レベルMAXのユーリがエステルを守るお話   作:ニコっとテイルズ

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 例えば、「ある男が殺人事件を起こした」という記事を読んだ時に、「この男は、どんな生い立ちだったんだろう? どんな親だったのかな? どんな子供時代だったのかな? どんな食べ物が好きだったのかな? 恋人はいたのかな?」と10分くらい色々想像を巡らせてみる方が、大量のニュースを流し読みするよりも、独創性と言ったものが鍛えられるそうです。
 情報洪水に胃を痛めていた私はこれで大分気が楽になりました。何でも知って何も吟味しないだけの人間だったものでして。
 もっとも、今度は筆が進まないことに懊悩(おうのう)していましたが。オーノー!
 ……夏を涼しくしようとして白けさせるだけのバカは無視して、本編をどうぞ。


3.アイデンティティー

 どこまでもどこまでも続く真っ赤なお花畑。

 

 赤いお花の香しさをしっかりと受け止めながら、庭師は一人歩いていました。

 庭師の仕事場は、実は赤いお花畑ではありません。

 その先に場違いに咲いている、なのはなとたんぽぽの世話がお仕事なのです。

 使い古されたお皿、壊れた人形、赤く煌めく宝石、二つの清らかな水晶が、赤いお花の中に落ちているのをきちんと見届けた後に、庭師はこがねいろのおはなばたけに辿り着きました。

 

 きいろいおはなたちに囲まれたあと、庭師はふとお空を見上げます。

 そこには、まんまるなお月さまがありました。

 庭師は、改めて自分の分け入っているまっきいろなおはなばたけを見渡します。

 そこには、ところどころ綿毛のままのたんぽぽがありました。

 

 それを見て、庭師は今日のお仕事を決めました。

 たんぽぽの綿毛を全部刈り取ってしまおうと考えたのです。

 まんまるなお月さまに白い綿毛が届いてしまうのは、イヤだなと思ったからです。

 全部刈り取るのはなかなか骨が折れそうですが、一生懸命がんばるつもりです。

 

 紫の幕をもう一度左に回した時、今度こそ庭師のやることはなくなってしまいますから――

 

 

 

 

 

 

 

「むにゅう………………」

 

 白い太陽を浴び、白いシーツに包まりながら、エステルは目を醒ます。

 隣からはユーリの体温を感じない。残り香はいっぱい感じるが。

 いい匂いが下から漂ってくるから、朝食の準備でもしているのだろう。

 開きっぱなしのドアの先を、エステルは睨み付けていた。

 

「~~~~~~!!!」

 

 不意に昨晩のことを思い出して、エステルはシーツをガバっと頭から被る。

 ほのかに染み込むユーリの香りが鼻腔をくすぐるが、それよりも反射的な防衛機制の方に身を任せた。

 教師からよく褒められた物覚えの良すぎる頭脳が今は恨めしい。

 昨日の情事が、高性能なパノラマとして展開され、鮮烈に、繰り返し、再生産されてしまうではないか。

 その度に、エステルは足をバタバタさせた。

 

 

 

 ―――第一線は越えなかった。

 

 ただ、それだけだった。つまり、それ以外の全てはやられたということだ。

 素肌という素肌は、全て隈なく隙間なく触られた。

 

 髪も、胸も、背中も、お腹も、脚も、お尻も!!!

 

 お城に報告すれば、ユーリは軽く極刑になるだろう。

 いや、たぶん逃げるんだろうけど、少なくとも帝都にはいられなくなるだろう。

 

 でも。

 そんなことはどうでもいい。

 ……そんなことはしないのだから。……命の恩人だからというだけでなく。

 

 それよりも何よりも。

 

 気持ち良かった。

 

 口の中を強烈に蹂躙されたり。

 人並みの大きさはあると思いたい胸を、絶妙な強さで揉まれたり。

 クルっとひっくり返されてお尻をマッサージのように愛撫されたり。

 まるで確認しなければ自分が消えてしまうかのように、何度も何度も全身で巻き付いてきたリ。

 

 と、エステルの精神を苛む羞恥のフラッシュバックは別にしても。

 

 エステルは、人の肌に触れることそれ自体がたまらなく嬉しかった。

 

