何気ない日常の夜。
南が食堂に着いたのは、午後六時だった。
そのすぐ隣には簪がいて、反対には珍しく楯無が引っ付いている。
食堂に向かう途中で簪に会うまではいつも通りであったが、この日はそのすぐ後に楯無と遭遇し、自然な流れで二人に付いて来た。
楯無は満面の笑みを浮かべながら、南の腕に自分を絡ませた。
いつも彼に気付かれないように、袖を掴むのが精いっぱいな簪はそれが面白くなく、南越しに姉を睨んでいた。
「さて……皆、どこに座ってるんだ」
南が呟きながら食堂を見渡す。
すると、楯無が指をさしながら楽しそうにスキップしだした。
「あっ、いたいた~。ほら、行くわよっ」
先に駆けていく楯無に思わずため息が出た二人は、肩をすくめながら後に続く。
「うす」
箒の隣に座り込んだ南。その反対側に、素早く簪が身体を忍ばせた。
既に真ん中の方に座っていたセシリアや鈴、シャル、ラウラは歯ぎしりしながらその様子を睨み、楯無は楽しそうに観察している。
「一夏はのほほんさんと食ってるだろ?」
「それが、布仏さん……急に用事が出来たらしくて、今日はわたくし達と食事なさるそうですわよ」
南よりも先に部屋を出た一夏について聞くと、セシリアが答えた。
その言葉に楯無が付け足す。
「うんっ、本音は生徒会の仕事が残ってるからね~。サボって一夏くんとご飯なんてノンノン」
語尾に音符が付いてそうな明るい口調に、簪は「いじわる」と呟いた。
「一夏ね、何を食べるか迷ってるらしいよ」
「これが全く関係ない赤の他人なら、こうアドバイスする。『自分に正直であれ』ってな」
シャルがサラダをフォークに突き刺しながら言うと、南は腕を組んだ。
「食べたい物を正直に……それが一番だと言ってやるんだ」
「じゃあ、友達とかには?」
鈴が聞く。
「それは親身になって一緒に考えるだろうな。さっきのはあくまでも他人用だ。友達が迷っているなら、昼や前の日のメニューを聞いて、自分なら何を食べるかをアドバイスする」
南は簪の肩を叩いて、立ち上がった。
自分達の晩御飯を取りに行く合図だ。
「南は優しいな」
箒が笑うと、南は満足気に胸を張る。
そこに、首を傾げながら一夏が戻って来た。
両手は何も持っておらず、メニューを眺めるだけで帰って来たらしい。
「南、来てたのか。のほほんさんが用事で―――って楯無さんもいる……珍しいですね」
「はーい、一夏くん」
楯無は片目を閉じて、右手を軽く振った。
「それで? どうして戻って来た。何も持たないで」
ラウラが答えを分かっていながら聞いた。
「ああ、何を食べるか迷っててさ……南、オススメとかあるか?」
一夏は困った顔で笑ったまま、南の方を見た。
そんな一夏に、迷わず口を開く。
「自分に正直であれ」
意地の悪い笑顔が、一夏を除く全員を苦笑させた。
「あっ、そうだ」
食事を終え、各々好きな飲み物を飲みながらまったりとしていると、楯無が口を開いた。
珍しい同席者に、注目が集まる。
「皆、そろそろ定期テストだけど……勉強してるかしら?」
三人の動きが止まった。
鈴の手からカップが滑り落ちる。
空だったのが幸いしたのか、音を立てるだけだったが、その反応は楯無が肩をすくめるのに十分だった。
「皆は代表候補生……まぁ専用機持ちってだけの子もいるけど、一応は高校生なのよ? テストの成績が悪いと……」
楯無の話し方が上手いのか、その先を言わない事で更に不安感が増す。
しかし、余裕の笑みを浮かべている者もいる。
「わたくしは心配ありませんわ……この前の小テストも満点でしたし」
「僕も大丈夫だと思うな。予習復習はちゃんとしてるからね」
「私も自信があるわけではないが、特に焦ることもないだろう。苦手教科はしっかり勉強するつもりだ」
「同じく」
セシリア、シャル、箒、簪が口々に言うのとは対極的に、鈴、ラウラ、一夏は目を虚ろにしながら宙を眺めた。
「ヤバい……ISのことでいっぱいいっぱいだったから……テストなんてされたら……」
「くっ……無人島で一か月生き延びるサバイバルテストがあれば満点だというのに……」
「あたしは中国の代表候補生なのよ!? なーんで、傍線部の登場人物の気持ちを考えないといけないのよ! あんなの帰ってゲームしたいとしか思ってないわ!」
一夏、ラウラ、鈴が口々にテストを呪う言葉を口にする。
余裕のない三人を置いて、先の四人と楯無は南に目を向けた。
「それで? 南くんはどうなのかな~?」
「何がだ」
