既に模試から三日経った。
締め切ったカーテンから漏れ出る光で結衣は目を覚ます。時計を確認する。午後一時前。昨日の夜寝たのが深夜十二時あたりであったから十二時間以上ベッドから動いていないことになる。
脇で充電しているスマホの液晶にはLINEでの八幡から〝今日、18:00に海浜幕張駅で待ち合わせ〟との通知が残っていた。
そう。今日は約束の花火大会である。
気だるそうに起き上がり、軽くシーツを整えているとふと、勉強机の上にある持ち帰った模試の問題と赤ペンが目に入ってしまった。居た堪れない衝動に襲われ、整えたばかりのシーツを勉強机に被せ、リビングへと急ぐ。
結衣はあの模試の自己採点の後から単語帳を開くことすらしていなかった。
結果から言えば、模試の結果は散々なものだった。去年の結果よりは幾分かマシにはなったが、六割を超えたのは世界史のみである。
それでも頭の真っ白になった英語はまだ納得がいった。どう考えてもあの時は正常な精神状態でなかったし、間違いなくセンター形式に対する準備が足りていなかったと自覚していたからだ。
結衣の期待を見事にたたき壊したのは国語だった。自信を持って導き出した解答がことごとく外れ、現役とさほど変わらない点数を叩き出してしまったのだ。
受験に対してのモチベーションが著しく下がり、家で引きこもる日々。勿論悪いことだとは思っているし、所詮は模試だとも頭では分かっていても心が納得しない。三ヶ月とはいえ、目の前の問題をひたむきにぶつかってきたつもりだ。周りの浪人生がゴールデンウィークに息抜きと称し遊びに出て行く中、自習室に籠り勉強していた。逐一講師に疑問点を聴きに行きアドバイスを貰ったりもした。それなりに努力はしているつもりだった。それなのに、少しも身にしていない自分が情けなくって、許せない。自己嫌悪に陥った結衣が行き着いたのは〝何もしない〟という選択肢だった
「おはよう、というかおそよう、結衣。」
「‥‥おはよう、ママ。」
元気なくリビングの机に座り、机に置かれていたラップの掛けられた朝ごはんをレンジで温めることもなく食べる結衣の異変に母親はなんとなくではあるが気づいている。それでも特段勇気付けることもアドバイスもしない。
こればかりは自分で乗り越えてもらうしかないのだ。受験するのは母親ではなく、本人なのだから。親にできるのは食事や洗濯といった身の回りのサポートと金銭関係だけだ。
「結衣、今日はヒッキー君と一緒に花火大会に行くんでしょ。ならこれ着て行きなさい。」
洗濯物をたたむ作業を中断して取り出したのは、いつの日か八幡と花火大会へ行った際に着て行った浴衣だ。八幡に照れながらも褒めてもらえた思い出の品でもある。
「いいよ、今日は適当に私服でいくから。」
結衣の素っ気ない態度にカチンとくる母。別に勉強に関してはなんとも思わない。でも、折角誘ってくれた相手に対してヤル気のない姿を晒すのは余りにも礼儀がなってないじゃないか。
いつの間にか母の声色は低く、いわゆるマジトーンになっていた。
「結衣。誘ってくれた人に対して適当な服でいくなんて認めません。きっとヒッキー君だって勇気を出して誘ってくれたのよ。結衣はそれに答えるのがマナーでしょ。ということで食べ終わったら身だしなみを整えなさい。良いわね。」
結衣は知っている。こうなった母が意見を曲げることはないことを。以前、何度注意しても洗濯物を裏返しで入れる父に静かにキレた母の姿を知っているからか大人しく従うことにした。
「結衣。今日はイヤなことは全部忘れて思いっきり楽しんで来なさい。ママとの約束ね。」
母の言う通り、今日くらいイヤなことは全部忘れてしまうくらいが良いのかもしれない。全部リセットし、またやり直そう。
は〜い、ととりあえず返事をして結衣は冷たくなった朝食と言う名の昼食を取る。久しぶりにどんなオシャレをしようか胸をときめかせていた。
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午後六時になる頃、海浜幕張駅には浴衣姿の八幡が待ち合わせの地で一人待ちぼうけていた。
そもそも何故浴衣を着ることになったのかと言えば小町が原因だ。何故だか結衣との花火デートの情報が漏洩しており、千葉へ帰りリビングでゆっくりしていたところに小町から渡された。
特に反対する理由もないので着てきたが、意外なことに藍色の浴衣を着こなす姿は彼を後ろから見た女性達の黄色い歓声を生み出し、その幻想を抱いたまま彼の顔を確認した輩はその目の腐り具合に一様に溜息をついていった。