 ……思えば、わたしは孤独だった。

 幼き頃に両親を亡くして以来、傅いて接してくる人間ばかりで誰一人として正面からわたしを見てくれる人は存在しなかった。

 剣の師匠(せんせい)は、一応身分の別を問わず厳格に指導してくれたが、だからといって身体的な接触というご法度なことをするはずもない。

 成長期、というよりは時間潰しの連続で熱を持って剣や治癒術や読書に打ち込めたのは、わたし自身の嗜好というよりも、どちらかと言えば寂しさの埋め合わせのためだったのかもしれない。

 人との接触の極端な制限は、何よりも愛情を齎してくれる人間の枯渇を意味していた。恋人とまではいかなくとも、気軽に話し相手になる友達すら、わたしにはいなかったのであるから。

 

 そこにユーリが来た。

 長年、自分でも忘れるほどの年月が押し込めていたわたしの人に対する飢えを浮かび上がらせ、即座にその空虚を充足してくれた。

 およその人間が尻込みをする、皇女という高貴に余り過ぎる身分を度外視して(ちょっとし過ぎなような気もするけど)、直に身体と身体で触れ合ってきてくれた。

 そして……本当に愛情を注ぎ込んできてくれた。もっとも直接的なコトはまだにせよ。

 男と女が一方だけでは不完全であるという創世記の神話以前に、わたしは単純な肉体的接触のできる人間を潜在的に望んでいたに違いない。

 そう考えると、ユーリは、天からの恵みのように思えた。……やってたことは、ケルベロスに近かったような気もするが。

 

 まあ、自分のことはともかく。

 

(ユーリ……かわいかったなぁ……)

 

 一心に自分に無心してくるユーリというのも、段々かわいらしく見えてきた。

 愛撫されている時は、身体が溶解するんじゃないかと気が気でなかったけど、人心地付いて身体の力が抜けきって眠っているユーリの寝顔を見ると、オオカミの様相が消失していたのだ。

 オオカミが犬に変わる。

 頭の中でそう切り替わった時、わたしを捕縛している両腕が、途端にじゃれる子犬の肢に変化するものだから不思議なものである。

 自分がユーリに救済を与えているような天使に変化した気分になった。

 だから―――

 

「おーい、エステル。そろそろ起きて手伝ってくれ」

 

 階下からユーリの声が響く。

 その声を聞いて、エステルは胸の中に、昨日まではなかった確固たるものができていることに気が付いた。

 

「はーい。今行きます!」

 

 シーツから這い出ながら、快活に返したエステルは、それに対して“アイデンティティー”という言葉を宛てた。

 

 

 

 

 

 

 

「あの赤いヤツを探しに行く?」

「はい。やっぱり、このままではいけないと思います」

 

 決然とエステルは、ユーリに告げた。

 ユーリの作ったオムライスを食べている時の話である。

 とろっとした黄色い卵液を残したまま、ふわっとした黄色い毛布で赤いチキンライスを包み込んでいる。

 崩すのが惜しまれるほどの均一の取れた芸術性を偲びながら、エステルがオムライスにスプーンで割き、一口頬張った。

 ケチャップと香辛料でやや濃い目に味付けられたチキンライスが、ふわとろの卵によって程よく薄められている。

 チキンをアクセントに、卵とライスの混合した食感も、お城で出されたオムライスよりも上等であった。

 皿出しと、仕上げのケチャップをかけただけの自分が食すのが申し訳なくなるほどだ。

 オムライスのあまりの美味しさに、エステルは、朝からユーリに吞み込まれそうになる。

 

 しかし、今日は違う。 

 エステルは、あの怪鳥がなぜ自分を襲ったのか、それを知らなければならないと思った。

 無論、いつまた襲われるかわからないからでもあり、言葉を話せるというならば意思の疎通ができると考えたからでもある。

 自分の命はもとより、護衛をしてくれるというユーリの命をこれ以上徒に危険にさらしたくないという、人としての思い遣りがその気持ちを支えている。

 