「何がってことないでしょう? テストよ、テスト。自信あるの?」
楯無がからかうように言うが、南は表情を変えなかった。
余裕があるようには見えないが、かと言って焦る様子も見せない。
「国語は得意だ。正直、満点も狙えるだろうな……生物もそこまで苦手意識はないし、地理も勉強すれば余裕だ」
スラスラと得意げに語る南を、皆が食い入るように見つめた。
「数学と物理、歴史はかなり不味い……が、今までも一夜漬けで赤点だけは、乗り切ってきたんだ。俺に不可能はない」
「既にいい点を取るのは不可能じゃないか」
箒の指摘を無視して、またお茶を啜る。
「一夜漬けはよくないよ。僕が教えてあげようか」
シャルの優しい言葉に、ラウラはその腕を引っ張った。
南に言ったのは分かっていたラウラだったが、そんなことは関係ないと、子猫のような瞳を向ける。
「シャルロット……頼む……私を救ってくれ」
「いつも僕が、宿題はちゃんとしなよって言ってるのに、テレビを見てたのはどこの誰だったかな~?」
「うぐっ」
「これからはちゃんと勉強する?」
「や、約束しよう」
ラウラが一瞬、言葉に詰まったのを見逃さないシャルが目を細めた。
「分かっている! ちゃんとするから、助けてくれ! 教官に情けない成績は見せられないんだ!」
そんな必死な言葉に、シャルは優しく頷いた。
「分かったよ。頑張ろうね」
ラウラが安心しきった表情を見せる。
そんな様子を見ていた鈴は、セシリアの肩を叩いた。
「ね、ねぇ」
「あら、鈴さん。あなたもシャルロットさんに助けてもらった方がよろしいのでは?」
「いやー、あたしは……アンタに勉強を見てもらおうかな~って」
(二組で頼れる娘はいないし、シャルロットに頼むと、後で言われるか分からない……何かとんでもないお返しを要求されるのは怖いし、ここはチョロそうなセシリアに……)
鈴は心の中では邪悪に笑いながら、表情は努めて暗くする。
「だってほら、頭は良さそうだし、教え方は上手そうだし、優しそうだし……そんな条件を満たしてるのはセシリアくらいしかいないから」
「まぁ、嬉しいですわ。鈴さんがわたくしをそんなに評価してくださっているなんて」
「そうよ? だからね?」
「でも、お断りしますわ」
「は?」
セシリアは優雅に紅茶を含みながら告げると、鈴から素っ頓狂な声が出た。
予想外の言葉に、思考が止まる。
「だって、鈴さんはいつもわたくしに意地悪をしてきますもの……この前だって、南さんが待ってるからと嘘をついて寒い空の下、一時間も校門の前に立たされましたし」
「え、いや、あれは、その……」
「勝手に部屋に上がり込んでは、いつもお菓子を食べ散らかして帰るではありませんか」
「それはほら、セシリアの部屋が心地良いからつい……」
「一緒にお買い物に行っても、代金を支払うのは全部わたくしですし」
「ちゃ、ちゃんと返してるじゃない! たまたまよ、たまたま」
「とにかく、そんな鈴さんのテスト勉強に付き合う筋合いはありませんわ」
セシリアは腕を組んでそっぽを向いた。
ぐぬぬと呻きながら、鈴は何かないかと記憶をたどる。
やがてたどり着いた一つの物に、顔を顰めながらも、もう一度セシリアに声をかけた。
「ねぇ」
「なんですの」
不機嫌そうなセシリアの声が返ってくる。
鈴はこっそりとスマホを取り出し、皆には見せないようセシリアに向けた。
「これ」
短く言うと、セシリアもさすがに無視はせず、鈴のスマホを横目で見た。
しかし、そこに映っているものを見た瞬間、勢いよく顔を向け目を見開く。
「こ、これは……」
「南の写真よ」
小声でされるやり取りが、他の皆に聞かれる様子はない。
「シンプルなピースサインから、指をさして微笑んでいるもの、汗を拭いながら険しい表情をしている様子……キャー! こ、ここ、これは……じょ、上半身が……」
小さな悲鳴を上げながら、セシリアは鈴のスマホを齧りつくように見入っていた。
鈴の秘蔵フォルダは全部で五百枚。
自分で撮ったものから、男子見たさに必死に撮影された至極の一枚まで。セシリアに見せているのはそのほんの一部である。
「これ、全部は駄目だけど……数枚なら送ってあげるわ。そうね……五枚でどう?」
「……十五枚」
「は、はぁ!? そんなの割に合わないわよ……七枚」
「十二枚」
「八枚」
「十枚! 十枚ですわ……これ以上は譲れません」
「……仕方ないわね。あたしも赤点取って中国政府に怒られるのは嫌だし……十枚、フォルダから選ばせてあげる」
「交渉成立ですわね」
