笠松運動公園付近での大規模発生より三日目。自衛隊による冷凍爆弾攻撃は継続され、なっとうは移動速度を落とし6号国道市毛十文字(※水戸市と旧勝田市との境)付近で停滞する。日の出と共になっとうは活動を始め、より有機物が密集する場所へ向かうため、攻撃は気温の上がる日中に行われた。夜間も、不測の事態を避けるため、監視は続けられた。その際、投光器による光刺激を避けるため、波長の長い赤色灯が照射された。まるで血の色に染まるかのように、なっとうの群体は浮かび上がっていた。
度重なる凍結によって、なっとうは僅かに体積を減少させたものの根絶には至らす、むしろ攻撃の度に次第に体積を増殖させていた。
「下江戸曲線?」
「……シグモイド曲線です。ある生物種が極端に増殖し過ぎると、生態系に負荷がかかり、自然にその個体数を減らしてしまう現象です。ところが、冷凍爆弾による攻撃で淘汰された個体はオートガミー(自家受精)を行い、凍結に適応した特性へと変異したようなのです」
「大戸神、ですか。なにやら罰当たりな神様のようで。つまり、みとなっとうは進化した、ということですね」
「安易に進化という用語を使いたくはないのですが……」
安井から連絡のないまま、二日が経過した。指揮権が自衛隊側に委譲されたため、県警本部に科学者等の専門家がサポートに入ることはない。波崎にとっては孤軍奮闘に近い境遇であった。
誰もがなっとうの群体はそのまま国道沿いに進行し続けると予測していた。直進すれば郊外型の店舗が建ち並ぶ国道50号と接する。なっとうにしてみれば垂涎の獲物に違いない。
18時間後。意外なことに、なっとうは国道バイパス水戸大橋の手前で、旧道にあたる勝田市枝川方面へと進路を変更したのだ。
安井にとっても、波崎や長野にとっても、そして対策を模索する自衛隊にとっても天佑であった。障害物が多い旧道方面ならば、進行速度は更に遅れる事となり、それだけ対策準備を整える時間的余裕を生み出せる。但し変針の際、那珂川堤防上に聳え立つ高級ホテル【水戸Pホテル】を巻き込み破壊する(※これが、後にPホテルが国道50号バイパス沿いに移築される理由の一つとなる)。
連日に亘る打合せで、意識が朦朧とする中、波崎は対策本部に貼られたなっとうの進行記録地図を眺めていた。
「なぜ、なっとうは水戸大橋に向かわなかったんだろう。枝川の方が住宅地が多いからか。いや、それほど住宅の密集状況は変わらない。ガソリンスタンドか? でも、もう進路上のスタンドはガソリンタンクを空っぽにしている。条件はむしろ悪いのに」
本道の水戸大橋と、なっとうが進路を変えた旧道とを比較して、双方に見られる明確な違いを探る。
「那珂川か」
水戸大橋は那珂川を跨いで架かっている。地図上で大きく湾曲し、まるでなっとうの進路を防ぐように流れていた。一方枝川方面の流路は若干先になる。
「東海村から日立市の間には久慈川があった。久慈川を越えられなかったから日立市方面に進まず、人口の少ない那珂町へ向かったのか。もしかしたら、なっとうは水が苦手なのかもしれない……」
波崎の独り言はそこで途切れた。差し入れ弁当を携えた長野が現れていた。藁の収集を始めなければならなかったからだ。
藁を満載したトラックが数十台走り去っていく。傍目には家畜の飼料としか見えないだろう。しかしそれとの決定的な違いは、藁を積んで疾走する車両が、迷彩色の軍用トラックである事だった。
「野木島さん、いったいあのトラックは何でしょう」
H新聞記者野木島は、新人カメラマン早峰一平(22歳)と共に、なっとうが進行する最前線地区に入り込み、まさに決死の取材を続けていた。進路上1km地点に異様なトラックの集団が停車したことは、すぐに野木島の関心を惹く対象となる。荷台から藁の搬出が開始される中、野木島達が駆け寄った。
「何ですか、この干し草は」
「干し草ではない。ここは既に危険区域に指定されている。いつなっとう流が来るとも限らない。直ぐさま退去しなさい」
居合わせた長野が、野木島を叱責する。怯むことなく食い下がり、野木島は執拗に質問を繰り返した。隠蔽する必要も無いため、野木島は作戦の全容を語り、煩わしい記者を引き剥がそうと試みた。
「――藁のバリケードでなっとうを防ぐ――そんなこと出来るんですか。だいいち、なっとうは有機物を消化してしまうのだし、藁だって有機物じゃないんですか」
「君らの相手をしている暇はない。ここをすぐ退去しない場合は、身柄を拘束することになる。いいですか」
野木島は肩を竦め、去っていった。そんな野木島の後ろ姿を見ながら、長野は改めて彼の言葉を繰り返していた。「そんなことが出来るんですか」。それは彼自身も抱いている疑念であったからだ。
皮肉なことに、バリケード設置のための藁の収集が遅れに遅れていた。長年に亘る減反政策で、収集できる稲が激減していた。農家の協力も得難かった。自衛隊の冷凍爆弾も、住宅密集地に接近するに伴い、攻撃頻度を落とさざるを得なかった。なっとうは水府町に至ろうとしている。鉄骨造りでアーチ構造をした水府橋を渡れば、水戸の市街は目と鼻の先である。
間に合わない。
誰もが絶望的な状況に打ち拉がれようしていたとき、再び奇跡は起こったのだ。
「なっとうが進路をまた変えた?!」
水府橋を渡ると思われたなっとうの群体は、再びその進路を変え、那珂川沿いに青柳町方面へと移動した。「なっとうは川を渡れない」。波崎の予想は的中した。だが楽観視することは出来なかった。
「このまま川沿いに行けば、太田街道(※国道345号線の通称)に架かる万代橋だ。整備されたばかりの橋脚幅は水戸大橋や水府橋より広い。なっとうの群体であっても充分な余裕で渡ることができる」
波崎は凍結と再生を繰り返す群体と、その先に架かる万代橋を代わる代わる見つめる。万代橋の先に、多角形のタワーがそびえる。市制100周年を記念して建築されたばかりの、水戸芸術館の全高100mのモニュメント。水戸市の新たな象徴目掛け、なっとうは進行を続けていた。
一方、二度に亘る迂回により、充分な時間を稼ぎ出した長野達県警対策本部班では、太田街道の那珂川対岸に、万代橋を中心に半径約50mの藁によるバリケード構築を完了させていた。藁は根本の部分で結束線(細い針金)によりブロックに固定され、各ブロックに10束、高さにして凡そ70cmの障壁が構築された。
しかし。
「しかし……」
長野は不安を拭うことはできなかった。
「自衛隊の投下した第22次冷凍爆弾攻撃は効力を失い、なっとうは時速約3kmで依然万代橋を移動中。市街地まで約20分。現在なっとうの体積、自衛隊測量班推定で380㎥とのことです」
「波崎さん、いよいよです」
「はい」
波崎も不安であった。文字通り「藁をも掴む」作戦である。いくら生き残った者の証言とは言え、科学的な信憑性を欠く。しかしそれを確認せず実行せざるを得ない現状に、大いなる矛盾を感じていた。加えて、未だに連絡のない恩師の動向も気がかりである。
「目標確認。全員待避」
琥珀色の津波が押し寄せてくる。恐怖は、相手の姿を大きく見せるものである。なっとうの群体は、彼らにとって日本列島全てを覆い尽くすかに見えていた。
藁のバリケードまで数百m。
数十m。
数m。
なっとうは留まる気配を見せなかった。