確か多聞時だとか、そんな名前だった気がする。)が有り、その向かい側に小さなリサイクルショップが有るから、そこを右に曲がる。道なりに沿って行くと、宮下橋と言う橋に着く。橋の下には、小島の様に生い茂った水草と、小さな魚が数匹。その魚は、いつ見てもそこに居た。鮠である。落合川には多くの鮠が居て、春先は多くの釣り人が小虫なんかを用いた釣竿を持って、鮠釣りに勤しんでいるのであった。近頃はめっきり見掛けないが、昔は持ち帰って天ぷらなんかにして食べたものである。塩焼きや甘露煮なんてものもある。僕自身もう長い間、鮠料理など食べていない。幼年の頃、友達と一緒に、河原で履き物を脱いで、裸足で落合川に入り、素手で鮠を掴まえようとして、沢蟹なんかに足の指を挟まれそうになった事もあった。あの時、友達と食べた鮠の塩焼きの味は、今も変わらないのだろうか。分からない。だが、ここの光景は、大きく変わってはいなかった。それがどこか嬉しくて、そっと微笑んだ。そしてさっさと歩を進めた。宮下橋を真っ直ぐ行くと、そこには氷川神社が有る。この神社は、目の前を流れる沢頭湧水、正確には南沢湧水群の守護神とされている。境内に上る小さな階段の両側にある小さな灯籠には、8cm程の大きさをした、灰色の家守が張り付いていた。そして僕が氷川神社の境内に上がろうとして、ふと向こう側の、湧き水の流れる小川の方を見てみると、小川の側の砂利道に一人の十四、五歳と思わしき少女が立って居た。日光を反射して白金の様に輝く湧水を見詰め、時折辺りを飛び回る揚翅蝶(あげはちょう)に気を取られている。Sollen(ゾルレェン)...、僕の脳裡にはそのドイツ語が浮かんだ。僕は自分の数少ない憩いの場を奪われた様な気がしたのだが、しかし程無くして或る単純な疑問に苛まれた。彼女の履いている、あの折り目の付いたスカートは、灰色の様相と無機質な雰囲気を翌々(よくよく)鑑みてみれば、あれは制服のスカートでは無いだろうか? もっと良く見れば、彼女がその白いワイシャツの胸ポケットに入れている赤いカバーの何らかは、或いは彼女の通う学校の生徒手帳では無いか? もしそうであるなら、彼女は僕と同じ学生と言う事である。人の事を言えた義理では無いが、何故平日の昼間にこんな所に居るのであろう? 何だか不思議な感じがした。焦げ茶の交じった黒髪は肩に少し掛かるぐらいの長さをしていて、半袖のワイシャツから流れる腕は白絹のようである。スカートは膝の丈まであって、足は、と、彼女は靴を脱いで小川に入り、瞼を閉じて力を抜いている。川の周りに生えている須田椎(すだじい)(くぬぎ)の落葉が、水面に浮かんで揺ら揺ら下流に流れていくのを、じっと眺めている。すると、小川の下の方から、小学三年生ほどの齢の男子がぱちゃぱちゃと音を立ててその少女の方へと歩いてきた。上半身は裸で、その左手には濡れて厚みを失った虫取網が握られている。...昔、まだ僕が幼かった頃に、この小川では河童が出るという噂を聞いた事がある。直ぐ側に神社があって、また小川の奥の森の中には廃れた小屋が有ったりするから、きっとそういう不思議な情緒の延長線上として、河童という伝承が出来上がったのだと許り思っていたが、しかしもし夕暮れ時にこの幼い少年が泳いでいたりすれば、河童と見間違えるのも幾分変では無いと思った。少年は少女に話し掛けている様である。すると少女と少年は手を繋いで、小川の上流の方へとちゃぷちゃぷ歩いて行った。僕はそれをぼーっと見詰めて...そして或る事を思い出した。確か川上の方には、危ない!

