神代 南はいじめられっ子だった。
いつ頃からいじめられていたかは覚えていない。
当時はまだ都会に暮らしていた彼は、小学校に入学し、数年は普通に過ごしていた。
友達はいたし、この当時から冗談を言っては、クラスメイトを苦笑させていた。
今思えば、それが原因なのかもしれない。
何の気もなく言った冗談のどれかが、誰かを逆撫でし、そこからいじめは始まった。
無視され、物を隠され、時に無意味な暴力を受けた。
耐えられないほどのことではなかった。
いじめ、という存在を理解していた彼にとって、そのターゲットが自分に向いている、ただそれだけのことだというのが分かっていた。
教師や両親には言わなかった。
心配をかけたくない、というのもあったし、優しく接してくれる両親と、いじめに参加しない同級生がたまにこっそり話しかけてくれる……それだけで満足していた。
クラスが変われば、いじめはなくなる。
そんなことはなく、いじめは卒業まで続き……中学に入って、更にエスカレートしていった。
いじめのリーダー的存在だった男が同じクラスだったことと、その彼が多くの「悪い先輩」とつるんでいたことが原因だった。
物を隠されることはなくなった。
しかし、増したのは暴力。
毎日ではなかったが、機嫌が悪ければ一部のクラスメイトや先輩に殴られ、蹴られ、踏まれる。
そんな中学に入学し、半年が過ぎた頃。
ついに、運命の歯車が動き出す。
「うがっ」
人が滅多に近寄ることもない地帯にある、もう使われていない古い廃工場。
南は、髪を派手に染め上げた上級生に背中を蹴り飛ばされ、地面に転がった。
下品な笑い声が響く。
錆まみれの汚いパイプ椅子に座らされ、ボロボロのロープで手を後ろで縛られた。
「今日さぁ」
制服をだらしなく着崩した上級生が、鞄を放り投げながら言った。
「センコーの野郎が、説教してきやがってよぉ……マジで怠かったわ。でぇ、イラついてんだよねぇ」
どこからか持ってきた鉄パイプで肩をトントンと叩く。
南は不味い、と唇を噛んだ。
素人の拳や蹴りは、それこそ数年前から耐えてきている。痛みはあるが、大きな怪我はしない。
だが、武器はどうしても加減が利かないため危険だ。
「だからさ、ゲームに付き合ってくれよ、ゲーム。な? それならお前も楽しいだろ?」
そう言うと、また周りの取り巻きが笑った。
「えっと……じゃあ、ケン。ほら」
ケンと呼ばれた男に鉄パイプを渡す。
嬉しそうにそれを受け取ったケンは、ブンブンと素振りを始めた。
長く伸ばされた金髪が揺れる。
「上から行けよ。顔な、顔面狙え」
愉快そうに笑いながら指示を出す彼に、ケンはあいよーと返事をした。
「で、ルールなんだけど。顔面殴って、歯が折れたら一ポイントな!」
南は思わず、歯を食いしばる。
いつもより力が入らない。
足が震えた。
「足とかは後でいいだろ。ほらやれよ、ケン!」
そんな指示を出す彼の他に、ケンと、南をここまで引っ張ってきた男、小学生の時から南をいじめていた同級生、そして中学からそれに参加していたクラスメイトの計五人。
それぞれが歪んだ顔で笑いながら、「ゲーム」を楽しもうとしている。
「それじゃあ、いっきま~す」
軽快に言いながら、片足を振り上げ、鉄パイプを引くケン。
この容赦のないであろう一撃を喰らえば、不味い。
ついに殴られると思い、死を覚悟した瞬間、南の中の時間が静止した。
南の頭は、目の前の状況を冷静に分析しはじめる。
―——素手での暴力は、大丈夫。
―――鉄パイプでの殴打、死。
―――一回殴っただけじゃ終わらない。
―――ロープ、ボロボロで引きちぎれる。
―――相手は五人。
―――武器、今座っているパイプ椅子か、相手の鉄パイプ。
―――やられる前に、
―——やるしかない。
