レベルMAXのユーリがエステルを守るお話   作:ニコっとテイルズ

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 おお、まだこの作品が消されていないとは……加減を知らない作者なので、客観性と言うのが欠如していないか心配でした。とても。読者様の価値観の多様性を尊重する寛容さにも最大限の感謝を。

 ところで、いつも思うのですが、好きなキャラと嫌いなキャラのはっきりしている人が羨ましいな、と感じます。それだけその人の感受性が豊かということなので。
 何というか、私は物語の中のキャラクターを見ても、「ああ、コイツはこういう役割のキャラなのね」と見做してしまって、滅多なことがない限り好き嫌いができないんですよね。
 つまり、ストーリー上、この人は主人公、その人は説明役、あいつは悪役……などと解釈して、キャラの個性を度外視してしまう癖があり、せいぜいあの悪役を演じている役者さん楽しそうだなくらいにしか思えないのです。
 それでキャラクターになかなか感情移入もできないし、しかもあんまり物語にものめり込めない――ザ・不感症を患っているわけであります。
 二次創作を書くようになってからは輪をかけて悪化の一途を辿ってます。昔はまだ感動できたことが、今はこういう舞台装置なのねくらいにしか思えません。因果なことです。
 こんな作者の書いた作品でもお読みになってくれる読者様には、頭が上がりません。本当に。

 とはいえ、全員が全員を機械的に解釈しているわけではなく、ごくごく稀に琴線に触れた、いわゆる個人的な「萌えっ子キャラ」はこうして書き出して主人公格に据えています。
 でも、好きなキャラにはイタズラしたくなるという、小学5年生の思考の持ち主なので、極端な美化にはなっていない……はず、です。たぶん。
 ま、メアリー・スー系のキャラは、持っている哲学が単純になり過ぎて面白い物語を構成できないので、恐らく私には書けないと思いますが。
 ……すみませんね、いつもいつも前書き・後書きで遊んで。



6.強さと弱さ

 ヘルメスは、片足からの疼痛(とうつう)の電気信号を歯痒く感じながら、ようやく地平線の彼方に出てきた学術都市アスピオを見遣った。

 もうすぐ着くはずなのに、足が健常ならば何の徒労もない道中なのに……今は空へ駆け上らねばならないかのようにあまりにも遠く感じる。

 ほとんど右足を引き摺るように歩いているヘルメスにとって、アスピオに辿り着くか、それとも道中の魔物に殺られるか――ほとんど五分五分と言ってもよい状況であった。

 

 ハルルの街に止宿し、旅立った矢先のことである。

 ヘルメスは街道の分かれ道を間違え、アスピオではなく、デイドン砦の方角へと足を進めてしまっていた。

 ヘルメスは、人間とは異なる進化を遂げたクリティア族であり、自分の種族の特徴であるのんびりとした性格も例に洩れず引き継いでしまっている。

 なので、後先考えずに進んで行き、道に迷うことは割と頻繁にあることではあった。

 そして、今回も途中で道の間違いに気付くには気付けたが……その気付き方が考えうる限りで最悪であった。

 

 デイドン砦を襲撃し、いつものように失敗に終わって退却している最中の、“平原の主”の群れに出くわしてしまったのである。

 

 夥しい数の、イノシシの魔物であるサイノッサスと、“平原の主”こと、二階建ての建物を優に超えそうな巨体のブルータル。

 しかも、襲撃の興奮冷めやらぬどころか、獲物の人間を確保できずに怒り心頭状態の一派。

 ヘルメスとて、魔物の跋扈する結界の外を一人で自信をもって歩けるだけのことはあり、槍術も魔術も熟練の域に達している。ただの魔物の群れに負けるほど弱くはない。

 しかし、今回は相手が悪すぎた。眼前に聳(そび)えるギガントモンスター一味をたった一人で退けられるほどの自信は毛頭、ない。

 

 だから、すぐに逃げの一手に打って出た。

 

 それは、間違いではなかった。

 背後を見せて走れば、野生動物はより興奮して襲って来ると言うが、人間をエサとする魔物たちは逃げようが逃げまいがこちらに来襲してくることは、火を見るより明らかなことなのであるから。

 ただ――ブルータルの強烈な突進を避けた時に、その頭上の耳から生え出て口元まで垂れた、獲物を貫くためだけに発達したような角が――ヘルメスの脹脛(ふくらはぎ)に致命的な裂傷を与えてしまっていた。

 

 沸き立つ痛みを、アドレナリンの興奮作用が鎮めてくれたおかげで、猪突猛進しか能のないイノシシの魔物たちの間を蜿蜒(えんえん)と移動することで凌ぐことには成功した。

 なので、あの場では何とか魔物たちの餌食になることは回避できたのだが……昂る神経が収まった後は、脹脛(ふくらはぎ)が引っ切り無しに灼熱の痛みを主張してしまっていた。

 ヘルメスは治癒術を使えない。魔術や魔導器の研究には群を抜いて才能があったし、白兵戦も苦手ではなかったが……治癒術だけは、どうにも適性がなかったのである。

 簡単な傷の処置では、生憎と痛みの信号を抑えてはくれない。だから、生き残るには、運よく魔物に当たらないことを祈りながら片足を引き摺るしかなかった。

  

 もうすぐだ。もうすぐ、アスピオに着く。

 そうすれば……何とか命を繋げられる。

 

 そんな一縷の望みで身体を鞭撻し、歯を砕く勢いで噛みしめて強引に足を稼働させ、ようやっとアスピオを捉えてきたのであるが――

 

「ああ、これは……」

 

 ヘルメスはこの時ほど、人間やクリティア族にだけ知恵があればいい、他の動物には欠片も必要もないものだと思ったことはない。

 今度は、ガットゥーゾ――爪に毒があり、俊敏さはどんな魔物よりも優れているオオカミの魔物――に出遭ってしまった。しかも、ガットゥーゾ・ピコという仔連れの状態で。

 どうやら仔と共に、アスピオの前に立ち塞がるように陣を張っていたようである。

 

