「南ー、そろそろ起きないと朝ごはん食べる時間なくなるぞ」
そう言いながら一夏は制服の袖に手を通した。
忘れ物がないかを確認して、部屋の鍵をポケットに入れる。
「おーい、南」
時刻は七時半を迎えようとしていた。朝の支度は早い南だが、そろそろ部屋を出る時間だ。
未だに起きない同居人の肩を揺らす。
「起きろー」
「んん……はぁはぁ……んぐ……」
いつもの気の抜けた声ではなく、聞こえてきたのは辛そうな吐息だった。
一夏の表情が一変する。
「お、おい南! 大丈夫か!?」
かけていた布団を軽く剥がすと、大量の汗を浮かべる南が苦しそうに顔を歪めているのが見えた。
「しんどい……風邪だ……」
いつになく弱々しい声がして、一瞬誰が言ったのか分からず、部屋を見渡した一夏。
当然、他に誰もおらず南に向き直る。
「辛いよー、母ちゃん……先に死ぬ親不孝を許してくれ……」
「とりあえず、熱測るか」
弱気な南が珍しい一夏は、ずっと観察していたかったがそういう訳にもいかず、部屋の棚から体温計を取り出した。
脇に挟んで待つこと数十秒。ピピピッと音がしたのを確認して、一夏が小さな液晶を見る。
「……南、平熱は何度だ?」
「皆と同じ、三十六度五分だ」
「七度三分、微熱じゃねぇか!」
体温計を叩きつけながら叫ぶ一夏に、南の表情が曇った。
「心配して損した! 寝てれば治るよ!」
一夏は鞄を勢いよく担ぎ、南に布団をかけ直した。
靴を履いている一夏に、南が不思議そうに訊ねる。
「どこに行くんだ?」
「そりゃ、学校だよ。千冬姉には俺から言っといてやるから」
「二つ質問がある」
「なんだ?」
「一つ目、冗談だろ? 二つ目、マジで冗談だろ!?」
「何がだよ?」
「病気の俺を置いて学校に行くなんて!」
「大体、微熱でそこまで騒ぐことないだろ?」
「そもそも、これはお前の姉が昨日、寒空の下でグランドを五十周もさせたから悪いんだぞ」
「それは南が、千冬姉の授業中に寝てたのが悪いんじゃないか」
いつもなら何か言い返してくる南も、弱っているからか、ゴホゴホと激しく咳をして、鼻水を啜った。
不気味なうめき声を上げながら、布団の中でモゾモゾ動いているのが分かる。
言い勝ったと、一夏が笑顔になる。
それを見逃さない南は、睨みつけるように目を細めた。
「何笑ってる?」
「別に」
「お前の笑いのツボは通販で買えるか?」
そんな台詞も、力ない声のお陰か一夏の耳を素通りする。
「ほら、もう今日は寝てろって。昼休みに保健室で風邪薬もらってきてやるから」
「スポドリも」
「はいはい……口移しで飲ませてやろうか?」
「気持ち悪いこと言うなよ……うっ、吐き気が……」
冗談だよと言いながら、笑いを堪えることもせず一夏は部屋の電気を消した。
部屋を出て鍵をしめる。
「ズルして三十周にしてなかったら、もっと高熱だったかな」
肩をすくめて廊下を歩き出した。
「うぅ……しんどい……」
寝ようにも寝れない南は、何度も寝返りを打った。
鼻水が鬱陶しい。咳で喉が痛い。軽く頭痛もする。
壁の時計は、一夏が部屋を出てまだ十分も経っていない事を知らせていた。
何とか寝ようと目を閉じる。
「南、大丈夫?」
少しウトウトしたところで、優しい声が鼓膜を震わせた。
ゆっくり目を開き、薄目を開けた先に居たのは、心配そうに覗き込むシャルロットだった。
「シャ、シャルロット……」
「廊下で一夏とバッタリ会ってね。南が大変だって笑ってから、授業サボっちゃった……風邪?」
「これが健康なら、人間やめたい」
「熱は……」
シャルロットはそう言いながら、手を南の額に当てた。
ひんやりとしたその手が心地よくて、南の表情が和らぐ。
「そんなに熱くはないけど、辛いよね」
「分かってくれるのはお前だけだよ、シャルロット」
当てられた手を掴み、自分の頬へ。
「え?」
「今日はずっと居てくれ」
鼻が詰まって涙目になっている南の潤んだ視線が、シャルロットを貫いた。
普段とは明らかに違う彼のギャップに、無意識に頷いてしまう。
「うん、ずっと居るよ」
力強く言ったシャルロットに満足した南は、再び目を閉じた。
「食欲はある? 何か食べておいた方がいいよ」
「そうだな……」
「お粥作ってあげるね! ちゃんと作り方覚えたんだ」