一方の八幡は全くそんなことは気にもせず、ただ小説のプロットを考え続けていた。あれから三日経っているが全く良い案が浮かんでこない。前回は義輝の原案があったからこそ数日で書いてこれたが、今回は事情が違う。プロットなんて書いたこともない彼にとって零から一を生み出す途方も無い労力に絶望さえ感じている。
ファンタジーにしようかとも考えたが、一から考えるには時間が掛かり過ぎる。スポーツ物はそもそもスポーツをしていない八幡はハードルが高い。とすれば、青春恋愛物だが終着点が思い付かずに脳内で却下した。
どうしたものか。ふと八幡が顔を上げた先に、浴衣姿の彼女がいた。
「‥‥やっはろー!久しぶり、ヒッキー。」
「‥‥おう。久しぶり。」
行き交う人混みの中、二人は見つめあう。周りの時間が止まっている気がした。
「ありがとう。誘ってくれて。」
沈黙を破ったのは結衣の方だった。見つめ合いに耐え切れなかったのだ。
「まあ、約束だしな。それにあんなにねだられたら実現しない訳にはいけないだろ。」
「そう言えばそうだね。ねえ、ヒッキー。ところでその格好ってさ‥‥」
「ああこれか。小町がうるさくて来て見たものの、下駄が慣れないんだよな。」
「でも、似合ってるよ。なんかスッキリした感じでカッコいい。ほら、さっきから周りの人がチラチラヒッキーのこと見てるの気づかなかった?」
指摘されて八幡は周りを見る。一瞬ではあるが、目線を逸らした人々がチラホラと見てとれた。しかし、逸らした人々は一様に溜息をつき二度とはこちらに目線を向けることはなかった。
「何だか溜息があちらこちらで聞こえたのは気のせいだろうか‥‥」
「気のせいだよ。それよりさ、その、私のは‥‥どう?」
言われて改めてしっかりと結衣の姿を眺める。お団子ヘアから見えるうなじは妙に色っぽく八幡の理性を崩しにかかる。それに加えて、その浴衣には見覚えがあった。
「それ、前来た時に着てたやつだろ。」
「覚えててくれたんだ。」
「まあ、浴衣姿なんてあんま見ないしな。あの時以来か‥‥時の流れを感じるな。」
「ヒッキー、なんかおじさんみたいだよ!私たち、まだ未成年だからね!」
久しぶりの結衣のツッコミにふと懐かしさを感じる。確かこんな感じだった。その感覚は一時的な嬉しさと共にもうあの頃には戻れないという底知れぬ悲しさもあるのだ。
「まあ、あれだ、似合ってるよ。」
唐突な素直さは結衣の頬を急激に赤らめさせる。高校時代からそれは変わっていない。
「‥‥‥ありがとう。嬉しい。」
暑い。それが夏のせいなのか、はたまた照れから来る熱のせいなのかはお互い分からない。ともかく、既に出会って十分も経っている。
少しクールダウンして歩き出す二人。
二、三歩歩いたその瞬間、結衣の下駄がアスファルトに引っかかり倒れそうになる。
「由比ヶ浜!」
八幡がとっさに結衣を支える。自然に顔が近くなり、唇がくっつきそうになる。
あ、と直ぐに顔を退けるが先ほどクールダウンしたはずの熱がぶり返していく。
「ご、ごめん‥‥」
そんな結衣の言葉を遮ったのは結衣の目の前に出された八幡の右手だった。
「え?」
「ほら、危ないだろうが‥‥それに今日は人が多いからはぐれないようにな。」
「‥‥‥ありがとう。」
差し出された右手を握るしっかりと握り、二人は人ごみに飲み込まれていった。
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幕張ビーチ花火フェスタは打ち上げ総数二万発とかなり大きな花火大会である。幕張海浜公園には多くの屋台が立ち上り、人々の活気で溢れる。
結衣たちも屋台の列を眺めながら歩いていく。
「あ、りんご飴。ごめんヒッキー、ちょっと買って来るね。」
「おいちょっと待て。この人混みだとマジで逸れるから俺も行く。」
二人の手は繋がれたままだ。きっと周りから見てもカップルにしか見えないだろう。
「りんご飴美味し〜!」
「良かったな。」
「う〜ん。なんか簡素なリアクション過ぎない?もうちょっとなんかないの?」
「無茶振りするなよ。あと気をつけろよ。人の服に付けたら不味いからな。」
打ち上げ開始時間が迫るにつれ、人も増えて行く。
「あ‥‥」
「どうしたの?ヒッキー。」
人混みに揉まれ、疲れ始めてる中、八幡の様子がおかしい。ソワソワと落ち着きがない。
「ちょっと‥‥トイレにな‥‥」
「ヒッキーさ、女の子と一緒にいるのにそれはないよ。」
「生理現象に罪はないだろ。と言っても公園のトイレは埋まってるだろうしな‥‥なあ、買い物ついでにコンビニ寄らないか。飯も食ってないし。」