「待って!」

僕は二人に向けて叫んだ。二人は足を止めて、辺りを飛び交う蚊を気にしながらこっちを振り向いた。少年の方は訝しげな顔を、少女の方は驚いている。

「どうかしましたか?」

と少女。

「そっちは危ない、確かそっちは...。」

「ヒナ(ねぇ)、知り合い?」

「いや...。もしもし? 危ないと言うのは?」

「そっちには、川上には確か雀蜂の巣があります。刺されたら危険ですよ。」

「雀蜂の巣、それは危ない。」

「あれ、ヒナ姉? 行かないの?」

「蜂が居るんですって。」

「蜂?」

「刺されたら嫌でしょう。」

「うん。」

そう言って、少年と少女は川上の方からゆっくり下流の方へと歩いてきた。察するに、この二人は姉弟で有るらしい。「すいません、ありがとうございます。」

と少女は言った。そして僕は今一度彼女の顔を見直した。化粧はしていない。女らしさ、というものを全く意識していない様にも思えるが、しかし端整な顔立ちをしていて、凛々しい眼光と雰囲気を持っていた。_正直、僕は彼女に見とれていた。馬場や悠乃とは全く違う生き物に思えてならなかった。女性と言うのは本来こうあるべきだと感じた。きっとこの人の心臓は金剛石で出来ている、この声も、延いてはその身に(そな)わるあらゆる要素は、生まれ来る時に神から頂いた選りすぐりのものなのだろうという確信が有った。この人は、僕の周囲を取り巻く女性とは全く違う...、それは僕が彼女に対して抱いた勝手な印象かもしれないが、しかし彼女の心の無垢である事だけは本当だった。彼女は生まれた時の未だ美しいままで居るのだ...。すると、彼女は言った。

「それでは...。」

いけない! 僕の脊髄が震えた。今ここで彼女を手離してしまえば...、いや、手離すという表現には語弊が有る様に思える。別れてしまえば、という方が適切かもしれない。兎角(とかく)、今この少女と別れたら、それが一見愛想の良いものであったにしても、何やら一生後悔に苛まれる様な予感が走った。僕はオカルトの類いを信じてはいないが、しかしこの時だけは曰く運命といわれる存在の実存を考えない訳にはいかなかった。平日、普段ならば高校で授業を受けている時間帯に、僕はその重圧・苦痛からの逃避と打破を図って、この東久留米に来た。電車の中で、野火止にある急勾配の坂に沈む黒蟻に思いを馳せて、自然にすがる思いをした。そして今、今ここで、僕は椎の木と椡の木の生い茂る森の側の小川で、同じ様な学生の少女と出会ったのである。決して運命的な出逢いでは無いかもしれないが、僕はこうして少女と出逢ったという事だけで、既に運命を感じていた。即ち、神仏の恣意を感じざるを得なかったのだ。何もかもが噛み合ったと思った。今までの僕の人生の食い違い、齟齬が全てこの少女によって解消せられるのではという予感、この少女によって僕の人生は好転するのではという直感が、確かに僕の脳裡に有った。

「待ってください!」

僕は彼女を引き留めようとした。

「はい?」

「あの、少し歩きませんか?」

「...どうしてでしょう?」

「その、話したい事が有るんです。それと、聞きたい事も...。」

「聞きたい事...。」

そう言うと、彼女を少年と顔を見合わせ、そして頷いて、

「ここでなら良いですよ。」

と言った。僕は堪らなく嬉しくなった。

 僕と彼女は肩を並べて、足を川に入れていた。僕は自分から話がある、と言ったが...しかしいざとなると、どう話し掛ければ良いものか全く解らなかった。気心知れた友人でも無いのに、何故僕は声を掛けたのだろう? 今更になって僕はそう思い、そして先ず彼女が口を開いた。

「蜂の巣がある、と言ってましたが、どうして知ってたんです、この辺りに住んでいるんですか?」

「いや、住んでいるのは練馬の方だけど...。」

「練馬、結構遠いですね。...どうして練馬の人がここに?」

「休みでね。」

「ふふ、嘘でしょう。制服じゃあないですか。」

「それは貴女、えーっと...」

(ヒナ)、雛と言います。」

「雛さん。雛さんも制服姿じゃないですか。なんでこんな真っ昼間に。」

「それこそ貴方も一緒ですよ。学校あるでしょうに。」

「僕は、藤真と言います。」

「藤真さん。」

「うん。いや、何、授業が退屈で。サボりって奴です。貴女は?」

「私は、授業が早く終わったんです。」

「ここが好きなんですか?」

「ええ。落ち着けるんです。...こうして、湧水で顔を洗ったりしながら。」

雛は両手で川水を(すく)い、顔を洗って見せて、微笑んだ。

「この水は綺麗ですからね、本当に...。」

「あら、ところで藤真さん。その傷は?」

「傷?」

「頬の。」

僕はげっと思った。僕は彼女に『親に殴られた』と打ち明ける気は無かった。ついさっき会ったばかりの、名前だって今知った二人...、それなのに、突然そんな重たい話をしては、お互いに迷惑だと思った。