 目が合った以上、見逃すはずもない。

 あの素早い突進を掻い潜って魔術を詠唱する時間を確保できるはずもない。

 踏ん張りの効かない足で槍を振るっても、物干し竿で撲(なぐ)るのと同じこと。

 仮に槍で貫通させて親を絶命させたとしても、回り込んでくるであろう仔にまで対処することなど到底不可能なことであった。

 ヘルメスの聡明にして高速回転し過ぎる頭脳は、あっという間に絶望という答えを弾き出してしまう。

 

 その解答に従い、ヘルメスは槍を抜くこともなく、詠唱することもなく、生き残ることをあっさりと諦めた。奇跡を願うたちでは元々ない。

 そして、残された時間を抵抗ではなく懐古に耽ることに使うことにする。

 

「ごめんよ、ジュディス……」

 

 迫り来るガットゥーゾたちの鼻息荒い疾走音を、懐から取り出したペンダントを開けて見詰めることで知覚を屈曲させ遮った。

 肖像画に写っているのは、生まれたばかりのあどけない娘の姿。出産によって、愛する妻は間もなく死んでしまったが、その悲哀を幼少の娘に何度癒されたかわからない。

 クリティア族特有の尖った耳は生まれたてながらも立派であるが、まだまだ頭から伸びる触角は小さい。

 娘を預けての今回の旅は、自分の開発した魔動器の危険性を否定したくて、人間の英知を借りようとアスピオを目指したわけであるが――どうやら、叶いそうもない。

 あまりにも出来の良い魔導器の開発に興奮して自らの名前を冠してしまったが、それが名誉となるか汚名となるか――それを決めるのは自分ではないらしい。

 

 ガットゥーゾたちが近づいて来た。

 生温かさが感じられるほどまで接近されると反射的に対面しようとしてしまうのは、本分ではないとはいえ一応流れている戦士の血潮ゆえんか。

 しかし――危機に直面したとき特有の、緩々(かんかん)と流れる視界は、迫り来る魔物ではなく――なぜか未知の街のアスピオの方にピントを合わせていた。

 

 常闇の街と評判が悪いが、だからこそ面白いではないかと、旅の目的とは別に悪評を断ち切って心を躍らせながら目指した街。

 今度はどんな出会いがあるのだろうかとワクワクしながら歩いた日々。

 焦燥した目的とは別に、身勝手ながらも漠然とした憧憬の念をアスピオに抱いていたのであった。

 

 愛娘よりも次に向かう街のことを人生の最後に思い浮かべるとは――最期に考えることなど分からぬものだ。

 

 

 

 ――自分への皮肉の籠った微笑みを浮かべたヘルメスの最後の思考を、誰も記録することはなかった。

 

 

 

 

 

 

「よろしいのですか、ジュディス」

「ええ。私は躊躇わないわ」

「………………」

 

 強風吹き荒ぶ空中。曇天の空の内容物が仮借のない霹靂であることを心得られる者こそが、世界の剥き出しの真実を凝望(ぎょうぼう)する権利を獲得できる。

 色彩豊かな羽根で舞う、茜色の巨鳥のようなドラゴンが、傍らに並んで飛行している青い鯨のようなドラゴンに乗っているクリティア族の女性――ジュディスに問いかける。  

 そして、何度目かわからない決然とした回答に、諦念の溜息をこぼす。もっとも、ジュディスの表情自体は、真っ白なフルフェイスの仮面によって、クリティア族特有の長い触角も突起のような耳朶とともに隠されていて窺えないが。

 それでも、巨鳥の姿をしたドラゴンは、彼女に業苦を背負わせたくない想いから、無駄と悟りながらも説得を試みる。

 

「よいですか。あなたは、本来背負う必要のない、父親が作ってしまった悪魔の魔導器の破壊を手伝ってくれている。

それだけでも、十分以上に助かっているのに……「クローム」……何でしょうか?」

 

 仮面越しのくぐもった声にさえ滲み出る意志の強さから、茜色のドラゴン――クロ-ムは己の試みの失敗を瞬時に突き付けられた。

 

「ありがとう」

「………………」

 

 そのうえ、こちらの想いを汲み取り、感謝までされてしまっては、もはや取り付く島もない。

 ジュディスが逡巡したのは、件の話が出てきた瞬間だけ。

 その逡巡さえも、すぐに懐からペンダントを取り出し、数秒見詰めただけで打ち消してしまっていた。

 世界の秩序を守るクロームたち始祖の隷長(エンテレケイア)でさえ、人間への情に比例して困惑し、紛糾したというのに――よりにもよって人間に近いクリティア族のジュディスがいの一番に了承するとは思いもしなかった。

 

 事態はそこまで切迫していた。

 もはや、世界は爆弾を抱えていると言っても良い。

 しかも、その爆弾は善意で爆発する可能性がある分、余計にたちが悪い。

 世界の存亡が、ひとりの人間の気持ち一つで変わってしまう状態なのである。

 一人の愛する男を除いて人間の信頼していないクロームとて了承したくはなかったが、合理と倫理の天秤にかけるとどうしても――無辜の人間の殺害に同意せざるを得なかった。

 

 世界を乱すような邪な人間を殺害したことはここ数百年で何度もある。

 しかし、世界の一員である人間のむやみやたらな殺害をしたことなどないし、まして穢れも何も知らない人間の殺害など――全くもって初めてのことであった。

 

 人間などよりも遥かに長い時間生きてきた自分でさえ今なお胸中の蟠(わだかま)りが消失しないというのに――

 人間で言うところの成人にすら達していない女性が、こうもあっさりと同意してしまうとは――それだけジュディスの、父親の罪滅ぼしから発展した世界を愛する気持ちが強いのだろう。

 

 クロームは、それを見習うつもりはない。先達として達観するような態度を取るつもりもない。

 

 ただ――全ての事実を見詰め、全ての罪を背負い、始祖の隷長(エンテレケイア)としてこれからも世界の存続に邁進するだけである。

 

 

 

 

 

 

 港街に出るためには、エフミドの丘を越えなければならない。

 

