「兄さん!」
俺は目の前に立っている漆黒のコートを羽織った兄さんに声をかける。
海に逃げたジャッカル男を追跡するために、水上バイクに乗り海に出たらアリアが狙撃され、海に落ちた。救助するためにバイクをUターンさせるとそこには先ほどまでなかった宝船が浮かんでおり、その船の船室から兄さんが出てきたのだ。
なぜ兄さんがこんなところに……!
「夢を見た」
兄さんはカナとは違う…低い男喋りで俺に言う。
「長い夢の中で、『第二の可能性』が実現される夢を。だが……」
俺を下に見るムードで俺と向かい合った兄さんは
「残念だ、キンジ。パトラごときに不覚を取られ、ヒステリアモードを操れないお前には『第二の可能性』はない。夢はただの幻の夢にすぎなかった」
長い髪を海風が揺らし、俺を見据えてくる。
「わかんねえよ!『第二の可能性』ってなんだ!パトラって誰だよ!なんで兄さんは、アリアを撃ったやつの船に乗っているんだよッ!」
「これは『太陽の船』だ。
と兄さんが海に問いかけると
ゴボッ
とまた目を疑うようなものが浮かび上がってくる。
それは古代エジプトで用いられていた王族や貴族を収める聖櫃。
傾いた
アリア…!
先ほど撃たれ、ピクリとも動かないアリアが収まっていた。 海面にはもう一つ、柩にかぶせる用の蓋が現れ、それらをそれぞれ片手で持った、先ほどアリアを狙撃した女も浮上してくる。
まるで地面から湧き出すように。
「気安く妾の名を呼ぶでない。トオヤマキンイチ」
裸と見まごうほどに過激な衣装のおかっぱ頭の美人。ツンと高い鼻。プライドが高そうな切れ長の目。金のイヤリングは大きな輪の形をしていて、額にはコブラを象った黄金の冠。
胸当ては冗談のように細く、その上から黄金の飾りが胸を覆っていた。
「1.9タンイだったかの。欲しかったものは高くついたのう」
アリアを収めた柩の蓋を閉めて船に投げ、ジャッカル男たちにキャッチさせる。
こいつだ。ジャッカル男を操っていた親玉はこいつに違いない。
「妾に下々の事はよくわからんが、タンイとは、金か地位に関わるものなのだろう。それを餌にすれば、ほれ。妾の力が無限大になるピラミッドのそばに、アリアという最高の手土産を持って来よった」
当たり前のように水面に立つパトラと呼ばれた女が手の甲で口を隠して嗤いながら、『太陽の船』に上がっていく。
ハシゴも使わず、見えない階段を登るかのように。
(こいつもイ・ウーの一味か!)
ヒステリアモードではないが、銀華のおかげでそれなりに推理できるようになった俺の頭で、今までの事象が一気に繋がっていく。
俺の単位がどれぐらい足りないかは、武偵高の掲示板で公開されていた。それにぴったりの仕事をこいつが用意し、まんまと俺がそれにかかった。鴨がネギを背負ってくるようにイ・ウーの敵のアリアを連れて。
この女はジャッカル男などを見るに砂使い。
単位不足を補う任務にはたくさんの砂の盗難事件があった。あれもこいつがやったのだ。
「そういえば、誰も殺しておらぬ」
振り向いた女はこっちに一歩だけ踏み出した。
「祝いの生贄がないのはちと寂しい。お前。ついでじゃ死ね」
女が見えないピアノでも弾くかのように指を動かし始めた。
何だ…?
俺の身体が汗ばんできた。水蒸気のようなものが体中から上がる。これは何だ?
「パトラ。それはルール違反だ」
兄さんの声で、俺の体から上がる湯気が止まる。
「何ぢゃ。妾はイ・ウーを退学になったのじゃ。ルールがなにじゃ」
「そうか。パトラは紅華を怒らせたいのか?」
「そ、それはじゃな」
「お前が紅華とともにイ・ウーの頂点に立ちたいのは知っている。無駄な殺しを良しとしない紅華の不興を買っていいのか?」
「紅華は妾と仲がよい。一人殺したぐらいで紅華が妾のことを怒る事などあるまい!」
「そんなんだから、お前は紅華のパートナーに選ばれなかったのだ」
「わ、妾のことを侮辱するか!今のお前なぞ、ひとひねりぢゃぞ!」
パトラはカジノ・ピラミディオンを指差しながら、目を釣り上げた。
「そうだな。お前とここで戦うのは得策ではない」
「そうぢゃ!今の妾の力は無限大。だから殺させろ!でないと…お、お前を柩送りにするぞ!」
怒りながらも仕掛けないパトラに兄さんはすっと詰め寄り、パトラの顎を右手の人差し指で上げさせると--
「--!?」
いきなりキスした。
パトラは抵抗しようとして、胸を押し返そうとしたが止めた。
そして、ゆっくりと目を閉じ、全身の力を抜いてしまう。
力を抜いたパトラを兄さんは左腕で腰を抱え支えてあげていた。
「あれは俺の弟だ。これで赦せ」
少し絡んで乱れたパトラの髪を指で直しつつ、兄さんが言う。その兄さんからは先ほどとは一味違うオーラが漂い出す。
あれはヒステリアモード…!