そこまで思考した南の行動は早かった。
ロープを力いっぱいに引きちぎり、突進。
ケンの腹部に、頭をめり込ませる。
一瞬、何が起きたか分からない四人を前に、南は素早く鉄パイプを拾い上げた。
振りかぶって、動揺している同級生の肩に叩きつける。
悲鳴が響く。
喧嘩慣れしているのか、上級生はそんな様子を見た後、拳を握った。
腕が振るわれる。それを躱し、わき腹を薙ぎ払う。
ポケットからナイフを取り出したのは、楽しそうにゲームだと騒いだ上級生。
リーチは南に有利。
一突き。
それを躱され、ナイフの刃が南の手を切りつける。
痛みに表情が歪む。
しかし、南は集中していた。
痛い、でも冷静に。
こいつはナイフを持っている、でも冷静に。
動く敵はまだ三人、でも冷静に。
またナイフの刃が襲う……だから蹴りを胸に。
やけくそ気味に奇声を発しながら突っ込んでくる上級生がいる……だから鉄パイプで喉を突く。
小学生の時からいじめてきていた同級生が動揺している……だから顔面を殴る。
あくまで慌てず、南はくるくると体の向きを変えながら拳を、脚を、鉄パイプを振るった。
「はぁ……はぁ……」
倒れ込んだ五人のうめき声が聞こえる。
激しく息を切らした南は、肩を上下させた。
「やるな。いい動きだ」
そんな低い声が聞こえたと同時。
背後に向かって鉄パイプを叩きつけた。
それを腕で受け止めたのは、見たこともない男だった。
秋といえど、まだ残暑が厳しいにも関わらず、茶色のトレンチコートを着て、同じ色のハットを被っている。
薄暗い倉庫ではあったが、サングラスをかけている男は、背が高く、南を見下ろしている。
「お前なら、なれるかもしれない」
男が言う言葉に、表情を歪めながらも、南は限界が近づいていることを感じていた。
極度の緊張状態から解放されたような、疲れと脱力感が襲う。
正体不明の男が大人だったからだろうか。
只ならぬ雰囲気は感じるが、南の握力は弱まるばかり。
激しく呼吸しながら男を睨む。
「こんの、ゴミがぁぁあああ!」
主犯格の上級生が立ち上がった。
胸を蹴り上げられ、一瞬、呼吸が出来ないほどの衝撃があったが、倒れ込みながら回復し、ナイフを拾い上げ、南の背中を切りつけようと、振りかぶった。
南は首だけで振り返るが、もうどうすることも出来ない。
躱すことも、迎撃することも出来なかった。
思わず目を閉じる。
「目を閉じるな」
男が言った。
「あぎゃあ!」
同時に、上級生の悲鳴。
ドサッと倒れ込む彼の腹には、変わった形の刃が刺さっており、男の手にはスイッチのついた柄が握られていた。
よく見ると、柄と刃は糸で繋がっている。
「目を閉じれば、死ぬしかなくなる。最後の瞬間まで、目は開いておけ。そうすれば、活路は開かれる」
「……し、死んだのか」
男のそんな言葉に返事をすることなく、南は鉄パイプを手放した。
カランッと音を立てて、転がる。
「死ぬと困るのか?」
無機質な声、無感情の言葉に、目を丸くする南。
刃がひとりでに、柄の方へ戻っていった。
「人の死とは、あっけないものだぞ……あそこにも一つ転がっているだろう。俺がやった……死体は珍しいか?」
答えない南に、男はナイフを仕舞いながら言った。
男が指さす先には、確かに太った中年男性が倒れていた。
物陰だったからか、全く気が付かなかった。
突きつけられる二つの死に、南は言葉が上手く出てこない。
「そ、それは、そうだろ……知ってる奴が、目の前で殺されて。しかも、知らないおじさんまで死んでる……珍しくない訳ない」
「ほう、それでも冷静だな。驚かないのか」
南が言うと、男は少しだけ声を明るくした。
ような気がする。
内心、南はそれどころではなかった。
薄れそうな意識を必死に保っているため、上手く反応が出来ないだけだった。
