ーーー転勤することになった。
もう何度かわからないぐらい聞いた、その言葉。
夕食、いつものように静かに箸を進めていた俺と母は、突然降りかかったその言葉に動じず、ただ「そう」、と口をそろえるだけだった。
ーーー明日、学校に行って説明しなきゃね。
マニュアル通りかのように話を進める母。
これも見慣れた光景だ。
異常と言われれば異常なのだろう。しかし、こんなことは、俺にとってはただの日常に過ぎない。
ーーーすまないが、よろしく頼む。
父は申し訳なさそうに言うと席を外し、携帯電話を片手に自室へと向かった。
母は何も言わない。言えないのかもしれないが、どちらにせよ俺にとってはどうでもいいことだ。
ーーーごちそうさま。
短く発したその言に、母は何か言いたそうな表情をしたが、すぐに消した。
俺はその後何もせずに自室に閉じこもり、天井を眺め続けた。
何度も聞いたあの言葉。回数なんてわからない。知りたくもない。
けどなんだろう。
何かが俺を鎖で繋いでいるかのように、俺の心はこの街から出たくないと言う。
この鎖は何だ?わからない。
この感情はなんだ?わからない。
わからない。
正体不明な感情に心覆われながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
その日、私は日直としての仕事をこなしていた。
先生へのプリント提出。
はっきり言って面倒だ。
「失礼します」
短く自分のクラスと名前を言い、先生の机にプリントを置いた。
用も済んだことだし、帰ろう。
そう思い、踵を返した矢先だった。
「お手数をおかけして申し訳ありません…」
女性の声が耳に入った。
なんとなく目を向けてみると、そこには担任の先生と…大槻がいた。大槻の横には、見知らぬ女性の姿が。
「いえいえ、大丈夫ですよ。しかし京介くんが転校だなんて…」
ーーーー。
「転、校…?」
一瞬頭の中が真っ白となり、次いで出た言葉は鸚鵡返しだった。
「すいません、主人の都合で…」
その女性の一言で、私は思い出した。
ーーー親父が転勤を繰り返していてな。俺はその巻き添えを喰らって特定の場所に長い間住んだことはないんだ。
その時、歯車が重なったような音が響いた気がした。全てが繋がった。
また来るかもしれないと、彼自身も思っていたこと。
叫びたかった。
こんな運命を定めた神様に、私は一発、いやその10倍は殴ってやりたかった。
そして気がつけば私は、逃げるようにその場から離れていた。
なんで私、走ってるの。
そう自分自身に問いかけながらも、その足を止めることはできなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
鐘が鳴る。
それと同時に鞄を手に取り、扉をくぐる同級生たち。
いつもは教室の外で待っている幼馴染たちは、今日は私の事情で先に帰らせた。
そして今から、私はその事情を果たす。
校門の壁に背中を預けてしばらく待つ。すると、私の待ち人は来た。
「…美竹?」
不思議そうに私を見る大槻。
「少し、付き合って」
最初は私のその一言に怪訝な表情を見せたが、やがて彼は仕方がない、というようについて来た。
冬も終わりが近づいているが、それでも2月だ。肌寒いし、日が暮れるのもまだ早い。
私はあえて遠回りをした。
別にどこかのお店に立ち寄るわけでもなく、ただただ歩いた。
そして、私はそこでなんとなく止まった。
河川敷。
緩やかに流れる川に、オレンジ色の夕焼けが映される。
「どうかしたのか?」
彼は聞く。
それに私は、すぐには答えなかった。
「あのさ大槻」
「ん?」
「何か、私に言うことあるんじゃない?」
その私の言葉に、大槻の表情は一瞬だけ固まった。しかしすぐに立て直し、彼は何の抵抗もなさそうに、私に言った。
「…引っ越すことになった」
短く、とても簡単に理解できる言葉。
「知ってた」
その言葉に、私も簡単に答えた。
その事実は、もう私の手中にあると。
「知ってたって…」
「職員室で耳に入った」
「…なるほど」
諦めたような表情で答える。
「また親父の転勤だ。いい加減、NOが言えないものかね」
「YESしか言えないって、良い人ってことじゃない」
「そういうものかね」
いつものように、当たり障りのない会話を続ける。
私は自然とコンクリート出来た道から、小石が重なって出来た自然の道へと降りていった。
そんな私に続いて、大槻も降りて来た。
「そっか…離れ離れになるんだ、私たち」
「…すまん」
「何で大槻が謝るの。仕方のないことだし」
そう、仕方のないことなのだ。
私は彼に一瞥もせず、水面に顔を覗かせた。
そこに映るは、何かを閉じ込めるように唇を噛み締めた、崩れかかった顔だ。
それが嫌になって、私は後ろを振り向いた。
そこには、大槻の姿が。
申し訳なさそうで、どこか哀愁が漂う表情をしていた。
初めて、そんな大槻を見た。
そして、それが引き金だったらしい。
「……ざけないでよ…」
知らず知らずのうちに、私は言葉を漏らしていた。
「ふざけないでよ…何で…」
まるで大槻のあの表情がライフルのように、私の感情のリモコンをぶち壊した。
塞がった唇が、大きく乱暴に開かれた。
「ふざけないでよ!何で、何で…何でまた…!」
「……」
一度放たれたその
「まだ私は、何もしてない!出来ていない!なのに…どうして…どうしてどうしてどうして…!」
ああ、神様。
何で私から、また大切なモノを奪っていくの。
何でまた、私から離れさせるの。
私が何かを犯したというのなら、お願いします、何でもするから…!
