気温がぐっと落ち込んだある日。
一夏は寮の廊下を「寒い寒い」と言いながら、早足で歩いていた。
秋という季節によって舞い散った葉が、冷たい風に吹かれる音が聞こえる。
廊下には人がまばらで、女子高であるIS学園に紛れ込んでいるイレギュラーな一夏は、女生徒とすれ違うたびに挨拶をされる。
「じゃんけん弱いなぁ、俺」
こうして一夏が一人で歩いているのは、体育がある日だということを忘れて、同室である南と揃って体操着を忘れてしまったからである。
それを取りに帰る話になった時、南がじゃんけんを申し出た、というわけだ。
ブツブツと言いながら寮の調理室の傍を通ると、意中の相手である本音とその友達、簪の声が聞こえてきた。
「ほ、本音、危ないよっ」
「だいじょーぶだいじょーぶ、かんちゃんは見てて―――っておわわわわ」
「もう……だから言ったのに……」
「ごめんごめん、あはは」
微笑ましい話し声に、一夏は自然と笑みを浮かべながら調理室を覗いた。
そこには、色違いのエプロンをして何やら料理している二人が。
「よぉ、のほほんさん、簪さん」
一夏は気さくに声をかけながら、二人の背中を叩いた。
「あ、織斑くん」
「え、お、おお、おりむー!?」
簪はいつも通り小さく笑うだけだったが、本音は違った。
包丁を持った右手をブンブンと振りながら頬を赤くする。
「あ、危ない危ない! 危ないって!」
頭を庇いながら叫ぶ一夏と、背後からの羽交い絞めで本音の暴走を止める簪。
動きを封じられた本音は、それでも目をぐるぐると回しながら動揺していた。
「ご、ごめん……」
本音が顔を俯かせると、一夏は息を吐きながら手元を覗く。
「料理……あ、弁当作ってるのか」
「う、うん……そう、なんだ……」
「弁当箱が二つってことは、誰かにも作ってあげるのか?」
「え? あ、うん、そう……」
「い、いやー、のほほんさんの弁当、俺も食べてみたいなぁ……また今度、俺にも作ってくれよ」
「う、うん、いいよ……今度、作ってあげるね……」
一夏と本音の間に妙な空気が流れる。
明るく話す一夏も、どこか引っかかったように言い。本音に関しては彼に目も合わせられていなかった。
その様子を観察していた簪が一歩前に出る。
「これは、織斑くんの分」
「ちょ、かんちゃん!」
「え?」
簪はいつになく低い声を発しながら、二人を睨んだ。
「本音、そうでしょ?」
「え、えーと……」
「ちゃんと言わないと、駄目……」
幼馴染である簪の強気な姿勢に押され、本音は顔を赤くしながら一夏を見た。
対する一夏も、潤んだ本音の瞳に頬を赤くした。
「そ、そう……これは、おりむーの分、なのです……」
「あ、お、俺に作ってくれてたのか」
一夏の動揺した声に、コクコクと頷く本音。
「だ、だから……その……良かったら、食べてくださいっ」
「う、うん、貰うよ。それはもう、ありがたく」
目を閉じて、裏声になりながら発せられた本音の言葉に、一夏は優しく言いながら笑った。
一夏はしばらく、頬をポリポリと掻きながら沈黙に耐えていたが、簪の方にも弁当箱が二つあることに気付き、指をさした。
「簪さんも、誰かに作ってるのか?」
「え……うん……これは、南に……」
「へぇ、そっか。南、喜ぶぞー」
「そ、そうかなっ……?」
今度は簪の頬が赤くなった。
「ああ。アイツ、簪さんの料理、すっげぇ褒めてるし」
「そうなんだ……ど、どんな風に?」
「そりゃあ……」
「あー、か、かんちゃん! 早く作らないと、ホームルームに間に合わないよ~」
互いに笑みを浮かべながら南のことを話す二人に、本音が割って入った。
時間はまだホームルームが始まる三十分前であり、余裕はある。
しかし、簪は小さく笑いながら「そうだね」と弁当箱に向き直る。
「おりむー、そういうことだから、今日のお昼は楽しみにしててね」
「分かったよ、のほほんさん。じゃあ、先に教室行ってるな」
そう言って、一夏は調理室を出た。