 ユーリとエステルは、早朝に昨日拵えた大樹の前の共同墓地で祈りを捧げ、慰霊をしてから、ハルルの街を発った。

 そして、西に延びる街道を辿って間もなく、エフミドの丘に到着した。

 

 エフミドの丘とわざわざ名前がつけられているが、雑草を刈り取り土を踏み固められてできた街道の一部と言っても差し支えない。

 ただ、帝都と港街の交通の便を良くするため、また丘の近辺での魔物の襲撃を防ぐために、街でもないのに最近結界魔導器(シルトブラスティア)が設置されたのが特徴と言えば特徴である。

 そのお陰で、丘周辺に差し掛かったところからエステルは魔物への警戒を緩め、前方を歩むユーリを――心持ち昨日よりも距離を取って――考察することができた。

 

 相変わらず自分を抱き枕にして就眠するユーリ。

 男という臥所(ふしど)の温もりと快然に、もはや自分が丸ごと呑み込まれそうになっている……のはともかく。

 今朝、自分とユーリの最大の違いに気付けたのである。

 

 それは、羞恥心の違い。

 

 エステルは、人に慣れていないということもあり、男と肉体的接触をするということが恥ずかしくて堪らない。

 キスされ、触られ、抱きつかれ……そんな、十数年全く受けたことのない未知の刺激の連続は、毎夜エステルを爆発しそうになるほど燃え滾らせている。

 ……だというのに。

 ユーリときたら常に素面(しらふ)のまま、臆面も何もなく、ひたすら自分に対して迫ってくるのである。

 まるで自分が酩酊はおろか赤面させるにも度数の低すぎる、甘ったるいジュースのような果実酒に過ぎず、それ故、適当に遊ぶための玩具に過ぎないのではないかと懸念するほどに。

 

 ただ、決してそうではないことをエステルは知っている。いや、知らざるを得ないというべきか。

 ユーリは、エステルを――どういう形であれベッドに引き摺り込んでから、本当に一瞬間たりともエステルを逃がすまいとするからである。

 まぁ、さすがに寝返りを打つ時にまでご相伴を預かるのは、エステルとしても遠慮したい気分であったが……とにもかくもユーリが自分を一時凌ぎの放蕩の戯具(ぎぐ)と見做していると言うには、あまりにもその執着の度合いが強すぎた。

 

 なので、ユーリは、自分のことを本当に大切に思っていて、なおかつ自分とあれこれすることに一切の臆面を感じないという……何だかむず痒くもよくわからない状態なのである。

 

 ユーリ自身が仄めかしているように、必ず何かしら自分との接点があるはずなのだが……エステルにはとんと思い当たる節がない。

 仮初めにもお姫さまである自分によくもまぁここまでできるものだ、と感心するのが一番楽な結論への帰着である。

 イケメン高身長屈強賢明紳士料理上手おまけに自分の好みのタイプという、女の子なら誰もが憧れる超優良物件が、いきなり自分の所に舞い込んでくる理由がエステルにはわからない。

 だから、ひたすらエステルは懊悩し……ユーリが口を開いてくれるまで、悶々としなければならないのである。

 

 しかし、そんな物思いに耽っていたせいで、咄嗟の反応が遅れた。

 

「……! ……エステルっ! こっち来い!!」

「……ふぇっ! ユーリ!?」

 

 ユーリは突如踵を返し、エステルの手を握って街道脇の草叢に向かって駆け出した。

 元よりエステルが警戒を解いていた原因は、エフミドの丘に結界魔導器(シルトブラスティア)が設置されていることにある。

 なので、魔物の襲撃などあり得ないという先入見が、すわユーリのオオカミが突然目を醒ましたか、と誤解を招かせた。

 

 しかし、全速力のユーリに引き摺られている内に、

 

 

 

 ドッカーーーーーーーーーーーーーーーン!!!

 

 

 

 

 まるで爆弾が炸裂したかのような轟音が鳴り響いた。振動で地面と空気も大きく波を打つ。

 

「え?」

 

 ユーリに手を引っ張られ、既に大地と大気の騒(ざわ)めきの範囲外の所まで行き着いたエステルが、耳を劈いた音源の正体を確かめようと振り返っても――何も見えなかった。

 それが濛々(もうもう)と立ち込める土煙のせいだということにも、そんな現象に出くわしたことのないエステルは気付けなかった。

 

「よそ見してねぇで、走れ!」

「は、はいっ!」

 

 少なくとも絶対に自分を大切にしてくれる男の叱咤に、エステルは素直に従うことにした。 

 何が何だかわからないが、ユーリが逃走を選ぶからには確かに危険なんだろう。

 エステルは頭を切り替え、文字通りユーリの足を引っ張らないように、手を強く握り返しながら走り続けることにした。

 

 

 

 

「ちぃっ! 待ち伏せか!」

「大きい……」

 

 草叢(くさむら)の織り成す獣道を掻きわけながら――さすがに街道の外には結界の効力が及んでいないのか――沢山いた魔物たちを、ユーリはほとんど片手だけで剣を振るい、蹴散らし続けながら道をつくっていった。

 エステルは、ユーリの疾走スピードに合わせるのが精一杯で、その曲芸のような剣裁きに魅入る余裕はなかった。

 

 しかし、唐突に疾走は止むことになる。

 草のトンネルを抜けて、辺り一面開けた先に差し掛かったころに――上部は茜色、下部は白色の鱗(うろくず)で覆われ、見事なまでに色映えのする翼をはためかせている怪鳥が地面に四つ足を着けて待ち受けていたからである。

 人間を軽々と咥えられそうな怪鳥。草原の広場に身を捻じ込ませているような体勢の巨躯は、不動明王を連想させる。

 

「そちらの方。その娘を置いて行きなさい。そうすれば、貴方に危害は加えません」

「……だろうと思ったぜ。んじゃ、お前をどかすまでだ!」

 

