寒さに身が震える日と、程よい暖かさが交互に訪れる秋のある日。
ラウラはスキップしそうになるのを我慢しながら、自分が所属する一組へ向かっていた。
先程、職員室で副担任の真耶から預かった日誌を両手で抱えている。
「ふっ……嫁と日直……二人の共同作業……くく……ふはははは!」
不気味に笑うラウラに、廊下を歩く他の生徒は怯えた表情で彼女を見るが、それも気にならない。
一刻も早く一組へ向かうべく、気付けばラウラは駆け出していた。
ラウラが教室に入ると、既にいつもの席に南は座っていて、何やらノートに書いている。
朝から勉強熱心な奴だと、はやる気持ちを抑えながら極めて冷静に声をかけた。
「おはよう、嫁。良い朝だな!」
「ああ、おはよう」
南はラウラを一瞥して笑顔を作った後、またすぐにノートを睨んだ。
シャーペンを忙しなく走らせている。
(む……折角、夫である私が挨拶をしているというのに……何を書いているんだ?)
ラウラは頬を膨らませながらそのノートを覗き込んだ。
そこには、科学の授業でも取り扱わないような複雑な式がたくさん書いてある。
「こうすると、反陽子の回転方向が逆になって……ガンマがアルファになるだろ……で、これに(−i.0)の行列をかけると……」
ブツブツと何か言いながら真剣な表情の南。
ラウラはただ見ている事しか出来なかった。
「……」
「やっぱりそうか……」
南がガバッと顔を上げる。
「昨日の晩飯は焼きそばで正解だった」
「また意味不明なことを……」
ラウラは肩をガックリと落としながら席についた。
南は謎が解けたと、笑いながらノートをちぎってゴミ箱に投げ捨てる。
「そういえばラウラ。今日は俺達が日直だったな」
ラウラの席に置かれている日誌を見て、南が手を叩いた。
「ああ、そうだ。山田先生から日誌を預かってきた……どうだ、褒めてもいいぞ」
「よくやったラウラ。面倒だと言えばそうだが、お前となら頑張れる……授業は手を抜いて、日直の仕事を全うしようじゃないか」
「ん……授業は真面目に受けないと駄目だ」
一瞬、同意しかけたラウラだったが、なんとか寸前で首を振った。
「お前は真面目だな」
南は笑いながら席を立ち、ラウラの頭を撫でる。
そのままトイレに行くため、教室を出て行った。
「今日はいい一日になりそうだ」
ラウラの顔が緩む。
日直の仕事は様々で、授業で黒板に書かれた文字を休み時間に消しておくのもその一つだ。
ラウラは低い背丈を精一杯、伸ばしながら黒板消しで擦る。
「む、届かん……」
顔を顰めていると、後ろから黒板消しをそっと取られた。
もう片方の手をラウラの頭に置いた南だ。
「ここは俺が消しておくから、お前は日誌を書いておいてくれ」
そう言って笑いながら、力を込めて黒板を何往復もする。
何も書かれていなかったかのように消していく南に、ラウラは嬉しそうに頷きながら席に戻った。
「ふーん、シャルロットさん。南さんも中々、恰好良いことしますなー」
「そうですねー、一夏さん。ポイント高いですねー」
一番前の席で、同じ姿勢のままニヤニヤと笑っていたのは一夏とシャルだった。
南は顔を歪めながら、二人を睨む。
「何だ、なに見てる」
「いや、南が前の方まで来るの珍しかったからさー。いつも俺達がお前の席まで行くだろ?」
「そうだよね。だからほら、南の活躍ぶりが自分の席で見られて満足なんだ」
いやらしい笑みを浮かべたまま言う二人に、南はため息をついた。
黒板消しをクリーナーにかけて、黒板下部にあるプレートに置きながら、一夏の机に体重をかける。
「出来る事なら今すぐ、昨日お前が織斑先生の駄目エピソードを、俺に話したことを言いつけたい」
「そしたら、俺が簪さんに、昨日南が教えてくれたエピソードを話すだろうなー。パジャマの話」
一夏は特に焦る様子もなく言い返した。
余裕ぶりを見せつける様子は腹立たしいが、お互いに話してしまった過去は消えない。
