大学の食堂棟には人が溢れかえっている。外部の人間が入ってきているから当たり前であるが、そんな中で琴美と結衣は食堂棟屋上のテラスに向かい合う形で座っていた。屋上は大学の意向だろうか木や芝生など緑化が進んでいる。
テラスの机には琴美が奢ったカフェラテと紅茶が置かれ、端から見れば女子会のように見えるかもしれない。だが、実際はもっと殺伐としていた。特に結衣は目の前にいる匝瑳琴美がどのようなアクションを起こしてくるのか、警戒しているようだった。
「由比ヶ浜ちゃん、そんなに警戒しないでよ。まるで初めて見るものに対して威嚇するワンちゃんみたいだよ。」
「……どうして私と話したいんですか。私達初対面ですよね。」
「まあ、ね。でも間接的には聞いていたわ。ハチくん、ことあるごとにあなたたちの入ってた部活の話するんだもん。それにあなたもハチくんから私の話は聞いていたでしょ。お互い、初対面だけど初対面じゃない。」
琴美はカップに入ったカフェラテを一口啜る。それを見ていた結衣も紅茶を啜る。
「私は話してみたかっただけだから。同じ人を愛したあなたとなら色々と話が弾むかなってね。」
同じ人を愛した、と確かに彼女はそう言った。
「それって、ヒッキー、比企谷君のことを…」
聞きたくない。そうは話せなかった。もはや開けてしまった半開きの扉を開けるしか前へ進む方法はないのだ。
「うん。好きよ。でも、まあ振られちゃったけどね。いや、あれを振られたと言って良いのかな。すごい遠回しにフラれてんだけどね……」
机に頬杖をつく琴美は少し遠い目をしながら口を動かす。思い出すのは夏の終わりの人生相談だ。
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「それは……どうなんだろう、分かんないや。」
「分からない?それはどういう……」
コオロギや虫の声が聞こえていく中、琴美は顎に手を置きなにやら考えを纏めているようだった。
「う~ん。この気持ちが君の書く小説に思いを寄せているのか、君自身に思いを寄せているのか、それとも両方なのか、私には分からない。でもね、苦しい。君の一つの仕草にしたってすごく、すごく愛しくて、後から苦しさが迫ってくるんだ。なんでだろうね。これが恋愛感情なのかな。」
琴美はその場に座り込む。自身の膝を抱えている姿は八幡には新鮮で目を離せず、かける声も出せなかった。
「私ね、友達がいなかったんだ。知り合いはいたよ。でも、自分とはまるで話が合わなくっていつも読書してた。本が友達だったし、本に恋してたのかもしれない。高校の時は告白もされたけど、やっぱり惹かれるのは本だった。そんな私が、まさか本以外、しかも年下に夢中になるなんて思ってもみなかったし、戸惑ってもいるの。」
その時、八幡は気づいた。どうしてこの人と自分が一緒にいられるのか。彼女が〝ボッチ〟だったからだ。ボッチだったから嫌われない程度の距離感を知っていた。ようやく自分自身親近感を覚えていた理由が分かった。
ここまで思われている。きっとそれは幸せことなんだろう。だが、脳裏に近づくのは彼女の、結衣の泣いている姿だった。
「……琴美さん。俺、待ってやりたい奴がいるんです。」
夏の風がふわっと吹く。湖からだろうか。ひんやりとしたその風は熱くなっていた頭を冷やしていく。
「待ってやりたい子って……」
「高校の同じ部活の奴です。浪人生なんすけど、半年前に告白されました。そいつが言ったんです。〝待ってて欲しい〟って。アホの子なんすけど、そいつ頑張ってて……多分今も勉強してて。待てるなら待ってやりたい。」
本当に、酷いワガママだ。きっと目の前の彼女を傷つけてしまうのは間違いないだろう。それでも今の八幡は自分を追い、必死に走っている彼女を見捨てることは到底できなかった。
長い沈黙。永遠に続いていくような気がした。
「……そっか。分かった。しょうがないな~ホントに、ワガママさんだね……」
琴美は顔をあげない。地面をひたすらに眺めているというに八幡には見えた。
「あの…琴美さん……」
「ハチくん、もうそろそろ就寝時間だよ。私も後から追うから先に行ってて。」
再度声をかけようとした八幡であったが、それは止めた。彼は彼女の元を去る。振り返ってはいけない気がした。
「……ああ、これは痛いなあ。胸の奥がズキズキする。これが噂に聞いてた失恋って奴なのかな…」
独り言が空気に溶けた瞬間、瞼の堤防は決壊した。氾濫したその水は拭っても拭ってもとどまることを知らず、流れ落ちていく。嗚咽する声もやがて大きく響いた。
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「酷い振り方するよね。直接言わないで振るなんて高等技術なんて何処で覚えてきたんだか。そんな子に育てたつもりはないっての。」
そう笑う琴美の笑顔は柔らかい。何か吹っ切れたように結衣には見えていた。
「いいんですか。このままで。」
「しょうがないよ。彼の心の中には既に貴女がいる。私は後から彼の心にしのび込もうとしていた泥棒猫。どう考えても分が悪いでしょ。」
空を見上げる琴美。何故だろうか。結衣の心の内をいつの間にか話し始めていた。
「私、彼を縛り付けていると思うんです。〝待っていて〟凄く自分勝手で卑しい言葉ですよね。彼が誰を選ぼうと彼の自由。自分から離れて行って欲しくなくて言葉の鎖で繋いでしまっている自分が醜くて仕方がない。」