「世の中には、毎日何人もの人が死んでるんだ。むしろ、誰も死ななくなったら、俺はそっちの方がびっくりするな」
「面白いことを言う。ますます気に入った」
男は、南の肩に触れた後、そっと抱きかかえるように持ち上げた。
「安心しろ、友達は死んでない。直にこいつらも発見されるから、死ぬこともない。」
「発見って……こんな所に誰が来るんだよ」
抵抗する力もなく、運ばれる南。
必死に出てきたのが、そんな言葉だった。
「『
「は? む、し……?」
それだけ言って、南は気を失った。
目を覚ますと、見たこともない天井だった。
綺麗でもなく汚くもない、コンクリートの天井。
体を起こす。
少しだけ固いベッドに、真っ白のシーツ。どうやらここで寝ていたらしい。
前方に目線を向けると、先程の男が食事を摂っていた。
「よう、起きたか」
男はこちらを見ることもなく言った。
「ここは?」
「俺の塒だ」
切りつけられた腕の傷には包帯が巻かれているが、まだ痛む。
そんな痛みに耐えながら聞いた南に、男は即答した。
答えになってない、と南は顔を歪ませた。
「アンタはなんだ」
「俺の名は『蜘蛛』……殺し屋だ」
味噌汁を飲みながら言う男に、つい笑ってしまいそうになる。
「殺し屋?」
「信じなくてもいいが、さっきの男はもうこの世にはいないし、お前の友達も殺そうと思えば殺せたぞ」
南はそこまで言われて思い出す。
自分をいじめていた上級生の腹に刺さる刃。流れる血。倒れ込む音。
そして、物陰で動かない中年男性。白目を剥いて、こちらに顔を向けていたあの人は、確かに死んでいた。
「誰かに依頼されて、あの人は殺し屋であるアンタに始末されたってのか……」
「そうだ」
男は頷きながら、箸を動かす。
ベッドから起き上がって、南は足元に置かれていた靴を履いた。
「あの男は闇金業者から金を借りていた。その額は、利息含めて一千万以上」
南は適当に相槌を打ちながら、傍に置いてあったスパナを握る。
ゆっくりと、足音を立てないように、男の方へ忍び寄った。
「闇金業者はあの男から絞れるだけ絞ったあと、それでも足りない額を埋めるため、ある『組織』に彼を売った」
「組織……?」
「その『組織』は、ある時は家族単位で人を殺し戸籍、国籍を奪い、売り捌くことを生業としている……だが、その全貌は俺にも分からない。本当の目的が、恐らく別にあるだろう」
距離は近い。
飛びかかれば、スパナは届く。
南はゆっくり振りかぶった。
狙うのは肩だ。頭だと危ない。
「確かなのは、あの男はさっきの古い工場に逃げたが、俺の手で死んだ。だが、戸籍上では生きている。完全に消えた存在、ということだ」
スパナを振るった。迷いはない。
隙さえ生まれれば、閉まっている奥の扉から逃げられる。
振り下ろしたスパナが、男の……『蜘蛛』の肩に直撃する寸前。
見えない何かに、スパナが弾かれた。
その反動で、南のでこに直撃。
「いっつう……」
思わず、両手で頭を抑えた。
「無駄だ」
体が強い力で押し込まれる。
抵抗することも出来ず、南は後退。
気が付けば、先程のベッドまで押し戻された。
「今はまだ、俺を殺すことは出来ない」
殺すつもりはなかったんだが、と言うことは不可能だった。
首を掴まれ、呼吸もままならない。
南は必死にもがく。
「だが、死の直前……さっきの工場でお前が見せた集中力。死を感じ、生に執着したあの瞬間の力。それをコントロールできれば、大きな力になる」
苦しいという感情だけが南を支配していた。
しかし、『蜘蛛』の声もまた聞こえていた。
何を言っているのか意味が分からない。だが、この男の手を退かさなければ、窒息して死ぬ。
そう思った瞬間。
またも南の中で時間が静止する。