「いいや、絶対ジェスチャーだ。中学生の時、外国人が留学に来たんだ。その時、英語が話せなかった俺も、ジェスチャーでなんとか乗り切った」
南は、いつもの専用機持ちメンバーに囲まれながら、舌を嚙むことなくスラスラ話す。
一組の彼の席を囲っていたその中には、二組の鈴も居た。
隣の席で足を組んで座るラウラ、その机に体重を預けるシャル、南の正面で腕を組む箒、その隣で苦笑するセシリア、鈴は南の机に座って足をパタパタさせている。
「おはよう、皆……何の話をしてるんだ?」
すると鞄を背負いながら、片手をポケットに入れた一夏が、南達の方へやってきた。
ちょうど、登校してきた所らしい。
「建物の屋上にいる人が、下にいる人に何かメッセージを送りたい時は、どうすればいいかという話ですわ」
セシリアが答える。
「屋上から紙を落とせばいいだろ?」
一夏は何でもないように答えた。
それに合わせて、南を除く専用機持ちが頷く。
「さっすが、一夏。分かってるじゃない」
「いいや、ジェスチャーだ」
鈴が指を鳴らして一夏に微笑みかけるが、南は怯まない。
「じゃあ南は、もし誰かに殺されちゃったら犯人の名前をジェスチャーで伝えるの?」
シャルが笑いを堪えながら言った。
「どんな状況の話だ」
南がため息をつく。
すると、箒が口を開いた。
「うむ。そんな時でも、犯人の名前を紙に書いて、置いておくのがいいだろうな」
「そんなの犯人にバレたら捨てられるだろ」
南が片肘をついた。
頬が持ち上がり、膨れた顔になる。
「どこか見えない所に貼っとけばいいじゃん」
一夏も言い返す。
「上手く貼れるようなテープがあればそうするよ」
「テープくらいあるんじゃないか?」
ラウラが言った。
「あのな……自分が殺されて、死ぬ間際に紙に犯人の名前を書いて、テープでどこか見えない所にそれを貼る余裕があると思ってるのか? その間、犯人は何をやってるんだ」
「犯人は証拠隠滅の作業中ですわ」
「そういう問題じゃない」
最後まで不機嫌そうな南の声に、専用機持ちが笑顔になった。
「あ、そうだ。南、今日の昼飯は簪さんが弁当を作ってくれてるぞ」
一夏がポンと手を叩いて言った。
それを聞いた瞬間、南を含む全員の顔が歪む。
専用機持ちは「抜け駆けか!」と心の中で叫び、南は口を開いた。
「おい、一夏」
「え?」
嬉しい誤算のはずが、不機嫌な南の声に一夏がきょとんとした。
「お前のせいで、偶然、簪の弁当が食べられることを知る機会が失われたぞ」
「す、すまん」
何に怒られているのかが分からず、一夏は困惑気味に謝った。
「気を付けてくれ」
そう言い放つと同時に、チャイムが鳴り、千冬が教室に入ってくる。
ラウラ以外のそれぞれが席に戻り、鈴も走って二組に帰った。
「そういや、一夏」
南が席に戻る一夏を呼び止めた。
「どうした?」
「お前、体操着は?」
「ああっ!」
そう声を上げた一夏の頭を、千冬が出席簿で叩いた。
「朝から騒ぐな、やかましい」
そう吐き捨てて、ホームルームを進める千冬の話を聞きながら、隣のラウラがそっと南に呟いた。
「織斑一夏にはいつも困らされるな」
「未来の歴史博士は、今、あの男を始末しなかったことを責めるに違いない」
思わず噴き出したラウラの頭に、出席簿が降り注ぐ。
「さて、昼飯だ」
四限が終わり、南は手を揉み合わせながら席を立つ。
二限と三限の間の休み時間に簪が訪れ、食堂で弁当を渡してくれることを伝えてくれた。
その時も、一夏にそれをバラされたと文句を言う南に、簪が苦笑していたのを彼は知らない。
箒とセシリア、シャル、ラウラと共に食堂へ。その途中で、鈴と件の簪と合流した。
一夏は何やら用があるらしく、その中には居ない。
南と簪はいち早くいつものテーブルに座り、他の皆を待つ。
それぞれが昼食の載った盆を運び終えると、簪がゆっくりと弁当箱を差し出した。
「は、はい、南。召し上がれ」
