愛を育むには長い時間を必要とする。
けれど、失う瞬間というのは光速よりも速い。
たった一言。
お互いの、たった一言同士の失言。
それこそが、亀裂が発信するまでのアクセルになる。エンジンがかかり、ギアはオーバートップ。最高速度で、それは2人を切り裂こうとする。
「お互いの言葉を聞き合えばいいんじゃない?」
私の幼馴染、青葉モカはアイスコーヒーが注がれたグラスにストローを差し込み、音を立てずに吸う。
数年ぶりに見た幼馴染の顔からはあどけなさや幼さは抜け落ちて、クールで年齢不詳を感じさせる顔立ちに変化していた。
「そうしとけばよかったんだろうけど、私が冷静じゃなかった」
「まあ蘭ならそうなるだろうねぇ」
ステンレス製のストローで氷をカラカラとかき混ぜる。店内で流れているジャズ調の音楽とセッションをしているようだ。
「仲直りしたいの?」
「そりゃ、もちろん」
「ふーん」
頬杖を立てて私の顔を覗き込むように見る。
「蘭、大人になったね」
「それ、モカもでしょ」
「あ、わかる?」
「最初見た時、誰かわからなかった」
「あなたの愛しい幼馴染のモカちゃんです」
「口を開かなければ別人だね」
私の言葉に口を尖らせる。
こういう顔をした時とかは、昔のモカに戻ったように感じる。
「また、アイツの笑ってる顔が見たい」
「それ、たぶん向こうもそう思ってる」
「だといいな」
テレパシーとか千里眼とか、そんな都合のいい超能力なんて持っていないから、アイツがいま何をして何を思っているのか、私にはわからない。
「まあ、何か甘い物でもあげて、90度に頭を下げればいいんじゃない?」
「甘いもの」
彼はあまり自分の手の内を明かさない人間だ。現に私は彼の好物を知らない。出されても黙って食べるだけなのだ。
「…何にしよう」
「ケーキとか」
「それ、モカが食べたいだけでしょ」
「残念。今はエクレアの方が食べたいのです」
甘いものに変わりはないじゃん、というツッコミを飲み込む。
「けど、それで大丈夫かな」
「大丈夫」
弱気な私の声を、モカは静かに遮る。
「大丈夫だよ。信じてるでしょ、あの人のこと」
「…うん」
「なら、謝るしかないでしょ」
モカは立ち上がり、高級そうな革財布を取り出す。
「もう帰るの?」
「私も忙しい身。予定が押してるのよ〜」
「へー」
「まあデートなんだけどね」
どうやらプライベートの方も充実しているらしい。
「彼氏?」
そう聞くと、彼女は悪戯っ子な笑みを浮かべて、人差し指を口元につけた。
「さあ?」
やっぱり、私の親友は変わっていなかった。
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「仕事に意識が向いてないわね」
猫のような可愛らしい声でそう言った我が上司、弦巻こころは俺の背をその細い指でそーっとなぞった。
気持ちの悪い感触に情けない声を出してしまう。
「なんですか、突然」
「イタズラよ」
「…ああ、そう」
あまりにも堂々とした申告に何かを言う気力も消えてしまう。
「どうかしたのかしら」
「特に何も」
「嘘ね」
「何を根拠に?」
「なんとなくよ」
相変わらずフィーリングで物事を見極める人だな、とため息をこぼす。
「なんとなく、ならあなたの主観的な判断でしょう。今日の僕は体調も良好。コンディション抜群ですよ」
「ええ、そうよ。なんとなく。なんとなくよ」
「え?」
1人で頷きながら、しかし目は試すように俺を見ている。
「何ですか、気味が悪いですよ」
「ほぼ毎日会っている人間の、些細な変化を見逃すとでも思ったかしら?」
両手を腰に、自信満々に、テレビのクイズ番組のクイズに答えた子供のような顔をする。
「…なら、俺が何についてそんな気負っているかわかりますか?」
「大方、喧嘩といったところかしら」
「盗聴器かなんか仕掛けてませんよね?」
彼女の千里眼じみた勘の良さに戦慄しながらも、敵わないと降参の合図を出す。
盗聴器がないかどうか専門の業者に調べてもらうか検討しておいた方がいいかもしれない。
「そうです、喧嘩ですよ。あー、何であんなこと言ったんだろ」
「どんなことを言ったのかしら?」
「傷口抉ってきますね…些細なことです。アイツ、体調不良でフラフラしてたんです」
