臨海学校、当日。
学園が用意したバスに乗り込み、海へ向かう。
車中、一番後ろの席で南が息を吐いた。
隣に座る一夏が、そんな彼の顔を心配そうに覗き込む。
バスに乗り込む際、箒とセシリア、シャルロット、ラウラの誰が、南の隣に座るのか揉めた訳だが、千冬によって、南の隣は一夏ということになった。
「なんか、ずっとため息ついてるけど……気分でも悪いのか?」
一夏が前の座席に付いているホルダーから、ペットボトルを差し出す。
「飲んでもいいぞ」
「いや、大丈夫だ」
そんな提案をやんわり断って、背もたれに身を預けた。
「一番後ろの席で酔ったとか?」
「普段、ISに乗って動き回ってる俺がか?」
「それもそうだな……」
具合が悪そうには聞こえない南の声に、一夏は首を傾げるばかり。
しかし、「あっ」と手をポンと叩いて、南を指さす。
「分かったぞ。南、泳げないんだろ?」
「…………」
南は答えない。
それが、ほとんど答えだった。
「そういや水着買いに行こうって言った時も、乗り気じゃなかったもんな! そうかそうか、そういうことか!」
思わぬ弱点を発見したと、一夏は嬉しそうに笑う。
南は不機嫌な表情を隠すこともなく、目を閉じていた。
「だから海に行きたくないのか……納得納得」
大げさに頷く一夏に、南は苛立ちを押さえるべく、腕を組んだ。
「そっかぁ、泳げないかぁ!」
「うるさいなっ」
肘で一夏の腕を突く。
それでも、一夏は頷くのをやめない。
「一夏、随分と調子に乗っているようだがな……その調子だと、いつか痛い目に会うぞ。地べたに這いつくばることになって、通りかかった俺に『助けてください、南様』と言っても、どうにもならないからな」
「はいはい」
早口で言う南に、一夏は笑みを崩さなかった。
ムキになる子供をあやすような態度に、南は下唇をぬっと出した。
「そうだ。じゃあ、俺が泳ぎを教えてやろうか?」
一夏が体を、南の方へ向けた。
「この歳になって、友達に泳ぎを教えてもらうなんて……恥ずかしいだろ」
「そんなこと言ってたら、いつまで経っても泳げないじゃんか」
もっともなことを言う一夏だが、南は首を縦には振らなかった。
「泳ぎには自信あるんだぞ? 弾とか他の友達には『素早いトビウオ』って呼ばれてたんだ」
胸を張って、自信満々に言う一夏。
南は眉を顰めた。
「それは、馬鹿にされてるんじゃないのか?」
「冗談言うなよ」
ははっ、と笑い飛ばす彼の自信に、南はため息をつく。
「俺は、そんな格好悪いのじゃなくて、もっと格好良いのがいいな……」
「格好悪いか? 気に入ってるんだけどな……じゃあ、南はどんな風に呼ばれたいんだよ」
そう呟いた南に、一夏は言い返した。
「そうだな……『片足のフラミンゴ』とか」
「フラミンゴはいつも片足で立ってんじゃん」
一夏が呆れたような声を出した。
しかし、南は「うんうん」と満足気に頷いている。
そして同時に、一夏の方を向いた。
「そう、フラミンゴはいつも片足で立っている。どうしてか知ってるか?」
「あ、知ってるぞ。小学一年の時に、千冬姉に動物園に連れて行ってもらったんだ。その時、係の人が教えてくれた」
「お前の記憶力は凄まじいな」
「千冬姉にどこか連れて行ってもらったのは数少ないから……よく覚えてるんだ」
一夏は懐かしむように笑って続ける。
「確か……フラミンゴは脚が細くて長いから、冷えるんだ。だから折り畳んで、片方ずつ体で温めてるんだろ?」
目線を上げて、捻り出すように言う一夏。
指でこめかみをトントンと叩きながらだった。
「違うな」
しかし、南は「ふっ」と笑った。
「えっ!? 違ったか……じゃあ、なんで片足を折り畳んでるんだ?」
「両足を折り畳んだら、倒れるからだ」
「おっ、そろそろ着くか?」
南を無視して、一夏は窓の方を見つめた。
「よしっ、泳ぐぞ~」
席に座り直して、笑顔を作る。
「……無視は酷くないか?」
そんな問いかけも、一夏は聞き流した。
「今、十時です。夕方までは自由行動、夕食には遅れないように旅館に戻ること。いいですね?」
真耶がそう言うと、「はぁーーーい」と元気な返事が響く。