―――首を締めあげられている。
―――相手は殺し屋。
――—武器、なし。
―――足は動く。
―――肘を蹴り上げれば、力は緩む。
―――やられる前に、
そこまで考えて、手の力が緩んだ。
『蜘蛛』は前傾になっていた姿勢を戻す。
「かはっ……ごほっ、ごほ……」
咳込みながら、南は酸素を求めて激しく肩を上下させた。
「今も、どうすれば状況を打破出来るか考えていたな。力の使い方を、ここで学べ。そしてその力で、始末して欲しい奴がいる。それが終われば解放してやる」
大粒の涙を浮かべながら、南は『蜘蛛』を睨んだ。
そして、あの上級生のナイフから、自分を守ってくれたことを思い出す。
あのままでは、間違いなく死んでいた。
それを救ったのは、間違いなくこの男だ。
訪れた非日常。
南は、少し前に見た特撮ヒーローを思い出す。
基本形態から胸元の装甲が開いて、赤色に変身するフォーム。初めてそれに変身した時は、ライバルが装置をくれた。
この男によって……自らが変わる時が、来たのかもしれない。
ライバルが装置をくれたように、この男は自分に力をくれる。
助けてもらった恩もある。
「……分かったよ」
立ち上がりながら、呟くように言った。
「よく分からんが、付き合ってやる」
『蜘蛛』は満足げに頷いた。
住宅街にある小さな一軒家。
どこにでもあるようなそんな家の床には戸があり、それを開けると床下に作られた地下に通じる。
梯子を伝って降りていくと、コンクリートに囲まれた広い空間。
電気は通っているが、それ以外には何もなく、薄暗い。
「いい地下室だろ?」
先に降りた南に、『蜘蛛』は言った。
「ああ、見かけは普通の家なのにな」
壁に手を当てながら南は答える。
ふと、両親のことを思い出したが、連絡を取る手段もなく、また『蜘蛛』がそれを許してくれることもなさそうなので、心の中に二人の顔をしまった。
「ここで何を……」
そう言って振り返った瞬間。
射出された刃が、南の頬をかすめるくらいの距離で壁に刺さった。
急なことで声も出ない。
「そいつは『
そう言いながら柄を振るうと、刃は壁から抜かれ、ヒュンヒュンと音を立てながら宙を舞う。
「そいつを使って俺を殺してみろ」
挑戦的でもなんでもない、それを言うのが当たり前のような言い方で、蜘蛛は刃が戻ったナイフを南の方へ投げた。
それを掴んで、興味深そうに色々な角度で眺めた後、息を漏らす。
「さっきも言っていたな。始末して欲しい奴がいるって……言い忘れていたが、俺は誰も殺さない。殺し屋のアンタと一緒にしないでくれ」
「なに?」
『蜘蛛』の表情が険しくなった。
それでも南は怯まない。
「俺はその手伝いをするだけだ。実際に止めを刺すのは自分でやってくれ」
「お前……そんな中途半端な気持ちで―——」
「本気だよ」
彼の言葉を遮って、南は言った。
「本気で誰も殺さない。でも、本気で手伝いはする。助けてくれた恩はあるが、殺しはやらない。映画じゃないんだ」
「そうだ、これは映画じゃない。実在するターゲットがいる」
「映画のようにいかなくても、男には男の仕事がある。俺は俺の仕事をするだけだ。そこに「殺し」はない」
沈黙。
静かな時間が過ぎた。
吐息も何も聞こえない中、『蜘蛛』はふっと消えた。
実際には高く跳んだのだが、南には消えたようにしか見えなかった。
次に南の目に彼が映ったのは、まさに目と鼻の先。
身を引く間もなく、顔面を殴られた。
「ぶっ!」
「お前をこうしている理由は二つ。一つは「利用する価値があるから」というのと」
南は転がりながら、体を起こす。
先程のナイフを出鱈目に振るが、『蜘蛛』には通用しない。
「もう一つは、「いつでも殺せる」からだ」
『蜘蛛』の拳がナイフの軌道を縫って、南の腹部に打ち込まれた。
「がはっ……」