「転びましてね。」

そうして僕は嘘を吐いた。善意の嘘である。お互い深く踏み込む事の無い好意の嘘である。何も私はこの少女に対して臓腑に蓄えた悪意と不満とを吐露する為にこうして話しているのではない。この少女との交流の中で、何とか自らの人生の変革を見出だそうとしているだけなのだから。...しかし、この少女は僕の思っているより賢かった。つまり、僕はこの少女を買い被っていたのだ。雛はこう言った。

「本当に?」

僕は、今までの自分を恥じた。そして、雛に対しての信頼の様なものが芽生えるのを感じた。僕は、少なくとも雛の事を『今までの女性とは違う』という確信...即ち信頼の下、こうして話を始めた筈なのに、なのに僕は心の何処か一辺で、彼女を疑っていたのであろうか。それ故、彼女にこんなつまらない嘘を吐いてしまったのでは無いだろうか。自蔑の思い、僕は自分の疑心を恥じた。そして同時に、雛の密かな思いやりを感じ取った。彼女は詮索をしたのである。僕の言葉に嘘を感じ、本心を知ろうとしたのである。これは、愛...いや、そんな大きな物でなくとも、僕に対する好意そのものに他ならないのでは? そう思って僕は雛の些細な気遣いに応えた。

「本当はね、親に、父親にやられたのさ。」

雛は真剣な眼差しでこちらを見ていた。僕は真実を見た。この人だ、この人こそ、僕の理想の───。

「お父さんに?」

「ああ。僕のお父さんは、酒飲みでね。酔うと暴れて手が付けられないんだ...。」

「お母さんも、大変でしょうね...。」

「ああ、お母さんも。お母さんも、今ではもう、気違いさ...。」

「...。」

雛は口を()ぐんだ。悪い事をしたと思った。_すると、雛はひっそり立って、小川の端の方に置かれていた学生鞄を掴み、中を漁り始めた。一体何を? その疑問は、次の瞬間に解決させられた。彼女は鞄の中から、一つの小さなキーホルダーを取り出して、僕に手渡した。

「これは?」

「これはですね、私が学校で作ったものです。確か、一ヶ月ぐらい前の...。」

「そんな、悪いですよ。」

「いいんですよ。付けるものもありませんし、それに─。」

「...それに?」

「人助けではありませんか。」

僕は顔が紅潮した様な気がして、俯いた。

 ──それから僕達二人は、少し他愛ない話をして、日が暮れてきたからと、帰る準備を始めた。

「今日はありがとう。そして、ごめんなさい。」

「いいんですよ、私もどうせ暇でしたし。」

「...その。」

「はい?」

「雛さんは、その、いつもここに来るんですか?」

「...そうですね、よくいますよ。」

「今度、このキーホルダーの恩返しを、させてはくれないでしょうか?」

「もう...、まぁ、藤真さんがそうしたいのなら、止めませんよ。」

「はい、お願いします!」

「おかしな人ですね...、ありがとう、ございます。」

そう言って、雛は僕の手を掴み、握手をした。僕はビックリした。女性の肌をマトモに触れるのは、初めての経験だったのである。僕は雛をマトモに見れなかった。だが、同時に、今まで背負ってきた苦痛と重圧から解放された様な気がした。