 謹厚ながらも威厳に満ちた声音が、先ほどとは別の意味でエステルの鼓膜を震わせ、連動して全身をも揺らめかせた。なぜ、いきなり自分が名指しされるのか。

 しかし、エステルがお城で出遭った赤い怪鳥と同じように、眼前の怪鳥が喋ったことも、なぜ自分が怪鳥に求められているのかも分からないまま、ユーリは話し合いの余地すらつくらず瞬時に決裂を宣言した。

 言うが早いか、ユーリはのべつ幕無しに『蒼破刃』の無数の剣圧をつくりだして、兵装魔導器(ホブローブラスティア)のように一発に圧縮し、強烈な弾丸として怪鳥の胸部にぶち当てた。

 

「くぅっ!?」

 

 城を襲撃した赤い怪鳥と同様に、茜色の怪鳥もユーリの強烈な一撃で、背後に生えている木に勢い良く叩き付けられた。

 しかし、怪鳥もさるもの。衝撃を木に受け渡した後、周囲の木々の枝を引きちぎりながら強引に両翼をはためかせて揚力をつくりだし、太陽を遮りながら再度警告を発する。

 

「……貴方は素晴らしい力をお持ちです。

しかし、もう一度要求します。その娘を渡してください。

さもなくば……この辺りを焼き払います」

「えっ!?」

 

 皆既日食ならぬ怪奇日食の天啓の酷薄さは、筆舌尽くしがたいものがあった。

 驚愕に凝固しかかった思考であるが、如何(どう)にかこうにか直感だけは、この怪鳥は紛れもなく自分の害為すに違いないということを示唆する。

 なので、本能からの恐怖は、無意識の内に頼りがいのある男の背中へと誘った。それがこの場での最適解のように感じ取って。

 ……「守ってやる」という以前かけられた言葉が内から沸き立ち、背中と影が外からその実在証明をしてくれて、二重の安心感がエステルを温かく包み込んだ。

 

「どうやらお姫さまはアンタのとこには行きたくないみたいだぜ。

つーか、んなデカいなりしてやることが女の子を脅かして投降を促すことしかできねぇのかよ」

「……卑怯なことは重々承知。

しかし、一人の命を狡猾に殺めることなど世界の安寧と比すれば、大した所業ではありません」

「へぇ……大したこと嘯(うそぶ)くじゃねぇか。なら、こっちも手段は選ばないぜ!」

 

 剣呑な声を宿したユーリ。しかし、その剣もまた不敵な言葉すら霞むほど邪に満ち満ちている。

 そして――

 

 ――ユーリは、剣を発射した。

 

 ……頼りがいのある男の背中から事態の推移を窺っていたエステルは、眼前で起こった事象をそう形容する他なかった。

 怨霊を纏わせたかのような暗黒の闘気に満たされた一刀は、ボウガンよろしく猛スピードで怪鳥へと一直線に向かって行く。

 そして、この『魔人闇(マリアン)』という禍々しい闇の剣技は、壮麗たる一翼の白い鱗を刺突し、剣の先端が茜色の鱗から出てきてしまった。

 

「ぐっ!?」

 

 刺し貫かれた剣による損傷は、怪鳥にとって大打撃であったようだ。

 始祖の隷長(エンテレケイア)は超然たる存在ではなく、自然の一員。

 その辺りを飛んでいる普通の鳥と同じく、羽ばたくことで揚力を生み出せなければ墜落せざるを得ない。

 さらに止めとして、時間を逆再生したかのように、ユーリの手元へと致命的な刺創を与えた剣が戻って行く。

 巨大な怪鳥は、傷口から身体の構成要素たるエアルを撒き散らしながら、重力に為すすべなく従い自由落下していく。

 ――ただ、自らの宣言の一部履行は怠らなかった。

 

 グワッ!!

 

 怨嗟と悲鳴の綯(な)い交ぜとなった口腔から放たれた強烈な火炎が、分散されて落下していく。

 そして、着弾点は幸いにしてここまで歩んできた道。とはいえ、延焼によって先行く道までも塞がれるのは――火を見て明らかなことであった。

 隕石群の飛来のような炎の降下には、いかなユーリとて防ぐ手立ては存在しないようだ。

 

「ちっ! 急ぐぞ!」

「はいっ!」

 

 顔を顰めて舌打ちをし、ユーリは再びエステルの手を取って走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 縦横無尽の草叢を過ぎて辿り着いた先は、流れ星を集積したかのようにキラキラ輝く海面を眺望できる断崖絶壁。

 『海』というものを初めて瞳で捉えるエステルにとっては、状況が状況でなかったならば、うっとりと嘆美していたに違いないものであったが――残念ながら今は脇目も振らず一目散に駆け抜けなければならない情勢である。

 

「はぁっ、はぁっ!」

 

 エステルは剣の稽古の体力を身に着けるために、長距離のマラソンには慣れていたが、短距離の全力疾走は苦手であった。

 それでも、巨躯が自らを狙っているせいで刺激される生存本能と、ユーリの右手がガッチリと自分の手を握って嚮導(きょうどう)してくれる、一語では纏めきれない正の感情の総和で、文字通り身体の全力を振り絞って風のような疾走を継続することができた。 

 ――しかし、新たな襲撃者によって、ランスパートは強制停止させられる。

 

「伏せろっ!」

「はいっ! ……きゃっ!」

 

 ユーリは言葉とは裏腹に、繋いでいた手を中心点に半円を描きながら、エステルを仰向けの体勢にするように前方へと放った。

 柔らかい芝生で背中から受け身を取ったエステルは、瞬時に襲撃者の姿を目に入れる。

 

 ――鯨のような青い竜に乗った人。すなわち、竜騎士。

 

 その竜騎士は、今まさに自分がいた場所めがけて槍を突き刺そうとしていたことに、エステルは戦慄する。

 そして、転がっている自分めがけて竜は進行方向を修正しようとするが――言うまでもなく、ユーリはそれを是としない。

 ユーリの剣は、まるで巨大な軍配団扇のように、風の魔力を剣に纏わせて情け容赦なく竜騎士に風圧の一撃を叩きつけた。

  

 思わぬ打擲に、竜騎士は、竜ごと虚空へと、高々舞い上がる。新たな星が一つできそうな勢いであった。

 

「すごい……」

 

 エステルは自分が標的にされていたことを一時的に忘れて、純然たる畏敬の念で、ユーリを一点に見詰めた。

 つくづく、とんでもない人が自分を守護してくれていると思う。

 

「……行くぞ」

「はいっ! ……?」

 

 ユーリは、なんらの快哉を上げることなく、唸るようなくぐもった声だけを発して、エステルを軽々と起こし、先へと促した。

 思わぬ低音ボイスに、微妙に違和感を覚えながらもエステルは逆に快活な返事の声を上げる。

 しかし、些細な違和感に頓着する間もないので、先導に素直に従うことにした。

 

 ところが――

 

「……はえーじゃねぇか」

「もう戻って来たんです!?」

 

 竜騎士の体勢の立て直しは速く、瞬く間に2人の元へと――いや、狙いは進行方向であった!

