三月。ここ総武高校では高校三年生の卒業式が行われ、無事に閉式していた。花のブローチを着け門出の時を迎える卒業生は打ち上げとに繰り出し、明日から別々の道を行く友と別れの時を惜しむ。
そんな中、由比ヶ浜結衣は茜色に染まった廊下を歩き目的地までゆっくりと歩いていた。胸には花のブローチ、右手には卒業証書の入ったいかにも大層な筒をしっかりと握りしめている。
校舎に人影は見当たらない。ただ染みこんだ青春の匂いがそこら中に漂い、門出に立った若者の胸を締め付ける。
少し視界が開ける。特別棟の一階。用務員ぐらいしか使わないであろう外へと通じる扉の先が彼女の目的地だ。
「やっぱりここにいたんだね、ヒッキー。」
扉のノブを回し、その先に居たのはアホ毛がちょこんと目立つ少年、比企谷八幡であった。八幡はグラウンドをつなぐ階段に腰を下ろし、マッ缶を口に運んでいる。
「……由比ヶ浜か。なんだ。打ち上げに行ってなかったのか。」
「なんだ……って、呼びに来てあげたんじゃん!ほら、奉仕部の打ち上げ始まっちゃうよ。」
結衣は八幡の隣に座る。唐突に近づいてきた結衣に八幡はとっさに距離を取ろうと横にずれる。しかし、結衣はそれを許さず、距離を縮める。
「なんだよ。なぜお前が座る必要がある?」
「気分だよ。気分。あーあ、終わっちゃうな……高校生活。ヒッキーは楽しかった?」
「平塚先生に強制的に奉仕部にぶち込まれ、雪の女王とアホの子に囲まれて無理難題を押しつけられたりと災難だったわ。」
〝ちょっと!アホの子って私のこと…〟
そう口を開きかけた結衣を遮るように八幡は続ける。
「でも、まあ、楽しくなかったわけじゃないというか……充実はしてたんじゃないか。」
あいかわらずに捻くれている。それでも思いを自分に対して伝えてくれていることは結衣にとってとても嬉しいことなのだ。
「そっか……良かった。私も楽しかったよ。辛いこともあったし、酷いことをヒッキーやゆきのんに言って傷つけてしまったけどね。それでも、この高校生活は良かったと思うよ。」
八幡も結衣も普段はこんなことは言わない。そうさせているのはきっと追憶のせいだ。
それでも言ってしまった気恥ずかしさはあったのであろう、結衣は八幡の顔を見れずに下を向き、八幡もまた背ける。甘酸っぱい沈黙はさほど長い時間ではないにもかかわらず、永遠ほどの長さに感じていた。
グラウンドから優しい風が吹く。何度この風を浴びただろうか、と八幡は全身でその風を浴びる。もう戻ってはこないであろうこのベストプレイスで過ごした日々が脳裏に浮かんでくる。いつの間か目に涙が貯まっていることに気づく。いかん、感傷的になりすぎだ、と八幡は軽く涙を手で拭い、立ち上がる。
「よし、打ち上げ行くか。一応、奉仕部員だしな。ん?どうした由比ヶ浜。」
うつむいたまま、立ち上がらない結衣に八幡が話しかけるが反応がない。と思いきや、急に立ち上がり、八幡の制服の裾を握りしめる。まるで逃げないように捕まえているようだ。
「私さ、今からすっごくズルいことするね。やっぱり言葉にしたい。そうじゃなきゃ伝わらないから。」
「由比ヶ浜、お前何言ってる……」
「ヒッキ-。」
結衣は八幡に向き合う。逃れようとするがその強い瞳になぜだか八幡は体を動かすことが出来なかった。
「私はヒッキーのことが好きです。私と付き合ってください。」
時が止まる。八幡も結衣も胸も鼓動の音だけが響き渡り、世界が二人っきりになる。それでもいつかはこの世界から抜け出さないといけない。だから、マッ缶で甘ったるくなった口を決意と共に開く。
「俺は……」
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合河塾津田沼校。エントランスに入り少し言った先にはカフェテリアのようにおしゃれな椅子と机が立ち並ぶ。ただひとつカフェと違うのはBGMも私語はなく、ノートに書き込む音がそこら中で聞こえる部分であろう。