同時に、生徒達が走り出した。
目的地に着いたIS学園一行は、旅館に荷物を置き、海へと繰り出していた。
南も、なんだかんだ言って水着には着替えている。
折角、買った物を一度も履かないのは、南にとっても本意ではなかったからだ。
薄手のパーカーを羽織ったまま、海へと駆け出すクラスメイトや学園生を見送る。
「あ、あの……南さん……」
背後から呼ぶ声がして、南は振り返った。
「セシリアか」
青のビキニに、パレオを腰に巻いたものを着ていたセシリアは、その手に、折り畳んだビーチパラソルと丸めたシートを抱えて立っていた。
伏し目がちに、チラチラと南を見ている。
「どうした、お前は泳ぎに行かないのか?」
南が笑いかけると、セシリアは頷いた。
「ええ。その……実は……」
歯切れが悪いセシリアに、南も言葉を待つしかない。
「わたくしに、サンオイルを塗っていただけませんか?」
上目遣いに南を捉えるその視線は眩しくて、つい目を反らしそうになる。
頭の後ろを掻きながら、言葉を探す。
「ああ、まぁ……別にいいが……」
「ほ、本当ですの!?」
嬉しそうに満面の笑みを浮かべて詰め寄るセシリアに、南は苦笑した。
「初めてだから、自信はないが……それでも良ければ……」
「は、初めて……はいっ、是非! 是非、お願いします!」
「そんなに嬉しいか……ほら、それ刺してやるよ」
そう言って南は、セシリアの手からビーチパラソルを取って、砂を足で払った。
ザクッと気持ちの良い音を立てて、パラソルは砂浜に突き刺さった。
「それ、敷くのか?」
傘の部分を広げた南が問う。
「は、はいっ」
緊張気味に、セシリアが返事をすると巻いていたシートを、出来上がった影に広げた。
「それでは、お、お願いします……」
シートの上に寝そべったセシリアは、背中の紐を解く。
南も隣に膝をついた。
彼女が用意していたサンオイルを手に垂らして、馴染ませる。
「じゃあ、塗っていくぞ」
(はぁ……夢のようですわ~)
セシリアは南の大きな手の感触を背中で感じながら、甘美な息を吐く。
「どうだ? 上手く出来ているだろうか?」
控えめな声で言う南に、セシリアはただ頷くことしか出来なかった。
「なら、いいんだが……それにしても、これ、いい匂いがするな」
「本国から取り寄せた、最高級オイルですのよ」
セシリアは眠ってしまわぬよう、なんとか声を絞り出した。
この幸せな時間を眠って終わらせてしまうなど、あり得ないことだった。
「そうか……じゃあ、俺にも塗ってくれないか」
「へっ?」
予想外な言葉に、思わず変な声が出てしまった。
寝そべった状態から、限界まで首を動かして、南の方を見る。
「いや、これスベスベしてて気持ち良いし……俺にも……駄目か?」
南は左手でくまなくセシリアの背中を撫で、右手についたオイルを見つめていた。
興味深そうに、オイルの入ったボトルと交互に視線を動かしている。
「まぁ、最高級の物を、俺に使いたくない気持ちは分からんではないが……」
「い、いえっ!そんなことありませんわ! わたくし、セシリア・オルコット。全身全霊の力を込めて、南さんのお背中に、オイルを塗らせていただきます!」
「いや、あんまり力を入れられすぎると、俺の背中が折れそうだから、ほどほどで頼む」
そう言ながら南は、ビキニの紐をセシリアの背中に結び直した。
セシリアが起き上がると、バトンタッチするように、南がパーカーを脱ぎながら、シートに寝そべる。
「よし、いいぞ」
南が言うと、セシリアは同じように隣で膝をついて、その手にオイルを垂らす。
「ま、参ります……」
「そんなに緊張しなくても……もっとリラックスして……ひゃおんっ!」
オイルを手で温めていなかったからか、セシリアが背中に手を当てた瞬間、南は思わずのけ反った。
ついでに、変な声も出る。
「つ、冷たいじゃないか」
「申し訳ありません! わたくしも、誰かの背中に塗るというのは初めてでして……」
セシリアが眉を下げた。
「なら、仕方ないな」
南は笑って、また体を横にする。
「アンタ達、何してんの……」