「それでは、また...。」

雛は手を離し、弟と手を繋いで氷川神社の方に歩いていった。雛。僕の直感は正しかった。僕の人生は、今好転した様な気がした。_すると、僕は下半身に何やら違和感を感じた。何であろうか? ブユか、或いは百足にでも刺された様な感触がして、僕はその腫れたらしい部分に手を伸ばした。...ああ、ああ、ああ!! 何と言う事だ。僕は全身の血が凍り付くのを知覚した。そして泣きたくなった。何故、何故...、僕は決してそんな思いを抱いてはいない筈なのに...! 僕は、人間の欲望の中で最も(あし)く、淫猥な地獄を感じていた。それも、僕の人生を救ってくれた、恩人に対して! ああ、やはり僕は獣だったのだ。真っ当な人の人生など、況んや正当な人間の感情など、物にすべくも無いのだ。僕は所詮、欲に突き動き、汚濁の思想しか抱く事の出来ない人非人(にんぴにん)なのだ。僕は、僕は、彼女の、雛の笑顔とあの柔らかい聖女の手に、欲情を感じていたと言うのか。動悸。心臓の鼓動が早くなるのが解った。動脈が脈打つ。汗が滲み出る。僕は他ならぬ僕自身の肉体によって、自らの賤しさに気付かされた。所詮僕はあの気違いの両親の息子だったのだ。僕の肉体には、あの人殺しの父の血液が流れているのだ。そして、今その欲情の昂っている部分には、その父の汚泥の様などす黒い血液が溜まっているのだ。死にたい、死にたい...。僕は、僕は恩人にさえ性を抱く様な畜生であったのか。そんな、僕の自責と激憤を意にも介さず、僕の欲情はみるみる高まっていった。だが、僕は自慰に及ぶ事は出来なかった。自慰をしてしまえば、僕は、雛を汚してしまう事になる。恩人の名誉に白濁の嘲りを投ずる事になる。それだけは、それだけは_。僕は自分に対する怒りと、雛に対する懺悔と、性欲の呵責を抱き苦しみ、そしてふと、自分の右手に手をやった。キーホルダー...。このキーホルダー。僕は、本能に抗う力など持ってはいなかった。愛を受けなかったこの十六年の間に蓄積された、異性に対する想いや愛情は、とても理性で抑えられる程易しくは無かった。僕は、キーホルダーを左手に持ち、森の中に入って、履き物を下ろした。このキーホルダーには、彼女の、雛の残り香があった。これは、僕のせめてもの抵抗であった。僕は雛を対象に自慰をするのではない。そうして何とか、自分の中で雛を汚しているわけではないと、勝手に納得するより他ならなかった...。

 

 

 

【六月 十七日】

 

 僕はあの日以降、東久留米に行かなくなった。僕はあの自慰の後、言い知れぬ許りの、死への欲求を抱いた。僕は、自らを救ってくれた恩人を汚したのだ。幾ら言い訳をしようが、それは─。そう思うと、やはり僕に好転などあってはならないのだと感じた。...今思えば、あの出来事は、確かに僕の転機であった。僕の人生を一変させるチャンスだったのだ。だが、だが僕は、負けたのである。僕は、苦しみ抜いた十数年の懊悩をあの日、押さえる事が出来なかった。僕はそれが許されない、最もしてはいけない事だと内心解りながら、敗北を喫したのだ。 それは僕の醜さの、確かなる写し鏡だった。もうどんな自己弁護も通用しない。僕は証明した。自らが非道の人間である事を...。僕は今でも苦しんでいる。あの日僕が仕出かした事を。本当に、雛は美しい人だったのだ。恐らくこれから先の人生で、もう二度と会える事は無いだろうと言うぐらいに、素晴らしいくらい美麗な人だったのだ。しかし、だからこそ、僕の未熟な精神では耐えられなかった。僕は今でも自己嫌悪に苦しんでいる。高校でも、家でも、僕は日がな『雛』の名前をノートや机やらに書いている。贖罪のつもりではない、だがそうしなければ、僕は自責の為に首を括ってしまう様な気がするのである。愛を知らぬ者が、愛に手を出してはならないのだ。それは、慣例で有ると同時に恋愛の道徳なのだ。雛、雛──。

 