本人は明かそうとしなかったが、予想するに生理痛だろう。目に見えて体調を悪くしていた彼女は、苦しそうな表情ながらも家事をこなしていた。
「心配だったから俺が手伝おうとしたら、まあ多分ストレス溜まってたんでしょうね。強い口調で放っといて、って」
「あらら…」
「俺も余裕なかったんだろうな。そんなことにカチンときちゃって喧嘩…翌朝も一言も言葉を交わすことなく、こうして出社…っていうわけです」
「子供ね、あなたたち」
「少し口を噤んでくださいませんかお嬢様」
おそらく弦巻女史は、傷だらけの天使を前にした時には「面白い羽をしているわね」とかと言うだろう。
純粋というのは眩しいものだが、それと同時に恐ろしいものでもある。
「とまあ、そんなところです。今は解決の糸口を探っている状態です」
「ふーん…」
弦巻女史は手に持っていたボールペンを器用にクルクル回してみせる。以前に俺がペンを回したのを見て、像を初めて見た子供のような顔をしていたので、きっと後で練習をしたのだろう。
「何かいい解決法ありますかね?」
「謝りなさい」
「ですよね」
この手の問題で99%の確率で導き出される答えを堂々と突き飛ばしてきた。
「ただ、謝って許してもらえるかな…」
「何か贈り物でもすればいいじゃない。ケーキとか、お菓子とか」
「飯で釣ってるじゃないですか」
それでは解決したと言えるのか。
「いいえ。釣るもなにも、それはただの土産よ」
「土産」
ボールペンをクルクルと雑技団のように回したかと思えば、スイッチの部分を俺に向けて指した。
「あなたが蘭を信じないでどうするの。蘭があなたを求めるなら、あなたもそれに応えないと」
漫画の主人公のような決めポーズで、彼女は言った。
こんな1ミリでもズレれば滑稽な道化師になってしまう立ち姿でも、弦巻女史にかかれば彫刻作品のごとく様になる。
「蘭は許してくれるわ。あの娘は優しくて、誰よりもあなたを大事に思ってるわ」
赤色のふちメガネを外し、黒スーツの胸ポケットにかける。
「オススメのお店を教えるわ。蘭に渡す物は、あなたなら知っているはずよ」
茶封筒をデスクの上において、彼女は台風のごとく飄々と去っていった。
茶封筒を見ると、そこには綺麗なカタカナで店の名前が綴られていた。
「世話焼きだな、あの人も」
何年も共に仕事をしている身ではあるが、やはり彼女の全貌はわからない。掴み所のない性格をしているが、やはり彼女は善人だ、と俺は確信した。
退社後、すぐに俺は弦巻女史に紹介された店に訪れた。
蘭はビター味のスイーツなどを好んでいる。
甘いものも出されれば口にはするらしいが、それでも横にビター味があればそちらを取る方だ。
ビターチョコのケーキを店員に取り出してくれ、と頼む。値段が書いてなかったためかなり不安だったが、意外にもリーズナブルな値段だった。
「板チョコに何かメッセージを入れますか?」
営業スマイルでそう聞かれた。
誕生日でも、況してや結婚記念日というわけでもない。
「ごめんなさい、とでも書いといてください」
冗談交じりに、そう注文した。
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帰路の途中で、謝罪構文を考えていた。まるで謝罪会見をする芸能人になった気分だ。
そういえば、テレビで頭を下げる時の角度とか、そんなこと言ってたな。役にたつかな。などと思っていれば、いつのまにか家の前に立っていた。
いつもなら気楽に開けれる玄関扉も、今という時では鋼鉄の扉のように見える。開けるのが億劫になってしまう。
「ごめんなさい。いや、ここはすいませんの方がいいかもな」
とか、そんな無粋なことを考える。
要は、俺の誠意が伝わればいいのだ。ごめんなさいとすいませんの違いなんて、微々たるものだろう。
男なら、旦那なら、進むべきだ。
厳しい現実だろうとも、きちんと目視して受け止めて、そして答えを出す。
震えてるように感じる膝を叩き、意を決して扉を開けるーーー筈だった。
スムーズに扉は開くはずが、隙間ひとつすら開かない。
「いない」
拗ねて家を飛び出した。実家に帰った。
なんだそれ、旦那からDVを受けた母子かよ。
「いや、受け取りかたによってはDVになるのか、あれは」
頭を抱える。
最悪の結末になっているかもしれない。いや、もうなっているんだろう。