 

「まずっ!」

 

 竜から放たれた爆炎は、あっという間に先行く道を紅と黒煙で覆いつくした。

 

「どうしましょう!」

「いったん、崖の所まで戻るぞ!」

 

 昨日のハルルを否が応でも彷彿とさせる火炎に、エステルは悲痛の声を絞り出し、ユーリも目前の妥協的な解を掴み取るしかなかった。

 そして、急回転して、断崖絶壁へと舞い戻る(この時、エステルは海の煌めきに初めて気が付いた)。

 しかし――

 

「な、なんです、この地響きは?」

「……さっき降ってきた奴だよ」

 

 元来たハルルの街の方角から、恐怖で甚振(いたぶ)るかのように、ズシン! ズシン! という轟音が止めど無く地面を鳴らしていた。

 あちらも炎で包まれているにも関わらず、それをものともせずに――間違いなく巨大な何かが近づいて来ている。

 そして――間もなく、知りたくもない答えは明かされる。

 

「……大きい」

 

 エステルは地面の揺れなどとうに忘れてしまっていた。全容を現した生物を仰ぎ見た時の衝撃はそれほどのものだったのである。

  

 小山ほどはありそうな巨大な亀である。

 2本の前腕が異常発達し、古代の神殿の石柱のように太く硬質であることが容易に窺える。

 亀の象徴たる苔むした青い甲羅には、鶏冠(とさか)のような剛毛がささくれ立っている。その上に、先ほどユーリが墜落させた茜色の怪鳥が載っていた。

 末端の長さだけで大人の身長を優に超える尻尾は、鞭という形容すら生温く、もはや建物を一打ちで倒壊させられることができるのではないかと思うほど、しなやかにして凶悪であった。

 そして――その身体に占める面積は間違いなく小さいが、強烈に印象付けられるのは、細く窄められた双眸。

 種族の別を超えて、間違いなく敵愾心が滾っていることがわかる――エステルに対して。

 

(どうして……わたしが、こんなに……?)

 

 港街へ続く道を潰した竜騎士も舞い戻り、加勢に回る。包囲網を十分に狭めた後に、一斉に襲撃する心積もりだろう。

 ここに集結する三種三様の敵意に、エステルは射竦められ、さすがにユーリがいるという温かみのある安心感だけでは、身体に纏わりつくようなねっとりとした冷寒を抑えきれなくなる。

 言葉を話す巨大生物たちから恨まれるようなことは断じてやっていない。生誕以来、お城から一歩も出ていないエステルがどう考えても実行できるはずもない。

 そうだというのに、なぜ――

 

 元来た道からは巨大な亀と怪鳥。先行く道からは竜騎士。いずれを踏破しようと猛炎の壁が行く手を阻む。

 そして、後方は断崖絶壁。飛び降りれば、まず絶命は避けられない高度である。

 

「ゆ、ユーリ……」

 

 聳(そび)え立つ絶体絶命の恐怖から、エステルは涙を浮かべ始め、ユーリの背中の裾に思わず縋る。

 しかし、エステルは、その縋りついた偉丈夫が、泰然自若にして、炎も、地震も、空襲も、朝飯前のものとして対処できる最強の存在であることをまだ認識してなかった。

 

 ユーリは不敵な笑みを浮かべながら、エステルに振り返って、こう囁く。

 

 

 

「エステル――オレを信じろ」

 

 

 

「ユーリ……!」

 

 たった一言で。

 エステルは身体を流れるモノが全て取り換えられたかのように思えた。

 それどころか、世界の景色すら一変したようにも感じられる。

 恐怖の冷えで凍えていた血液は、強心剤を打たれた心臓から力強く熱い血液が送られて、瞬く間に冷血は駆逐され、代わりに熱血が毛細血管まで潤した。

 瞬時にして身体を駆け巡った熱血によって、ユーリの芯の強靭さを貰い受けたかのように、エステルも確かに自分の二本足で世界に立っているという自覚を持つことができた。

 

 世界もクリアになる。

 巨大な亀、おぞましい怪鳥、竜騎士、炎……それがどうした。

 ここにはユーリがいる!

 絶対に自分を守ってくれるユーり・ローウェルがいる!

 恐るるに足るものではない。

 ユーリが負けるはずがない。守ってくれないはずがない。

 

 

 だから、わたしがやるべきことは、信じること!

 

 ユーリを信じること!

 

 ただ、それだけだ!