「……」
その間も、大槻は何も言わなかった。
それが何処か、私の癇に障ったのだろうか。私は彼の襟を力強く掴んでいた。何故自分がそんな行動をとったのか、自分でもわからなかった。
「何か言ってよ!ねぇ、お願いだから……何か…何か言ってよぉ…」
「…ごめん」
彼の胸に顔を埋めながら、私は泣き続けた。
情けない。まさかこんな事で泣くなんて。
どうしようもなくて、仕方がないことなのはわかっているのに。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「…落ち着いたか」
「…うん……」
子供に戻ったようだ。
あれから暫く泣き続けた私は、結果的に泣き止むまで大槻に頭を撫でられてた。
「取り乱して、ごめん」
「別にいいよ。むしろ、いつもと違う美竹が観れて新鮮だった」
「…それ、あまり嬉しくない」
「…そうか」
いつもの調子で彼は私を揶揄う。
それが私を元気付けさせるためにやったことは、さすがにわかった。
「…ありがと」
「礼を言われるようなことは、何もしてないつもりなんだけど」
「勝手に言っただけ」
いつもの会話に戻っていくけど、内面はそうでもない。
「私、ついて行く」
「は?」
「大槻について行くことにする。一人暮らしとかで…」
「馬鹿なこと言うな!」
初めて聞く彼の怒鳴り声に、私は驚いた。
「馬鹿なこと言うなよ…お前には、お前の家があるだろ。お前には、思ってくれる人たちがいるだろ」
「……っ」
その言葉で、思い出す。
父さんと母さん。
巴、ひまり、つぐ、モカの姿。
「自分がどれだけ恵まれてるか、わかってるのか?自分の立場を弁えてから、そういうことを言え」
「……ごめん」
まただ。また無責任なことを言ってしまった。
「…俺は、俺たちはまだガキだから、何も言えないんだ」
「…わかってる」
そう、私たちはまだ子供。たとえ義務教育が残りわずかだとしても、関係はない。
親の言うことは聞くべきだし、模範的な行動を取らなければならない。
「なあ、美竹」
「なに」
「俺たち、付き合ってるって言えるのかな」
「それは個人の主観じゃない?」
少なからずとも私は、付き合っているとは言えないと思う。
「そうか。なら言わせてもらうよ。俺は付き合ってるとは思えなかったな」
「…だろうね」
「お前もか」
「うん、同じ」
それは多分、酷い話なのだろう。
ひまりが聞いたら、きっとひまりに何か言われるだろう。
「だから、これは別れじゃない」
「…どういうこと?」
「彼氏彼女の別れとか、そういうのじゃないんだ」
彼は、何かを取り繕うにように言う。
「お前と幼馴染たちのように、また一緒になれる」
「…そう、なの」
「ああ。俺はまた、この街に戻って来る」
彼は笑顔で、そう言った。
それは多分、1年や2年で叶えられる願いでは無い。
だから、私は小指を出した。
「約束。絶対に守ってよね」
「ああ、言い出しっぺなんだ。絶対に守る」
そう言って、小指を交わした。
川の前で夕焼けに照らされたその光景は、皮肉にも私には綺麗に見えた。
その後、大槻の携帯電話が鳴り、親御さんから呼ばれた。大槻は私に謝りながら帰って行った。
それからも、私は暫く河川敷の夕暮れを眺め続けた。
特に深い理由はない。ただ心を落ち着かせたかっただけだ。
「あれ、蘭じゃん」
「ホントだ。らーんー!」
と、背後から声が聞こえる。
振り向くと、そこには幼馴染たちの姿が。
モカが山吹ベーカリーの袋を持っているのを見る限り、遊び帰りなのだろう。
彼女たちは川の方まで降りて来る。
すると、彼女たちの顔が目に入った瞬間、気がつけば、私は巴の胸に飛び込んでいた。
「なっ…おい蘭!?」
「ど、どうかしたの、蘭ちゃん!?」
「えっ、ちょっ、どういう状況なの、これ!?」
「……蘭…」
心は落ち着いてきた。
この事実も受け入れることができた。
彼とも約束をし、もう一度再会をすると誓った。
けれどやっぱり、離れ離れっていうのは、悲しいもので。
だからねぇ、神様。
あと少し、この涙を流すのを許してください。
変えることのできない現実。