兄さんは女性を傷つけるような形でヒステリアモードにはならないという不文律があったはずなのに―――
……ああ、そういうことか。
顔を赤くしているパトラを見て、わかったよ。俺にキスされた銀華にそっくりだ。
「妾を使ったな。好いてもおらんくせに」
「打算でこんなことができるほど、俺は器用じゃない」
そう言われたパトラは胸を抑え、すーはーと大きく深呼吸をする。
今の反応を見るにパトラは兄さんのことが好きなんだ。そして兄さんも。
銀華と俺も最初あんな感じだったしな。
ドクンッ!
身体の芯に血流が集まる感じがする。
さっき水上バイクでアリアと接触してもならなかったのに、銀華とのキスを思い出してヒスるか。俺って意外と一途なんだね。
「な、何にせよ。妾はそのお前と戦いとうない。勝てることには勝てるが妾も手傷は負いとうないからな」
と言い、ぽい。兄さんに何かを投げ渡しつつ--ザブン。
と海へ逃げ込んでしまった。
後方のデッキからはアリアを収めた黄金櫃をジャッカル男たちが持ちパトラを追う。
水面下に沈む柩を追おうとした俺を
「止まれ!」
兄さんが一喝した。
……
動けない。
アリアを助けたいのに…身体が金縛りのように制止させられてしまう。動けば銃弾が脳天を貫く。今の兄さんはやりかねない。それが本能的にわかる。そういう声だった。
「緋弾のアリアか--。儚い夢だったな」
俺と兄さんが残された洋上にそんな声が響く。
「緋弾の…アリア?」
なんなんだそれは。
わからない。
だが…アリア。
その名をあんたが呼ぶな。
アリアをあんな目にあわせてあんたがその名を呼ぶな!
「兄さん!あんたが助けてくれればアリアは……アリアは…」
「アリアはそういう運命にあったのだ。俺は看過しただけだ」
「詭弁だろ!アリアはあんたのせいで死ん…」
「まだだ」
そう言って、兄さんはさっきパトラに渡されたガラス細工を取り出す。
それは球場のガラスの中にあり止まらないようになっている砂時計。
「まだ死んでない。アリアが撃ち込まれたのはパトラの呪弾。あと24時間生きている」
「!」
「パトラはその間に、イ・ウーのリーダーと紅華。二人と交渉するはずだ。それまではアリアは生きている。だがそれまでだ。パトラの交渉結果がどうであろうと『第二の可能性』はない。ないならアリアは死ぬべきだ」
「兄さんはアリアを見殺しにするのか、あんたは…いったいイ・ウーで無法者の超人どもに何をされたんだ!」
「無法者、か」
叫んだ俺に兄さんは静かに目を閉じた。
「イ・ウーは真の意味で無法。世界の法も無意味と化し、内部にも一切法がない。つまりメンバーである限り、何にも縛られず自由なのだ。好きなだけ強くなり、自らの目的を好きな形で実現して構わない。その障害として誰かが前に立ちふさがるなら、殺しても構わないのだ」
嘘…だろ…!
イ・ウーが誰を殺しても問題ない、バラバラの目的を持った集団だなんて。そんな組織、すぐ内部で潰し合いが起きて存続できるわけがない。
「イ・ウーのリーダー『
「終わる…?」
「リーダーが死ぬのだ。寿命によってな」
ここから先は覚悟して聞けという風に、殺気のこもった目を俺に向けてくる。
「キンジ。イ・ウーはただの超人育成機関ではない。彼らは核武装し、超能力をも備えた、いかなる軍事国家も手を出せない戦闘集団なのだ。その中には
世界征服…?