そんな中、ジーンズにパーカー、黒眼鏡というおしゃれのかけらもない服に身を包んだ由比ヶ浜結衣は窓際の端に座り、英文と睨めっこしていた。机の左側には大量の参考書が積み重なり、右側には先ほどコンビニで買った眠気醒ましのコーヒーを置いている。
結衣は英文から目を離し、時計を見る。午後六時。いつもならば荷物をまとめて帰る時間である。が、未だに課題を終わらせていない彼女は時間の延長を決め、再びアルファベットの海へ自らの意識を沈めていく。
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由比ヶ浜結衣は浪人生である。
全ては彼女は今年の二月、受けたすべての大学から不合格通知を受け取ったことから始まった。
彼女自身、大学に対してのこだわりは少なかった。ただ東京の私立大学にいきたかったのだが、なぜ東京の大学なのか。それは彼女の思い人、比企谷八幡が東京の大学を志望していたからである。
まさかの不合格(というか成績をみれば当たり前の結果なのだが)通知をもらった結衣であったが、どうしても東京の大学へ行きたかった結衣は親に頼み込み、一浪だけ許してもらい今に至る。
そして、結衣はあることも実行する。
もともと結衣は八幡と同じ大学に行き、そこで告白するつもりであったのだが浪人が決まり、急遽卒業式に実行することを決めたのだ。
好意を好意として受け取ろうとしない彼に振られる寸前までいくが、
「一年後、ヒッキーと同じ大学に入れたら、その時に返事が欲しい。」
と説得し、どうにか告白の引き伸ばしをしている、というが現状だ。
二人との関係は今も続いている。と言っても東京の大学へ行ってしまった八幡とはメールや電話をする程度である。それでも週に一度か二度ある連絡に一喜し、浪人生活のモチベーション維持へと繋がっているのだから関係性としては悪くない。
雪乃とはたまに待ち合わせして会う程度である。雪乃は千葉大学へ進学したため比較的近く、たまに相談に乗ってもらっていたりする。ちなみにその相談の中には受験に関してだけでなく、八幡との関係も含まれている。
二人とも優しく、浪人を応援している。それでも話していると時々突きつけられることがあるのだ。
自分だけが足踏みして、二人ともどこか遠くへ行ってしまっている現実を。
そして、それが堪らなく苦しい。
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英文の構造分解、分からない単語の下調べ、自分なりの和訳をノートに書き記し、閉じる。明日の授業の予習を終えて一息つく結衣が壁に掛けられた時計を再度確認する。
午後七時三十分。気づけば九十分も経っていたらしい。
結衣は机に連なった参考書を大きめなカバンに詰め込む。本当ならば英単語、熟語や世界史の一問一答もやっておきたいところだったが、母親から〝八時までには帰って来なさい〟と釘を刺されている以上逆らえない。スポンサーの指示は絶対なのだ。
バックを背負い、すっかり空になったコーヒーをゴミ箱に放り投げてエントランスを抜ける。
かつては帰り際にクラスの誰もが彼女に声をかけていた高校時代とは違い、誰も彼女に声をかけず、ただ自らの学力をあげるために机の上の参考書に食らいついている。
結衣は帰り際、必死に勉強を明け暮れる人々を見るのが苦痛だった。無論、彼女も勉強していないわけではない。一日、授業を含めて十時間以上の勉強時間はしっかりと確保している。それでも自分以上に勉強している人間を見ていると、自分が劣っているようで見ていられないのだ。
さらにエントランスから制服姿の女子二人が入ってくる。二人ともほんの数ヶ月前には結衣も着ていた総武高校の制服である。
結衣は目を伏せがちに歩く。少し息を止め、すれ違う。エントランスを出たところで、新鮮な空気を肺へ取り入れる。こんなことをいつもやっていたりする。そんな自分がいやだが、やめたら心が保たないのもわかっているからやめられない。
夏が近くなってきた六月。新生活が始まり既にニヶ月経ち、由比ヶ浜結衣は予備校では友達も作らず、たった一人で戦う日々に身を置いている。