「‥‥まあ、確かにね。気持ちはなんとなく分かるかも。でも、さ。それって人と当たり前のことだと私は思うけどな。」
意外だった。まさかそんな切り返しがあるなんて予想していなかったのだ。
「人はそもそも自分勝手な生き物なんだと思う。自分勝手に人や物を評価して、自分勝手に気持ちを伝えて、自分勝手に傷つく。でもそれでいいんだよ。その方が人間って感じがする。だからあなたが彼に自分勝手に思いを伝えるのも悪いことではないよ。」
「‥‥でも。」
「大体、私だって同じでしょ。ハチくんの気持ちなんて考えずに自分の利益のためにこのサークルに入れ、告白した。自分勝手だけど後悔なんてしてないよ。きっと由比ヶ浜さんに足りないのは自信だね。彼の隣に居られるだけの自信がないんだ。」
まるで本質を見抜かれているようでゾワっとする。彼の側には何故だか素晴らしい女性が集まる。自分より優れたその人達を見るたびに何もない自分が情けなくって仕方がない。
「そんなに、自信がないなら私が彼を貰っていい?」
「そ、それは!」
「ダメなんでしょ。もうさ、自信なんて関係ないんじゃない?ひたすらに彼にアタックするくらいじゃないと。私は逃げられたけど。なら、あなたは絶対に大学に受かるべきだよ。彼に追いついてしっかり決着をつけないと。」
さあ、戻ろうか。そう琴美はつぶやき、席を立つ。そんな彼女に結衣は問う。
「‥‥どうして、私にアドバイスをくれるんですか。」
「あなたには早くスタート地点に立ってほしいから、かな。約束がある今、どうやったって彼の心は動かせない。でもあなたが大学に入れば、その限りではない。彼も自由になるわけだから私もまだチャンスがあるでしょ。私、諦めが悪いので有名なの。お互い頑張りましょう。負けるつもりはないけど。」
カフェラテのカップを持ち琴美は手を差し出す。握手を求めているのだろう。この手は握らなければならない。結衣はその手をしっかりと握り、覚悟を決めた。
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「で、センパイはどちらと付き合ってるんですか。」
琴美と結衣がテラスで話す中、残された二人はベンチに腰掛けていた。
「いや、どちらとも‥‥」
「どちらともkeepですか。なんとも偉くなりましたね。葉山先輩もビックリですよ。」
「keepなんてしてねえよ。」
「無意識とか更にたちが悪いですね。センパイがそんなだから女は苦労するんです。」
いろはは八幡に向き合う。八幡の服の裾をしっかりと掴み、逃走を防ぐ。
「センパイはよくわかっていないようなので私がハッキリ言ってあげます。現状を先延ばしにする今のセンパイ、ダサいですよ。素直に振ってあげれば諦めがつくのにウジウジとしてるから由比ヶ浜センパイも困ってるんです。大体、センパイは由比ヶ浜先輩のこと好きなんですか。」
「‥‥嫌いではない。」
「ほらそうやってごまかす。センパイのヘタレ!」
カチンとくる。なんでこんなに責められなくてはいけないんだ。思わず立ち上がる。
「ああ、好きだよ!あんなに明確な好意を押し付けられたら好きになるに決まってんだろうが!俺は惚れやすいんだ。だけど、自信がないんだよ。どう考えても釣り合わない。なんで俺なんだよ‥‥俺なんて何にもないのに。」
八幡は深呼吸する。すると途端に熱くしゃべっていた自分が恥ずかしくなる。そんな八幡にいろはは優しく語る。
「何にもないとかそういうのは自分で決めるものじゃないと思います。それは周りが決めること。恋愛に自信とか関係ないです。ちゃんと向き合ってあげてください。ほら!」
いろはの目線がズレる。八幡が後ろを振り返ると二人がいる。
「お待たせ、ハチくん。ゴメンね、結衣ちゃん借りちゃって。」
いつの間にか呼び方も変わっているが気にしない。ただどこかスッキリした表情の二人を八幡は怪訝に思っていた。
もう辺りは暗くなるから、と琴美に言われて八幡は途中までであるが結衣を送っていた。ちなみに邪魔になると思ったのだろうか、いろはは〝お先に!〟と早々に帰っていった。
未だに学園祭は続いているからか意外にも電車内には人で溢れかえってはいなかった。
「今日はありがとうね。」
「いや、すまんな。今日は何にもできなかった。息抜きにならなかっただろ。」
「そんなことないよ。色んな話聞いたし。」
「‥‥あの人に何か吹き込まれたんだろ。無視していいからな。」
「そんなことできないよ‥‥」
結衣はドア付近の手すりをギュッと握る。確か次の駅で八幡は降りる。何か話さなければと思うほどに頭が回らなくなってゆく。
「由比ヶ浜。」
「ほえ?な、何?どうしたの?」
「あの、あれだ。その、だな‥‥」
次は笹塚、と車内にアナウンスが流れる。あと三十秒もすれば、着いてしまう。
気づけば既に停車し、ドアが開く。八幡はホームに降り、振り向く。
「待ってるから必ず大学受かれよ。で、また来年ちゃんと花火大会行こう。」
「え!それって‥‥」
結衣の目の前には閉まるドア。電車は発信する。引き裂かれるように二人の距離は離れてゆく。
ドアの窓に手をつけたまま結衣。彼の言った言葉を噛み締めるたびに胸の奥が暖かくなる。
やがて笹塚を出た列車は勢いをそのままに新宿へのトンネルへ突入する。暗くなり窓に映った自分の顔は心なしか微笑んでいた。