そんなことを本気で考えているのかイ・ウーは。
「だが、イ・ウーにはそんな未来を良しとせず、純粋に己の力を高めようとする者たち--
「アリア…?」
「アリアはイ・ウーの次期リーダーに選ばれたのだ」
アリアが……
親の仇のイ・ウーの…リーダーに、選ばれた…?
どういうことなんだ?
「アリアをイ・ウーへ導く。その素質がない、弱いとわかったなら殺して次のリーダーを探す。それが研鑽派の合言葉だ」
「アリアをそんな強引な方法で攫ったって言いなりになるわけがない!」
「いいや、アリアは教授に従う。絶対にだ」
確信を込めて言い切った兄さんに、俺は何も返せない。再びこっちを見た兄さんの目には深い悲しみの色があった
「すまなかった、キンジ。何も教えてあげられなくて。俺はイ・ウーを滅ぼすために表舞台から消え、奴らの眷属となったのだ」
…!?
「そこで俺は奴らを殲滅する道を模索した。そして見つけた方法が『
『同士討ち』
それは、武偵が強大な犯罪組織と戦う時に用いられる方法で、組織を内部分裂させ、構成員同士で戦わせて弱体化を図るものである。
しかし、それは危険な戦術で、失敗すれば確実に殺される。
「イ・ウーを内部分裂させる--それにはまず、奴らを従えるリーダーがいてはならない。故に俺はリーダー不在の状況を作り出せる可能性を探した。俺は『ある作戦』を用い、リーダー最有力候補だった主戦派の元リーダーを辞退させ、二つの可能性を導き出した。『第一の可能性』は、教授の死と同時にアリアを殺し、イ・ウーが新たなリーダーを見つけるまでの時間を作ること。そして、『第二の可能性』、それは今のリーダー、教授の暗殺」
兄さんが口に出していた『第二の可能性』とは…
イ・ウーを崩壊させる可能性のことだったのか…!
「すなわち、『第二の可能性』の向こう側では、イ・ウーの教授、そしてその娘の紅華との戦いが待っている。回復役のクレハを倒さない限り、教授を倒すことはできないからな」
クレハ。
紅鳴館でメイドのふりをしていた少女で実際はイ・ウーの魔女で医者。
そして、もう一つの顔は……
「俺は長い夢の中で、
「……」
「お前は未熟すぎた。パトラごときに不覚を取るようでは教授どころかクレハにも勝てまい。『第二の可能性』がないなら俺は『第一の可能性』に戻るまでだ」
つまりアリアの殺害。リーダーの死と同時にアリアを殺すということだ。
「兄さん、あんた、武偵のくせに人を殺すのかよ…!命を犠牲に事を収めるつもりなのかよ…!」
「キンジ。俺は武偵であると同時に遠山家の男だ。遠山一族は、義の一族。巨悪を討つためには人の死は避けては通れない。覚えておけ」
話は終わり、という風に背を向けると太陽の船が端から崩壊し砂に戻っていく。
兄さんの姿が砂の霧で少しずつ見えなくなる。
兄さん!
どこに行くんだ。
イ・ウーに行くのか。
そこでアリアを…
「帰れ、キンジ」
こっちに振り返る事なく言った兄さんに唇を噛む。
「世の中には知らない方がいい場合もある」
兄さんは俺をイ・ウーから遠ざけ、何かを隠そうとしている。
『ある作戦』
兄さんの失踪。
クレハ。
ヒステリアモードの頭で点と点が繋がって行く。ああなるほど…だから怒ってたんだな、
だが今は関係ない。これは俺とあいつの問題だ。今考えなきゃいけないことはそこじゃない。
兄さんは今、巨悪を討とうとしている。
そのためにアリアが殺されようとしている。
俺は決めなくてはいけない。
兄さんに従う正義の道か、アリアを守るパートナーを助ける道。
どうする。
どうするよ俺。
ここが運命の分かれ道だ。
誰も答えを教えてくれない。俺自身が決めるしかない。
銀華ならどうするか?銀華に見せられる俺はどっちなのか。そんなの決まっている。
「帰れキンジ。お前まで死にに行くことはない。犠牲はアリア一人でいい」
アリア。
俺はその言葉に弾かれるように水上バイクのアクセルを引いた。崩れゆく太陽の船にフルスロットルで近づく。
「待て!兄さん!」
砂でほとんど視界が取れない状態の中、バタフライナイフを片手で開き、太陽の船に突き刺した。
