黒森レキという少女は父の顔を知らない。
女手一つ、母の愛を受けて育ち成長するにつれてその愛を自らの手で手放していくことになる。
幼かった頃の彼女は"父親"という存在に強い憧れを抱いていた。 母から父の話は語られることはない。
"–––お母さん、私にお父さんはいないの?"
母は何も応えない。 ただただ辛そうな表情で幼いレキの純粋無垢な双眸を見つめている。
"お母、さん?"
やはり母は何も応えない。 応えられない。
幼い彼女は何の疑問に思わなかった、そういうものだと幼いながらに理解してしまったからである。
だが、成長するにつれて、言葉を理解していくうちにどこの誰かもわからない者達の言葉が耳を突き刺す。
『お父さんに捨てられて可哀想に、こんなに小さいのに』
『そもそもあの子の父親は本当にあの人なのか? 父親なんて元からいなかったんじゃないのか?』
『異端だ、あの母親が。 相手もいないというのに子を成したというのか』
『–––魔女の子だ』
どこまで本当のことなのか、幼いレキにはわからない。
誰に向かっての罵倒で誰に向かっての同情なのか、レキにはわからない。
父親が誰なのか、レキにはわからない。
–––わかることはこの"駅"という閉鎖空間が黒森レキに向けて言葉の刃を無差別に突き刺しているということ。
彼女に向けられた言葉ではないのかもしれない、本来なら聞き流せたはずの言葉だったのかもしれない。
だが、幼い少女は耳栓という盾もなしに言の葉の刃をその身に受けることとなった。
それからというもの黒森レキは父という存在に恋い焦がれ、憧れるようになった。
父が異界の住人と知り、父が初めて訪れた地にも何度も何度も足を運んだ。
そこに行けば父に出会える気がしたからだ。 根拠のない希望に縋り付いた。
辺り一面にカキツバタの咲き誇る無人駅に一人で何度も何度も訪れるたびに言葉を零すのだった。
–––早く、速く、夙く、会いたい、愛たい、逢いたいよ。
–––お父さん。
黒森レキが母と仲違いしたのも皮肉にも家族の一人である"父親"が原因であった。
※
ケルトに到着した二人はレキを先導とし、彼女の母の住む家へと向かった。
"–––私の実家"
レキがそう言ってからというもの、明らかに口数が減った。
喧嘩別れした親子というのはやはり会いにくいものがあるのだろう、蓮見は父と母、共に仲良く就職活動までお世話になった身だ。 喧嘩自体は少なかった、意見も尊重してくれたというのもあっただろう。
もう何年も前の話である、この年になると蓮見も親と会おうとしても中々会うことができない。
だからこそ、レキの背中を押したくなったのかもしれない。 会える距離にいて会えるだけで幸福なのだから。
今回はダイスに頼る必要はなかった。
何故なら蓮見征史の意思ではなく、黒森レキの、あくまでも彼女の頼みだったからだ。 そこに蓮見の意思は含まれない。
『–––誰かを助けるときはダイスなんか頼らず、お前自身の思ったように動けばいい。 それが最善で誰もがハッピーになれる道筋なんだから、その道はダイスじゃなくて君自身が切り開くんだ、少年』
どこの誰とも知らない男が幼い日の蓮見を助け、ダイスを授けてくれた。
今になって思えば見知らぬ不審者らしからぬ容姿をしてたのによく話をしたなと我ながら思う。 もし、あの頃に戻れるのであれば幼い自分にもっと大人には気をつけろと釘を刺したい。
ぼんやりとしたことを考えていると前を歩いていたレキが歩みを止めた。
「着いたのか?」
「ううん、なんか蓮見さんが浮かない顔してたからどうしたのかなって思って」
「なに、ちょっと親の顔を思い出してただけさ」
レキが母親に会いに行くと言いだしたのだから仕方ない。 単語がカギとなり脳が記憶を呼び起こすなんてことはよくあることだ。
「え、蓮見さんのご両親って生きてんの? 蓮見さん自身おっさんじゃん」
「.....不謹慎な上に失礼な奴だな、お前」
蓮見がポリポリと髪を掻き溜息を吐く。
レキはそんな蓮見の呆れた様子を気にすることも蓮見の両親の話にこれ以上興味を持つこともなく、再び歩き始める。
緑の多いケルトの大地を歩くこと一時間、二人の目の前に小さな木造の民家が現れた。
レキが足を止めたということはここが彼女の実家であることに間違いはないようだ。
「ここか、黒森」
「そう私ん家。 てか、いい加減名前で呼んでくれてもいいんじゃない? 私の親も黒森なんだし」
「.....まぁ、そのうちな」
離婚した傷はまだ深い。
未だに女性と親密な関係になることを極力避けているのだから。
それなのに向こう側から蓮見に集まってくるのだからどうしようもない。
『イヴ』に来てからも黒森レキにジャンヌ・ダルク、蝶々さんに夜々と他にも多くの女性と出会った。
レキは特に躊躇いもなく入り口の引き戸を開く。
自分の家とは言え、家出した身としては入りにくいのではと蓮見は思っていたがどうやらそうでもなさそうだ。
「ただいま、母さん、いる?」
–––いや、そんなことはなかった。
彼女の口から発せられた言葉が辿々しく、どこかぎこちない。
思わず蓮見は小さく笑ってしまった。
レキには軽く睨まれることになるのだが、それでも普段の堂々とした彼女を知ってる身としては面白いことこの上ない。
家の中からは返事はない。
「出かけてるのか?」
「.....そんなこと、ない。 だって、母さんは、母さんは.....ッ!」
動揺しているレキを見て蓮見は事態を察した。
明らかにさっきの緊張とは違う声の震え方だった、異常事態。
蓮見はレキの了承なく、家の中へと駆け込んだ。 造りは一階建ての小さなごく普通の民家のため部屋一つ一つ見て回るのに時間は必要なかった。
寝室と思われる部屋のベッドの上に横たわる、どこかレキの面影のある女性の姿。
(.....頼む、どうか眠ってるだけであってくれ!)