「まあ、良いよ。私も飲み物欲しかったから。行こっか。」
公園近くのコンビニで八幡を待つ結衣。今日は今までにないくらい楽しい。イヤなことも無くなってしまうほどに。
「由比ヶ浜さん!」
後ろから声がする。振り返ると一人の男。結衣はその顔はなんとなく見知っていた。予備校で同じクラスだったはず。しかし、友達を作っていない彼女は名前までは分からなかった。
「えっと‥‥予備校で一緒の」
「あ、そうだよね。話さないもんね。僕、杉内って言うんだ。」
杉内という男は妙に積極性があり、結衣が苦手とするタイプ出会ったが突き放す理由も特段ない。どうするか分からず、対応に困っていたところを杉内は見逃さなかった。
「ねえねえ、この前の模試どうだった?クラスの皆は結構簡単だって言ってたけど。」
いや、その話はやめて。心がそう叫ぶ。それまで少しずつ浄化されつつあったイヤな気持ちが噴水のように吹き出し、たまってゆく。
「‥‥まだ自己採点してなくて。」
「ダメだよ。先生言ってたじゃん。〝自己採点とその直しは当日にやらないとダメだ〟って。」
うるさい。そんなことは分かってる。だから、今は触れないで‥‥
言葉にならない心の叫びは杉内には伝わらない。
「すまん。由比ヶ浜。ここのトイレ中々混んでて遅れちまった。」
コンビニから出てきた八幡の目の前には俯いた結衣が男に絡まれている光景が広がる。
「由比ヶ浜、どうした。」
「あ、そ、そうなんだ。由比ヶ浜さん‥‥ご、ごめんね。じゃあ、また予備校で!」
八幡の姿を見ると逃げるように杉内は立ち去っていった。
「なんだったんだよ、あいつ‥‥。大丈夫か?由比ヶ浜。」
呼びかけても反応がない。仕方なく肩を揺すり、呼び戻す。
「‥‥なんでもないよ。あの人、同じ予備校の人らしくて声かけてくれただけだよ。それよりほら。行こ?」
結衣は八幡の腕を取り、有料エリアまで急ぐ。
結衣の異変には八幡はすぐに気づいていた。どう考えても先ほどの男に言われてから様子がおかしいのは明確だったからだ。
「待てよ、由比ヶ浜。」
八幡は引っ張られていたその腕で結衣の腕を掴み、止める。
「‥‥早く行こうよ、ヒッキー。」
「ダメだ。行けない。わけを話すまでは行かせられない。」
結衣は一向に八幡の顔を見ない。こちらに向けようとするが決して顔を見せようとはしない。ただ俯くのみだった。
「‥‥また模試で悪い点取っちゃったの。私、ちょっとはいい点数取れると思ってた。でも全然で‥‥」
八幡は結衣が涙声になっていることに気がついた。結衣の足元にはキラリと光る雫が落ちてゆく。
「そうか。でも模試は模試だろ。その日の調子もある。悪い点だからと言ってそれが全てじゃない。」
「でもそれを含めて実力でしょ。」
「だから実力を伸ばすために模試を分析して頑張るのが正しい模試活用術でな‥‥」
結衣の中で何かがちぎれる音がした。結衣は八幡に詰め寄り、叫ぶように口を開く。
「〝頑張る〟って一体何⁉︎私、頑張ってたよ!確かに自分でいうことじゃないかもしれない。でも周りの遊んでる浪人生よりも勉強してたはずなの!はずなのに‥‥」
違う。こんなこと言いたくないんじゃない。ただ楽しく好きな人と花火を見たいだけなのにどうして。自分が嫌いだ。こんな感情を抱いてしまう自分も、それを大好きな人ににぶつける自分も大っ嫌いだ。
「どうすればいいの!わかんないよ!浪人は今年だけで、今年どこも受かんなかったらと思うと夜も眠れなくて!いや!こんなのいやだよ‥‥頑張ってるのに!」
とめどなく溢れた感情は勢いが止まることなく、ドバドバと流れ続ける。ひたすらに八幡は黙っていた。あそこまで結衣が怒鳴るのをみたことがなかったから圧倒されてしまったのだ。
吐き出し終わった結衣は深呼吸をする。メイクも心もぐちゃぐちゃだ。
「‥‥ごめん。今日はもう帰るね。本当にごめん。」
「待て、家まで送」
「いらない。一人で帰れるから。」
八幡と結衣の間がどんどん遠ざかっていく。やがて、二人とも人混みの中に消えてゆく。
駅前。すれ違う人波は皆幸せを連れて歩く中、ひとり結衣は歩いた。
最悪だ。自分が本当に最低な女だ。自分を気にかけてくれる大好きな人に酷いことを八つ当たりした。多分、嫌われるだろう。そう思うと胸がちぎれそうになる。いっそのこと死んでしまいたいほどだ。
後ろから強い光が差し込んだ後、大きな音が響き渡る。結衣は音と光に紛れるよう、その場でうずくまり声をあげて、泣いた。今の彼女には赤や緑の菊の花びらはあまりにも眩しく、直視できなかった。