投げ出される勢いで水上バイクから離れ、ナイフを頼りに太陽の船の甲板までよじ登る。
崩れゆく甲板の上で兄さんが振り返った。
その眼光が怒っている。
人間の物じゃない。まるで鬼か龍のようだ。
兄さんは本気の本気で俺に対して怒っているのだ。
今まで兄さんが俺に怒ったのは、俺が自分の身を危ない目に晒した時だけ。
だが、負けるものか。
もう一線を超えてしまった。
どうなるかわからない、一寸先すら見えない砂塵の壁を。
「兄さんはわかってるんだろ!」
ナイフを収めつつ、俺も兄さんを睨みつける。
「自分が間違っているということぐらい、わかってるんだろ!兄さんは自分の本当の気持ちをごまかしてる。弱い自分をごまかしている。義があるんだったら、誰も殺すな!誰も死なせないで誰もを助ける。それが武偵だろ!」
「キンジ。それは俺が100万回考え100万回悩んだ事なのだ。義というものが本当にそうであれば、どれだけいいのか。俺が
「そんな方法で世界が守られていいのか!」
兄さんに逆らうということはアリアを助けるという事。攫われたアリアを助けるには兄さんを。パトラを。そして教授とやら、そして
だがなんだ。アリアを助けるついでに自分の義父に挨拶に行けると考えればいいんだ。その道が少しばかり険しいだけで諦めてたまるか。
「キンジ。お前はたった一人の家族に逆らうつもりか」
「俺には銀華がいる。兄さんだけじゃない」
「……」
「憧れていた、昔の兄さんはもういない。今の兄さんは、俺の知ってる兄さんじゃない。正義だのイ・ウーだのもう関係ない」
俺はホルスターからベレッタを抜く。
「兄さん。いや元・武偵庁特命武偵、遠山金一!俺はお前を殺人未遂の容疑で逮捕する!」
俺に銃口を向けられた兄さんは静かに目を閉じる。
「いいだろう。俺もまだ一つ、確かめていないものがある。お前のHSS」
HSS。ヒステリアモード
「それはさっき俺たちの行為を見て、銀華と接触した時のことを思い出してなったものだな」
「それがなんだっていうんだ…!」
「じゃあ、見せてみろ。この船が沈むまで、もう一度だけお前を試す。お前もどうやら気づいているようだし、今一度、お前と
「この船が沈むまで、もう一度だけお前を試す。お前もどうやら気づいているようだし、今一度、お前と
兄さんは銃を抜かない。
いや違う。もう既に構え終わっているのだ。
無行の構えは『不可視の銃弾』
「兄さん。昔、ジョン・ウェインの西部劇映画を一緒に見たよな。その技の原型を」
俺がそう言うと兄さんは僅かにその目を開いた。
ヒステリアモードの記憶力は、銀華とアリアと戦った時の記憶をプレイバックさせる。
兄さんの銃声を思い出すに、兄さんが使っている銃はピースメーカー。
名銃だが、19世紀前半に開発された博物館においてあるような銃。現代武偵が使う武器じゃない。
じゃあなぜ、兄さんはその銃を使っているのか。そして答えは出た。
コルトピースメーカーは、拳銃史上で1,2を争う、早撃ちに適した銃。
ほとんどの面では近代的な
その銃を使い、人間を遥かに凌駕した反射神経で、目にも留まらぬ速さで発砲する。
それが『不可視の銃弾』のカラクリだ。
「さすが俺の弟だな。この技を見抜いたのは二人目だ。銀華と婚約したのは正解だった。お前はヒステリアモード以外でも自分の力を伸ばしている」
そう言いながら兄さんは爪先を動かして構えなおした。来るぞ!
「だが、見抜いたからなんだというのだ。お前の戦闘技術は全て俺と銀華から教わったものだ。俺は本気の銀華に1vs2でも負けなかった。そんなお前が不可視の銃弾に対応できるのか?」
退くな。
ここまで来たんだ。考えろ。
無いなら作れ!
今ここで!
☆★☆★☆★☆★☆★☆★
私はイ・ウーのベットに寝転がり、天井を眺めながら考え事をしていた。
(もうすぐか……)
もうすぐキンジがイ・ウーに来る。
私はイ・ウーの紅華として対面しなくてはならない。
(やっぱり…それしか無いよね……)
何回と考え何回と悩んだ結果それしか見つからない。今の私はイ・ウーの紅華、キンジはイ・ウーの敵、そして父さんの言葉。
「キンジ、私はあなたを倒すよ」