...或る日の事である。とある車通りの少ない田舎の道路を、ふらふらと朝靄の様に雑駁と歩く学生が一人有った。耳にはイヤーホンを附けていて、その表情たるや、困憊を極めている。路傍に咲いている春紫苑や雛罌粟を気にも留めず、早々帰宅を急いでいる様である。未だ五月とは言え、太陽は真夏の昼時の如く、爛々と耀いていた。況んやそれは斯く青年の細々とした肉体をも容赦無く照らし上げ、唯でさえ不安定な足取りを益々危険に、又重くさせている。その歩みは端から見れば痴呆や心傷者のする、あのひょこひょことした剽軽な歩行に酷似していた。青年はゆったりと歩いて行き、家まであと100メートル程の所で信号に引っ掛かり、気怠げに立ち止まった。その時である。青年の立ち止まった横断歩道の直ぐ横に有る畑の側で、一人の老婆が大声を挙げた。それはイヤーホンをして耳の塞がっている青年にもどうやら聞こえたらしく、驚いて視線を老婆に向け訝しそうな顔をした。老婆は口を下品に開閉し、何やら喋っている様である。しかし、先の咆哮の様な叫びとは打って代わって非常に小さい声で喋っているらしく、未だイヤーホンをしている青年には何も聞こえて居なかった。片や青年は青年で、老婆の誰に向けて話しているかが解らぬ故、ゼスチャーで自分を指差し首を傾げている。愈々老婆が全くゼスチャーに反応しないから、遂に青年はイヤーホンを取り老婆の方へと近付いて言った。

 

「僕ですか。」

「そうだよ。」

 

老婆は何やら苛立っていた。顔の皺を見る限り、凡そ七十代前半程の齢に思われ、色褪せた茶色い洋服と白い七分丈のスウェットを身に付けている。

 

「ちょっとね、頼みが有るんよ。あんね、この道を真直ぐに行くとタクシー会社が有るんだけんど、そこ行って、そっから一台、タクシーを呼んで来て頂戴よ。そこの道を行けばあるから、呼んで来てな。ねェ、早く。」

 

青年はそのタクシー会社を知っていた。呼ぶ事自体吝かでは無かった。然しその内心、呼びに行こうとする気は微塵も無かったのである。青年は今一度老婆を見た。眼球は蚕の繭の様に乾き切り、蝋の様な顔っ面には深い亀裂めいた皺が、その長い一生の間に犯してきた罪の数の分だけ刻まれている。歯は腐蝕し錆びた鋸と化し、四肢は泥岩の付着した流木と大差無い。畢竟この老婆は醜女なのである。老い衰えた狸に似た面をした下品で卑俗な、醜い女なのである。青年は憤った。若し、この老婆が幾分若々しければ、青年は快くタクシーを呼びに行ったであろう。それが同年代か、或いは二三年程しか違わない齢で有ったとしたら、多少高圧的で有ったにしても引き受けただろう。しかし、この青年にとって、傲慢な老婆の頼み等と言うのは、甚だ不快な物で有った。青年は項垂れてこう言った。

 

「解りました。」

 

しかし、青年は決して呼びに行こうという気はなかった。青年は、タクシーを呼びに行く振りをして、何もせず家に帰った。あんな老婆の頼みなど、知った事か。何故あんな醜い女を。雛、雛。雛の面影が脳裡に浮かぶ。...そこから数時間して、青年はまた同じ道を通った。当然、老婆は居なくなっていた。すると、青年の心に、或る一つの解答が顔を出した。もしも、これはもしもの話である。この青年は、あの老婆の名前など知る由も無かった。そして知る必要も無かった。が、しかし、もしあの老婆の名前が、偽名にせよ本名にせよ、「雛」であったとしたら? 青年は、あの頼みを無下に出来ただろうか。非道に徹する事が出来ただろうか。或いは、頼み込んででも、呼ばせてくれと懇願したのでは無いだろうか。青年は老婆の様相から、その頼みを受けなかった。そしてあの日。青年は雛に対する信頼から、外道の自慰に及んだ。あの日、そして今日、人を、彼女を苦しめたのは、言うまでもなく───。そう思って、青年は悲しくなった。そして、人知れず涙を流した後、俯いて道路の端に(すわ)り込んでしまった。

 




見てくださった方に感謝を込めて。ありがとうございます。私は私の苦痛しか書けません。ですから、もしや「これはおかしい」とか「これは変だ」という思いもあるやもしれませんが、ご了承下さいますようお願いします。本当にありがとうございました。

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