そう言ってシャルロットはキッチンの方へ向かった。
まるで、最近チャーハンを作ったかのようなご飯の残量に、シャルロットは腕まくりをして気合を入れた。
鍋に水と米、解いた卵を入れ、軽く味付けして蓋をした。
「シャルロー……シャルー」
強火で加熱していると、弱々しい南の声がして急いで戻る。
「どうしたの、大丈夫!?」
「水を持ってきてくれないか…」
「うん、任せて!」
そう頷くと、またパタパタと冷蔵庫の方へ。
南がペッボトルの水を常備していることを知っているシャルロットはそれを取り出した。
ストローを探すが、すぐには見つからず、諦めて南の元へ戻る。
「ごめんね、ストローが見当たらなくて……」
「大丈夫だ、ありがとう」
南は体をゆっくり起こし、水を受け取った。
「それにしても、さっきのシャルローってなに?」
弱々しい言い方を真似しながら、クスクス笑うシャルロットに南は息を吐く。
「もうロットまで言う気力がなかったんだ……それで気付いたんだが、シャルって呼びやすいな」
「うん、僕もしっくりきた……よ、良かったらこれからもそう呼んでくれていいよ」
「シャルってか?」
大きく頷くシャルロットに、南は悩むように眉を顰めた。
水を置きながら、首を傾げる。
「だが、シャルロットって良い名前だしな……」
しばらく悩んでいた南だったが、やがて体を倒しながら言った。
「いや、愛称で呼ぶのも悪くないか。看病してもらった仲だし」
「う、うん! そうだよね!」
「じゃあ、シャルって呼ぶことにする」
布団をかけ直し、少し照れ臭そうに言う南にシャルロット……改め、シャルは笑顔になった。
「シャ、シャルかぁ……いいなぁ……シャル……」
止まらない笑いを隠すこともなく、シャルはキッチンに戻った。
沸騰していた鍋を火から外し、五分ほど蒸らす。
茶碗に移し、スプーンを添えた。
「はい、南。出来たよ」
「美味そうだ……」
手を揉み合わせた南は、スプーンに手を伸ばす。
するとそのスプーンをひょいとシャルに取られた。
「駄目だよ。僕が食べさせてあげるんだから」
「い、いや、そこまでは……」
「ほら、あーん」
嬉しそうにシャルがお粥を掬ったスプーンを差し向けてきた。
少し困った顔をする南だったが、諦めて口を開けた。
息を吹きかけられたお粥が、口の中へ。
南はゆっくり咀嚼したあと、小さな声で美味いと唸った。
「南、洗濯物畳んでおいた……よ……」
お粥を食べさせた後、シャルは食器を洗い、洗濯機の中の衣類を畳んでいた。
ベッドに戻ると南は寝ており、先程までの苦しそうな表情は消えていた。
しばらく立ち尽くしていたシャルだったが、やがて意を決っして布団の中に潜り込む。
「ご、ご褒美があっても……いいよね……それに、南の風邪なら僕が貰ってあげてもいいんだし……」
小さく呟いていると、南が寝返りを打った。
抱き枕のようにシャルを抱えた南は、寝息を立てるだけ。
目を閉じたシャルが眠りにつくのには、そう時間はかからなかった。
「ん……寝てたか……今何時だ……」
「昼の十二時だ」
目を覚ました南が呟くと、低い声がベッドの傍で聞こえた。
肩を震わせた南は、ゆっくりと見上げる。
「織斑、先生……」
腕を組んで仁王立ちしていた千冬は無表情であるにも関わらず、異様な威圧感を放っている。
「すみませんね、風邪を引きまして……でも、これは先生のせいでもあるというか、やはり寒空の下でグランド五十周というのは―――」
「三十周しか走ってないだろうが」
「バレてたか」
南の顔が歪む。
「ふん……まぁ、その件には目を瞑ってやろう。風邪を引くとは自己管理がなっていないという説教も百歩……いや、千歩譲って許してやる」
「そんなに譲ると、自分の分がなくなってしまいますよ」
「……だが、これは寮長としても見逃せんなぁ」
一瞬、顔が引き攣った千冬は布団を勢いよく引き剥がした。
そこにはシャルが小さく丸まり、南のTシャツを掴んで寝ている姿があった。
「これはどういうことだ?」
事態を把握しようと、南は頭を回転させる。
最善の言い訳を考えるが、口の中が乾く一方だった。
「そんな難しいこと、俺に聞かないでください」
それしか言えず、南は部屋着のまま引っ張られていく。