「ありがとう、簪。これで午後も頑張れる」
そう言いながら南は弁当箱の蓋を開けた。
ご飯にはごま塩が振られており、タコの形に切られたウィンナーや卵焼き、プチトマトにブロッコリー、唐揚げと、所狭しに並べられたおかずが南の目を輝かせる。
「おお、美味そうだ……いただきます」
簪から箸を受け取り、誰よりも早くかき込む南。
美味い美味いと連呼する様子に、箒やセシリア、ラウラが苦い表情をする。
「へぇ、美味しそうね……ねぇ、南? 卵焼き、一個―——」
鈴が言い終わるより早く、南は首を横に振った。
「悪いな、鈴。お前の頼みでも譲れん。これは俺が頂く」
そう言って南は、何のためらいもなく卵焼きを口に放り込んだ。
鈴が頬を膨らませる。
「ケチ」
そう言っている背後から、一夏がニヤニヤしながら歩いてきた。
南が手を挙げて呼ぶ。
「用は済んだのか?」
「ん、のほほんさんに弁当を貰ってたんだよ。一緒に食べようとしたんだけど、恥ずかしいから感想は後で聞かせてってさ」
そう言いながら一夏は嬉しそうに弁当箱を開けた。
隣に座る箒が「砂糖を吐きそうだ」と苦笑する。
「本音、頑張ったんだよ?」
簪が優しい笑みを浮かべて言うと、一夏も優しく頷いた。
「ああ……感謝して食べないとな……いただきます」
その後も、男二人は弁当を絶賛する言葉を狂ったように言いながら、箸を動かした。
昼食を終えた八人は、食後のお茶を揃って啜りながら、残りの昼休みをまったり過ごしている。
「流石にちょっと暑くなってきた」
一夏はそう言いながら、制服の上着を脱いだ。
いつもならワイシャツが見えるのだが、今日は気温が落ち込んでいたこともあり、制服の下には真っ黄色のセーターが重ね着されている。
「ふっ、一夏」
南が笑いながら呼ぶと、一夏は「ん?」と首を傾げた。
「お前、いつも俺のTシャツを馬鹿にするが、そのセーターもどうなんだ?」
「え? ダメかな……」
「いいセーターとは言われないだろうな」
一夏は「そうかな」と体を捻じりながら、自分の体を見下ろす。
「変か?」
ラウラに問うと、困った顔で眉を顰めるだけ。
その反応を見て、一夏はセーターを脱ぎ、制服を再び羽織った。
「あ、そういえばさ、三人一組のチーム戦で大食い大会があるんだ。弾に誘われたんだけど、出ないか?」
「あんまり興味ないな」
一夏は気合が入った様子で誘うが、南はお茶を啜りながら首を振った。
「賞金は三万円だぞ。山分けして一万円だ」
「その金でマシなセーターでも買うのか?」
南が興味なさそうに言う。
「えぇ……なんとか説得してくれよ、鈴」
「無理よ、卵焼きすらくれなかったもん」
鈴の言葉に、一夏は肩を落とした。
「織斑くん。本音はたくさん食べるから、誘ってみたら?」
不遇な一夏を見かねて、簪が声をかけた。
それに合わせて、箒も頷く。
「そうだったな。私も見たことがあるぞ」
「布仏さん、大食い得意なんだ」
「初めて知った」
シャルと南が目を丸くする。
「偶然知る機会が失われたな」
南が驚いた声を上げると、一夏が嬉しそうに言った。
「あんまり、大食い大食いって言われたくないだろうけど……」
皆が思いのほか食いついて、簪は焦ったようにフォローした。
先程の一夏の発言を無視しながら、南は湯呑を置いて息を吐く。
「まぁ、これはのほほんさんと親しい人だけの秘密にしておこう」
「誰よりも嬉々として話しそうな南さんが言うなら、仕方ありませんわね」
セシリアがからかうように笑った。
そんな言葉に、南はムッとする。
「こういうのは得意だ」
「アンタは口が堅いもんね」
鈴が一夏と同じく、嬉しそうに言う。
その日の放課後。
簪が自室で宿題をしていると、部屋がノックされた。
普段、人が来るとすれば本音であり、これも彼女だろうと思いながら扉の方へ。
「どうしたの、ほん―――」
「愛しの本音ちゃんじゃなくて悪いな。稲妻が生んだ料理人、南くんだ」
「え、あ、み、南……?」