 ただ……奇妙な話ではあるが、決め手になったのは、ユーリが本当に自分のことが好きだということを体現してくれたことである。

 未だかつて想像もしたことのないほど直接的に自分への好意を向けられたことで、エステルは、じんわりとした温かみのある安心感に内包されていた。

 それは、この人なら、絶対に自分を守ってくれるという信頼でもあるし、自分を孤独にしないという確信でもある。

 しかし、その安心感に縋ろうとすると、どういうわけか外に目が向いてしまうのだ。

 何というか、この人がいるから絶対に帰って来られる場所がある。この人がいるからどんなことにも挑戦できる。

 愛情に包まれて育った家庭の子供に積極性が沸いてくるのと同じように、エステルは無条件にユーリを信頼でき、そしてあの怪鳥を探しに行こうと決意できたのであった。

 

 自分の気持ちの因果をすべて言語化できたわけではない。

 しかし己の気持ちの齎す果実を、エステルは確実に享受する。なので、ユーリに対して自分でも驚くほど芯の通った声で、要望を切り出すことができた。

 

「………………」

 

 ユーリは、言葉の代わりに、試金石の双眸でエステルの瞳を覗き込む。

 昨日の少年のような無垢な瞳とも、オオカミのような野生の瞳とも異なる黒曜石の耀きに、エステルはやや戸惑う。

 それは、瞳の色の多様性についてではない。

 

 窺うような視線に見つめられて浮かんできた言葉が、なぜか「トートロジー」だったからである。

 確かに、ユーリに支えられて出てきたエステルの言葉で、ユーリに対して願望を伝えるのは、遠回しな自問自答をさせていると言えなくもないかもしれない。

 しかしながら、かの主張と理由の無意味な逆転を意味する概念が、この場の状況を捉えるものとしては相応しくないように思われる。

 そもそも全くもって自問自答の形式だったとしても、論理の無意味な混ぜ返しをするようなものではないのだ。

 

 しかし、それなのに、「トートロジー」という言葉が頭から離れない。

 ユーリから送られる視線から、そんな概念を贈られたと感じる自分に、エステルが内心首を傾げていると、

 

「……ま、自分の命が意味わかんねぇで狙われるのも気持ちわりぃからな」

 

 しばらくエステルの翠色の双球を覗き込んだ後、ユーリはあっさりと頷く。ついでに、「トートロジー」という用語も雲散霧消する。

 はて、今の今までなぜそんなことを思っていたのか。拍子抜けなほどあっという間に埒外へと飛んで行った。

 しかし、消え去った単語のことはとりあえず傍にやり、ユーリに意識を戻すことにする。

 耳朶を打ったユーリの声色は僅かに弾んでいるように思われた。

 咎めの色は一切なく、むしろ満足げな色が滲み出ているのである。

 

「……いいんです?」

 

 怪鳥を探しに行っても良いのかと、咎めも何もなくて良いのか、と二重の意味をエステルは込めたが、

 

 

 

「ああ。絶対オレが守ってやるから、大丈夫だ」

 

 

 

 

「……っ!! ゴホゴホッ!!」

 

 その言葉で。

 エステルは、また大ダメージを受けた。

 きちんと小さく噛んでからものを飲み込むという、皇族としてのマナーが染みついているエステルが、食事中に咽(むせ)るのは初めてであった。

 しばらくエステルは俯き、なるべく小さくなりながら咳に集中する。

 口の中にものが入っていなくてよかった。色んな意味で、醜態は晒したくない。

 言葉の衝撃をある程度咳に乗せて逃がした後、エステルは、

 

「そ、そんな恥ずかしいこと言わないでください……!」

 

 ユーリを一生懸命にらみながら、頑張って言った。

 昨日は、赤面したままノックアウトされたのであるから、少し成長したと言ってもいいだろう。

 しかし、

 

「わりぃわりい。エステルが可愛いからな」

 

 ガタンッ! と、エステルは顔をテーブルに打ち付けた。

 オムライスのお皿とお茶の入った湯呑みを避けられたのは、全く僥倖なことであった。

 要するに、ユーリには、いっさい自分の言葉が届いていないことを、テーブルに伏せながらエステルは思い知らされる。

 ついでに、自分の中に芽生えたと思った確固たる芯というのが、どれだけ脆弱であるかということも。

 さっきベッドでユーリに対してかわいい、という感想を自分も持ったことなどすっかり忘れてしまっていた。

 