セシリアと鈴が熱い握手を交わす。
その一方で、一夏は必死に勉強するしかないかと、肩を落としていた。
「お前はのほほんさんと勉強すればいいだろ」
南の言葉にも、一夏は首を縦に振らない。
「いやー、のほほんさんも勉強くらいは一人でやりたいかもしれないし……」
「大丈夫よ、一夏くん。本音には私が言ってあげるから……それにあの娘、成績は良い方よ? ね、簪ちゃん」
楯無が振ると、簪も頷いた。
「うん。きっと丁寧に教えてくれるはず」
そう言われて安心したのか、それとも嬉しいのか、一夏は笑顔になる。
「南は大丈夫なのか? な、なんなら私が見てやらんでも……」
「俺は大丈夫だ」
箒が言い終えるよりも先に、南は右手を向けた。
その様子が不思議で仕方ない箒は、首を傾げた。
「どうしてだ?」
「俺はな、自分の力でテストを乗り切りたいんだ。他人の助けなんていらないとか、そんな格好良いものじゃないが、俺は、自分の力を信じる」
「南……」
箒はうっとりと南を見つめた。
その頬は赤く、彼に対する好意は高まる一方だ。
もしこの時、南の「自分の力」という言葉を、従来通り捉えていなければ、そんなことにはならなかっただろうが……。
それから数日後。
定期テストの日が訪れた。
IS学園はテストに一週間をかけることなどなく、その全教科を月曜と火曜の二日間で終わらせる。
その為、テストが終わった後は休みになり、生徒は浮足立ちながら平日の休みを満喫するのだ。
そんな初日の二教科目は数学だった。
一限目の国語を予言通り、満点も取れる勢いで回答した南は、苦手な数学にも関わらず、余裕を持ってテストに取り掛かった。
両の手に神経を集中し、試験問題を睨む。
ペンを持つ右手と、『糸』を持つ左手だ。
南が余裕の姿勢を崩さない理由。
それは、彼のカンニング方法にあった。
休み時間、シャルやセシリア、箒、他にも数名の数学が得意だと言うクラスメイトの袖に糸を結えておいた南は、その糸の動きで何を書いているのかが分かるのだ。
南がこのカンニング法を思い付いたのは『蜘蛛』との日々を終えた後、初めての定期テストの時だった。
『組織』の動向を気にかけていたことなどから、全くテスト勉強をしていなかった南は、糸を活用することを思い付いた。
それから卒業まで、この方法で苦手教科を、怪しまれない程度の点数で凌いできた彼は、高校生になった今回のテストも乗り切るつもりだった。
しかし、テスト開始から十分。
南は冷や汗を浮かべながら、ただ茫然とテスト用紙を見つめている。
その表情にテスト開始時の余裕は消え失せていた。
(な、なんだ……糸が……全く振動しない……)
糸を結えたクラスメイトは皆、熱心にペンを動かしているのに、糸は何も反応してくれなかった。
南の動揺は止まらない。
(どうなってる……確かに糸は…………って、これ糸が千切れてるのか!? ISの攻撃にも耐えるこの糸が!?)
その時、南の肩にすっと撫でるように手が置かれた。
集中していた南はビクッと体を震わせる。
「どうした、神代……まだ一問も解けていないじゃないか」
千冬だった。
嗜虐的に笑いながら、顔を近付け、小さな声で語り掛ける。
「ちゃんと勉強してきたのか?」
優しい声ではあったが、南の手は震えるばかり。
「まさかとは思うが、この私が試験監督のクラスで、カンニングを宛にしてテストを受けている……なんて事、ないよな?」
(ば、バレてるのか!? いや、糸はISのハイパーセンサーがないと見えないはず……それにもしバレても、糸を千切るなんてあの織斑先生でも……)
南は必死に頭を動かすが、答えは得られなかった。
否、千冬が犯人である可能性を考慮したところまでは良かった。
―――糸を嚙み切るための歯を持つ芋虫が、存在する。
『ミノムシ』
チョウ目ミノガ科の蛾の幼虫である。
枯葉や枝に粘性の糸を絡め、袋状の巣を造って枝からぶら下がることで知られる。
この虫は、自身が生成する糸を活用する顎を備えており、非常に小さな鋸歯を駆使し、1000分の1ミリ単位の精度で嚙み合わせることで、強固な繊維をも切断することが出来るのだ。
千冬を前に、カンニングは通用しない。
そんな彼女の正体に気付く訳もなく、南の焦りは募っていく一方だった。
「頑張れよ……もし補習ということになれば、私が特別に、お前と二人きりで行うことにしておいたからな……もう二度と軽口が叩けなくなるかもしれんぞ……」
千冬のささやきは、もう南には聞こえていない。