蘭に連絡を撮ろうと携帯の液晶画面に触れる。しかし手が震えてキーパッドをタッチできない。
ああクソが。
苛立ちを抑えようと更に焦る。悪循環だ。これはマズイ。
漸く番号を押し終えた俺は携帯を耳に押し当てる。
プルルル、という古風な音が絶えずに鳴り続ける。
「出てくれ、出てくれ」
今だったら命を差出そう。心臓でも脳みそでも、なんでもいい。
ただ謝りたいのだ。許してくれなくても、この後悔を少しでも減らしたい。自己満ではあるけど、それでもいい。率直に言えば開きなりだ。
無意識に意味のない足踏みをしてしまう。5秒ほど待っていたが、心臓の鼓動が早くなっている俺からは1時間にも感じた。
しかし、そんな俺の焦りの糸を断つ音が、突如として鳴り渡った。いや、もしかしたらずっと前から鳴っていたのだろう。ただ聞こえていなかっただけであって。
音の方を振り向けば、そこには怪訝な
「何してんの」
「…いつからそこに」
「今さっき」
携帯電話をネイビーカラーのジーンズのポケットにしまいこみ、ポストの中を確認する。
「何してたの。家の前で携帯電話を片手に足踏みして」
「おまえに連絡を取ろうと」
「わかってる。私が聞きたいのは、なんでそんなに焦ってたの、っていうこと」
3枚ほど重なったチラシを一瞥し、棒状に丸める。「また宗教勧誘」と、ため息を吐く。
「…おまえが、家を出て行ったんじゃないかと思って」
「はぁ?」
と、普段クールな蘭にしては珍しい、素っ頓狂な声をあげる。
「なんでそう思ったの」
「昨日のことで」
「あんなことで家を出るの?私が?あんたバカかなの?」
一瞬だけカチンと来たが、安心感からくる冷静さですぐにその小さな怒気は収まった。事実バカだから仕方がない。
ため息をこぼし、力なく立ち尽くしている俺の横を通り過ぎ、玄関の扉の鍵を開ける。
「あんたから見た私はどれだけ弱い人間かなんて知らないし、まあ、あまり知りたくはないんだけどさ」
サラリ、と扉を開ける。
明かりが点き、蘭の姿がさっきよりもよく見えるようになる。
「別に気にしてないから。昨日のはお互いに非があった。私はそうやって、勝手だけど処理してもらった」
「…ああ、俺もだ」
「奇遇。さすが夫婦っていったところ?」
彼女は振り向き、優しい微笑みを浮かべる。
「さ、晩御飯でも食べて、一緒に皿洗いでもして、チャラにしよう」
俺に手を差し伸べる。
後悔と懺悔と、謝辞と、そして感謝を込めた手で握り返す。
「おかえり」
「…ただいま」
そしてゴメン、と心の中で呟いた。
今は、その言葉をかざる必要はないと思った。
夕飯はカップラーメンだった。
結局のところ、米を炊いてなくて、オカズになるものも冷蔵庫の中には無かった。
非常食用のカップラーメンーーー蘭はシーフード、俺はカレーだーーーを食べてデザートの時間になった。
お互いがお互いのために買ったケーキ。ビターチョコのケーキを箱から取り出し、蘭の元に出す。
蘭は色鮮やかなフルーツで彩られたショートケーキを出した。
「ラーメンの後にケーキって食べるものかな」
「贅沢なひと時だな」
「アンバランスだって言ってるの」
「まあ美味いんだからいいだろ」
俺の意には同意なのか、蘭は目を伏せて黙々と口を動かした。
ラーメンの脂っこい風味がまだ口の中で残っていて、蘭の言う通り確かにアンバランスな組み合わせだ。
「この歳で喧嘩なんて、バカだね、私たち」
プラスチックのフォークを咥えて呟く。
小さく薄くスライスされたキウイフルーツを口に運んだ俺は蘭のその言葉に頷いた。
「確かに。子供だよな、喧嘩の内容が」
「若々しいってこと?」
「馬鹿馬鹿しいってこと」
むぅ、と顔をしかめる。わざとなのか天然なのか、若作に見える蘭のその態度は少し滑稽だ。可愛らしい、と思わなくなったあたりは、俺も歳をとったということだろうか。
「まあ、少し喧嘩が若々しいことなら、たまにしてもいいんじゃない?」
「しないことに越したことはないんだけどな」
「そうだね」
少し風が強くなってきたからか、シャッターがガタガタと音を立てた。
「それ、美味しい?」
「美味い。そっちは?」
「美味しい。何処の?」
「どこのだろ」
「お店で買ったんじゃないの」
弦巻女史がメモをしてくれた紙は生憎オフィスだ。店の看板なども見なかったため、名前は覚えてない。
「ちょっと頂戴」