 ユーリは、エステルが初めて淹れてくれたかお茶を美味しそうに啜りながら、オムライスを食べ続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ユーリという人は、役割分担をしてくれる人である。

 それが、料理でも、買い物でも、掃除でも。

 そして―――戦闘でも。

 

「オレ一人だと万が一って時があるから、自衛できるようになってもらうぞ。

 ……でも、心配すんな。いざって時は、駆けつけるからよ」

 

 この一言で、エステルは、いつでも寄りかかれる壁が生まれた感じがした。

 そして、真骨頂は、壁にいつでも頼れ、いつでも離れられる権利があるという安心感が齎されたということだ。

 お城の中で皇女という立場だと、どうしても他人が自分を世話をしようとする。

 お茶くみであろうと、不注意でスプーンを落とした時であろうと、必ず執事なり侍女なりが駆けつけるのだ。

 剣や魔術を習っても、所詮それらは獲得行為。自らが生産しているだとか貢献しているという充足感は生まれない。

 元来世話好きのエステルにとって、それはなかなかに苦痛であった。

 

 ところが、ユーリは必ず何かしらの役割を与えてくれる。

 そうされることで、エステルは自分の居場所ができる感じがした。

 しかも、まだまだ不慣れで戸惑うことの多い自分にも呆れることなく、ぶっきらぼうな口ぶりではあるが押しつけがましくなく教えてくれる。

 「注ぎ始めは薄くて、後になるほど濃くなるから、お茶の濃さが平均するように注ぐんだよ。ほれ、こういう風に」と、お茶汲みのコツを実演してくれたり。

 そして、一回教えたら後は完全にエステルに委ねてくれる。夕食で失敗したお茶汲みも、朝食ではきちんとできるようになって褒めてくれた。

 バッタリと伏せているエステルであっても、確かにユーリの言葉は届いたのである。

 

 こうした面からみても、自分の存在意義を燈されたような気がして、エステルはますますユーリの虜になっていた。

 単に「守る」というならば、それこそユーリがすべてお世話すればよいのかもしれない。それだけの力がユーリには間違いなくあるだろう。

 しかし、「ユーリがエステルを守っている」となれば、また話は変わってくる。

 つまり、それは身体的という意味だけでなく、精神的にも満足させながら「守る」ということだ。そっちの方がエステルにとっては嬉しい。傅かれるのに内心辟易していたのであるから。

 エステルの目に映るユーリは、強引に自分に存在を植えつけ、しかし丁寧に「個」を尊重してくれる、今までにないタイプの人間で、しかし理想的な人間であったのである。

 

 だから――

 

「それっ!」

 

 鋭い刃のような双葉で攻撃してくる狂暴なモンスターのプチプリを、エステルは淀みない剣裁きで冷静に仕留め、

 

「よくやったな、エステル」

 

 目を細めながら称賛し、軽く手を掲げるユーリに、

 

「やりました!」

 

 エステルは、ほんの少し頬を赤らめながら、しかし誤魔化すように飛び跳ねてバシンとその手を叩いた。

 

「ははっ……んじゃ、行くか」

「はいっ!」

 

 身体の内と外から精力を供給してくれる青年にエステルがついて行かない理由はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「え? デイドン砦に行くんじゃないんです?」

「ああ。今の季節は平原の主とやらのせいで封鎖されているからな」

 

 ユーリの自宅で文献を検めて、エステルが御伽話の中から砂漠に住まう言葉を話す怪鳥についての情報を引っ張り出し、二人はまずコゴール砂漠を目指すことになった。

 コゴール砂漠に行くには、船に乗る必要がある。とはいえ、帝都から出航する船に乗ると、エステルの正体が露見する可能性があった。

 なので二人はカプワ・ノールという海港からコゴール砂漠のあるデズエール大陸行の定時連絡船に乗ることにしたのである。

 

 そして、その道中、本来ならばデイドン砦を抜けて進む予定であったのだが、ユーリによるとそれができないらしい。

 

「困りましたね。他に道はないのでしょうか?」

「デイドン砦に行く街道から逸れて西側のクオイの森を抜ければ、ハルルには着く」

 

 花の街ハルル。そこで咲き誇る満開の桜は、エステルが長年夢想していた場所であるが、

 