低い声がした。
そちらの方を見ると、鈴が怖い顔をして立っていた。
「おう、鈴。もう泳いできたのか」
鈴の全身は濡れており、大きなバスタオルを持っていることからも、それは容易に想像できた。
しかし、そのタオルで体や髪を拭かず、ポタポタと大量の水滴を落としながら、二人を睨む鈴。
セシリアは小さく舌打ちした。
「何してんのか聞いてるんだけど……」
「セシリアにサンオイルを塗ってやってたんだが、それが気持ち良くてな。俺にも塗ってもらってたんだ」
南が言うと、鈴は複雑な表情をする。
二組の友達と呑気に遊んでいる場合ではなかった、と唇を噛んだ。
「それにしても、お前……なんで体も髪も拭かないんだ」
南は苦笑すると、立ち上がって鈴の手からバスタオルを取る。
「ほら、拭いてやる」
「えっ、ちょっ……べ、別に……」
鈴も最初は抵抗していたが、南がバスタオルを頭にかけ、わしゃわしゃと動かし始めると次第に大人しくなっていった。
「じ、自分で……拭ける、から……」
「まぁ、そう言うな。本当はドライヤーで乾かした方がいいんだろうが……まぁ、ないものは仕方ない」
南はそう言いながら、バスタオルで髪を挟むようにして水分を拭き取っていく。
すっかり大人しくなった鈴は、ただ立っているだけだった。
バスタオルで前は……南はよく見えない。
セシリアはただ、膝をついてその光景を見ているだけだった。
「それにしても……」
南が口を開く。
「な、何よ……」
髪を拭かれる気持ち良さから、鈴は震える声をなんとか絞り出した。
「いつもはツインテールだが、そうやって髪をおろしているのも、新鮮で可愛いな」
パッとバスタオルが退けられた。
そう言って笑う南の笑顔に、鈴は顔を真っ赤にした。
小さくそよいだ風が、パラソルと揺らす。
揺れたパラソルは、太陽の光を遮る役目を一瞬忘れた。
太陽が、南と鈴を照らす。
体が熱い。
拭いていない体についた水滴が蒸発するような熱に、鈴は言葉が出なかった。
「ん? すまない。シャルロットが呼んでいるな……行ってくる」
それだけ言うと、南はバスタオルを適当に折り畳んで鈴に手渡した。
ボーッとしたままの鈴は何も考えられず、無意識にそれを受け取る。
置いていたパーカーを掴んで、振り返った。
「それじゃあ。セシリアも、また後で」
南が小走りで去るのを見届けて、セシリアが鈴の方へ向き直った。
「鈴さん? 鈴さん?……聞こえてないんですの?」
緩みきっただらしない表情をする鈴に、セシリアはため息をつくしかなかった。
「どうした」
南は再度、パーカーを羽織りながら、呼ばれたシャルロットの元へ駆け寄った。
隣には頬を赤らめて、モジモジとしているラウラが立っている。
「南にも、水着を見てもらおうと思ってね」
そう笑うシャルロットは手を後ろに組んで、前かがみになった。
「どう?」
「ああ、可愛らしいと思うぞ」
南はそれ以外の言葉が思い付かないのか、即答した。
水着を買いに行ったあの日。
あの日は照れ臭そうに言っていたから、そんな答えでも許したが、こなれたように言う南には、シャルロットもムッとする。
「ふーん。どんなところが?」
「ん?」
「どんなところが可愛い?」
シャルロットは悪戯を思い付いた子供のように笑って、南に笑いかけた。
「そうだな……」
南は顎に手をやって、一瞬だけ考える。
「まぁ、下品にならない程度に開いた胸元と黒のストライプがいいな。その黄色を基調にしているのも、お前の綺麗な金髪とよく合っている」
スラスラと舌を噛むことなく言った南に、シャルロットは目を丸くした。
しばらくして、顔を赤くしながら目線を忙しく動かし始める。
「あ、あははっ……そ、そっか……き、綺麗……綺麗ね……」
ニヤニヤと頬を緩ませるシャルロットは、同時に動揺を隠せない。
(ず、ズルいよ南……困ってくれると思ったのに……)
シャルロットは何とか話題を変えようと、隣のラウラの肩に手を置いた。
「ラ、ラウラはどうかな!? この水着、僕が選んであげたんだ!」
「う、うぅ……あまり、見ないで欲しい」