本音よりも明らかに高い位置から声をかけられ、簪は目線を上げながら戸惑った声を出した。
南は不敵に笑いながら、何やら大きなカバンを肩からかけていた。
「一夏がな、のほほんさんにお礼をするんだと。俺もそれに倣って料理をしに来たというわけだ」
「そ、そうなんだ……」
突然のことに、簪の動揺が収まらない。
何とか部屋に招き入れたいが、言葉が見つからなかった。
「……すまない、何か用事があったか? 晩飯を誰かと食べる約束があるとか……」
「な、ないよ! ない……急なことで、ビックリしたから……どうぞ」
「お、おう……」
簪の勢いに若干押されながらも、南はゆっくりと簪の部屋へと入る。
すぐに簡易キッチンの方へ行き、カバンを降ろした。
「それは?」
「いつもお前には呆れられているからな。今日は俺の本気を見せてやる」
そう言いながら南は、カバンの中から続々と調理器具を取り出した。
包丁からまな板、鍋までも持参している。
「今日は、期待していいんだね」
同部屋の時から、南の料理と呼べないような料理を口にしていた簪は目を細めながらも、高級な物と分かる器具に期待を膨らませた。
「カップラーメンとか、出汁にご飯入れただけの雑炊とか、うどんを茹でて買ってきたつゆにネギを散らしただけとか……そんなのじゃ、ないよね?」
今度は騙されまいと、簪は今まで南が振舞ってきたものを羅列する。
「簪……俺が作った物をそんなに覚えてくれたのか」
何を勘違いしているのか、南は簪の手を力強く握った。
悲しいことに、そんな事でも頬が赤くなってしまう。
「今日は任せてくれ……神代 南のフルコースを、堪能させてやる」
腕をまくりながら、真っすぐの眼差しで言う南に、簪は小さく頷いた。
南の手捌きや調理過程は確かに本格的だった。
要領が悪い所は確かにあるが、テーブルに腰かけていた簪も、忙しなく動く南が自分の為に一生懸命になってくれていると思うと、胸が熱くなった。
包丁で何かを刻む音や、パスタの茹で上がりを確認する様子はまさにシェフのようだったが、出来上がりを見るまで安心は出来ない、と簪は気合を入れる。
調理すること一時間半。
時刻は夜の七時を迎える前であり、夕食を摂るにはちょうどいい時間だった。
「待たせたな、簪……これが俺の本気だ」
部屋から持参してきたテーブルクロスを引き、小さな花瓶に小さな花を添える。なぜ持っているのか不明な洒落たロウソクを灯した南は、胸を張って手を広げた。
生ハムを野菜と巻いたサラダや、かぼちゃのスープ、牛肉のワイン煮込み、ペスカトーレ……作れるものは全部作りましたと言わんばかりのラインナップだった。
「す、凄い……」
目を丸くした簪に、南は満足気に頷いた。
「さぁ、食べてくれ」
簪は小さな声で、いただきますと言った後、慎重に生ハムにフォークを伸ばした。
ゆっくりと口に運ぶ。
「……うん……うん……ん……?」
美味しいと言えば、美味しい……ような気がする、そんな味だった。
見た目が豪勢なだけに、味がそれに負けてしまっている。
「うん……微妙だな」
南も苦笑いをして口を動かした。つられて簪も苦笑する。
「これはどうだ?」
そう言いながら南はペスカトーレの皿を手にした。
フォークをクルクルと回して巻きつけて食らう。
「うん、これは美味いぞ」
その様子を見ていた簪は、同じようフォークを動かして食す。
「あ、本当だ……美味しい」
「そうだろう、そうだろう」
大げさに頷きながら、南は水を一口。
簪は牛肉を齧った。
思いの外熱かったのか、ビクッと震えながら、はふはふと口を動かす。
「どうだ?」
南が尋ねても、簪は「あう……あふ……」と言うだけで、言葉は返ってこない。
「そんなに熱いか?」
そう笑う南に、簪が身振り手振りでその温度と、美味しいということを表現した。
しばらくその様子を見守っていた南は、スープを飲みながら呟く。
「ほらな、皆。やっぱりジェスチャーだ」