膝をついて咳込む南。
しかし、俯いていた地面に『蜘蛛』の足が見えた瞬間。飛び跳ねた。
ナイフを逆手に持ち替え、胸にめがけて振り下ろす。
それを腕でガードした彼の腕から血が飛び出した。
「残念だが、使い方が違う」
その血を顔に浴びながら、またもガードしなかった方の手で、首を掴まれた。
「蜘蛛は、巣の張り方や狩りの方法を、親蜘蛛に教わることはない。生き抜くための全てが詰まったノウハウを遺伝子に刻んだ『生まれながらの殺し屋』だ」
身を捩りながら、今度は肘を蹴り上げ、その手から逃れる。
素早く後退し、壁にもたれかかった。
「殺さない、なんて甘いことを言っていると、殺されるぞ」
それだけ言うと、『蜘蛛』は踵を返して、はしごの方へ歩いて行った。
「今夜はここで寝ろ。また明日相手してやる」
電気が消された。
心臓がうるさいくらいに鳴っている。
握っていたナイフを放り投げ、南は体を横にした。
―――網を張る以外の用途で、糸を利用する蜘蛛が、存在する。
『ハラフシグモ』
多く存在するクモ目の中でも、原始的なものとされている蜘蛛の一種。
網を張らず、湿った地面に巣穴を掘り、その周囲に糸を巡らせて生活する。
獲物が通りかかった際の振動を糸を通して察知すると同時に、地中から飛び出して捕食。
この蜘蛛は、落ち葉や雨粒などによる自然振動には一切反応せず、糸の振動のみを頼りに、外の世界を感知しているのだ。
(すげぇ……何だこれ)
翌日。南は、ナイフの刃から伸びる糸を自分の指に絡め、刃を壁に突き立て、柄を握っていた。
目を閉じる。
「集中しろ」
『蜘蛛』が言う。
「何が見える?」
「…………」
地下にあるこの部屋は、壁を通して、外の情報を正確に南に伝えていた。
糸を通して分かること……
パラパラと細かく、小さな連続した振動……雨が降っている。
響くような、地震のようにも感じる大きな振動……電車が通っている。
足音……複数……歩幅は普通。男? 会話は……野球関連……野球部が二人歩いている。
(色んなことが分かる……この糸があれば……)
「上手く操れるようになれば、切断することも、自由自在に動かすことも出来る。だが……」
パンッ!と、大きな音がした。
『蜘蛛』が手を叩いたのだ。
肩を震わせると同時に、壁に刺さっていた刃が突然暴れ出し、糸が南の体を締め上げた。
「なっ!」
先程まで自分に様々なことを教えてくれていた糸は、今度は制御を失い、南を襲う。
腕も纏めて縛られる形になった南は、バランスを取ることも出来ずに倒れる。
激しく動いていた刃が、その進路を南の顔へと変えた。
(ちょ、刺さる!)
「このように、集中力を少しでも欠くと、操者自身を襲う」
刃は、『蜘蛛』が蹴り上げたことで、南に刺さることはなかった。
南は小さく息を吐く。
「蜘蛛は単眼の節足動物。複眼を持つ昆虫類に比べて、目を頼ることは少ない。だが、糸を巡らせ感覚を研ぎ澄ますことで、四億年を生き抜いた」
南の手から柄を受け取った『蜘蛛』が糸を操作。
巻き付いていた糸は、南から離れ、ナイフの柄へと収納される。
「今日からこれはお前の物だ」
「くれるのか」
「ああ、しばらくの間、それで遊んでいろ。俺は出掛けてくる」
そう言った『蜘蛛』は再び、ナイフを南に渡し、梯子を昇っていく。
南はそれを見送ることなく座り込んだ。
「そうだ。さっき刃が、お前に刺さる直前まで、目を閉じなかったな」
「まあな」
「お前はやれば出来る子だ」
「俺もそう思う」
何も考えずに言う南に、『蜘蛛』は微笑を浮かべて戸を閉めた。
体を倒し、柄のスイッチを押す。
刃が天井に刺さった。
また、糸を通して外の世界が伝わってくる。
今、この家には誰もいない。
「はぁ……」
南はため息をついて、目を閉じた。