「それでも千冬姉に話すか? 簪さんにもあの話が伝わっちまうけど」
「それだけが問題なんだ」
南が肩を落とす。
「いいなー、僕も織斑先生や簪の話聞きたいなー」
隣のシャルが体を揺らしながら二人を交互に見た。
子犬のようなつぶらな瞳で言うシャルに、つい話してしまいそうになったが、寸前で南は我に返り、「また今度な」とだけ言って席に戻る。
その途中、クラスメイトの会話が何気なく聞こえてきた。
「ねぇ、私の髪留め知らない?」
「知らないよ。どこかで落としたんじゃない?」
「うーん、おかしいなぁ……」
「おいおい、こんなこと書かないでくれよ」
「何を言うか。起きた事実をそのまま書くのが日誌というものだろう」
肩が触れる距離で日誌を書いている南とラウラは、ああでもないこうでもないと言い合いながら、授業の簡単な内容を記していく。
南は呑気に笑っているが、隣のラウラは平静を保ちながらも心の中では、心臓が五月蠅いくらいに高鳴っていた。
(ち、近い……! というか、肩が当たっている! き、気にしていないのか、嫁は……ううぅ……いい匂いもする……シャルロットとはまた違う……ああ、幸せだ)
「あのな、体育で俺が蜘蛛の糸使ったなんて書いたら、織斑先生に呼び出されるだろうが」
「ISを体育の授業で使うなど、許されんことだ。教官にみっちりしごかれるといい……まぁ、嫁の場合、ISではないんだが」
ややこしいなと、真顔でペンを走らせるラウラに、南は思わず頭を抱えた。
「熱くなりすぎたな……」
(ふふっ……困っているな。男を手玉に取るとは私はなんて……なんて……クラリッサが言っていたのは何だったか……ああ、そうだ、悪女だ。私はなんて悪女なんだ。好きな男に意地悪をしてしまうとは、悪女そのものだ)
内心で高笑いをしていたラウラは、そろそろ許してやるかと、南に向き直った。
「嫁よ……反省したのなら許してやろう。この内容は書き直してやる。必死に授業を受けていた結果だと受け止めようじゃないか」
ドヤ顔で胸を張るラウラに、南は少しの間考え込んでいた。
顎に手をやり、目を閉じる。
うーんと、唸った後、パッと目を開き首を横に振った。
「いや、俺のポリシーは『おとなげなく生きる』なんだよ。体育の授業だろうが、オリンピックの決勝戦だろうが、俺は本気を出すんだ。だから、その内容でいい」
「教官……織斑先生にバレたら、死ぬほど怒られるぞ?」
「織斑先生? 誰だそれは」
強気に言った南は、ふんと鼻息を鳴らし、腕を組んだ。
男らしいのか、馬鹿なのかが分からずラウラはため息をつく。
すると、セシリアが二人の元へやってきた。
「あのー、南さん、ラウラさん」
「どうした?」
ラウラが言う。
「わたくしの体操着見ませんでしたか? 着替えた後、袋に入れて机の上に置いておいたのですが、少し目を離しているうちに消えてしまって……」
「すまない、見ていないな。嫁は?」
「一夏と更衣室で着替えてから教室に戻って、すぐにラウラと日誌を書き始めたからな。俺も見てない」
二人は首を振りながら答えた。
セシリアは困った顔のまま小さく笑い、自分の席に戻る。
「見つかるといいが……」
日誌をしまいながらラウラが呟いた。
少しの間教室を見渡しながら、南は「おかしい」と顔を顔を引き締める。
「何がだ?」
「さっきも髪留めがなくなったと言っている奴がいたし、見てみろ」
南が指さした先では、クラスメイトの鏡ナギが、鞄をまさぐりながら首を傾げている。
「誰か私のお弁当知らない?」
そんな声を聞きながら、誰もが知らないと首を振る様子に、ラウラも目を細めた。
「確かにおかしい」
「何かなくなってる物は?」
「私は……全て無事だ」
「俺も大丈夫みたいだな……さて、何が起こってる?」
南は一番後ろの席で教室を見渡し、腕を組んだ。
隣のラウラも同じように腕を組む。
二人並んで、うーんと首を捻るが、答えなど出るはずもなく……。