 

 そして――同時に気が付く。

 

 

 

 

「エステル、オレの腰にしがみつけ!」

「はい!」

 

 その精強な言葉にエステルが背く理由は、もう存在するはずもなかった。

 全幅の信頼感をもって、ユーリの、逞しい男の腰にガッチリとしがみつく。

 ――今までユーリの身体に触れるとき、エステルの身体は大なり小なりの緊張で肩に力が入ってしまっていたが、今は完全に力が抜けきり、何もかもを委ねるように全身をユーリの身体に押し付けていた。

 

 そして――ユーリは跳躍する。2人は断崖絶壁から飛び降りた。

 

 崖から地面までの距離は、投身すれば即死するのが明瞭なほどである。

 いかに武醒魔導器(ボーディブラスティア)で身体強化を施していようと、重力の齎す等加速度運動のエネルギーに耐えきれるものではない。自らの運命が決まっていると悟るのが当然の高度。

 

 もちろん、エステルは死ぬなんて思わない。絶対にユーリが守ってくれるという信念はこの程度では揺るがない。

 だから、自分が良く手入れをした髪の毛が一斉に逆巻こうと、ゴォーっと風が自分の耳に唸りを上げようと、一切確知することなく、ただただユーリの温もりだけに耽溺することができた。

 優美な二次曲線の虹を描くに違いない、と確信の籠った笑みを浮かべているのである。

 

 ――そして、それは正しかった。

 

 ユーリは、己の長髪を靡かせながら、虚空に剣を突き立てる。

 その怜悧な思考は、増しに増していく落下速度に慌てる素振りをおくびにも出さず、墜死せずなおかつ襲撃者を誤魔化せる最適な距離にのみ頭を巡らせていた。

 そして、それが確信できる位置に差し掛かったと判断した時――

 

 ――刀身が緑色に変化する。

 

「………………わぁ……ユーリ、これは?」

 

 エステルは、落下の感覚が喪失し、それどころか浮遊の感覚を覚えた。

 そして、2人の足元にある緑色の渦巻きについて、上目遣いでユーリに訊ねる。

 

「『エアリアルボード』。この剣でつくってる」

 

 簡潔にユーリは答える。

 表情を見るに、ユーリは『エアリアルボード』に目を据えて、その制御に集中しているようであった。

 エステルはそれを察し、少々残念であるが、頼りがいのある勇者にしがみつきながら、見慣れた宝石よりもよほど美しい海の輝きを楽しむことにする。

 

「わぁ……」

 

 エステルは、世界の宝物を全て手に入れた気分になった。

 

 お城の中では絶対に見られなかった白く煌めく海。

 先程の危機の中では全く感じられなかった、大海原の香りを爽やかに運んでくる潮風。

 渚から規則的に響く汐による潮騒(しおさい)は、荒々しい爆音の記憶をすべて洗い流してくれる。

 でも、海洋への感動だけに、心が満ちているわけではない。

 

 エステルは、確信する――ユーリに恋している。

 

 ……それを認めるのはとてもむず痒かった。

 爆発するぐらい、恥ずかしかった。

 けれど――

 

 さっきの激励の精力は、未だにこの体を循環している。そして、ポカポカとした木漏れ日を常に照射されているような気分なるのだ。

 まるで、永遠の春が体を駆け巡っているかのように。

 

 とても気持ち良かった。

 勇気が出て来る。

 嬉しさが込み上げてくる。

 楽しくてたまらない。

 面白くてたまらない。

 暖かくてたまらない。

 いつまでもいつまでも溺れていたい。

 

 思えば、最初から一目惚れしていたのかもしれない。

 ユーリは、自分に一目惚れしたと告白していたが、自分も同じだったのだ――それを今の今まで認められなかっただけで。

 自分を客観的に見つめれば、ある意味ユーリに押し切られたものなのかもしれない。

 ユーリは、自分に対してとてもとても強引だったのかもしれない。

 でも――

 

 エステルとしては、もう何でも良かった。

 こんなにたくさんの感情を教えてくれたユーリには、何の負の感情もない。

 もう全部全部委ねてもいい。

 何もかもをあげてもいい。

 ……その代わり、今度は、わたしが逃がさないようにするだろうから。

 

 エステルは、円(まど)かな目を閉じ、よりいっそう強くユーリに抱きついた。

 今までのユーリからの強い想いを返すように。

 

   

 

 本当に虹が見えてきた――

 

 

 

 

 

 

 

 海外線をジグザグと縫うように、2人はエアリアルボードで進んで行く。

 追手の竜騎士から時折浜辺の岩場に身を隠しつつ、少しずつ少しずつ港町カプワ・ノールに向かって行く。

 やがて、竜騎士も追跡を止めた。それを時間をかけて確認した後、エアリアルボードの空中浮遊を停止し、ユーリとエステルは沿岸の森林地帯に分け入った。

 

 すると、雨が降ってきた。

 今いる森林は、クオイの森のような密林と呼ぶほどには木々が密集しているわけではないが、ていの良い傘として樹木の並びは理想的であった。

 エステルは、木の生えている場所とそうではない場所の地面の濡れ具合の違いを見て、いかに木の葉が互いに重ならないように生い茂っているかを発見し、改めて外に出る喜びを思い知る。

 

「ちょっと休もうぜ。これ使うと疲れるんだよ」

 

 ユーリの声色は疲労からか、いつになく小さかった。

 もちろん、新たな気持ちの芽生えたエステルは、満面の笑みで快諾する。

 

「はい! わたしがテントを張りますよ」

「いや、もうすぐ街に着くから、ござでいい。結界張って、軽く休んだら出発すんぞ」

「わかりました」

 

 

 

 

 木の根っこにエステルはござを敷いた。ユーリに木を背凭れにして休んで欲しかったからだ。そして、目論見通り、ユーリは背中を木に付けて座り、全身の力を抜いた。

 エステルとしては、『エアリアルボード』について是非とも訊いてみたかったが、身体の怠そうなユーリに今訊ねるのは憚(はばか)られた。

 なので、敢えて言葉をかけることなく、ユーリの隣にちょこんと腰かけ、しとしとと降りしきる雨を漫(そぞ)ろに眺めることにする。

 たまにユーリの顔をチラチラと窺うが、ユーリは項垂れていてその漆黒の長髪が帳となっているため、表情を見せてはくれない。

 

 ユーリと言葉を交わしたくてたまらないエステルはほんのりと残念に思うが、疲れている人に無遠慮に話しかけるのは礼節ある嗜みではないと思い、雨だけに集中することにする。

 ――それでも、頼もしい男の傍では、沈黙すらも心地よいものだったけれど。

 

 

 

 しばらくの間、雨音だけが、世界に流れる音だった。

 

 意外と雨というのが、窓から眺めていたころと違って好きではないな、とエステルが思い始めていた頃のことである。

 

 

 

「エステル」

 

 

 

 唐突に、ユーリの声が雨音以外の静寂を破った。

 エステルは、呼ばわれた瞬間ぴくっと肩を揺らしたが、

 

「ユーリ……なんです?」

 

 ほんのり陶然としながら、笑顔をユーリに向けた。

 

「ちょっとこっち来てくれ」

「……?」

 

 相変わらず俯くユーリからは、表情は窺えない。

 こっちに来てくれと言われても、隣に座っている状態で詰めるべき距離などない。

 ――じゃあ、正面に来て欲しい、ってことかな?