「クオイの森って……呪いがその身に降りかかるっていううわさですけど……」

 

 今はそちらよりも、目下の呪いの森に対する慄きが勝っていた。

 

「大丈夫だって。何度も通ったことあるけど、んなもんなかったからな」

 

 振り向きざまにユーリは、相変わらずの芯の通った声でエステルを安心させる。

 ちなみに、ユーリは上から下まで黒衣を纏っているが、下はともかく上は軽く上着を羽織っているという様相であり、大きく胸元が開いていた。

 その胸元から男性ホルモンが漂ってくる感じがして、ユーリの顔を見る前に大胸筋がチラついてしまうのが、うら若き乙女の悪い癖である。

 高鳴る動悸を歪曲すべく、エステルは話題を転換する。

 

「そ、そうなんですか。それにしても、ユーリは結界の外のことをよくご存知ですね」

 

 若干声が上擦ったという失策を、恐らくユーリは聞き逃さなかっただろう。

 しかし、ユーリは何とも言えない表情を浮かべながらも、淡々と質問にだけ集中した。

 

「……ま、何度も旅に出りゃ、嫌でも詳しくなるさ」

「うらやましいな……わたし、そんな機会なかったから……どのぐらい旅に出たことがあるんです?」

「さあな。数えるのも虚しくなるくれぇかな」

「……?」

 

 ユーリは明後日の方向を見遣った。

 『虚しい』という呟きに籠められた感情の強さに、エステルは首を傾げる。

 

「ま、いつか話すことになるだろうが、今はとっとと先に進むぞ」

「……そうですね。でも、無理に話さなくてもいいですよ?」

 

 エステルは、人間観察が得意である。とりわけ心の中を席巻する人間に対してはなおさら敏感になれる。

 昨日は羞恥が塗りつぶした得意技も、地に足がつき心が充足している今日は、ますます鋭敏になっていた。

 なので、自然と慮(おもんぱか)る気遣いができるのであるが、

 

「いや……話さなければならねぇ時が来るから、そん時まで待っててくれ」

「ユーリ……」

 

 ほんの少しだけ、目の前の男のイメージ像がグラついた。

 陰に包み込まれた言葉を濾過した時、僅かな怯えの色がくっきりとエステルの耳に残存したのである。

 

 この何でもできる人にいったい何があったのか?

 比類なき剣技を披露し、全て一撃で魔物を仕留める男が怯えるようなことが過去の旅にはあったということか?

 そこまでの事態とはいったい……?

 

「……じゃ、取り敢えずクオイの森に行くぞ。今日中にハルルには着きてぇからな」

「はい……」

 

 意外なことに、ユーリは疲労の調子を隠すようなことはしなかった。

 はっきりとは言えないが、なんとなくユーリのような人は己の感情をなるべく他人には晒さないように思えたので、エステルはけっこう驚いた。

 

 無言で歩む黒衣の背中に、エステルも黙ってついて行く。

 

 昨日ユーリを完璧な人間だと勝手に評して気後れを感じたが、どうやら修正する必要がありそうだ。

 自らの守護役が弱さを見せることは、本来望ましいことではないかもしれない。

 しかしながら、エステルにとっては、その弱さこそが、ユーリと自分を真に繋げる橋架のように思われた。

 完璧な人間などいない。誰もが救いを求めている。

 やたらと自分を求めてくるのにも、のっぴきならない事情があるからかもしれない。

 そう思ったエステルは、自分が橋を渡り、ユーリの心の穴を埋め合わせてみよう、と。

 元来の優しさから、そんな想いが芽生え始めたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 ――選ばなかった道の先

 

 

 

「ああ……許しておくれ、こんなバカな母親を……」

 

 涙を流しながら嘆く女性は、ほんの数刻前に下してしまった反射的な決意を悔悟する。

 

 娘を見捨てたのだ。後ろから迫る巨大な猪の魔物の群れの地響きに慄いて。

 確かにむずがる子供であった。行商の最中に何度手を焼いたかわからない。

 けれども、何も見捨てることはなかったではないか。

 まだ幼くて、大のおとなだって震え上がる“平原の主”と呼ばれる魔物の集団に、子供が動けなくなるのは当然のことではないか。

 

 それなのに、この馬鹿な親ときたら!