そう言って困った顔をするラウラに、いつもの強気な姿勢はなく、ただしおらしかった。
視線を上げようとしない彼女だったが、チラチラと南の方を伺ってはいるようだった。
「おかしな所なんてないよね? 南」
「そうだぞ、一夏を見てみろ」
南が指さす先には、一夏が女子に混じってバレーボールをしていた。
ちょうど、スパイクが決まったのか歓声が上がっている。
そんな一夏の水着は、虹色だった。
否、ただ七色なだけではなく、もっと様々な色が施されていて、見ていると目が疲れる。
「アイツな……水着売り場で真っ先にあれを手に取ったんだ。あのセンスには痛み入る。」
「あれと比べられるのは心外だ」
照れ臭さが冷めたのか、ラウラの声がいつものように低くなった。
「まぁ、あれとは比べ物にはならないぞ。その水着、よく似合ってる」
そう言って南が笑うと、ラウラの表情は一瞬固まり、すぐに崩れた。
「そ、そうか……似合っているか……シャ、シャルロットより、似合っているか!?」
目線を反らしていたラウラは、くわっと南を見上げる。
そんな動作に驚いて、南は一歩後ずさった。
「ラウラ!?」
予想外な二択を迫ったラウラに、シャルロットも目を丸くする。
しかし、すぐ目に力を入れて南の方を見つめた。
「ど、どうなの! 南!」
流石に、答えがすぐに出ず、南はこめかみを掻いた。
「ど、どっちが良いとかではないぞ……」
「そ、それでは駄目だ!」
「そうだよ! どっちか選んで欲しいな!」
答えに困った南は、目を泳がした。
必死に逃げ道を探していると、変な色の水着が目に入る。
「い、一夏……一夏に聞いてこい。あいつの意見を参考に、俺も答えを出すとしよう……」
南が必死に言うと、納得したのかしていないのか、一瞬顔をしかめた二人だったが、すぐに顔を見合わせて頷いた。
「それじゃあ、聞いてくる。嫁はここで待っていてくれ」
「すぐに戻ってくるからね、待っててね」
二人は同時に言って、一夏の方へと走り出した。
それを見送って、南は海の家の方へと歩き出す。
「すまん、一夏。後は任せたぞ」
海の家では、数人の生徒がテーブルでかき氷を食べていた。
「あ、南……」
「おっ……かん……ざ……し」
逃げるようにやってきた南が、キョロキョロと適当に見渡していると、簪が声をかけてきた。
しかし、インドア派な印象を持っていた彼女からは、想像できない格好に、上手く言葉が出てこなかった。
水色のビキニで、レースもついており、谷間部分には大きなリボンが付いている水着は、簪のイメージをガラッと変えていた。
「簪………その水着、いいな」
ストレートな言い回し。
『可愛い』や『似合っている』ではない、直接的な言葉に、簪は頬を赤くして微笑んだ。
「あ、ありがとう……」
その後の言葉が続かない。
南もいつものようにポンポンと言葉が出なかった。
「かき氷食うか?」
一夏に逃げ、そして今度は、かき氷に逃げる南。
少しして、簪が口を開いた。
「いい、の……?」
「ああ、奢ってやる。何味がいい?」
「じゃ、じゃあ……イチゴ」
「イチゴだな……すみません、イチゴとブルーハワイ一つずつ」
「あい」
店の渋いおじさんが短く言う。
氷が削られる音を楽しみつつ、カキ氷を待った。
「ほら、イチゴ」
「あ、ありが……と」
おじさんからかき氷を受け取り、簪に渡す。
少し離れたベンチに座り、ストローを切って作られたスプーンで一口。
「美味い。やっぱり海にはカキ氷だな」
泳げもしない南が、そんなことを言う。
「う、うん……おいしい……」
隣に座る簪も満足しているのか、目を細めた。
少しして、簪が南の方へチラチラと視線を向け始めた。
すぐにそれに気が付いた南が、かき氷を口に運ぶのを中断する。
「どうした?」
「南……!」
「お、おう……」
思いがけない勢いで名前を呼ばれ、南は思わず動揺したような声を出してしまった。
「そ、その……わ、私も……ブ、ブルーハワイ……一口、頂戴?」
顔を真っ赤にして聞いてくる簪。
「ああ、いいぞ。ほれ」
南はそう言って、自分のかき氷を差し出したが、簪は目を閉じてこちらを向いていた。