 首を傾げながらもそう予想して、エステルは立ち上がり、回り込んでユーリの正面に立った。

 すると――

 

「ひゃっ!?」

 

 ユーリが卒然とエステルの腰に抱きついてきた。

 

「ゆゆゆゆゆユーリ!?」

 

 嬉しさと、恥ずかしさの綯(な)い交ぜになったエステルは、どう対応すればよいのかわからない。

 しかし――

 

「わりぃ……ちょっとだけ……このままでいさせてくれ。……頼むから」

 

 ユーリはいつもと趣が違っていた。

 いつもなら、エステルの全身を覆いつくすように襲い掛かってくるのがユーリの常套手段である。

 でも、今は――

 

 ユーリは、エステルの腰に腕を巻き付けている。それが逃がすまいとする蛇のようであることには一切の変わりはない。

 だが、頭を、顔を、エステルの胸の下、お腹の辺りに押し付け、ユーリの上半身はエステルの下半身に当て……跪くような姿勢になっている。

 体躯が体躯なら、子供が母親に縋るような格好なのであった。

 

 ……とはいえ、エステルの赤面の衝撃を止めたのは、そんなことではない。

 

「………………」

 

 肩が震えている。頭が震えている。――全身が震えている。

 そして、連動して小刻みに揺れるエステルは――聴いてはいけない気がする音を、聞いてしまう――

 

「ユーリ……」 

 

 その正体が、何なのか――

 エステルは、降雨に耳を傾けて認識を遅らせた。

 なんとなく、ユーリの沽券に関わってしまうような気がして――

 

 次第にユーリの身体の揺らめきは激しさを増す。

 ……それがどこか、求めている物をくれなくてせがんでいる子供のように思えて――

 反射的にエステルの母性本能が刺激された。

 

「ユーリ、大丈夫ですよ。……わたしはここにいますよ……決して離れたりしませんよ」

「………………」

 

 エステルは、胸に湧いてきた言葉を紡いだ。そして、押し付けられたユーリの頭をゆっくりと優しく撫でる。

 雨の匂いでユーリの魅惑の芳香は届かないし、ビロードのような黒髪の触感に耽るべき場合でもない。

 正解かどうかはわからないが、今のエステルには、思いつくままの慰めの言葉をかけ、無心にユーリを摩(さす)ることが精一杯の慈愛の形であった。

 

 ユーリの体の揺れはますます激しくなる。

 間違えたかと思いエステルが慌てて、ごめんなさい、と謝罪すると、否定するように横に体が振られる。

 

「………………」

 

 結局、エステルはユーリの頭を撫で続けるほかなかった。

 

(いったい、何があったんだろう?)

 

 こんな風にされても、エステルの中で、ユーリへの評価が下がることはない。

 人間、こんな風になることもあるだろう。誰かに思いの丈をぶつけたくなることもあるだろう。

 エステルは、ユーリを神様を具現化した偶像として崇拝するつもりは全くない。

 むしろ、力になれることがあったら、力になりたいと感じている。

 けれど――

 

 すべてにおいてほとんど完璧なユーリが、こんな風になってしまうとは……?

 

 そう。そこが腑に落ちなかった。

 圧倒を権化するユーリならば、大概のことは問題にならないはずだ。

 どんな困難も薄っぺらい紙のように、ユーリなら切り捨てられるに違いない。

 悩みというものが醸成されるならば、突き進んで解決すればよい――たいていの場合、それがユーリにはできるはずだ。

 

 しかし――

 

 ユーリは現にこうなってしまっている。

 エステルの勘では、ユーリは悩みの許容量すら大きいはずなのに、耐えきれなくなっている。

 

 そこまでのことが、果たしてこの世界に存在するのだろうか?

 

 そうだとしたら、恐い。

 ユーリすらをも蹂躙できる存在など……常人には空恐ろしくてたまらない。

 

 けれど、これはまだ憶測に過ぎない。

 

 ――ユーリは、いつか話すと言ってくれた。

 ならば、自分は、それを待つしかない――じっくりと、待つほかない。

 それが――すべてを与えてくれた想い人に対する恩返しだ。

 エステルは、いまはそう締めることにする。

 

 

 エステルは何も訊かず、ユーリの後頭部をいつまでもいつまでも撫で続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 しとしとと降る雨に、ベタベタと粘つくような不快さを感じたのは、気のせいではなかったらしい。

 港街カプワ・ノールに着いて、エステルはそう実感する。

 

 街に着いたのに、人心地が付いたとは言えないのだ。人がいないせいで。

 港街というのは、活気にあふれるものと思っていたエステルは、憧憬図通りとはいかずに肩を落とす。

 縞模様のカラフルな敷物を屋根代わりにした屋台があるが、その中では雑然と箱やタルが積み上げられているだけで、店番となる人はいない。隣も、そのまた隣も似たような雰囲気であった。

 屋台だけではなく、歴とした建物で営まれている商店も、シャッターが下りていてまったく人気は感じられない。夕暮れ近くになると買い物客が増えると、ユーリが教えてくれたのに。

 あちこちで木が植えられ、花壇が至る所に見られる自然豊かな場景は素晴らしいのであるが……エステルとしては、帝都で買い物をした時のような人混みの方が今は恋しかった。

 はたと、この街も滅んでいるのではないかと疑懼(ぎく)したが……結界が確(しっか)りと機能し、魔物が人を食い散らかしているという二度と直面したくない凄惨な景色ではないことに、エステルはほっとして馬鹿な想像を切り捨てられた。