「織斑先生の出番だな」
そう言って南は教室を出た。
「知らん。自分の物くらい、自分で管理しておけ」
授業の準備をしながら、千冬は冷たく言い放った。
職員室の一番端にある千冬のデスクには、缶コーヒーやプリント、筆記用具が散乱していて、とても綺麗とは言えない。
「水槽を汚すのには慣れてそうだな」
千冬のデスクを見た南の率直な感想だった。
小さく声に出ていたのか、千冬が鋭い視線を向けたため、南は目を反らす。
対面で何やら作業をしていた真耶と目が合った。
おっとりした笑顔を向けながら、手を小さく振ってくる様子に、思わず南の表情は緩みそうになる。
「高校生にもなって、物がなくなりましたと大人を頼るとは……恥ずかしくないのか」
千冬のため息交じりの一言に、南の表情は真顔になった。
「しかしですね、一組で数名が同時に何かをなくしてるんですよ。これは不思議じゃありませんか?」
「ならお前とボーデヴィッヒが探してやればいいだろう。今日の日直は確かお前らだったはずだ」
「日直の仕事になりますかね……」
「担任の私が、今日の日直に命じる。探してやれ」
簡潔な命令に、思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、南は後頭部を触った。
乗り気しない表情までは堪えられず、千冬は足を組みながら南と向き合った。
「これでも私はお前を買ってるんだぞ。何とかしてくれると思っているから、頼んでいるんだ」
適当に放たれた言葉ではあったが、南の心を動かすには充分だった。
気だるげな表情は消え失せ、指を鳴らす。
「任せてください。必ずや、謎を解明して見せましょう」
「そうか、頼んだぞ」
「はい……いや、でもまさか、弟にしてもらわないと洗濯物を溜めに溜めこむという、あの織斑先生から―――」
「おい、その話、誰から聞いた」
つい昨日、一夏に聞いた千冬のエピソードを本人に話してしまう痛恨のミスだった。
意気揚々と話していた南が固まる。
「いや、織斑しかいないな……おい、神代」
千冬は立ち上がるや否や、南の肩に両手を置いた。
力が入っているようには見えないその手からは、骨を砕かんとする万力が込められている。
「は、はい……」
「その話、他の誰かにしてみろ……どうなるか、分かるな?」
お互いの顔の距離は五センチしか空いていない。
整った唇を伸ばして笑顔を作る千冬だったが、その顔は般若にしか見えず、南は気を失いそうになる。
「水槽を汚すわけか」
南が呟いた。
対面の真耶はそんな千冬に慣れているのか、微笑を浮かべながら作業を続けている。
職員室を出て、教室に戻った南は自分の席に戻りながらも、数名のクラスメイトが「物がなくなった」という言葉を口にしていることに顔を顰めた。
「教官はなんと言っていた?」
隣のラウラが聞く。
「俺達、日直でどうにかしろと言っていた」
「教官が言うなら仕方あるまい。全うするだけだ」
ラウラは胸を張って、気合を入れている。
先程まで掴まれていた肩をさすりながら、南も頭を回転させた。
「さて……まずは何がなくなっているのか……それを探る必要があるな」
「それは私が聞いたぞ。セシリアの体操着に始まり、髪留め、弁当、ペットボトル……そして、スマホをなくした者もいる」
「スマホもか……それは何とかしないとな」
南は教室を見渡しながら言うが、特にめぼしい何かも見つからず、時間だけが過ぎていく。
そうして次の授業が始まってしまい、その間も二人は、原因と犯人を考えていた。
休み時間になっても、二人は席を離れずにいた。
しかし収穫はなく、南は肘をつく。
「駄目だ。何も浮かばない……誰かが盗んだと考えるのが妥当だろうが、幾分、量が多いし一気に複数の物を盗るというのも考えにくい」
「ああ。私たちが体育をしている間に盗みに入った線もないだろうな。授業を抜けた者はいなかったし、他のクラスは授業中だ」