「どうぞ」
「あ、美味しい」
フォークで一切れ口に運ぶ。
「こっちのも食べる?」
「いや、いいよ。俺からの謝辞品なんだし」
「別にいいよ。貰った本人がそう言ってるんだから、遠慮する方が野暮なんじゃいの?」
「わかったよ、頂きますよ」
一切れフォークで取る。チョコレートカラーのスポンジの間に、チョコクリームとチップが挟まっている。
口に入れる。
瞬間、口に広がったのは容赦のない苦味と、影に挟まれた光のような微かな甘さだった。
「意外と苦いな、コレ」
「そう?」
どうやら蘭はかなりのビタースイーツ好きらしい。彼女の味覚を物差しで測るべきではなかった。メジャーをで測るべきだった。
「その苦さ、私があの時感じた心の痛みに置き換えてみたら?」
「…すいませんでした」
「冗談だって」
悪戯っ子のような笑みでクスクスと笑う。
「気にしてないからさ、私は」
「でも」
「全部チャラ。終わり」
パンパン、と手を叩く。
「…ごめん」
「それもなし。今日これから1回謝ったら1000円罰金ね」
「露骨だな」
「そうでもしないと壊れるぐらい謝ってきそうだから」
彼女の言うことには一理あった。事実、今の俺はたぶん壊れる寸前だ。ああした蘭の許しでもなければ、壊れていただろう。
「…多分さ、これからもおまえに失礼なこととか言うと思うけどさ」
「大丈夫。たまに言い返すだろうけど、基本は受け止めるよ」
それは蘭の優しさなのか、俺にはわからなかった。多分、とても残酷な面も持っているんだろうけど、今は気にかけたくなかった。
「…今日さ、モカに会った」
「青葉に?」
「うん。相変わらずだった」
「相変わらずなら、よかったよ」
古いアルバムを眺めるような、懐かしむような眼で語る。
「少し大人っぽくなってた」
「そりゃそうだろうな」
「でも口を開いたら変わってなかった」
「何よりだな」
「何よりってなに」と、軽く吹き出す。
「変わってなかったことに安心した」
やがてケーキを食べ終えて、フォークを皿の上に置く。
「もしさ、アンタが変わっても、私は出来るところまで支えるよ」
「無理しなくていいよ。愛想尽きたら捨てていい」
「限界がきたらそうするつもりだけど、1度惚れた身としては、出来るところまで世話するから」
照れ臭そうに、それでも顔は赤くなってなかった。もう、蘭はティーンを過ぎた。そしてさらにもう1つのステップを踏み越えようとしている。
「そんな覚悟持ってるからさ。多少の喧嘩じゃへこたれないよ」
「…出来る限りは、口調とかには気をつける」
「お互いにそうしよう」
そして蘭は立ち上がり、俺の元に歩み寄る。
自然に、体重を消したようにフワリと俺の頭を胸に寄せた。
「だからさ、そんなに気負わないで。私たち、夫婦じゃん」
優しく後頭部を撫でる。他人に髪を触れられる感覚は久しぶりで、少しくすぐったい。
額に触れる柔らかい乳房や、耳元で聞こえる蘭の声よりも、ただ体温だけを感じれた。
これが、純粋な愛ってやつなのだろうか。
「私がこれからも支えるから」
「…ああ」
「自分1人が支えてるだなんて、思わないでよ」
「…うん」
頬を伝う温かい涙。だらしなく、鼻水を垂らす。子供のように泣きじゃくる姿を他人に見せるのは、本当に久しぶりだ。
「その泣いてる姿とか、どんどん私に見せていいから」
服が濡れようと、関係なく彼女は俺を優しく抱きしめた。
「2人で進もう」
「ああ、2人で」
俺も蘭の背に腕を回す。
お互いに抱き合う形で、静かすすり泣く。
「寝よっか」
「ああ、そうだな」
夜はもう遅い。シンデレラの魔法が解ける時間だ。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
時計の秒針が進む音が微かに聞こえる。
外で吹いている風も負けじと音を立てている。
蘭と出会ってから10年経った。
その10年は濃すぎる気もしたし、まだ物足りない気もする。
だからこそこれからが楽しみでもあり、不安でもある。
それでも、手を伸ばせば届くところに、この温もりがあるのなら。
それはきっと、とても幸せなことなのだろう。
これにて本当に終わりです。
長々と続けてしまったので、もう何も言いません。
ただ、1つ言うことがあるとすれば。
最終話で詐欺ってすいませんでした。
それでは。