 

 とはいえ――

 街の様子も心配ではあるが、目下のところ、エステルとしては、ユーリを一刻も早く休ませてあげたかった。

 不調ごときで道中の魔物に対してユーリの剣が鈍ったりはしないが、それでも疲労困憊の表情は見ていて痛々しい。

 なので、エステルは街に入ったとたん先導し、自分の目で宿屋を見つけて、ユーリに手を振った。

 

 

 

「悪かったな、エステル。無様なとこ見せちまって」

「いえいえ。辛い時は甘えてくれてもいいんですよ」

 

 森林地帯から続いていた沈黙の帳を、ユーリが申し訳なさそうな声で破った。

 エステルはホッとして、慈愛を込めた本心からの言葉をかける。

 それと同時に、食事の持つ力にも感謝した。

 連日の降雨で新鮮な海の幸を提供できなくて申し訳ないと、宿屋の主人は謝っていたが、街の中で食事をするだけでエステルとしては十分であった。

 また、食堂で食べるのではなく、広々とした宿屋の個室で食べる形式だったのも……ユーリを少しでも早く休ませられることができて嬉しいな、と感じている。

 それでも、ジェントルマンなユーリは、宿屋の人の配膳を手伝い、見習って手伝おうとしたエステルをも、帳尻を合わさせてくれ、と手で制してしまったが。

 

「それにしても、この街はどうしたんでしょうね? 何日もずっと雨が続いているなんて」

 

 小さなステーキを切り分け、カップに入ったお茶を飲みながら眉を曇らせるエステル。

 

「どうだろうな……生活の糧である漁業ができねぇくれぇだから、よほど深刻なんだろうが……お天道様を恨むしかないのかね」

 

 ユーリも、かぶりを振りながらそう言うほかない。

 天気のことなど人間の司ることではなく、茫漠とした議論にならざるを得ないからだ。 

 

「……明日は、この街を見て回りましょうか。何もできることはないかもしれませんけど、心配ですし」

「船が出ねえなら、そうするしかないわな。なら、今日の所は早く寝ちまって明日に備えようぜ」

「そうですね……ふわぁ……」

 

 エステルは欠伸を手で押さえる。

 やはり自分も疲れていたのか、唐突に襲ってきた眠気はかなり強い。

 せめて、ユーリが眠るまで踏ん張りたいのだが……食事すら終われないとは、何だか情けないな、とぼんやりと思う。

 

「ほれほれ。今日はいろいろ大変だったろ。お前のおかげでオレは助かったんだから、姫様は早く寝床に就けよ――あとは、オレが何とかするからさ」

「………………そうですね。……申し訳ないですが、お願いします」

 

 エステルは、何とか抵抗しようとしたが、人を背負ったかのように全身が怠く、瞼の重みにすらまったく勝てない状況では、ユーリが眠るまで持ちこたえられそうにない。残念ながら、そう判断せざるを得ない。

 ――もちろん、ユーリの最後の「何とかする」と言った時の、決然とした語調にも、まったく気付けなかった。

 

 

 

 ふらつく足取りでネグリジェに着替え、歯磨きをするのが目一杯で、ベッドで布団をかぶった時、エステルはもはや思考ができるような状態ではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ――睡眠薬の効能は覿面(てきめん)だった。

 

 これをどこで手に入れたのか――もはやまったく覚えていない。

 

 あっという間にベッドに就いてしまったエステルをオレは見遣る。

 

 エステル。言葉では言い尽くせないほど、オレの心を席巻している存在。

 こんな韜晦(とうかい)の海に沈んだ男のアイデンティティーになっているとは……まったく不幸なことだ。

 コイツがいなきゃ、オレは死ぬ。エステルを守る以外にオレの存在意義はない。

 仮にエステルの命を脅やかすものがいなかったら、オレがエステルの前に現れることもなく、とっくの昔に自殺していただろう。

 ……罪咎(ざいきゅう)の川に溺れ、ぬばたまの暗濘から屍人のごとくオレが這い出なければならないのは、エステルを何としてでも茜さす太陽の下へと生者として残さなければならないからだ。

 

 エステルに安全な場所などない。

 始祖の隷長(エンテレケイア)たちが、引っ切り無しにコイツを殺すチャンスを窺っているからだ。

 ……だから、この上なく馬鹿馬鹿しくてたまらないが、それ以上に合理的なことがないから、今からやることにもコイツを連れていかなければならない。

 

 スヤスヤと眠りについている、あどけなくも可憐なエステルの姿を見詰める。

 愛おしくてたまらない。思わず絹の糸のようなピンクの髪の毛をかき分けて、その清楚に輝く額にキスを落とす。

 桜と太陽と蜂蜜が混ざったような甘美にして爽快な風味を、唇と鼻腔から知覚した。

 

 ん~~っと、むずがるようにエステルはほんの少し眉をひそめる。まったく怖くない。

 よほど非人道的な振る舞いをしない限り、コイツの怒りは怒りではないのだ。そんなことはとっくの昔に知っている。

 ……もっともオレは、アレクセイ以上にその外道に当てはまるのだが。 

 

 苦笑しながらオレは、またしてもいつ手に入れたのか忘れてしまった防水仕様のアクアマントを背中に羽織る。

 背徳感を覚えながら布団を剥ぎ、エステルのだらりとした両腕をオレの肩にかけ、マントの中に入れて背負う。

 そして、エステルとオレの腰にマジックテープを巻きつけて、きつめに固定した。これで準備完了。

 

 部屋の入り口に目を移す。

 そして――

 

 

 

 ――5度目のラゴウ暗殺に向かう。

 

 

 

 

 




 ほらね、生きている原作キャラは出てきましたよ。敵か味方かの説明は省略したけどね(QB風の嫌らしさを込めて)。
 ……こうやって読者様に対して韜晦(とうかい)しようするから、「港町」を全部「港街」に書き換えねばならないという天誅が下るわけであります。

 次回は、盛大なネタバレ回です! 超お楽しみに!
 
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