「お手上げじゃないか」
そう言って南は、ラウラの膝に身体を倒した。
「な、お、おい!」
顔を赤くし、わたわたと手を振るラウラが微笑ましい。
予期せぬ形で膝枕をすることになり、どうするべきかが判断つかなかった。
南は「頭を使いすぎたから休憩だ」と言いながら、天井を見つめている。
「うぅ……」
そんな南の視線には、恥ずかしさや、嬉しさや混乱で顔を赤く染めたラウラの表情も捉えていた。
しばらく動かずにいた南だったが、やがてハッと何かを思いついたように体を起こす。
「ど、どうした……もういいのか……こんな状況だが、私で良ければ……その、膝を貸してやっても……」
「お前の顔を見て思い出したが……そういえば、なくなってない物がある」
南は教室の端を見ながら言った。
思い出したのは学園祭の事だった。
あの最悪の事件が起こる前、それこそまだ和気あいあいとクラスの出し物であるメイド喫茶を開店する時だ。
ラウラはメイド服を客に見せるのが恥ずかしいと言いながら頬を染めていた。だから気付くことが出来た。
「メイド喫茶をやった時、この教室を色々と改造しただろう? その時に使った用具は何一つ盗られていないじゃないか」
テンションを上げながら言う南は、学園祭の後も片付けられずに放置されている、用具をまとめた段ボールを指さした。
そこにはポスター作りに使われた用紙や、ガムテープ、太いマジックペン、カッター、長い定規などが詰め込まれている。
「つまり犯人は……犯人は……」
笑顔でラウラに向き直った南だったが、あと一歩の所で失速し、言葉に詰まってしまった。
「犯人は……誰だ?」
「それを考えているんだろう。それに、盗まれた物を考えてみろ。衣類に食料、水分、電子機器……生活に必要な物ばかりだ。そしてそれは、この学園に居る者には必要ない……」
ラウラは低い声で淡々と話す。
「何故なら、盗みなど働かなくても手に入るからだ。この学園にそのレベルで貧しい者はいない。つまり、犯人は内部ではなく、どこかから紛れてきた正体不明の人物、ということになる……まぁ、単なる嫌がらせの面も捨てにくいが、特定の人物ではなく、一組全体で起こっている事からも、ただのいじめではあるまい」
スラスラと真顔で言うラウラ。
南はしばらくその顔を見つめていた。
「な、何だ……そんなに、見つめられると……恥ずかしいではないか……」
「日誌に何て書いてやろうか考えていたんだ」
悔しそうな南の声に、ラウラは苦笑した。
犯人の人物像は見えたものの、その特定までは出来ないまま放課後になった。
一組のクラスメイトは皆、物がなくなっている現象を気味悪がり、そそくさと教室を出て行く。
南とラウラは夕焼けに染まる教室に残り、日直の仕事である教室の掃除をこなしていた。
「ん? 箒は帰らないのか?」
二人だけだと思われていた教室だったが、箒だけが自分の席に残り、鞄をまさぐったり机の引き出しを整理していた。
「ああ、皆何かがなくなっていると言うからな。私も確認しておこうと思ったのだ」
そう言いながら箒は、教室の後ろ側にあるロッカーへ。
自分の物を開け、中を確認し始めた。
「そうか……よし、ラウラ。日誌を職員室に持って行って、俺達も帰ろう。箒もどうだ?」
南は掃除用具を片付けながら声をかけた。
ゴミ箱の中のゴミ袋を引っ張り出していたラウラは不満気に頬を膨らませるが、箒は満面の笑みで頷いた。
「ああ! 是非、そうしよう」
「じゃあ俺達、ゴミ出しと職員室に行ってくるから、待っててくれ」
「分かった」
そう言って南は、ラウラと共に教室を出る。
ゴミ袋を肩で背負いながらあくびを漏らした。
「今日は特に疲れたな」
「ふん。そうだな」
日誌を両手で抱えたラウラが唇を尖らせる。
「何を怒ってるんだ」
(折角、嫁と二人きりになれると思っていたのに……箒なんぞ誘いおって……コイツには、嫁としての自覚が足らん!)