 

 足が竦んで、クマのぬいぐるみだけを抱きかかえて地面に伏せてしまった子を。

 自らが腹を痛めて生んだ子を。

 そして、その無邪気な笑顔に何度救われたかわからない子を!

 

 どうして、いつもの調子で「もう知らない! 勝手にすればいいわ!」などとほざいて見捨ててしまったのか!

 

 慌てて我に帰った時には、もう遅い。

 既に猪の群れが視界に入っている。この距離だと、デイドン砦の門から出て救出することなどもうできない。

 今助けに走ったところで、被害者が余計に増えるだけだろう。

 だから、助けに行くべきではない。

 母親は、そう思いつつ、しかしそんな打算的な思考に陥ってしまう自分に対して吐き気を催すほど嫌悪感が沸いた。

 

 振り返れない。振り返る勇気も出ない。

 自分を求めて、ぬいぐるみを抱いて助けを求めている我が子の最期をどうして見ることができようか。

 

 珍しいことではない。

 旅仲間の商人だって、道中で魔物に襲われて大人だろうが子供だろうが何人も失ったのだ。今回は自分の出番が来たということ。

 どう言葉をかけるべきかわからないという無言の慰めを受ける番が、とうとう自分に回って来た。ただ、それだけのことである。

 だから――

 

 母親はかぶりを振る。

 どうしてこうも自己憐憫の言葉だけが胸の中で謳われるのか。

 どうして娘の絶望と断末摩に思いを馳せられないのか。

 どうしてこうも自分は身勝手なのか。

 

 母親は、自らに忸怩たる思いを抱いていた。

 

 もっとも。

 

 結局のところそんな思いを抱こうが抱くまいが関係ないことをすぐに悟ることになった。

 

 

 

「……!? ちょっと、なんで門が閉まらないのよ!?」

「わかりません!! くそっ! アイツら、もうすぐ来るってのに!! くそっ! くそぉっ!!!」

 

 ギリギリまでデイドン砦に退避してくる人たちを迎え入れようとし、結局全員の救出が叶わないと決断した女性が狼狽する。

 門番役の騎士が、閉門のために魔導器を操作しているのであるが、どうにも門の降下が途中で止まってしまうのだ。

 

 猪の魔物が轟かせる強烈な地鳴りは、もう既におどろおどろしい跫音(きょうおん)へと変わっている。

 今すぐにでも門が閉まらなければ、間違いなくデイドン砦にいる人間が巻き込まれるというのに!

 

「くそっ!! くそっ!! くそぉぉぉぉぉっ!!!」

 

 騎士は狂乱のあまり涙を流しながら作業しているが、しかし魔導器は言うことを聞いてくれない。

 デイドン砦に辿り着けなかった子供や男の、聞きたくもない最期の悲鳴が鼓膜に突き刺さっているというのに!

 どうしても門が閉まらない!!! 

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」

 

 強烈な衝撃を感じた時には、もう最期であった。

 

 

 

「ああ……」

 

 母親には、目前に迫る猪の群れが、天からの救済のように見えた。

 娘を見捨てた罪悪感の炎に焼かれて現世で獄殺されるよりも、こうして娘と同じやり方で一思いに殺された方が何十倍も慰めになる。

 

 今、私もそっちに逝くからね――

 

 晴れやかな笑顔のまま猪の鼻息を感じ取った母親は、安らかな死を享受する。

 

 

 

 

「なんてこと……」

 

 閉門の指示のために砦の門の上にいた女性――メアリー・カウフマンは、目を見開きながら“平原の主”に蹂躙されるデイドン砦の惨状を見届けた。

 魔物狩り専門のギルドと騎士たちが応戦しているが、いかんせん多勢に無勢。

 砦を覆いつくしている猪の魔物が、この先の帝都をも囲ってしまうのではないかと心配するのがもっともな数であった。

 

(生き残ったらどんな商売をしようかしらね。グミの流通量増加? それとも火炎属性付与の武器の流通増加かしら?)

 

 幸福の市場(ギルド・ド・マルシェ)の社長メアリー・カウフマンは、身についてしまった商人の思考で、この現実からの逃避をはかった。

 

 

 

 

 

 

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