その口が小さく開かれている。
「お、俺が……食べさせるのか?」
「…………」
簪は頷くだけ。
「じゃ、じゃあ……あー」
そう言いながら、スプーンで一口分すくい、彼女の口元へ持って行く。
「どうだ?」
「う、うん……おい、しい……」
満足そうに、簪は言った。
「それは良かった」
そんな彼女の表情を見て、南も笑みを浮かべた。
時間は過ぎ、IS学園の生徒は大宴会場で夕食を取っていた。
テーブル席と座椅子のどちらかを選択し、食事を摂る。
南はテーブル席に座っていた。
一夏は座椅子の方に座り、既に刺身を頬張っていた。
「俺も食うか」
「ああ、いただくとしよう」
いつの間にか隣に座っていたラウラが言った。
「おう、ラウラ。お前もこっちか」
南はテーブルをトントンと叩く。
「正座というのは、実に苦しい。あれは一種の拷問だ」
ラウラは苦い表情で、座椅子を睨んだ。
南は苦笑いする。
「そこまで辛いか」
「それに、お前がこっちに座っていたからな……」
小さな声で続けたラウラに、南は「そうか」とだけ言って優しく笑った。
「ほら、食べよう」
大きな盆に並んでいたのは、刺身だけでなく、丸コンロに乗った小さなふるさと鍋。白米に味噌汁、煮物と豪勢だった。
箸を手に取り、茶碗を持つ。
「そう言えば……今日は、箒を見てないな」
ふと、思い出した南は辺りを見渡す。
すると、座椅子席の端で一人、黙々と食事をする箒の姿があった。
「なんだ、こっちの席が空いていたのに……呼んでやればよかったな」
箸と茶碗を置いて、南が立ち上がろうとすると、ラウラがそんな彼の袖を掴んだ。
「ん、どうした」
「これは……なんだ?」
ラウラが箸でつついていたのは、刺身の皿に添えられたわさびだった。
小さな山状に盛られたわさびは、いい緑色をしている。
「ああ、それは、わさび……」
「はむっ」
南が説明をする間もなく、ラウラはわさびを口に入れた。
「お、おいっ」
南が声をかけるが、もう遅い。
目から涙を大量に流し、無言でテーブルを叩くラウラ。
「ほら、お茶飲め、お茶」
「うぐぅ……しゅ、しゅまない……」
鼻を抑えながら、南の手からお茶を取ったラウラは一気に飲み干す。
「あ、ばか……」
再び声をかけるが、またもや遅い。
「あっつうううううう!」
湯気が立つほど、熱いお茶を一瞬で腹に収めて無事な訳がない。
ラウラは悶えながら、体を必死に揺らしていた。
「水、もらってきてやる」
南はそう言って立ち上がった。
「しかし、ラウラもまだまだだな」
「……うぅ。何が、だ」
今にも消えそうな声で言うラウラ。
引いた椅子を戻しながら、南は続けた。
「織斑先生くらいになるとな、その程度のわさびじゃ満足しないぞ」
ラウラがドイツに居た頃、千冬によって鍛えられたと昔話をしてもらったことを思い出して、南が笑った。
それ故に、自分は千冬のことを『教官』と呼んでしまうと聞いていた。
「そうだな……この茶碗一杯分のわさびなら、笑顔で食える」
「ほ、本当か!? 流石、教官だ。こんな物を……」
ラウラが尊敬の表情を浮かべた時、南の背後から凄まじい気配を感じた。
「神代……」
低い声が響く。
胃の中から伝わるような声に、南は肩を震わせた。
「貴様……随分と愉快な話をするじゃないか」
南は振り返ることなく言った。
「いや……これは、ラウラを元気付けようと……」
「そうか。ボーデヴィッヒの為に、私を使ってホラ話か」
どんどん低くなる声に、室内の温度も下がっていくようだった。
ゆっくりと振り返ろうとした瞬間、南は倒され、床に寝そべる恰好になった。
「痛い痛い痛い……いや、本当に痛い」
肩をぐっと抑え込まれて、外れてしまうんじゃないかというくらい、力を込められる。
思わず、悲鳴を上げそうになった。
すると、南と同じように水をもらうためか、コップを片手に一夏が歩いてくるのが見えた。
うつ伏せに抑え込まれたまま顔を上げると、一夏は明らかに困惑した表情で南を見下ろしている。
「助けてください、一夏様」
南が言った。
「ほらな、南。片足ずつ畳まないと、倒れちまうだろ?」