大股で歩いていくラウラに、肩をすくめた南はその後を追う。
ゴミを捨て、日誌を真耶に渡して教室に戻ってきた。
「箒、待たせたな」
教室に入りながら南が言うが返事はない。
そして、その姿もまたなかった。
「箒の奴め、気を遣って先に帰ってくれたのか」
ラウラが小声で言いながら拳を握って微笑む。
「どこに行ったんだ……」
「きっと先に帰ったのだろう。うん、そうに違いない」
「鞄を置いたままか?」
南の言葉に、ラウラの表情が固まった。
確かに箒の机には、彼女の鞄が置いてある。
「ラウラ、トイレを見てきてくれ」
「わ、分かった」
素直に頷いたラウラは教室を飛び出した。
数十秒で再び教室に戻ってきた彼女は緊迫した声で言う。
「いないぞ……どこにも……」
「おいおい……物だけじゃなく、箒まで消えたのか……」
南は自分の席ではなく、箒の席に座り込み頭を抱えた。
「嫁……」
心配そうに眉を下げながら、ラウラは南の傍でしゃがみ込んだ。
彼の膝に手を添える。
「ラウラ……」
「探し出そう。きっと見つかる」
強い口調で言ったラウラに南も小刻みに頷いた。
「そうだな……だが、どこに行ったのか……」
「それは……………ん?」
分からない、と言葉を続けようとしてラウラは目を細めた。
箒の机に……正確には、机の下に手を伸ばす。
「どうした」
南の言葉に、ラウラは笑顔を見せた。
見つけた物を南に渡す。
「ふっ……嫁、やはり箒は正しかったぞ」
「何がだ?」
「犯人の伝え方だ。紙に書いてテープで貼る」
ラウラが机の下で見つけたのは、学園祭の時に使われたガムテープで貼り付けられた紙だった。
そこには犯人の名前が書いてある。
「ジェスチャーの方がいいと思ったんだがな……」
南が立ち上がりながら言った。
「かぁー、でっけぇおっぱいですわね~。これで南様を誘惑して……くっ、ムカつきますわね……南様の前に私が―――」
「そこまでだ、めぐみ」
手足と口を縛られた箒に手を伸ばしていた少女―――『組織』の人間でありながら、南に仕えている『ゴキブリ』……沖 めぐみは肩を震わせた。
恐る恐る振り返ると、そこには南とラウラが腕を組んで立っている。
南は小さく笑いながら、ラウラは厳しい表情だった。
「ど、どうしてここが……」
「『ゴキブリ』は狭い所が好きだってこの前言ってただろ。だから、学園内で狭くて人が寄り付かないような所をしらみつぶしに探しただけだ」
「くっ……流石ですわね……」
「さて、説明してもらおうか。箒を攫ったのと、ウチのクラスから物を盗った理由を」
南は組んでいた腕をめぐみの方へ伸ばした。その手にはいつものナイフが握られている。
その様子を見て、めぐみは焦ったように両手を挙げる。
「ち、違いますの、話せば! 話せば分かりますわ!」
「そう言った犬養毅は分かってもらえなかったぞ」
慈悲なく告げた南のナイフから、糸が射出される。
「ひぃ!」
情けない声を出しながら身を屈めためぐみは、姿勢を低く保ったまま駆け出す。
距離を取ろうとするが、その行く先には南が既に立っていた。
「おいおい、ゴキブリが『アシダカグモ』から逃げられるわけないだろ」
「もう詰んでますのね……」
足でブレーキをかけながら呟くめぐみであったが、加速した勢いのまま南の方へ突っ込んで行く。
殴られると思い目を閉じるが、思っていた衝撃は訪れず、代わりにふわりと抱き留められた。
「え?」
「何、目を閉じてるんだ……キスしてもらえるとでも思ったのか?」
「い、いや……あの、お仕置きされるのかなーと……」