掛け布団を軽く捲り上げ女性の脈に蓮見の右手が触れる。
–––脈は、ある!
「レキ! この街に医者はいないのか!?」
「.....あ、いる、いる!」
「大丈夫だ、まだ脈はある! 眠ってるだけだが、病状がわからない以上俺じゃ判断できん! 呼んできてくれ!」
「う、うん!」
いつの間にか寝室の入り口にまで来ていたレキは腰を抜かしていた。
できることなら蓮見が外へ行きたかったが、蓮見では地の利も詳しくないし何より医者の存在すらも知らない。
郷に入っては郷に従え。
ここで蓮見が留まって何かできるかと言われればノーだが、闇雲に飛び出すよりもずっといい。
顔色は悪くない、素人目でもそれくらいはわかる。 本当に意識を失っているだけであることを願うしかない。
家に入る前のレキの言葉から推測するに、この女性は寝たきりになっていることが多いと考えられる。 しかし、意識が途絶えることは少ない。
身の回りの世話をしてくれるような人物は見当たらない、出かけているのか元々いないのか、それとも定期的にやってくるかの三つが考えられる。
住み込みでないのであれば、そこまで重い病ではないと思われる。 レキも喧嘩して家を飛び出すなんてことしないはずだ。 多分。
「–––先生、急いで!」
「わかってるよ! イロハはどこだい!?」
「入って右に曲がった部屋!」
「おい、なんだ知らない顔がいるじゃねぇか! 何者だ、イロハから離れろ!」
息を切らした猫顔の女医が部屋に入ってきた。 ヒゲと尾を立てて警戒しているということがわかる。
「待って、その人私の知り合い! ていうか先生、声デカイ! 母さんに負担かけないで!」
「お、おう、悪い。 とにかくそこの男! こっからは俺の仕事だ、レキ共々どいたどいた!」
「頼む!」
正直、どこか胡散臭いところがあるがレキが連れてきた医者であるなら問題ないだろう。
蓮見とレキの二人は女医に言われるがまま寝室を出て、リビングにあたる部屋で無言のまま座っていた。
話題があるわけもなくただただ時間が流れていく。
最初に沈黙を破ったのは黒森レキだった、彼女自身こうした空気が苦手だということは短い付き合いの蓮見でもわかる。
「.....母さん、ね。 一人じゃまともに歩けないのよ」
ポツリ。
「いつ頃、だったかな。 私が小さい時はそんなことなかったんだよ。 あんまり覚えてないけど、仕事先で何かあったって話は聞いた気がする。 母さん、あまり脚のこと話そうとしないから、わからないん、だよね」
「.....」
「だから、普段は近所の人たちに助けてもらったり、私が足の、代わりになってたの」
ポツリ。 ポツリ。
「それなのに、喧嘩しちゃって、母さん元気なかったから、私がお父さんのこと見つけられたら、少しは、元気になってくれると、思って.....!」
ポツリ。 ポツリ。 ポツリ。
それは嗚咽の混じった懺悔だった。
両目いっぱいに涙を溜めて黒森レキは蓮見征史に静かに懺悔を続ける。
「–––最低、だよね。 あんな状態の母さんをさ、置いて家出するなんて。 しかも二年近く、だよ? 一日二日じゃないんだよ、なのに、なのに、うぅ、ぁぁ」
「レキ、今は泣きたいだけ泣け。 あの医者さんの診察が終わるまで俺が胸を貸してやる」
「蓮見、さん」
「–––人間誰しも失敗するし、誰しも後悔だってする。 完璧な人間なんていないんだ、そん時失敗したと思えば次に活かせばいい」
「.....うん、うん!」
「泣いたっていいんだ、お前は一人じゃない」
「う、う、あぁ–––」
–––黒森レキの罪は涙となった。
普段からは想像もできないくらい弱々しくなったレキの華奢な身体を受け止めた。
彼女は泣くだけ泣いた。
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