「『カブトムシ』の姐さんがな、この前教えてくれたんだ。何でも実家に来た『虫』を退けてくれたらしいじゃないか。お前は恩人だ……何も聞かずに手荒な真似はしない」
「南様~」
大粒の涙を浮かべためぐみを、ラウラは恨めしそうに睨む。
縛られている箒を助けながら、ブツブツと文句を言っていた。
箒は「よく気付いてくれた」と感激している。
「で? 何しに来た」
「『グンタイアリ』の一件で『組織』もピリピリしてやがって……それで南様がよからぬことをしてないか見てこいって命令でしたの」
「はぁ……」
南はため息を隠せない。
「じゃあ、なんで物を盗んだ?」
「髪留めを途中で落としまして……お腹も空いたし、喉も乾いたし……南様が一人きりになるまでスマホは暇つぶしに拝借しただけで、ちゃんと返すつもりでしたわ!」
「セシリアの体操着は?」
「ああ、あの金髪の……いや、現役JKの体操着があったら……それはもう、匂いを嗅いでくしゃくしゃにするのが礼儀ですの!」
「お前……」
南は蔑む視線を向ける。
しかし、めぐみは頬を赤らめて肩を振るわせた。
「はぁはぁ……その視線……ああ~、嫌われ者でよかったですわ~」
「箒は?」
「ああ、あの娘は……その……」
そこでめぐみは少し言いにくそうに視線を下げた。
意を決しためぐみはガバッと顔を上げ、南に掴みかかる。
「もう、我慢……我慢できなくなって―――」
「分かった。これ以上言うな」
南はめぐみの口を塞ぎながら言った。
肩の力が抜けるのを感じる。
「俺は何も企んでないから、『組織』にはそう伝えろ。で、お前はさっさと帰れ」
そう告げながら南は、拳をめぐみの頭に落とした。
舌を噛みましたわと騒ぐめぐみに南はため息をつく。
「はぁ……すまなかったな、ラウラ」
南は結局、『組織』の人間であるめぐみの仕業であったことを誰よりも先に、ラウラに謝罪した。
「一日振り回してしまったお詫びに、何でもするから許してくれ」
箒を部屋まで送り届け、セシリアに体操着を、クラスメイトに髪留めを渡し、弁当とペットボトルを弁償し終えた二人は今、学園のベンチに座り込んでいる。
箒以外の被害者には、適当な言い訳で逃れることが出来たことが、不幸中の幸いだろう。
「な、何でもか!?」
めぐみとのやり取りから始終、不機嫌でいたラウラは「何でも」という言葉に身を乗り出した。
「ああ、何でもだ」
南は、小さく笑いながら途中で買った缶ジュースを口に運ぶ。
陽が沈むのが早くなってきたのか、明るかったこの時間も、もう辺りは薄暗くなってきていた。
「また日を改めてでもいいぞ。無理に今日じゃなくても……」
「い、いや今日だ。今日、言う事を聞いてもらう」
食い気味に言ったラウラの頬は赤い。
「そ、その……嫁は私の膝を勝手に枕にしたではないか」
「ああ、昼間か……」
南は苦笑しながら缶を捨てる。
「だ、だから! そのお返しを、してほしい」
「俺が膝枕してやればいいのか?」
ラウラは何も言わない。
ただ、頷くだけだった。
「まぁ、どうせ一夏は生徒会室だから、部屋にいないし……俺の部屋でしてやる」
「なっ! へ、部屋でか!?」
「もう外は寒いだろ? 嫌ならまぁ別の所でも……」
「よし、行くぞ。今すぐだ」
「お、おいっ」
ラウラは言いながら、強引に南の手を引っ張った。
南もよろめきながら、付いて行く。
秋の風が、二人を押すようにそっと吹いた。
その風が「千冬姉、ごめ、許して、違うこれは南が―――ってかアイツ、バラしたのかよ! 南ぃぃぃいい!」と叫ぶ一夏の声を運んでくる。